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2026年06月13日(土)
『カッコーの巣の上で』

『カッコーの巣の上で』@PARCO劇場

映画が大好きで戯曲も読んでたのに舞台版ずっと観られてなくて、今回ようやく。あのチーフの台詞がない! こういう幕切れになったか! と思うも、私は今回の結末も好きだなあ。松尾さんの演出で観られてよかったです

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— kai (@flower-lens.bsky.social) 18:21 · Jun 13, 2026

上演が発表され、まず調べたのはチーフ役は誰かということでした。この作品は、チーフ自身の、そしてチーフによるマクマーフィの救済の物語だと考えているからです。山口航太でチーフを観られて幸せでした。はえぎわ組は強いな! 何より、チーフを目覚めさせたマクマーフィを演じた間宮祥太朗が本当に素晴らしかった。

とにかく映画が大好きなので、これが今上演されるということに不安もあったのです。マクマーフィという人物は、決して褒められた生き方をしている訳じゃないから。そして今の社会はそうした人物を、とことん“ひとつだけの正しさ”で押し潰そうとするから。ラチェッド婦長を支持するひとも増えているかもしれない。だからこそ、この作品の演出を松尾スズキが手掛けると知った時に心強さも感じたのでした。社会からはみ出した、はみ出さざるを得なかったひとたちを、松尾さんはとことん優しく見つめているひとだからです。

『カッコー〜』には、ざっくり分けて原作、戯曲、映画のヴァージョンがあり、語り手の視点がそれぞれ異なります。原作はさわりしか読んでいないのですが(この機会にちゃんと読もう…)、映画版と舞台版には話運びにも違いがあります。映画版はちょっと現実離れしたところがあるんですね(それが映画のいいところなのだが)。外の世界に出ていくチーフを涙と笑顔で見送り乍らも「いやでもこのあときっと捕まるよなあ…逃げおおせても、こんな差別的な社会では生きていけないかもしれない……」と思ってしまうところもあったのです。

しかし舞台版は現実的でした。まず、チーフがマクマーフィを窒息させるシーンに大きな違いがありました。twitterには「今回の流れでは何故チーフが最後あの行動に出たのか伝わりづらいかなとも思った」と書きました。映画での「こうなった君を置いてはいけない、一緒に行こう」という台詞は、ネイティヴアメリカン(ドゥワミッシュ族)の格言、「死など存在しない。あるのは世界の変化だけだ」という死生観に基づいています。チーフはマクマーフィの魂を肉体から連れ出したのだと解釈出来ます。舞台版にはその台詞がなかった。しかしその後、落ち着いてみれば「人間の尊厳を守る」という意味で捉えればいいのだ、と思いなおしました。

そしてチーフが出ていくくだり。窓ガラスを突き破る、という物理的な破壊には至らず、仲間(と敢えていう)がチーフにどうやって逃げればいいかを指南し、その後の対処も任せろといってくれる。チーフはマクマーフィと、病棟にいた「出ていけない」彼らのことを、きっと忘れないだろうと思わせられたのです。外に出て熾烈な差別と迫害に遭い、再び心を閉ざしそうになっても、マクマーフィが病棟に来てからの日々、仲間たちと過ごした日々を思い出し、生き抜くことが出来るかもしれない。

それぞれ個性的な病棟の仲間たちの群像劇として、このラストは感動的なものでした。マクマーフィはウォーリアーだった、「小さかった」チーフは「大きくなった」=ウォーリアーになった。でもウォーリアーになれないひともいる。松尾さんは、そんな彼らを見逃さない。ウォーリアーになれないことに苛立ち、諦め、痛みを感じさせるデイル役を近藤公園に任せたところに、大人計画組の信頼関係を感じました。近藤さんが演じる“傷付いている”人物像にはいつも惹かれてしまう。菅原永二のスキャンロン、黒田大輔のチェズウィック、篠原悠伸のマルティーニ、金子清文のラックリーもそれぞれ魅力的で忘れ難い。そしてビリーを演じた坂東龍汰。“支配”に喰いつくされる役なだけに観ているこちらも辛くなる、痛みに満ちた演技でした。スパイヴィ医師を演じた皆川猿時は今作の清涼剤。“正しさ”はひとつではない、信念はファジーでいい。そのことを愛嬌をもって気付かせてくれました。

キャスティングを知った時点で「これは強烈、期待出来る」と思ったのはラチェッド看護婦長役が江口のりこだったこと。期待通り、いや、それ以上でした。患者たちを支配する、あの催眠術のような声。途中迄は「いやー、職務に忠実で熱心な仕事人ではあるのよね。大変ですよね」と思わせられるところもあったんだけど、ビリーがああなってからマクマーフィに向けた声音と表情でもう同情の余地はなくなった。職務の域を超えて、相手を屈服させることに愉悦を感じているように見えたのです。そう思わせられる演技。もうマジで怖かった。いやはやすごい役者さんです。

冒頭に最初に書いたように、間宮さんのマクマーフィーが本当に素晴らしかったです。めちゃくちゃな人物像なのに愛せる。強く通る声で仲間たちをアジる。娼婦たちと仲がいいのも無理ない、と思わせられる。その根拠は分け隔てないから。どんな相手にも分け隔てなく接する。男にも女にもキスをする、という行動はその象徴だったように感じました。あれ、単に笑わせるだけの意図ではなかったように思います。とてもとても、魅力的なマクマーフィ像でした。耳心地の良い口跡で台詞まわしにリズム感があり、ひとつひとつの言葉が刺さる。マザーグースの“カッコーの巣の上”をチーフと唄うシーン、とてもよかった。その前の、初めてチーフが喋るシーンのやりとりもよかった(笑)「ありがとぅ!」「もう一回はっきりいって」のとこ。

看護助手たちは皆揃って坊主頭。個性を配し均質化したような拵えで印象的でした。こういうとこ松尾さんらしい。それにしてもこのひとたち、betcover!!というか柳瀬二郎を彷彿させる出立ちでちょっとニヤニヤしてしまった。あと阿鼻叫喚の転換のところで、無表情のフジイ看護婦が踊るシーンがすごく松尾さん印でした。大好き。

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・かつて苦手だった映画、カッコーの巣の上で┃ISO┃note
「アメリカ政府は''野蛮''なネイティブアメリカンを小さな土地に閉じ込め、自由を奪い徹底的に管理する事で''正常化''しようとした」という近代のネイティブアメリカン史を聞いてピンときた人もいるだろう。
そう、これは『カッコーの巣の上で』のストーリーそのものなのだ。
ISOさんによるチーフの置かれた境遇についての解説。『ウインド・リバー』のことを思い出しました。『ウインド・リバー』は現代の物語ですが、移住させられたネイティヴ・アメリカンがその後どんな生活を送っているか、そこでどんなことが起こっているかが描かれています。『カッコー〜』後に観た映画なので、今回はそういった視点からも舞台を観られてよかったです

・PARCO劇場久しぶりだったんだけど、退場時に外の階段使わせなくなったのって昨年転落事故(事故というか、その、)があったからなのでしょうか。下のポケモンセンターが激混みということもあり、退場にすごく時間かかりました。リニューアル前よりも避難に不安を感じたわ…まあ非常時には開放するだろうけど



2026年06月10日(水)
『SIRĀT シラート』

『SIRĀT シラート』@新宿ピカデリー シアター2

しょ、諸行無常…レイバーのノマドランド……終映後の静まり返り具合といったら 『SIRĀT シラート』

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— kai (@flower-lens.bsky.social) 0:36 · Jun 11, 2026

といいつつ『ノマドランド』観ていないんですがね……。かくも人生は困難で、死はいつでも隣にある。

身の程を知っているのでクラブには行くが野外レイヴには行かない。その思いがより強固になりました。思えばガチのクラバーだった友人の何人かが、レイヴを通過して40代を過ぎてから山登りに精を出すようになっている。やはり戻るのは自然なのか。今作はそういった自然や宇宙や神といった領域に迄行く“しかなかった”、そして現実に舞い戻る“しかなかった”登場人物たちの道行を描くロードムービーだ。具体的な移動と、魂というと大仰かもしれないが、心の内を巡る移動。

とはいえ、まずその自然ってのが砂漠。緑ない。木々と水辺と、鳥や虫と戯れて、とかそんな余興ない。オアシスは少しあったけど、そこも憩いの場というより、生きるための必需品である水を得るための最低限の場所だ。あるのは砂、風、強い日差し、そして音楽。究極のレイヴだ。砂漠にどデカいスピーカーを設置するところから映画は始まる。やがて人々が集まり、爆音のエレクトロニックミュージックでひたすら踊る。その中を場違いな父子が歩いている。レイヴに出かけたまま帰らない娘を探しているという。

モロッコ版『デソレーション・センター』といえばわかりやすいだろうか。しかし今作のそれはオーガナイザーもいるんだかいないんだかわからない究極のDIY。サウンドシステム持っててレイヴをやりたい人が集まればそこがもう会場なのだ。軍から出て行けと追い出され、移動してはまたスピーカーを設置する繰り返し。ゲリラ的に開催されるので、公共交通機関で来られる筈もない。オフロードトレーラー必須。

軍が彼らを追い出すのは何故か。最初は核実験に使う場所とかなのかなと思っていたら、実際はより具体的な殺戮をするためのものがそこにはある。いや、殺戮よりもいやらしい、醜悪なものかもしれない。軍事作戦という言葉も聞き飽きた、要は戦争のために砂漠は使われる。ここはノーマンズランドなのだ。モロッコ南部の現実が見え隠れする。以下ネタバレあります。

タイトルの「シラート」とは、天国と地獄の境目にある刃先のような細い道のこと。コーランに記されている。人生はそんな刃先の上を歩くこと。今作は、それを地雷原を歩くことで視覚化する。こんなわかりやすい喩えがあるか。基本的に登場人物は皆いいやつ。幾人かは手首から先がなかったり、膝から下がなかったりする。徴兵を逃れたという歌を唄う。家族と離れ離れになったことをポツリと漏らす。この地域に住んでいる人々の姿だ。オリベル・ラシェ監督自身もレイヴァーだそうで、父子以外のメインキャストはレイヴ会場でスカウトしたとのこと。子どもと犬はどこ迄もかわいらしく、どこ迄も弱い存在。大人たちはその弱い存在を守りきることが出来ないし、自身の命の限界をも目の当たりにする。

彼らが最後に乗り込む列車には、人種、年齢、性別がバラバラの、さまざまなひとが乗り合わせている。列車の行き先はわからない。ただ知らない人々が共に目指す場所ということだけはわかる。それは現実か理想か。地獄か、あるいは天国か。どのみち死は避けられない。

地雷原が、というのは物語の終盤も終盤で、基本は父子とレイヴァーたちの交流が描かれる静かな映画。限られた備品を分け合い、自炊をし、犬と戯れ音楽を愉しむ。しかし命は次々と失われる。砂漠は過酷だなあ。それに比べれば日本は楽なものだ、と思うも、日本は日本で地震に火山に水害にと、それはそれで大変だ。せめてもの救いは日本でまだ戦争が起きていないこと。まだ、だが。だからこそ、この国が平和で安全でいられるか外交が問われ、政治が問われる。今の日本の政権にその能力があるとは到底思えない。とひたすら気が沈む。

それにしても。スタスタと地雷原を歩く父親のシーンで流れるぽよぽよした電子音……笑うところなの? マジで宇宙とか神とか出てきちゃう? と思ってしまった。そうはならない。そこがいい。ただただ現実だけを見せる。二度は出来ない演出ではないかと思う。音楽の力って大きい。

ちなみに犬は昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドッグ賞を受賞している。二匹いたけどどっもすごくかわいくて、どっちもとても賢い。地雷原を歩くシーンで、抱っこした犬を怖がらせないためにずっとぽんぽんしてたお兄さんいいヤツ。だってさあ人間は自分でどうにかするしかないけど犬はさ…連れてこられちゃったんだしさ……。守らなあかんやろ。地雷原越えたときはもう人間そっちのけで犬は? 犬はどうなった!? と目で探したよ! いてよかった! でも最後の最後、列車では見つけられなかった! 一緒に乗ってることを祈る!

部屋でひとりで、ではなく、映画館で見知らぬ人々と一緒に観た、という体験がとてもだいじな作品に思えた。レイヴには参加出来ないけれど、映画館はそれを疑似体験させてくれる。使い古された言葉だけど、私たちは宇宙船地球号に乗っているのだ。

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・余談。帰りのエスカレーターで「黙ってチャンガ喰わせんなよ…」といってたひとがいてそこ!? となるなど。レイヴァーのモラル(笑)…いやでもあれは彼らも良かれと思ってだな……。安易にガンジャとかいわないところ、歌舞伎町が目と鼻の先という場所柄なんだろうかと感心もした。単館ではなくシネコンで、しかも2番目に大きいスクリーンが(初週末はスクリーン1だったとか)ほぼ満席という状況にも驚かされた。皆何を期待して来たんだ(おまえもな)

・帰宅したら謎の湿疹が顔に出来ていた。デトックスか

・【単独インタビュー】『シラート』オリベル・ラシェ監督が描く、“死ぬ前に死ぬ”変容の旅┃Fan's Voice
私は、いわゆるクラブカルチャーよりも、この「レイヴカルチャー」や「フリーパーティー」のほうが断然好きです。
やっぱね……。それはともかく、作品背景をとてもわかりやすく聞き出せているよいインタヴュー

「私たちを揺さぶることは、“人生”なりの気遣いなんです」映画『シラート』のオリベル・ラシェにインタビュー┃GINZA
この映画は辛く過酷ですが、でもある意味、それが人生のあり方なんです。
『アンデスの聖餐』のもとにもなったチリの墜落事故(ウルグアイ空軍機571便遭難事故)から弓道、俳句迄。読み応えのあるインタヴュー