無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記




ホームページ |プロフィール |掲示板「トーキング・ヘッド」 |メール
|藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年08月31日(水) がんばれサイバラさん/『8MAN infinity(エイトマン・インフィニティ)』number.1,2(七月鏡一・鷹氏隆之)

 今日も晩飯は「東那珂食堂」で。
 私はすき焼き、唐揚げ、豆腐に野菜天。しげはまたサバの味噌煮を取ってきて、身が毟れずに私に余りを寄越す。余りと言っても半分も身が取れていないので、残飯処理じゃなくて半分分けにしたようなものだ。
 私が骨ごと全部食べるのを見て、しげは「喉に刺さらんと?」とコワゴワ聞いてくる。
 「刺さらないように食うんだよ」
 「刺さるよ絶対」
 「細かく噛み潰せばいいの」
 「噛み潰せんよ。歯と歯の間にハサカルよ」
 「お前は赤ちゃんか。噛み方も分からんか」
 「だって子供のころは、身を全部取ってもらってたから」
 ……箸の使い方はやっぱり子供にはきちんと教えとくべきだよなあ。

 帰宅して水曜のお楽しみ『愛のエプロン』。
 今日はメニューがスパゲティーミートソースにマカロニグラタンとごく普通だったので、概ねみなさん「食べられるもの」を作る。
 いつも思うことだが、青木さやかが「意外に(失礼)」料理が美味いのは、結構「売り」だと思うのである。わざと「ヨゴレ」を演じてるけど、うまく使えばこの人もいい女優になれると思う。
 瀬川瑛子に西村知美は順当に及第点、安めぐみと松原のぶえがどうしてスパゲティで失敗するかなってくらいに激マズであったようだが、松原のぶえ、貶されてマジ泣きするのはどうかと思うな。「小麦粉と片栗粉を間違える」という、しげ並の失敗をやらかしているのである。主婦やってたことがあるとは信じられんよ。
 逆に安めぐみのように、「スパゲティを湯がかずに出す」(当然ナマである)くらい天然だと、かえって諦めがつくかもしれない。もちろん私はしげの料理はとうの昔に諦めているのである。 


 さてまあ、前々からウワサだけはされていた『テニスの王子様』が実写映画化である。
 連載マンガやアニメは最初の何話か見ただけで飽きちゃったので、映画館まで足を運ぶかどうかは分からないのだけれども、テニスシーンとかは『ピンポン』みたいにCGで表現するんだろうなあ。ストーリーはともかく、そこんところはどんな出来にるものか、見てみたい。テレビの『エースをねらえ!』みたいに、昔ながらのカット割りでの誤魔化しで見せるだけだったら、わざわざ映画にする必要はないんである。監督が誰になるのか知らないのだけれども、その点をちゃんと「分かってる」人にやってもらいたいものだ。
 ただ、不安材料はほかにいっぱいあって、『テニプリ』の場合はテニスシーンよりも、逆に日常のシーンの方が実写化は難しいんじゃないかという気もしてしまう。ともかくフツーの人間が日常で使うセリフなんて、一切出てこないもんな。ハッタリかましたセリフを生身の人間がそれらしく演じるためには、もう全編「ギャグ」になってしまうくらいの勢いが必要になるんだが、そういう仕立てにしちゃうと今度は『テニプリ』ファンが怒って一斉蜂起しちゃうだろうし。
 どっちかっつーと、映画の出来よりも、その周辺のファンの狂いっぷりを見てた方が面白いかもね。でも腐女子が騒げば騒ぐほど、一般観客の足が遠のくことは『鋼の錬金術師』の興行収入の落ち込み具合でも立証されていることだ。『テニプリ』ファンのみなさん、あまりキャストがどうの監督がどうので熱くなり過ぎないようにしようね。
まあ、一昔前ならば「お笑い」にしかならなかったスポーツマンガの実写化が一応の成功を見せるようになってきたことは、映画の可能性が広がったという意味で喜ばしいことかなとは思う。案外、CGの一番のご利益ってそれかな、とか思ったりもする。

 しかし、去年もいろいろあったけど、今、マンガやアニメの実写化で公開を控えてるのってどれだけあるんだ?
 『魁!クロマティ高校』(福岡じゃまだなのよ)に『NANA』や『頭文字D』はもうじきだし、あとは『三丁目の夕日』や『ハチミツとクローバー』と続く。『ミラーマン』もどうやらデザイン的にはマンガ版の方をベースにするみたいだから、一応、中に含むか。
 こういうラインナップを見ていると、同じマンガと言っても客層が見事にバラバラであることがよく分かる。これを全部見に行ってたら、逆に「どういう趣味?」とか言われそうだ。
 私を知る人などは多分『NANA』まで見に行くつもりなのか!? と驚く人もいるかもしれないが、あれはまず間違いなくヒットする。しかもそのファン層の中心になっているのは腐女子ではなく、下手をすればマンガファンですらない。「普段はマンガを読まない女の子たち」ですら『NANA』だけは読んでいるという現象があるのだ。
 ドラマそのものを面白く見られるかどうかは分からないけれども、それがなぜヒットしたかって現象の原因を分析することはできる。映画の面白さは、ドラマ部分よりも映画がその時代をどう象徴しているのかってことに現れている場合もあるのね。
 『NANA』はマンガファンの枠を越えてヒットしている。同時公開の『仮面ライダー響鬼』はまず立ち打ちできまい。オタク人気が異様に高い『響鬼』だけれども、『響鬼』に見向きもしない層が『NANA』を見ている。二つの映画は全く違うけれども、「どう違うのか」ということは見てみないことには語りようがないんでね。
 だから間違っても「宮崎あおいが目当てで見に行きたいんだろう」なんて突っ込んじゃいけないのである(笑)。


 西原理恵子さんの『毎日かあさん』を巡ってのトラブルがちっとばかし大きくなっている。『毎日かあさん2 お入学編』を御読みになった方なら、その「トラブル」の原因が何であるかは先刻ご承知であろう。
 簡単に言ってしまえば、西原さんがマンガの中に自分の息子の通う小学校の様子をセキララに描いているのが、コトナカレな武蔵野市にとっては甚だ都合が悪かった。で、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れ、西原さんとしては当然、そんなん、表現の自由の侵害やないか、ということで、諍いが起きているのである。
 何が問題になったかって言うと、父兄参観の日に「クラスの五大バカ(注・西原さんちの息子含む)は机にきちんと座る以外は何でもする」と、その傍若無人ぶりを描いてるあたり。読売新聞はエラくて、当該のコマをちゃんと紹介しているが、それを見れば一目瞭然、要するに学校側としては「学級崩壊」の様子を世間にバラされちゃったのがむちゃくちゃ都合が悪かったってわけだ。
 この件について詳述し出したら、それだけで原稿用紙100枚は突破しかねないので、もうヒトコトで意見をまとめてしまうが、「この程度のことでオタつくんだったら学校経営なんてやめちまえボケ」である。非は全面的に学校の側にあり、西原さんはちっとも悪くない。苫小牧高校の件と同じでね、不祥事は隠しとこうって「隠蔽体質」が染みついているからこんな対応をするわけであってね、「描かれて困るような教育をしている方が悪い」に決まっているではないか。
 もうなんかね、学校とかPTAのね、言葉だけは「子供の人権」を守るとか言ってるけどね、内実はこんなバカ学校なんだと後ろ指刺されるのがイヤだって思ってるだけなのがモロ見えでね。教育者としてそんな姑息な手段に出ることが恥ずかしくないのかって本気で思うね。
 だからこの小学校の何が大バカかって、西原さんに文句つけた時点で、このマンガに描かれていることが紛れもない「事実」であることを世間様に証明しちゃった点なんである。せっかく西原さんが「あくまでフィクションです」って言ってくれてるのに。
 ここで重要になるのは、西原さんの息子が「たまたま」通った学校がこういうどうしようもない対応しかできてないというその「偶然性」である。では、もしもほかの学校であったら、この程度のことをマンガに描かれたからといって、笑って鷹揚に構えるくらいの度量を見せられたであろうか。私にはそうは思えない。恐らくは、日本全国津々浦々、殆どの学校はやはり「マンガに描かないでくれ」と懇願するか恫喝するような、低レベルな対応しかできない愚劣な教師ばかりが幅を利かせているのだろう。即ち、「学級崩壊を起こしていない学校の方が少ない」ということなのである。
 こんな小学校に子供を預けていたら子供がもっと馬鹿になってもおかしくない。定めし来年からは入学する生徒が激減するであろう……と予測したいところだが、学校にとってはありがたいことに、どんなに不祥事が起きても、少子化以外の要因で生徒の数が減ることはまずありえない。たいていの親は交通費とかカネの関係で子供を近場の学校にしかやらない。学区制を越えて子供を名門校に入れるなんてムダなことはしないんだよね。
 だから、まさしくこの学校は自分たちの「面子」を守るとか、「見栄」のためだけに西原さんを押し込めようとしていると断定して差し支えないのである。こうしてニュースになったことで、武蔵野市の教育委員会にも「教育者が言論弾圧してどうするんだアホンダラ」という苦情が殺到することと思うが、できればそこで武蔵野市も自分たちのバカさ加減に気が付いて、振り上げた剣を鞘に収めてほしいものである。まかり間違って市当局が西原さんを訴えるなんて事態になったら、私ゃ「西原さんを守る会」を発足させて全国に呼びかけるぞ。署名集めちゃうぞ。
 私は政治運動ってやつはいっかな好きになれないが、こんな公権力をタテにしてマンガを弾圧しようなんて動きには本気で腹が立つんで、もし本当に「運動」することにでもなったら、お知り合いの方々、数少ない読者の皆様方、ご協力お願いいたします(もちろん強制ではありません)。

 西原さん関係で思い出したけど、下村嬢が先日西原さんのサイン会に行って、ヘルメットにセッ○ス鳥の絵を描いてもらったのを写メールで頂いたのであった。御礼が遅れて申し訳ない。眼福でした。


 マンガ、七月鏡一原作・鷹氏隆之漫画『8マン・インフィニティ』number.1,2(講談社)。
 平井和正・桑田二郎の『8マン』の「正統な」続編。っっても、原作マンガを「ちゃんと読んでる」世代って、我々くらいのものなんだが、若い読者は付いて来れてるんだろうか。逆に読んでいる世代は、その設定のあまりの変化にちょっと付いていけないものを感じる部分もあるかもしれない。以前のアニメ版『8マンAFTER』との関係はどうなってるんだとかの問題もあるし。
 何分、物語がかなり複雑になっている上に謎も多々あるので筋を紹介しにくいのだが、舞台は8マン=東八郎(あずま・はちろう)が失踪してから数十年の時を経たメガロポリス・東京。8マンはかつてのボディーを失い、電脳世界にその「魂」だけが存在している。そして彼は「∞(インフィニティ)」のボディーを受け継ぐ「新しき者」=「8マン・ネオ」となるべき人物を探していた。そして8マンの使者たるマシナリー(電脳の進化の果てに生命となった存在)の少女・アンナ・ヴァレリーを救おうとして命を落とした16歳の少年、東光一(ひがし・こういち)に、新たな命が与えられた……。
 『8マン』からの継続出演キャラクターは、今のところ(回想シーンを除けば)、8マン本人、田中課長(退職して自転車屋になっている)、それに谷博士らしき「ヴァレリー」なる謎の人物。今回はこの「ヴァレリー」が組織した「ジェネシス」及び下部組織である「ハンター機関」が、8マンを追う「敵」として現れている。かつての師弟が敵味方に分かれたのか? と思わせるような設定だが、まだ真相は隠されたままだ。
 与えられた力をどう扱ってよいか分からない光一をサポートするアンナが、未だ人間の感情を知らないマシナリーであるというのは、よくある設定ではあるが物語を牽引して行く要素としては充分に機能している。キャラデザインは何かありがちでホシノ・ルリっぽいけどね。
 ほかに、サービスのつもりではあろうが、平井和正・桑田二郎の別作品からキャラクターや設定を持ち込んできているのは、嬉しいような安易なような、微妙な印象である。
 「8マン」と「超犬リープ」がコンビを組むなんて、こんな嬉しいことはない、と言いたいところであるが、そうなるとイメージが『新造人間キャシャーン』のキャシャーン&フレンダーに近くなっちゃうのね。リープには当然言語を理解する能力があって、自分たちを改造した人間を憎んでいるという点でちょっと工夫はあるんだけど。ほかにも『エリート』『デスハンター』『幻魔大戦』などからキャラクターがちょくちょく流入。しかし林石隆は息の長いキャラクターだ。リアル林は今いったいおいくつだろうか。
 「ジェネシス」が開発した「マシナリー」が、8マンも含めて9体あるというのも。今回新たに付け加えられた設定である。その4体目・林芳蘭はもちろん美少女キャラであるわけだが、「4th」に変身したときのスタイルがまたプラグスーツっぽいのは「萌えてください」ということなんだろうか。まあ、人間体のときよりこっちの方がずっと魅力的なんだけれどもね。
 個人的には『8マン』にはあまり萌え要素を持ち込んでほしくはないんだけど、まあオリジナル版でもサチ子さんにセクシャルなものを感じてた手合いはいたようだし、現代に『8マン』を蘇らせようとしたら、どうしてもこうなっちゃうのかね。
 作画が今ひとつデッサン不足な上に垢抜けてないのが魅力を減殺してしまっているが(ある意味、『8マン』としては致命的なのだが)、デーモン博士はまだ生きているのかとか、オリジナル版を愛していた身としては、どうしても「続編」は気になってしまうのである。「映画版」のようにあっという間にポシャるようなことにならないでほしいものだと、これは切に願うものなのである。潰れるなよ『マガジンZ』。

2004年08月31日(火) 夢語りは現実語り
2003年08月31日(日) 充実の休日。シャレかい/映画『乱れからくり』/『チキンパーティー』1巻(金田一蓮十郎)/『よつばと!』1巻(あずまきよひこ)ほか
2001年08月31日(金) おたくはセールス電話、おおくありませんか?/DVD『スペースカウボーイ 特別編』ほか
2000年08月31日(木) 耳掻きしてたら血が出た……/『心理試験』(江戸川乱歩)ほか


2005年08月30日(火) 帰りなん、いざふるさとへ/映画『地球の危機』

 こないだから父と相談していたことなのだが、今度の正月、家族三人で台湾に旅行しないかという話がまとまりかけていた。台湾は母の故郷である。
 最近、父から聞いた話なのだが、母は生前、台湾人のお客さんを案内人に、私たちと台湾旅行を計画していたそうなのである。
 まあ「台湾に行こう」という話はことあるごとにしょっちゅう出ていたので(たいていはスケジュールが合わずに頓挫する)、そういうこともあったんだろうなあと思いはするが、最近になって父が熱心に話を進め始めたのは、寄る年波で今決行しないと、そろそろ体が動かなくなるんじゃないかという不安が生じ始めているからだろう。
 そういうわけで、先日から頻繁に「パスポートを取れ」とせっつかれていた。全くせっかちなジイサンだと少しばかり閉口していたのだが、今日、いきなり電話がかかってきて、何だか消沈した声で「もう取らんでいいぞ」といきなり正反対のことを言い出した。
 「どうしたん?」
 こないだまであれだけ熱心だったのだから、私が疑問を抱いて思わずそう口にしたのも当然のことだと思っていただきたい。それに対する父の答えはこうである。
 「正月は運賃が高い」
 何か脱力しちゃったけど、それなら時期をずらせばいいだけのこっちゃないのかな。二月、三月なら安くなるだろうに。

 もののついでのように「メシまだならどこかで食べんや?」と誘われる。何だか父も元気がないようなので、誘いに乗ってダイヤモンドシティの居酒屋で焼き鳥など。
 しげと私、二人揃って『シベ超』のTシャツを着て行ったので、「何やそれ」と笑われる。『シベ超5』の映画を見に行って水野晴郎さんからサインを貰ったことや、「万里の長城ジェットコースター」の話をすると、またまた笑われてしまう。別に笑わなくてもいいと思うが。
 「なんでそんな映画作るんかなあ」
 「まあ、ちょっとヘンなひとだからね」
 「お前、水野さんと何か話ばしたとや」
 「本人を前に『ヘンな映画でした』なんて言えんよ。『もっと映画作ってください』って言ったよ」
 本当はもうかなりなお年であるし、ちょっとボケちゃってるところもあると思うのだが、それを言い出すと父もたいして年は違わないので気を悪くするかもなあと思って控えた。

 そのあと、父もダイヤモンドシティに来るのは久しぶりだと言うので、しばらく中を見て歩く。「新しい靴がほしい」と言うので、靴屋を覗いているとき、尿意を催した。
 「三分で戻ってくるからちょっと待ってて」と言って、父も「おう」と返事をしてくれたので、安心して戻ってきてみると、件の靴屋には父としげの影も形もない。
 慌てて携帯で連絡を取ると、「ジャスコにいるよ」。
 せっかちが二人揃っていると、三分も待っていてくれないのである。
 父の靴を買って、「フタバ図書」で映画『リンダリンダリンダ』のサントラCDを買って帰る。

 父をマンションまで送った別れ際に、「セブンイレブン」でシールを集めて手に入れた「スヌーピーの絵皿」&「スープ皿」を渡す。
 父のマンションの前にもセブンイレブンはあるので、このキャンペーンのことは知っていて、「よく集めたなあ」と感心していたが、しげが自分では全然料理を作らずにコンビニ弁当ばかり食っているので、よく集めたどころかウチには絵皿、スープ皿それぞれ六枚ずつあることはさすがに言えなかったのである。
 こんなんでしげがダイエットできるわきゃないんだよな。
 
 しげ、帰りの車の中で、「今日の父ちゃんどうしちゃったのかな」と、元気のない父を随分心配する。
 「意地っ張りなとこがなくなってきたなあ。けどそれはオレたちにであって、姉ちゃんに対してはまだかなり頑固だと思うよ」
 今日も、今の店を潰して事務所に貸そうかとか言っているのである。
 姉の仕事ぶりにも不満があるようで、しきりと「いい加減な仕事ばかりしようけんなあ」とため息をついているのだが、父の目から見ればどんな仕事だって手抜きに見えるだろう。姉が「お客さんに声をかけられても挨拶もしない」と言っているのはどこまで本当なのか。
 でも、「叱っても誉めはしない」というのが昔の職人というものなのだから、姉にも父の愚痴にもちっとだけ堪えてほしいとは思う。これ以上、姉が床屋としての腕を上げることが至難であることは承知の上でそう思う。私は姉から店を取り上げるつもりがないことを伝えているのだから。


 帰宅したらちょうど「24時間テレビ」で丸山弁護士の100キロマラソンの特番が放映されていた。24時間テレビを見るたびに「結局、日本人てのはこういう『ハレ』の舞台を用意してやらなきゃ他人のことなんて考えられない民族なんだなあ」と悲しくなってしまうので、あまり熱心には見ない。
 けれどもさすがに今回の丸山さんの走りにはいやでも注目させられてしまった。なんでこの人が、60も間近になって走らなければならないのか、理由が見えない。理由が分からないのだけれども、やはり満身創痍の丸山さんが完走して武道館のテープを切ったとき、私は涙ぐんでしまっていたのである。この涙は何の涙か。私は何に感動してしまっていると言うのか。
 間寛平に始まって、もう十年以上続いているこの100キロマラソンであるが、実のところこれがどうして募金に繋がるのか、意味は不明である。毎回のランナーはただ苦しい思いをして走っているだけである。それが感動を呼ぶのは、やっぱり「走る」という行為そのものに、「意味はなくとも感動してしまう何か」があると判断するしかないのではなかろうか。
 『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』で、あたるは世界を変えるために「意味もなく」走った。『オトナ帝国の野望』で、しんちゃんは町を救えるのかどうか分からないままにタワーを駆け上った。全て、「意味なんてない」のである。
 「無償の愛」ってのはつまりは「理屈なんてどうだっていい、ともかくオレは(私は)こいつを助けたいんだ」という気にさせたくなるということなんだろう。
 亡母が昔言っていた台詞も思い出した。
 「辛いことがあったら走れ」
 意味なく走ることが、意味なく生まれた人間の生き方としては一番正しいのかもしれない。 


 WOWOWで録画した映画『地球の危機』。
 タイトルはありふれているけれども、パニック映画で知られたアーウィン・アレン製作の往年の特撮テレビシリーズ『原子力潜水艦シービュー号』の元になったのがこの映画。映画版もテレビ版も、原タイトルは『Voyage to the Bottom of the Sea』。直訳すれば「海の底への航海」となるところだけれど、これはぜひ「深海探検」と訳してほしかったものだ。『海底二万哩』のジュール・ヴェルヌへのオマージュがこれだけ明白な映画なんだから(映画中にもヴェルヌへの言及がある)。まあ、一昔前のSF映画なんて、こんな安っぽい味方しかされちゃいなかったんだよな。
 テレビシリーズは四十以上の特撮オタクには有名な番組だけれども、これももう再放送すら見てない若い人の方が圧倒的に多くなっちゃったから、一応の説明が必要になってしまっている。海洋調査研究所のネルソン提督が建設した原潜シービュー号とそのクルーが、世界の危機を聞きつけると公海であろうとなかろうとどこへでも出向いて行って事件を無理やり解決してしまうという、海版『サンダーバード』みたいな番組。さすがに40年前となると、私もディテールは覚えてない。映画版も確かテレビで見たはずだが、もう全然忘れちまってた。

 流星雨の影響で、突如燃え始めたヴァン・アレン帯。地球は一日に1.1度ずつ上昇を始める。79度を越えた時、地球は灼熱の星と化してしまうのだ。急遽招集された国際会議で、ズッコ博士は自然消火するから放置すべきだと主張する。
 ネルソン提督は、核ミサイルでヴァン・アレン帯自体を破壊しないと、この現象は収まらないと反論し、大統領の承認も得ないまま、作戦を決行するために、シービュー号をマイアミに向かわせる。
 しかし、肝心のシービュー号のクルーも決して一枚岩でなく、世界の滅亡が刻一刻と近づく中、ついに反乱分子がシービュー号の破壊工作を始めるのだった……。

 とまあ、粗筋だけを書くと何だか凄くシリアスな映画っぽいけれども、ムカシのSFは(今も一部はそうだが)ともかく演出過剰で、深海に機雷原はあるわ大イカは出てくるわ大ダコは出てくるわのサービスサービスで、あっという間にB級SFの匂いがプンプンと漂ってくるのであった。
 そもそも、流星雨なんてしょっちゅう地球に降り注いでいるものだが、その程度のことで地球が滅亡の危機に立たされるんじゃあ、地球も溜まったものじゃない。
 しかも、この灼熱のせいで、北極の氷が割れて海に落ちるのだが、その氷が海の底に沈んでいくのである! ……SFじゃねえよ、こんなもん。この映画のノベライズはシオドア・スタージョンが担当しているのだが、こんなシーンがあったんだろうか?
 ほかにもなんじゃこりゃってなシーンはいくらでもあるのだが、まあSFがマトモな映画ファンに相手にされるようになるには、ほんのもう少しあと、『ミクロの決死圏』やら『猿の惑星』やら『2001年宇宙の旅』が出るのを待たねばならないのである。

2004年08月30日(月) 『華氏911』の真価
2003年08月30日(土) ネットではみんな「役者」だ/DVD『恋人よ帰れ!わが胸に』/映画『ゲロッパ!』
2001年08月30日(木) 性教育マンガ(* ̄∇ ̄*)/『フリクリ』2巻(GAINAX・ウエダハジメ)ほか
2000年08月30日(水) ○○につける薬がほしい……/映画『蝶々失踪事件』ほか


2005年08月29日(月) これが多分最後の高峰秀子インタビュー/『COMIC新現実』vol.6(大塚英志プロデュース)

 綾辻行人原作・佐々木倫子作画『月館の殺人』にすっかりハマッてしまったしげ、第2部が掲載されている『月刊IKKI』10月号を買いたいと言うので、博多駅の「GAMERS」で待ち合わせ。
 マンガ雑誌は買い始めたらキリがないので、できるだけ買わないようにしている。週刊誌なんか、すぐに山と溜まっちゃうし。それでもちょっと珍しい雑誌が創刊されるとつい手に取って衝動買いしてしまうのだが、これがもう実に簡単に潰れるのだね。文字通りの「三号雑誌」。ここ何年かでも、『スパロボ大戦コミック』とか『ドラゴンHG』とか『トラマガ』とか『伝説マガジン』とか『手塚治虫マガジン』とか、タイトル聞いただけで(笑)が出るよねえ。もちろん、最初から続きそうにないと覚悟して買ってはいるんだけれど、本当に続かないのはやっぱり悲しい。連載が尻切れトンボのまま、どこかに行っちゃうのは特にね。伊藤伸平『楽勝!ハイパードール』、もう私が生きているうちに続きは読めないかもしれない(涙)。
 『IKKI』も連載のラインナップを見るとすごく厳しそうなのである。『月館』が看板で、それに吉崎せいむ『金魚屋古書店』や鬼頭莫宏『ぼくらの』あたりが二番手というのはそりゃあもうオタクしか読まねえよというラインナップだ。私もしげも大好きなマンガなんだが、一般受けはしないやなあ。せめて、『月館』が完結するまでは続いてほしいものなんだけれど、ギリギリって感じかなあ。

 で、その『月館の殺人』の第7回なのだけれど、上巻で謎だった部分がかなり解明されてはいるが、やっぱり佐々木さんの絵柄だとまだまだ裏があるように思えて、なかなか納得ができないのである。
 何が凄いって、殺人事件が起きたにもかかわらず鉄道アイテムに狂喜するテッちゃん連中が少しもエゴイストに見えないのだ。ヒロインの空海が避難しても、その非難の方がおとぼけに見えてしまうのである。
 いや、そもそも起きている殺人事件自体かウソっぽくて仕方がない。今回、またまた殺人事件が起きるのだが、多分、読者の大半が「こいつら、絶対死んでないよな」と思っているのではなかろうか。だから逆に、「本当に被害者が死んでいた(ヘンな日本語だが仕方がない)」という結末になったとしたら、そちらの方が凄い逆転どんでん返しの意外なトリックになるかもしれない。
 でもそんなミステリー的な面白さなんかどうでもいい気分にさせてしまうのが、佐々木マンガの真骨頂なので、今回も「どのへんに龍を感じたんだろう」とかの描き文字セリフに笑っていればいいと思うのである。


 近所に「東那珂食堂」という店が新しくオープンしていたので、夕食はそこで。 例の馬鹿高値な開店寿司屋の「大河ずし」のチェーン店なのだが、こちらはおかずを安く提供するセルフサービスの店。
 ご飯、とろろ、豚肉の卵とじ、サーモンの刺身、イカ天、コロッケ、これだけ取ってきてちょうど千円。まあ、良心的な値段である。
 しげは、できたての玉子焼きに、やっぱりサーモンの刺身、サバの味噌煮を取ってきたが、身をうまく毟れずに、殆ど半分以上を残してしまっていた。「あとあげる」と言うので遠慮なく貰う。本当は私に毟って食べさせてもらいたかったのかもしれないが、そういうコスイ策略には乗ってやらないのである。 
 以前、3号バイパス沿いに「めしや」という店があったのだが、ここはそこと同じセルフサービスでおかずを選べる方式だった。客は好きなだけおかずが取れるから便利なように見えるが、人気のないメニューはかなり残飯になってしまう。コストの面ではちょっと厳しいのがシロウト目にも分かり、案の定、「めしや」も数年で潰れた。こういう形式は私は好きなので、潰れないでほしいんだけどねえ。


 帰宅して、『ブラック・ジャック』『名探偵コナン』の流れで『キスイヤ!』まで見ていたら、しげが突然「マクドナルド行きたい!」と叫んだ。
 もう晩飯は食っているので、またハンバーガーを押し込むのは食いすぎではあるのだが、こういう「いきなり」はいつものしげの情緒不安定である。食わなきゃ心が落ち着かないのである。
 自分で自分を落ち着かせる力がないのだから、これは食わせてやるしか仕方がないのだ。閉店まであと一時間しかなかったので、すっ飛んで近所のマクドナルドへ。
 しげはお目当ての目玉焼き入りの何とかいうバーガーをチーズ抜きにしてもらって食べた。これで満足かと思ったら、まだ幾分心が満たされていない様子である。私が無口で相手をしてやらないでいるせいだろうが、こっちも丈夫なカラダじゃないんだから、平日からそうそう体力は使ってられないのである。夜中に一緒に外に出かけるだけで付き合いとしては充分なのだと思ってもらいたい。思ってもらわなければ困る。
  

 大塚英志プロデュース『COMIC新現実』vol.6(角川書店)。
 吾妻ひでおの現在を追いかけるのが半分以上の目的で買い続けてたのが、予定通り全六感で完結。最後の特集はあすなひろしだ。初期作品に加え、なんと未発表の遺稿『山頭火』の絵コンテを紹介している。一部ペンすら入っているその絵は、流麗さで知られたあすな氏のまさに円熟した美しさをた漂わせており、マンガ界は本当に屈指の逸材をなくしてしまったのだと痛感してしまう。
 『新現実』は、忘れ去られようとしているマンガ家、忘れ去られかけているマンガの歴史を積極的に取り上げた。口では「マンガファン」を名乗りながら、かがみ♫あきらやあすなひろしの名も絵も知らぬような馬鹿が(若いやつらならばともかく、四十代でもそうだ!)蔓延している現在、『新現実』はよく頑張ったと思う。また、すぐに歴史の彼方に消えてしまうだろうが。
 吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』は次回以降、『コンプエース』に移籍するそうである。多分、そっちまでは買わないだろうな。相変わらずSFやマンガの批評は寸鉄人を刺す鋭さで舌を巻く。失踪したり自殺未遂したりしないでマンガ描いてほしい。切に。
 『デスノート』について吾妻さんが、「心理劇として面白い。小畑の絵はうまいが一ノ関圭のような自在さはない」と語っている。かなりマンガを読みこんでいる人でないと、このセリフはとても理解できないだろう。一見、小畑健を貶しているように見えるが、少なくとも「天才・一ノ関圭と比較しうるマンガ家」と評価しているのである。小畑さんは吾妻さんのこの批評を真剣に受け止めて、マンガ家として精進すべきだ。しなければならない。これはそれくらい貴重な言葉なのである。


 『キネマ旬報』9月上旬号。
 表紙の「高峰秀子独占インタビュー」の文字に驚いた。
 マジで心臓がバクバク音を立てて、気が遠くなるかと思った。映画界から完全に引退したあの高峰秀子である。成瀬巳喜男、木下恵介など日本映画を代表する名匠と組んで数々の名作を残してきたにもかかわらず、両監督亡きあと、あっさりと引退してしまった、あの高峰秀子である。
 日本映画は高峰秀子に見切りを付けられてしまった。今は全ての取材を一切断って隠棲しているはずの彼女がどうして取材に応じたのか。
 「仕掛人」は、『高峰秀子の捨てられない荷物』の著者で、高峰秀子を唯一「かあちゃん」と呼ぶことのできる「家族」の斎藤明美さんであった。彼女もまた、初めは世間の取材構成から高峰秀子を守る立場にいた。しかし、成瀬巳喜男の生誕百年に際して、あまりにも高峰秀子の存在が軽んじられていることに憤った。そして嫌がる高峰秀子をくどきかつ恫喝して、恐らくはこれが本当に最後になるだろう、インタビューの約束を取り付けたのである。
 高峰秀子の口調は簡潔で一切の無駄がない。短い言葉は時として冷徹にすら聞こえ、誤解を生むこともあろう。しかしそんな誤解を少しも彼女は恐れていないのだ。どうでもいいと思っているのだ。
 「ああ、成瀬さん死んだか。じゃ、私もこれで女優おしまい」
 聞きようによっては、成瀬監督が亡くなったおかげで嫌だった女優をやめられると喜んでいるようにすら取れる言葉である。もちろんそんなことはなくて、成瀬監督がいたからこそ、高峰秀子は女優を続けてきたのだ。
 病床の成瀬監督が、高峰秀子に「あれも撮らなくちゃね」と言い残して死んだ。「あれ」とは、成瀬監督が撮りたがっていた、「白バックの映画」である。役者の演技だけを見せるための映画だ。その主演に高峰秀子を使いたがっていたのだ。
 こういう監督と出会っていて、それでその監督ともう二度と出会えなくなれば、「女優おしまい」にもなるだろう。それ以上、高峯秀子の心理を詮索する必要はない。
 高峰秀子は森雅之が映画界から離れて行った理由についても語る。『浮雲』は高峰秀子の代表作として、日本(いや、世界でも)映画史上に残る名作の一つとしても高い評価を受けた。しかし、森雅之には殆ど何の賞ももたらさなかったのだ。成瀬監督も高峰秀子も、森雅之がいたからこそ『浮雲』は成功していたと確信していたのに。
 森雅之は映画出演を減らして行き、舞台に移って行く。そういう役者が多いことが、日本映画界の役者に対する扱い方のいい加減さを証明していると思う。

 斎藤さんが、「高峰秀子に語らせたい」と思った気持ち、悔しさは、切ないくらいに伝わってくる。しかし、斎藤さんの悔しさを受け止められる人間がこの現代にどれだけいるだろうか。
 現代人はかつて日本を築き上げてきた人々に対する敬意も愛情も全て失ってしまっている。そんな現代に高峰秀子が自ら関わっていくことなどありえないではないか。高峰秀子に「(日本映画史に)興味ない」などと言わせるようにしてしまったのはどこの誰か。
 「映画ファン」と名乗りながら、日に一本の映画も見ない、「あなたたち」である。

2004年08月29日(日) なんか居たたまれない一日でした。
2003年08月29日(金) 戦慄の3時間/舞台『放浪記』/『新暗行御史』第六巻(尹仁完原作・梁慶一)
2001年08月29日(水) 腹立ち日記/映画『お笑い三人組』ほか
2000年08月29日(火) 後始末は大変そうだな/『ルパン三世総集編』第6集ほか


2005年08月28日(日) みんな仕事が面倒くさいんだね/『トンデモUFO入門』(山本弘+皆神龍太郎+志水一夫)

 休日だが出張。
 詳しいことは書けないが、出張先の連中の杜撰かつ失礼な対応にちょっとハラを立てる。なんつーかねー、うちの業界、ともかく何か失敗してもちゃんと謝らないやつ、多いんだわ。「謝ったら負け」って感覚が染みついてるんだろうけれども、明らかに自分に非がある場合でも、「すみません」とは決して言わない。四十も五十も過ぎたいい大人のくせして、必ず何やら言い訳して、笑って誤魔化そうとしたり、自分以外の誰かに責任転嫁しようとするのである。顔は老けてても精神年齢は十五、六ってやつがゴロゴロしているのだ。これでよく○○○○でございって顔してられるな、とむかっ腹が立って仕方がないのだが、ここで喧嘩をするわけにもいかないから、ぐっと我慢をしているのである。
 人と関われば関わるだけストレスが溜まるんじゃまた胃に穴が空いてしまう。職場ではできるだけ無口でいたいもんだよ。 

 
 マンションの改修工事が先日から始まっている。
 「ベランダにある邪魔なものを捨ててください」とお達しがあったので、ぶっ壊れたベッドとかテーブルとかハンガー掛けとか、普通に粗大ゴミで出したらオカネが取られるものを、ここを先途と出しまくった。しかしベランダにはまだ大モノが残っていて、これまで録画してきたビデオをぶちこんだロッカーが二つ、ドデンと居座っているのである。
 こいつは捨てるわけには行かないが、カと言って工事が終わるまでいったん部屋の中に入れておくというわけにはいかない。部屋の中はもう、足の踏み場を確保するのが精一杯という状況になっているのだ。入れられるものなら最初からベランダに置いといたりはしないのである。
  業者から電話連絡があったので、「一時的に横にどけて、工事を行うわけにはいきませんか」と頼む。
 「部屋の中には入れられないんですか」
 「ちょっと無理です。部屋の中、満杯なんですよ」
 「ですが、そうしていただかないと工事ができないんですが」
 「できればそうしてます。できないからお願いしてるんですが」
 「どこかに倉庫を借りてそこに持って行くというわけには」
 「持って行くには部屋を通さないといけないじゃないですか。その部屋を通せないんですよ」
 「そこをなんとか」
 「何ともなりません。第一、倉庫を借りるお金がありません」
 「困りましたねえ」
 「ホント、困るんですよ」
 「まあ、何とか考えてみます」
 何とか善処してほしいと政治家みたいなことを言って、電話を置いたのだが、本当に何とかしてくれるんかいな。


 『仮面ライダー響鬼』二十九之巻 「輝く少年」。
 下條さん復活。三週連続の欠勤はやっぱり夏休みだったのだろうな。プールサイドの下條さんも見てみたかった気がするが。
前回に引き続いての、ヒビキと明日夢君とのキャンプ編後半。
 明日夢君が崖から滑り落ちて軽い怪我、そのあと雨にも降られて、テントにもぐりこみ、ヒビキから「濡れただろ」とタオルを渡されてはにかむ。「ぼくのせいでこんなことに」「失うものもあれば得るものもあるさ」。……そして夜の帳が二人を包んで……。
 なんですかね、このムーディーなやりとりは(笑)。全く、ヤオイ腐女子がとても嬉しくなるようなシチュエーションであるが、狙ってきたのかなあ。タイトルがまたいかにもソレらしいしね。平成仮面ライダーシリーズは本来の特撮ファン以外にもいろんなところにファンを開拓して来ているけれども、ショタまで取り込んでくるとは思ってなかったね。いや、最初のころは明日夢君がショタの対象になるとは全然思ってなかったんだけれども(一応、高校生だし)、このところのいじらしさ可愛らしさは、ちょっとキケンではないかという気がするのだ。
 考えてみれば、「師匠と弟子」って関係、弟子は何らかの「通過儀礼」を必ず受けることになるんだよね。当然そこでも何かおいしいシチュエーションが生まれる可能性はあるわけで……。別に私はそんなもの期待してはいないのだが、その昔、ヨーダ×ルークだったかルーク×ヨーダってパロディマンガもどこかで見たことあるし(高信太郎だったような)、ヒビキと明日夢君の濃密な夜を想像して眠れない思いをする腐女子さんたちも増えるのかもしれない。
 まあ、自分でそういうパロディマンガを描いてみてもいいのだけれど、私のコドモマンガっぽい絵柄だと、別の意味でいやらしくなっちゃうからなあ。つか、描きながらサブイボ出ちゃうわい。誰か描かんか。


 山本弘+皆神龍太郎+志水一夫(と学会)『トンデモUFO入門』(洋泉社)。
 もう何年か前のことになるが、私が山本弘さんのことを嫌っているとデマを飛ばした人がいて、ちょいと迷惑を蒙ったことがある。その人がどうしてそう思い込んだのか、理由はよく分からないのだが、どうやら私と別の人を間違えたらしかった。
 山本さんのことが嫌いだったら、こんなに本が出るたびに追いかけて買ったりはしないのだけれども、いくら説明を繰り返しても、いったん思い込んだら一切自説を曲げようとしない人だったので、こりゃもうしようがないな、とこちらから縁を切ることにした。そしたらその人、今度は「自分の方から縁を切ってやった」と正反対のことを吹聴して回るようになったのである。
 全く、ウソをつくことに何の罪悪感も持たない人間というものはいるものだなあと思ったものだが、それ以上に関わりあいになりたいとは思わなかったので、その件はそのまま放置した。
 私が嫌なのは、その人もそうなのだが、内心では山本さんのことを馬鹿にしているくせに、いかにも私は信奉者でござい、ってなフリをして、おべんちゃらを使いまくっている腰巾着や茶坊主のほうである。山本さんもそういう連中が鬱陶しくはないかと思うけれど、付き合い長いと簡単に縁は切れないんだろうね。

 それはそれとして、肝心の本の内容について。
 20年ほど前までは、青少年の未知への憧れを掻き立てていたものの、今や世間の誰も振り向こうとしない「UFO」について、ひとたびこの人たちに語らせたら他の追随を許さないというお三方が結集し、大いに放談しまくったのが本書である。
 本来は京極夏彦ほかの『妖怪馬鹿』に倣って『UFO馬鹿』とタイトルを付けたかったそうだが、あまりに真似するのもなんだと無難な題に落ち着いたそうである。私はどっちかというと、往年の『オモロ大放談』を連想した。
 しかし、本書でも語られていることだが、もはや今時の若い人たちは、UFOについての初歩的な知識も知らないのである。まあ、我々の世代でも、「UFO=空飛ぶ円盤」と思い込んでるやつは結構多かったからな。
 三人のお喋りをそのまま採録しているために、軽く読み飛ばされてしまいかねないのだが、これには「UFOをいかに楽しむか」というスタンスが明確に示されている。
 ともかく盲目的に「UFO=宇宙人の乗り物」と断定しないこと、捏造されたデータに踊らされないこと、人はなぜ簡単に偽情報に騙されてしまうのか、その心理的背景にまで思いを致すこと、検証の末になおやはり正体の分からないものがある場合にはそれはやはり研究の対象として価値あるものだと認めること、トンデモな目撃証言などもただ馬鹿にするのではなくてフォークロアの一つとして楽しむこと――などである。
 要するに研究心と遊び心を両立させて、妄信だけはしないようにってことだね。だから、ケネス・アーノルド事件にしろマンテル事件にしろベティ・ヒル事件にしろロズウェル事件にしろ、検証の末にある程度真実が見えるようになった事件について、「なーんだ、ロマンがなくなっちゃった」なんて思わないことである。
 「人間は間違うものだ」あるいは「人間は幻を見たがるものだ」という「人間認識と深い愛」があれば、UFOも幽霊も超能力もいかがわしい詐欺と決め付けずに微笑ましく見ることができる。
 私も子供のころ、近所の神社にノストラダムスの大予言かなんかにかぶれた連中がやって来て布教を始めたので、面白半分に(母親が「面白そうだから行って来んね」と勧めたのである)出かけたところ、いろいろ呪文を唱えられて催眠術にかけられたようになって、オジギさせられてしまった。だからと言って、カミサマがいるとか超能力があるとか信じるようにはならないのである。何かそのときも「行いを正しくしていればUFOさんが世紀末に救いに来てくれる」とか言ってたな。あの人たちは今はどこでどうしているのやら。
 映画『宇宙戦争』を見れば分かる通り、今、宇宙からの侵略をリアルに描こうとすれば、「宇宙から飛来する円盤」すら登場させられなくなってしまうのである。しかし、UFOがその時代におけるフォークロアとして生まれてきていることを考えれば、そういう方向での「リアル」を追求することは見当違いであるということが容易に理解できるであろう。UFOが今後も「生き残っていく」のであれば、それはやはり「現代の寓話」として機能していくはずなのである。
 悲観的な味方をすれば、もはや現代は「UFOを必要としていない」のかもしれない。本書はタイトルに「入門」と謳っているが、実は「総括」としての意味を持つのかもしれない。しかし、だとすればそれはそれとして社会の自然な変遷であると言えるだろう。妖怪や妖精が廃れたように、UFOもまた廃れたのである。まだしも「幽霊」の方が我々に必要なフォークロアとして生き残っているくらいのものだ。
 しかし、UFOそのものは廃れても、我々は常に「謎」を抱えて生きている。正体不明な「UFO的なもの」はこれからも形を変えて現れてくることは間違いない。そのときにはまた、トンデモなファンタジーを生み出す人々が騒動を起こすことであろうが、そういうときには笑って楽しむ余裕を持ちたいものだと思う。

2004年08月28日(土) 夏の終わりの小さな花火
2003年08月28日(木) 謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか
2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか


2005年08月27日(土) ボンカレークラシック/映画『キャンドルシュー セント・エドモンドの秘宝』

 『ウルトラマンマックス』第九話「龍の恋人」(伝説怪龍ナツノメリュウ登場)。
 伝説怪獣の復活という、定番中の定番を扱ってるってのに、どうしてこうも「穴」が生まれちゃうかな。
 田舎に観光ホテルを建設するために、土地開発を行い、龍の祠を壊してしまったことが伝説怪獣を蘇らせてしまったというのは設定としてはあまりに古臭い。古臭くても普通に脚本を書いて演出すればそこそこの出来になるはずなのだが、やっぱりトホホな描写が散見してしまうのである。
 開発推進派の村長の息子が、客寄せのためにハリボテの龍まで作って演出したりするのだが、だったら祠も壊さずに見世物にしちまえばいいのである。ホテルとかで祠をそのまま中に移したりしてるとこ、結構あるぞ。このあたりの流れがもうムリヤリ。
 で、DUSHでそのハリボテの龍の映像を解析して、「動きがツクリモノです」って言うんだけど、だったらあとで出てくる本物のナツノメリュウも作りもんだと解析されちゃうと思うが。もっともこれはどうにも解決のしようがない瑕だけれどもね。
 これまた定番で「謎の少女」が現れて「龍は悪くないわ!」とか言っちゃうのだが、祠一つ壊されただけで怒り狂って村を焼け野原にしちゃうような怪獣なら、充分悪玉だと思うがな。そもそもこの龍が「村の守り神」だと証明する描写が一切ないから、少女の主張に説得力が生まれないのである。
 ご都合主義的な展開が多すぎるが、それは脚本家にディテールを積み重ねて行く実力がないせいである。もっと厳しいことを言えば人間をきちんと描こうとする意志に欠けているせいである。例えば、ラストで少女の母がペンダントの中の写真をカイトに見せるシーンの不自然さだ。どこの世界にいきなり死んだ自分の娘を「ほれ見ろ」とばかりに見せる親がおるかい。キテるんか、こいつは、としか思われないぞ。これはカイトの方から、「よかったら、写真を見せてくれませんか?」と聞くのが自然だろう。
 そろそろちゃんとした脚本家、監督でエピソードを綴ってくれないと、また客離れを起こすんじゃないかと思う。


 報道を追いかけるようにして書いてきた駒大苫小牧高校の暴力事件、高野連の処分は予想通り殆ど「無罪放免」に近いものだった。
 審議会では、加害者である部長が「一定期間の謹慎」、報告の遅れた野球部については「警告」という結果が上申され、続く臨時運営委員会では、「指導者の行為の責任を選手に負わせるのは適当でない」という理由で、優勝を取り消さないことも決定された。
 温情判決、というよりは、「これしかできなかった」というのが正直なところで、こんな「隠蔽工作」が行われるとは高野連にとっては全くの想定外だったのである。だから、それを処分する規約ももともと存在していない。問題の「脅迫」を行った教頭については、高野連は何の手出しもできていない。これは高野連にとっては「苦渋の判決」だったのであって、「妥当な処分」と判断するのは大間違いなのである。
 いくら高野連が「不祥事があった場合には早期報告を」と喚起しても、「生徒に関わらない限り、学校側の暴力、隠蔽は『警告』で終わり」という前例ができてしまったのである。教員が生徒にどんな暴力を振るってもバレなきゃオッケー、バレてもたいした罪にもならないということになってしまった。これで喜んでいられないのは「生徒」の方なんだが、全国の野球部員たちはそこに気付いてるのかね。
 優勝取り消しまではしないにしても、もうちょっと厳しい処分ができなかったものかと悔やまれる結果である。あとは全国の野球部と学校が、それぞれの「良心」に従って、問題が生じれば報告するようになることに期待するしかないけど、難しいよな。今回の事件は、「バレなきゃいい」の発想がもう全国の学校関係者に蔓延してしまっていて、どうにもメスの入れようがない状態になっていることが確認されただけだ。事件の再発を防ぐ方法は、「正直に言えば罪一等を減ずる」「バレたときは罪をムチャクチャ重くする」しかないのだが、その方法はハッキリと断たれてしまった。今後も、こういう事件は続くだろうし、うまく「隠しおおせる」学校もあることだろう。
 せめてなあ、北海道教育庁が校長、教頭の降格くらいはしてくれることを期待するしかないけどさあ、もうここで結末が付いたって世間は判断しているだろうから、彼らの責任が追求されることもなく、ウヤムヤになっちゃうんじゃないかなあ。単純に「よかったよかった」なんてことは言えないのである。


 「ボンカレー」と言えば、私たちの世代は女優の松山容子さん(『めくらのお市』)の写真のパッケージが印象深い。つか、松山さんが「動いている」CMだって見てたんだからなあ。もう40年くらい昔だよ。今の二重丸だかなんだかの味気のないやつは、まるでボンカレーってイメージじゃないのだ。
 松山さんは昭和50年代になると半引退状態になってしまったので、クイズ番組などで「あの『ボンカレー』の写真の女の人は誰?」なんて問題がよく出されていたものだったが、たとえ時代が移り変わっても、一度刷り込まれたイメージは、やはりその商品の財産なのだから、せめて裏側に残すとか、何か措置を取ってほしかったものである。
 今度、「ボンカレークラシック」が新商品として売り出されることになったそうだが、久しぶりに「人」がパッケージに起用されることになったそうである。松山容子に代わって松坂慶子ってのは「松」繋がりなのかなあ、だったら松田聖子とか松たか子とか松島トモ子って可能性もあったのかなあ、松田聖子だと食ってるこっちが取って食われそうだし、松たか子はまだ若くて奥さん風じゃないし、松島トモ子は写真見ただけでコワくなるし、松坂慶子は妥当なところかなあ、とか下らんことを考えた。
 でも「クラシック」と名づけるなら、やっぱり松山さんの写真を使って、「この人誰?」と若いお客さんの首を傾げさせるくらいの茶目っ気はあってもよかったんじゃないかなと思うのである。


 CSディズニーチャンネルで映画『キャンドルシュー セント・エドモンドの秘宝』。
 隠れた名作というものは実際にはあまり隠れていなくて好事家の間では有名だったりするものだが、これはもう、知る人ぞ知る、知らない人は全く知らないという傑作なのである。
 かく言う私も、まだWOWOWがJSBであった十数年前、日本未公開のこの映画が『セント・エドモンドの秘宝』のタイトルで初放映されたとき、原作者の「マイケル・イネス」の名前を見て、ぶっ飛んだ記憶がある。なんとこれ、『ハムレット復讐せよ』の名探偵アプルビイ警部シリーズで有名なイネスの、“唯一の”映画化作品だったのだ。
 本国イギリスでは50冊以上の著作があるイネスだが、わが国に紹介されているのはせいぜい5、6冊、通なミステリファンの間でも、イネスファンってのはあまり聞いたことがない。かく言う私も白状すれば『ハムレット』を読んだのは三十代になってからだ。
 そういう関係で、この映画の原作である『Christmas at Candleshoe』 も未訳である。だから「唯一の」映画化作品だって言うのに! 

 LAのダウンタウンに住む不良娘ケイシー・ブラウン(ジョディ・フォスター)を訪ねて、いかにも怪しげな詐欺師・バンデージ(レオ・マッカーン)がやって来る。バンデージは、ケイシーをはるばるイギリスの片田舎にまで連れて行った。そこには行方不明になった孫娘を待ち続けるセント・エドモンド夫人(ヘレン・ヘイズ)が“キャンドルシュー”と呼ばれる屋敷に住んでいた。バンデージはケイシーをその孫娘に仕立て上げ、屋敷のどこかに隠されているという財宝を捜し出そうというのだった。
 屋敷には執事プライオリ(デヴィッド・ニーヴン)の他に、夫人が引き取った孤児たち4人、、クルーニー、ピーター、アンナ、ボビーがいる。得意のハッタリで自分をホンモノの娘と思い込ませたケイシーは、金貨の謎を追って捜索を始めるが、ひょんなことからこの屋敷が極度の財政難に陥っている事を知ってしまう……。
 
 この原作を映像化するためにディズニーが集めたキャストがものすごい名優揃いである。
 まず主役のケイシーを演じるのがティーン・エイジャーだったころのジョディ・フォスター。もちろん、『タクシー・ドライバー』『ダウンタウン物語』などで、天才子役なんて言葉ではとても括りきれない名演を披露していたあとの出演である。フォスターは少女時代の一時期、激太りしていたこともあったのだが、15歳だったこのころには幾分スッキリしてきていて、かなりアクションもこなして(吹き替えかもしれないが)小生意気なケイシーを好演している。
 脇を固めるのは、『ピンクの豹』『007/カジノ・ロワイヤル』『名探偵登場』のデヴィッド・ニーブンに、『追想』『探偵スヌープ姉妹』『ミス・マープル』のヘレン・ヘイズ。ラッフルズやファントムを演じた「怪盗俳優」のニーブンと、「お婆ちゃん探偵」が持ち役のヘイズが共演、という図式が面白い。
 「イギリス風味」を出すのに、ニーブンは必要不可欠なキャストである。「執事」はいかにもな役だが、キャンドルシューがジリ貧なのをヘイズに気付かれまいと、“既に辞めさせてしまった”運転手、庭師、更にはヘイズの友人の「大佐」までを変装して演じる。まるでアレック・ギネスか片岡千恵蔵だが、ニーブンはいかにも楽しそうだ。もちろん「見りゃ一発で同一人物って分かっちゃうじゃん」であるのだが、そこは言いっこなし。馬に乗れないのにムリヤリ乗せられて、茂みの向こうで落馬して、馬だけが走って出て来るというギャグは『七人の侍』のパクリだけれども、まあこれも許しちゃおう。
 ヘイズは『追想』で演じた皇太后をセルフ・パロディにしたような役どころ。フォスターが「アナスタシア」に当たるわけだね。ニーブンとの大広間でのダンスシーンも『追想』を髣髴とさせるが、ファミリー映画だと思ってこの映画を見に来たオトナのお客さんへのこれはサービスだろう。ここで、ヘイズが実はニーブンの一人四役にちゃんと気づいていたことも明かされる。本映画中、一番「粋」なシーンだ。尺が短いのは仕方がないが、このあたりはもっと情感を込めて撮影して欲しかった。
 そして、愛しのレオ・マッカーン! 『怪獣ウラン』の、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』の、『新シャーロック・ホームズ/おかしな弟の大冒険』の、そして何よりも『プリズナー��.6』最多出演「��.2」役の、あのマッカーンである。その大兵肥満の体をゆすって笑う、強欲だけれどもやっぱりどこか抜けてるところのある悪役ぶりは、マッカーンの独擅場である。この人が出てくるだけで映画のランクが一つ上がるように見えてしまうから不思議だ。ニーブンとの「傘対斧」の対決に続く、フェンシング対決、槍対決と“意味もなく”エスカレートしていくおかしさは、実際に映画を見て確かめていただくほかはない。
 悲しいことに、ニーブンもヘイズもマッカーンも既に鬼籍の人である。

 お話自体はジュブナイルであるために、ミステリとしての骨格は弱く、案外あっさりと財宝が見つかったりして、物足りなさを感じはするのだが、これはまあイギリス風の人を食ったファルスとしての味わいを楽しむのが主眼だろう。
 そのあたりの「イギリスらしさ」は随所に現れていて、何より、フォスターが最後まで「ニセモノ」のままなのがいい。普通のディズニー映画のセオリーに従えば、最後は「実はニセモノと思わせといてホンモノの孫」ってご都合主義で終わらせてしまいかねなかったところである。
 ラストで「本物の孫が見つかったらどうする?」というフォスターの問いかけに、ヘイズが「ここにいるわ」と答えるのが実にいい幕切れである。これは原作にもあったセリフなのだろうか。
 ミステリファンでイネス原作の映画があったことを知らず、ディズニーファンでこんな実写映画があったことを知らず、ジョディ・フォスターファンで彼女にこんな少女時代があったことを知らないといった、いろんな意味で知られていないことがもったいない映画である。

2004年08月27日(金) 『ガンダム・ジ・オリジン』は正しい!
2003年08月27日(水) つらいことばかりでもないと思うけど/『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(江戸川乱歩)/『人生とはなんだ 旅と恋編』(藤臣柊子)
2001年08月27日(月) ノンマルトの後裔/映画『ウルトラマンコスモス ファーストコンタクト』ほか
2000年08月27日(日) 自動車とはケンカしないように


2005年08月26日(金) 優勝旗はどこで振られるか/『舞シールド21』(安永航一郎)

 またまた駒大苫小牧高校野球部長の暴力問題の続報。
 全く、一日一日、新しい展開を見せてくれることだね。
 学校と被害者の主張が食い違い、一時は泥沼化するかと思われていたのだが、今日になって学校側が改めて被害者である部員と父親に謝罪したことで、和解が成立した模様である。
 ネットでは事情もよく分からない段階から「お前らのせいで優勝が取り消されたらどうするつもりだ、いや、それが目的なんだろう」と勝手な決め付けで被害者を批判するようなことを書いていたやつもやたらいたようであるが、学校が初めから誠意ある態度を取ってさえいればたいした問題にもならなかったはずなので、そんなのが根拠のない憶測にすぎないことは、当初から気付いてなきゃおかしいのである。実際、被害者の父親は、「優勝取り消しなどにはしないでほしい」と明言している。
 私がフシギで仕方がないのは、日ごろは常識もあり、冷静な判断力を持ち合わせている人であっても、スポーツに絡む問題になるとてんでマトモな判断ができなくなってしまうことだ。野球もサッカーもラグビーも、やってる最中、応援してる最中は、脳内ドーパミンが出まくりだろうから、麻薬とまるで変わらんのだよなあと、イカレた方々を見るにつけ、嘆息を禁じえないのである。
 これでようやく学校側もこれまでの経緯を報告書にまとめられるようになり、高野連も審議会を開けるようになったわけである。同情論が蔓延している現状では、処分も軽くなりそうな気はするが、これだけ悪質な隠蔽工作を行った学校を実質無罪放免したりしちゃ、今後に禍根を残すことになろう。それを覚悟で世論に負けるようなら、もう高校野球から「教育」の概念は消えると断定していい。
 まあ、そんなもんは既に日本中どこを探しても見当たらなくなってるから、テキトーに放置しとけば? って意見にも一理はあるんだけれどもね。


 朝っつーか深夜、しげが急に「カラオケ行きたい」と言い出す。
 しげの「落ち着かない病」がまた始まった感じだが、私が「薬を飲み過ぎるな」と何度も言うので、禁断症状を抑えるために、別のストレス解消法を模索し始めたようである。
 こちらもそう体調はよくはなかったが、一人で夜間徘徊させるよりはマシだったので付き会うことにする。しげは私に「ブルーハーツ」も歌ってほしがっているようだった。
 さすがに徹夜は死んでしまうので、2時間だけの熱唱。耳でチラチラ聞いただけの記憶しかないから、『リンダリンダ』も『終わらない歌』も『TRAIN TRAIN』もみんなどこか音程が外れる。でも歌っても改めて思ったが、ブルーハーツは本当にどの曲もメロディーラインがよく似ている。何度か練習してみれば、確かに三日でそれなりのボーカルをこなせそうだ。
 ほかにもうろ覚えのアニソンを何曲か歌ったりして2時間終了。しげも気がすんだらしく、帰宅したらすぐに眠ってしまった。ただ安眠するためにしょっちゅうカラオケにも行ってられないので、何かほかにもいい手段を考えてほしいものである。


 夜、テレビで森田宏幸監督の『猫の恩返し』が地上波初放送。
 冒頭に「秘蔵映像」紹介、とあったので、何をやるのかな、もしかしたらジブリ美術館でしか上映していなかったアニメを放送してくれるのかな、とちょっと期待して見てみたのだが、流れたのは『そらいろのたね』『なんだろう』『On Your Mark』の三本だった。別にアニメファンには秘蔵でも何でもない映像である。でも、ナビゲーターの石川梨華と田中れいなは三本とも初見だったようで、「私、『なんだろう』の正面って初めて見たあ」とか「(『On Your Mark』の)この二人って、チャゲさんと飛鳥さんですかあ?」とか言っている。こういうオタク色に全く染まっていない初々しい姿を見ると、自らがすっかりヨゴレてしまったことを実感してしまうね。
 オタクはすぐに「一般人は知らないだろうけれども」と前置きして自分を特化させたがるが、知識があったって、それを運用する素養がなきゃ、そりゃただのウンチク垂れの知ったかぶりだ。いわゆる「サロンの馬鹿」というやつである。そこんとこに気付かないオタクや腐女子がやたら他人には興味のないオタ話を延々と披露して、自分だけ悦に入っているのだが、そういうやつがオタクの中でも一番「イタい」のである。みんな自戒しようね。
 久しぶりに若人あきらさん(笑)の顔を見たが、もう郷ひろみのモノマネは無理っぽい感じである。もちろんご本人もやる気はなかろうが、私は昔の芸風の方に親しみを覚えているので、がしゅういんなんたらという今の芸名にはどうしても違和感を覚えてしまうのである。カルシファーの声は若人さんの芸の一つに過ぎないのに、それだけに芸風が固定されてしまっているような印象があってね。横山千佐は声を変える前の方がよかったとか、そんな感覚だろうかね。

 映画の方はDVDも買っているし、今見返さなくてもいいのだが、放送されているとつい見入ってしまう。
 劇場で見たときにも、私はよくぞこれだけ正統的な「漫画映画」を作ってくれたものだと感動を覚えたくらいだったのだが、世評はあまり芳しくなかった。
 今回、この映画を初めて見た人は、「こんなに面白いのに?」と驚くことだろうが、ともかく「宮崎駿信者」が一番ハバを利かせていたころのことで、どうしても宮崎作品と比較をして、貶さなきゃ気がすまないといった雰囲気だったのである。
 「少女マンガだ」なんて批評はいったい何の文句を付けたいんだか訳が分からない。まさにこれは少女マンガの映画化だと言うのに。
フシアナ批評の最たるものは「宮崎駿のモノマネだ」というやつで、宮崎駿が『風の谷のナウシカ』以降捨て去ってしまった「古き良き漫画映画」の世界を、森田監督は見事に復活させてくれていたのである。
 作画面で言えば、ハルの背骨が今イチしっかりしていなくて、首の座りもよくない、ちょっとトシヨリ臭く見える演技の作画、これは宮崎作品のヒロインにはついぞなかったものである。こういうキャラクターは全然宮崎監督向きじゃないよね。
 『キネマ旬報』で、ヒョーロンカと称する連中は、森田監督の快挙を完全に無視し、その年のベストテンではただの一票も入らなかったと記憶する。批評家によって視点が違っているとは言え、興行収入一位を記録した映画がここまで無視されるというのは異例のことだ。何らかの偏見があったことは確実で、この愚挙は歴史上の汚点であると言っていい。
キネ旬子飼いのヒョーロンカどもは、映画の本質が何一つ見えていないのに「映画評論家」の看板だけは堂々と掲げているのだから、こういう羊頭狗肉のヤカラには天誅を下してやるのが妥当だろう。誰か簀巻きにして川ん中に叩っこんでやってくれ。

 再度見返した『猫の恩返し』は、スタジオジブリは今後、この路線の映画を作っていかなければ未来はないと感じさせるものであった。ジブリには実はディズニーのミッキー・マウスのように、そのアニメスタジオを代表し、「使い回しの利く」キャラクターがまだ生まれてはいない。「トトロ」は、短編での続編は作られているが、もともと世界が一作で完結しており、長編での続編は作りにくいだろう。何より、宮崎駿以外の監督にキャラクターを任せようがない。それは他の作品においても同様である。
 しかし、「バロン」は使い回しの利くキャラクターである。もともと『耳をすませば』の月島雫が書いた物語の登場キャラクターではないか。雫が、本当に童話作家になれたのなら、「バロンの物語」は、これからも「書かれ続けなければならない」はずなのである。「しばしのお別れ」のはずが、もう随分長く間が空いていないか。


 沖縄体液軍人会(安永航一郎)『そらからこぼれたすごい汁』『舞シールド21(おとな用)』。
 同人誌の感想書くのはこの日記じゃ初めてかな。しげが「とらのあな潜入」を嫌がんなきゃ、もっと早くにアレとかコレとか感想書けたとは思うけど。
 作者名義は「沖縄体液軍人会」で安永さんの名前はどこにもないが、ご本人だということはもう広く知れ渡っておられるので、書いても問題はないのだろう。前者は『カレイドスター』の、後者は『舞−HiME』のエロパロ本。と言っても安永さんまんまの絵柄で、オリジナルに似せる気は毛頭ないようだから、誰が誰だか、説明されなきゃよく分かんない。一応、『カレイド』も『舞』も見てるから設定が全然分かんないというところまではいかないが。
 『そらから』はカレイドステージを追い出された、そら・ミア・アンナが生活のためにエンコーする話。女衒役はミアである(ハマってるなあ)。みんないいとこに筋肉付いてそうだから商売は繁盛しそうだね。と言ってもこちらの方は一般向けなので、近いとこまでしか描かれてません。って近いとこってどこだよ。
 イボったりパクられたりロゼッタを騙してロリペド野郎に売り飛ばしたり、極悪非道の限りを尽くして、オチが「いま新たなステージの“膜”が開く」ってんだから安永さんの人を食ったギャグ魂は全然衰えてないのである。私はナニの最中にもギャグを飛ばすアンナの芸人魂に拍手を送りたい(笑)。
 念のため言っときますけど、これはマンガなんだから、世の中の健全な坊ちゃん嬢ちゃんはマンガのマネして本当にエンコーなんてしちゃダメですよ。でもって、そこの「ロリペド」とかの単語検索で覗きに来やがった変態糞野郎、出会い系にアクセスしてじょしこーせーを呼び出したりするようなことしてんじゃねえぞ。
 『舞』の方は、舞衣と楯が、「死ぬまでに一発やろう」という話。おとな剥け……いや、「おとな向け」なので、14ページ中、9ページはやってます。体位はまあ普通で、前から後ろからで三パターンくらい。そんなに複雑なものはなくてちょっと物足りないが、高校生があんまりテクニシャンでも不自然だしな(笑)。でも楯君、最初は「鬼畜ド変態プレイ」をやってみたかったらしいぞ。口で言うほどにはできんと思うが、一応、厨房の時に「剣道休んで一通りすましてた」とか。純情な楯君ファンの女の子は悲鳴を上げそうな設定だが、いまどきの台湾バナナよりぶっとい神経の腐女子にはこの程度のエロは全然平気か。
 どうして全ページやってないんだようと仰る向きには、「それがプロの矜持というものだ」とご説明しておきましょうか。やっぱりちゃんとマンガになってるかどうか、でもって余計なゴタク並べずにちゃんとエロになってるかどうか、それがこのページ数のバランスに表れてますですよ。
 エロは絵もともかく擬音も重要だと思う。ぐちょぐちょぬぷぬぷはありふれているが、今回、「ぬちっ」てのが個人的にはなかなかいいなと思うのであった。

2004年08月26日(木) 確かに人間、みんな「夢」は見てるけどね。
2003年08月26日(火) サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英)
2001年08月26日(日) アノ娘にもツバがついていたのね/DVD『2001年宇宙の旅 スペシャルエディションBOX』
2000年08月26日(土) 森の木陰でドンジャラ補遺/『金髪の草原』(大島弓子)


2005年08月25日(木) トラノアナ潜入記/舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』

 朝からしげは風邪気味、私も下痢気味で二人揃ってダウンである。
 しげは「子ども文化コミュニティー」の裏方アルバイトをする予定だったのだが、急遽断りの電話を入れて休んだ。
 そのまま休んでいたかったのだが、舞台のチケットを買っているのでそうもいかない。
 鴉丸嬢を迎えに行って、天神に向かう。

 もともと今日の芝居は細川嬢を誘っていたのだが、都合が悪くなったので、チケットを鴉丸嬢に譲ったのだ。最初は鴉丸嬢、「お金が払えないから、ほかの人に譲っていいよ」と断ったらしい。そうしたら細川嬢、「お金要らないから黙って受け取れ!」と怒ったのだそうな。
 鴉丸嬢は「怒られちゃったあ」と笑っていたが、これは細川嬢の「いいお芝居はちゃんと見て、自分のマンガの参考にしなさい」という気持ちの表れだろう。こういう衷心は遠慮せずにちゃんと受け止めるもんだよ、鴉丸さん(受け止めてないわけではないだろうが)。

 芝居が始まるまで、少し時間があったので、鴉丸嬢が「まだ行ったことがない」という「とらのあな」を覗くことにする。知らない人はいないと思うが、ここは闇のプロレスラーの養成所である。うそ。
 鴉丸嬢のような、アチラ方面に濃い方が「とらのあな」に足を踏み入れたことがないというのはちょっとフシギではあったのだが、つい最近まで、天神に出店があることを知らなかったのだそうな。ネット販売ではもう完売してしまっている同人誌を探したいというので、こちらも付きあうことにする。
 実は私も何度かしげに「入ってみないか?」と誘っていたのだが、何しろ表が実にいかがわしいから、怖くて入ろうとしなかったのである。
 「だって外から中が見えないんだもん」
 「あれは、中にいる人を安心させるために見えなくしてるの!」
 鴉丸嬢にそう説得されて、ようやくしげも禁断の地に足を踏み入れることになったのであった。
 まあ、入ってみれば普通のエロな同人誌ショップである(笑)。
 BLコーナーにいかにもな腐女子がタムロしているほかは、中にいるのは見るからに電車男ファッションなオタクの群れである。ところが鴉丸嬢はエロなら何でもオールマイティーだから、密集している電車男たちの間にもスイスイ平気で入っていくのである。
 そうなると、電車男たちにとっては、自分の妄想の世界に浸っている最中に、いきなりナマのエルメスが出現したようなもので、ヒビッて引くこと引くこと。うーん、やっぱり修行の足りないやつらが多いんだなあ。鴉丸嬢、目的のブツを発見したようで、欣喜雀躍。早速、会員カードも作っていた。
 しげが「あんたもこういうの買うの?」と聞いてきたので、「お前と会う前は結構買ってたよ。あさりよしとおさんのとか、毛羽毛現さんのとか、プロの人のだけだけど」と答える。しげはなんだかフクザツな表情をしているが、つまりは私がここにいる電車男君たちと同類であることに対して、違和感を感じているのであろう。ったって、私は紛うことなきオタクですがな。
 探し回ってみると、今は亡き(死んでないけど)安永航一郎さんの「沖縄体液軍人会」の同人誌が2冊あったので、両方とも購入する。さすが地元だ、揃いがイイわ。
 安永さんは出版社とトラブル起こしまくって、『超感覚ANALマン』も『火星人刑事』も続きが出ない状況になっているので、新作はもう同人誌でしか読めない。度胸のある出版者が安永さんを引き取ってくれると嬉しいんだけどなあ。太田出版あたりがドンと一発やってくれないもんかね。
 安永本が入手できたおかげで、しげはウキウキである。ついさっきまで「入りきらん(=入れない)」と言っていたのが、「また今度来よう」に変わってしまった。また鴉丸嬢と予定が合えば出向くことになるだろう。


 福岡市民会館で、劇団うりんこによる舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』。
 原作はロバート・ウェストールの児童文学、脚本・演出は鐘下辰男氏。
 いやもう、何というか感無量、押し付けがましく説教臭い「反戦」作品ばかり作っている映画人、演劇人は、鐘下さんの爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなるくらいの傑作だった。

 主人公のトムには、子供のころ、「フィギス」という名の想像上の友達を作って遊んでいた。彼が三歳のときに、弟・アンディーが生まれる。ところがトムは、弟のことを「フィギス」と呼び、自分の前では常に「フィギス」として振る舞うように強要する。
 アンディーは優しい子で、兄のトムの言うことは何でも聞いた。しかしそのうち、トムはアンディーに奇妙な能力が備わっていることに気付く。精神感応。彼には人の心を読み取り、遠く離れた外国の人々と交信することさえできたのだ。見たこともない呪術師の名前を言い当てる。飢えた難民の子どもの写真を見て「助けてやって」と叫ぶ。建築家の父も、市会議員の母親も、そんなアンディーを少しばかり持て余し気味であったが、トムはアンディーがだんだんと「深み」にはまっていくのを面白がって見ていた。
 しかし、そうしているうちにトムが15歳、アンディーが12歳になったとき、弟は「あちら側」に行ったきりになってしまった。彼はアラビア語しか話さなくなった。自分の名は「ラティーフ」だと言った。そして、彼は戦場の塹壕の中にいた。現実世界でも、海の向こうで戦争は始まっていた……。

 圧倒されたのはまず舞台装置である。
 演劇の成否は、まず舞台美術が単なる置物ではなく「演劇」を志向しているかどうかに懸かっていると言ってもいいが、これは最上の舞台と言ってもいい。
 建築中のビルの鉄骨、これが中央を取り巻く壁のように組み立てられ、移動し、あるときはこれが家に、あるときは病院に、あるときは戦場に見立てられる。
 工事の騒音は戦場の爆音にシンクロし、ラグビーの試合は戦場の戦いに見立てられる。しかしそれはただの見立てではない。科学が兵器を作りだし、闘争心が諍いを生んだ事実を象徴する演劇的寓意である。
 演出の鐘下さんの主張はこうである。「知識としての戦争を理解するためのドラマではなく、経験として戦争を実感していくドラマ」、それを作り出すこと。そのためには、舞台上に二つの「機能」を持ったものを配置することが必要だった。
 一つはもちろん、アンディーでありフィギスでありラティーフである「弟」である。
 トムのいる世界は平和なこの国である。戦争の陰はどこにも見えない。テレビからは始終戦争の映像が流れてくるが(実際に舞台には無数のテレビが置かれている)、スイッチを消せば、戦争は目の前から消えてなくなる。戦争はいつだって他人事で、対岸の火事で、よその国で誰が何人死のうと関係なんかない。そうほざいて仮に誰かの叱責を買ったとしても、少しも痛痒を感じはしない。我々は、もう長いこと、戦争を自覚せずにすむ世界に住んでいるのだ。
 「戦争をなくしてくれよ!」と糾弾された母は、文字通りテレビのスイッチを切るという行動に出る。そしてこうも言うのだ。「私たちに何ができるって言うの?」。
 まさしくその通りだ。誰にも戦争を止めることなどできない。政治家にも、学者にも、軍人にも、もちろん庶民にも。我々が戦争を知らずに来られたのは、そして、海の向こうの人たちが戦争に巻き込まれてしまったのは、ただ生まれた国が違っていたという「運」の問題でしかないのだ。
 怖いのはこれからだ。目の前の弟が、現実に戦争を体験していても、誰も彼を救うことはできない。彼は、精神感応という能力を持ってしまったばかりに(そしてそれをおもちゃにした兄のせいで)、現実の戦争を体験することになってしまった。けれども、もしその能力が「兄である自分の方に発動していたら」?
 もっと端的に言えば、アンディーの存在は、もし、自分が「あの国に生まれていたら?」という問いかけを観客一人一人に問いかけているのである。知恵も、勇気も、努力も、何の役にも立たない。人間の営為が全て否定される世界に生まれるも生まれないも、それは全て「運」なのである。こんな「不公平」があるだろうか?
 そしてもう一つの戦争を実感するための「機能」、それが檻のような鉄骨の装置である。
 平和な世界では戦争はファンタジーでしかない。しかしそのファンタジーが容易に現実の戦争に反転し、シンクロすることを、この装置は見事に表現している。ここでも「運」の問題が浮上してくる。工事現場のドリルを握る手が、運が悪ければ戦場で銃を持つ腕に変わっていたかもしれないのだ。ラグビーボールを握る手が、手榴弾を握る手になっていたかもしれないのだ。しかし、もしもそうなっていたとしても、私たちにはその運命を帰る力などないのだ。こんな「不公平」があるだろうか?

 そして、この戦争の悲惨を回避する唯一の手段を、この物語は極めて冷静に示してくれる。キレイゴトだけの反戦映画『ハウル何たら』のように、電話一本で終わるようなアホな解決方法ではない。極めて実効性の高い、現実的な解答である。
 それは狂うことである。
 それ以外に方法があるか?
 それ以外に戦場にいても戦わず、敵を殺さずにいる方法があるか?
 自らが死ぬのでなければ、戦争の残虐、戦争の悲惨から脱出する方法はないのだ。運命に逆らう方法はそれしかないのだ。世界が既に狂っているのだから、我々個人は更に狂うことでしか、正常にはなれないのだ。
 「あれから何が変わったか。弟は変わらない。弟はずっとあのままだ。変わったのは僕たちだ。父はラグビーを止めた。母は仕事を辞めた。そして僕は……」。
 しかし、現実の我々は、今のこの「ファンタジーとしての平和」にいつまでもしがみついているだろう。スポーツという擬似戦争に狂喜し、政治という擬似社会を構築する方法論に期待し、実はそれが「ファンタジーとしての戦争」を夢見る行為であることに気付きもせずに日々を過ごすことだろう。
 だから政治とスポーツを嬉々として語るような既知外連中は鬱陶しいんである。

 芝居を見終わったあと、鐘下辰男さんとの懇談会などもあったのだが、そこまで鴉丸嬢を付き合わせるのは申し訳なかったので、そそくさと会場を後にする。
 鴉丸嬢、「事前に何も筋とか知らなかったから、面白かった」との感想。
 確かに、映画にしろ演劇にしろ、先入観がない方が虚心坦懐に作品を見ることができるし、楽しいに違いないのだが、これだけたくさんのモノが溢れている状況では、完全に情報をシャットアウトもできない。ちょっとした粗筋とか、そういうものを参考にして、「この映画を見よう」とか選択の基準にするしか仕方がないのである。まあ、事前情報を仕入れていても、それに振り回されない冷静さを培うことが大切だろうなと思うのである。
 事前情報がなさ過ぎるのも良し悪しだというのは、時には大きな勘違いをしてしまうこともあるからだ。
 鴉丸嬢、「途中まで、外国の話じゃなくて日本の話だと思ってた」と言ってたが、貰ったパンフの表紙くらいは見ておこうよ。作者、外国人だぞ。それに、冒頭からトムとかアンディーとか、名前が出てたんだがなあ。それとも鴉丸嬢のご近所には「トム山田」とか「アンディー吉田」とか、そんな人の方が多いのだろうか。


 箱崎の「ゆめタウン」の中華な店で、三人で食事。
 どうやって作ってるんだかよく分からないが、「黒いチャーハン」があったので注文してみる。見た目は本当に黒かったが、味は普通のチャーハン。別に外れではなかったからいいんだけれども、ものすごい味を想像していたので、美味いのに拍子抜けであった。

 食事をしながら、例の天神にできた「メイドカフェ」の話を鴉丸さんにしてみる。「バイト募集してるみたいだけど、やってみたい?」(もちろん冗談で聞いてみたので、其ノ他君、怒らないでね)。
 年齢制限は18歳から25歳までだよ、と言うと、「年がギリギリだから」と首を横に振った。隣からしげが「若く見えるから大丈夫」と茶々を入れる。
 「高校のころは年上に見られてたんだけどね。最近は『大学生?』とか言われるよお」
 「いいなあ、私なんか最近全然、歳を聞かれない。メイドは無理かな?」
 確かにしげは見た目年齢不肖なところがあるが、20代に見られたいというのはいくら何でもおこがましいというものであろう。
 「メイドカフェは女性が入っても『ご主人様』と言ってくれるのだろうか?」と鴉丸嬢は気にしていたが、男性専科とは謳ってなかったように思うから、大丈夫なのではなかろうか。もっとも、本当に入る気があるかどうかは疑問だけれども。

 東京のグータロウ君からしげと私の携帯にメールが来ていたので見てみると、先日お送りした「こどもびいる」が届いたとの知らせだった。
 「こどもびいる」の正体は、昔からある「ガラナ」とか「アップルタイザー」ってやつなのだが、コップに注ぐと黄金色で泡が立ち、ビールのように見える。
 そこに着目した福岡の「下町屋」という店が、数年前にラベルを貼り替えて売り出したら、これが爆発的にヒットした。福岡では、レストランのメニューに入れているところもあるが、去年あたりからはデパートなどでギフト用に売られているものも見かけるようになっている。そこから全国区に人気が広がっていったものらしい。
 『はなまるマーケット』や『やじうまプラス』でも紹介されたというので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。東京でも何軒か、売ってる店があるようなのだが、グータロウ君のうちの近所ではまだあまり見かけないようなので、話のタネにお送りしてみることにしたのである。
 取り扱い店に頼んだのは日曜日だったから、ちょっと届くのが遅れた感じだが、台風の影響か何かだろうか。随分喜んでいただけたようで、みんなで飲んでいる写真まで添付している。しげのとこに送ってきた写真はお子さんがビンをラッパ飲みしてる姿で、ちょいと行儀は悪いけれども「こんなに大人ぶってるよー」ということか(笑)。これがきっかけになって、うっかりホンモノのビールに興味を持ったりたしないでほしいものだが。
 「こどもびいる」を一番楽しめるのはやはり小学生のお子さんがいる家庭だろうなあと思っていたのはドンピシャだったようで、嬉しいことである。。
 ネットでも注文できるようなので、ご興味のある方は、「こどもびいる」で検索してみてください。
 
 
 鴉丸嬢をお宅に送り届けて、帰宅は11時。
 ちょっと遅かったが、しげが「こどもびいる」の反応が聞きたいと言うので、東京のグータロウ君のうちに電話を掛ける。
 口調で受けていただいた様子が分かって、こちらも嬉しい。
 お子さんが「ラッパ飲み」していたのは、ちゃんとコップに注いで飲んだ後、ふざけて空ビンを口にしただけなので、躾が行き届いていないわけではないよ、とのこと。猿股失敬。あとはお子さんがたが学校で「こないだビール飲んだよ」とか誤解されるようなことを言わないように気をつけてもらえばよいかと思う。
 でもってまた劇団の話、芝居の話などを少々。
 今日の芝居、鴉丸嬢も面白がっていた話をすると、「マンガの参考になればいいねえ」との言葉。グータロウ君も鴉丸嬢がプロを目指しているのは知っているから、これは叱咤激励の言葉である。鴉丸さん、ホントにね、いろんな人から期待されてるんだからね、根性入れて頑張りなさいよ。
 また長話になりそうな感じだったのだが、あちらの背後で何やら音がした。「ちょっとごめんね、今日はこれで」と挨拶もそこそこに電話を切ることになってしまった。どうやら緊急事態が起こった様子である。台風も東京を直撃のようだし、先日から彼の日記でも何度か書かれていたので、何が起こったのか、事態の中身は見当が付く。ヒトの不幸を喜ぶようで恐縮なのだが、先日、メールでも「『ふるやのもり』に取り憑かれてるのかい?」と書いて送っていたのである。でも「妖怪屋敷」に住むなんて滅多にできる経験ではないし。ほかにも「家鳴り」とか「吹っ消し婆あ」とか「網切り」とかいるんじゃないか(笑)。

 蛇足ではあるが、「ふるやのもり」の昔話について、ご存知のない方へ、だいたいの筋を解説しよう(確か昔、テレビアニメ『日本むかしばなし』でも紹介されたことがあったと記憶している)。今回は特別に「博多弁バージョン」である(笑)。

 ある嵐の夜、村外れの農家に、泥棒が忍び込んだ。そこには爺さんと婆さんが寝ていたが、寝物語にこんなことをお喋りしている。
 「なあ爺さん、こげなえずか夜に泥棒の来よったら、どげんするとね」
 「何ね婆さん、泥棒やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」
 天井裏に潜んでいた泥棒は、泥棒よりも恐ろしい「ふるやのもり」とは何なのだろうと驚く。
 そこに今度は狼がやってきて、爺さんと婆さんを食ってしまおうとする。
 「なあ爺さん、こげなえずか夜に狼の来よったら、どげんするとね」
 「何ね婆さん、狼やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」
 土間に上がりこんでいた狼は、狼よりも恐ろしい「ふるやのもり」とはどんな化け物だと驚く。
 嵐は激しくなり、稲光がピカッと光って、篠突く雨がザアッと音を立てて茅葺屋根に降り注いだ。
 爺さんと婆さんは、「ああ、『ふるやのもり』が来よったばい!」と叫ぶ。
 「ふるやのもり」がどこに来たのかと慌てた泥棒は、梁から狼の背中に落ちる。
 「ふるやのもり」が襲ってきたのかと慌てた狼は、飛び上がって外に逃げ出す。
 狼はしがみついた泥棒を振り払おうと嵐の中を必死に走るが、泥棒も振り落とされたら襲われると思って必死にしがみつく。一晩中走り回るうちに、泥棒もついに力尽きて狼から転げ落ち、狼もそのままフラフラとどこかへ行ってしまった。
 次の日の朝、泥棒は仲間の泥棒たちにこう言った。 
 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」
 次の日の朝、狼は仲間の狼たちにこう言った。
 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」
 そのころ爺さんと婆さんは、雨漏りですっかりびしょ濡れになった家中の畳を汗だくになって表に出していた。
 「ああ、これやけん、『古家の漏り』はえずかとよ」

 いくつか、結末が違うバージョンもあるようだが、基本形はこんな感じである。

2004年08月25日(水) 美人プラス1
2003年08月25日(月) 世代の違いってことじゃないと思うけど/『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(手塚治虫原作・姫川明)
2001年08月25日(土) 夢は宇宙/『なつのロケット』(あさりよしとお)ほか
2000年08月25日(金) 唐沢本の感想書けなかったけど面白いぞ/『垂里冴子のお見合いと推理』(山口雅也)ほか


2005年08月24日(水) 再度、学校という腐れた体質について/『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹)

 苫小牧高校野球部の不祥事の続報。
 学校側の「隠蔽工作」が次々に明るみに。これはもう「温情判決」なんてしちゃったら、かえって毒だって事態になりつつあるけれども、高野連に届く投書や電話の六割は「部員は処罰しないで」という同情論だとか。
 ホント、こういうアタマの悪いやつらが世間に横行していて(トバクに加担してる連中も多かろう)学校と球児を甘やかしてるから、不祥事はあとを絶たないんだよ(タメイキ)。
 具体的には、教頭が被害者の部員に「三、四発殴られたくらいなら、出場停止などの処分にならずにすむ」なんて脅迫とも取れる発言をしていたとか。うわあ、マンガかドラマに出てくるような悪徳教頭。こういうやつらがマジで跳梁跋扈してるのが学校ってとこなんだね。
 加害者の部長も、急に「十発くらいは殴ったかも」と前言を翻して殴った回数が増えた。これはもう、かなり殴る蹴るの暴行をしていたことは間違いのないことであろう。殴った数は、また二、三日したら増えるかもしれない。そもそもこいつは、明徳義塾の事件が起こって、高野連から暴力行為等の不祥事に関する注意が行われていたにもかかわらず、それを無視する形で体罰に走っていたのである。どう考えてもこれは高野連を「舐めて」かかっているし、「ちょっと指導が行きすぎた」程度のものではない。もしかしたら教頭あたりから「何かあってもうまくもみ消してやるから、好きにやっていいぞ」とか言われてたかも知れない。
 こないだも書いたが、「部員の不祥事ではないから温情を」という主張は全くの見当外れなのである。高野連が旧態依然の「連帯責任主義」を取っていると思い込んでいる人も世間にはかなりいるようだが、これがまた全くの事実無根であって、「きちんと届出があれば」個人責任にとどめるケースの方が圧倒的に多いのである。今年も、山梨県大会中に選手の暴力行為が発覚した某校については、該当選手を外しただけで出場を認めている。
 今回の件で問題にされているのは、あくまで高野連の注意すら無視し、事件の「隠蔽」が行われた、苫小牧学校の教育者にあるまじき教師連中の腐れた体質にあるのだ。高野連が事件を知ったのは22日午後に「週刊誌」の報道によってである。事件発生からは2週間が経っていた。更に苫小牧高校からの報告は翌23日の朝になる。「もはや隠し通せないと観念して」報告したことは明白だ。もしも事件が発生した時点で報告をしていれば、それこそ部員には何の落ち度もないのだから、「特にお咎めなし」になったはずなのに、なぜ隠蔽に走ったかと言われれば、「そういう学校だから」と言うしかない。
 高野連の田名部和裕参事は「前代未聞の由々しき事態だ」とまで言い切っている。部員の不祥事だからたいした問題ではない、ではないのだ。苫小牧の正式な報告書を待って、審議委員会を招集し、優勝の扱いなど対応を協議することになったそうだが、今回の問題が、大会期間中の暴力行為であることに加え、はっきりと「明徳は部員、今回は部員ではない、ですむのか」という点にあることを表明している。
 ネットでもこの問題を扱ったブログではすぐ「部員がかわいそう」論に流れているが、「そういう学校に入学したのが不運」なのである。こんなふうにチクリやリークで高校野球界の腐れた体質が暴露されてしまうのは、高校野球の沈滞に繋がるのではないかと危惧する向きもあるようであるが、そんな腐れた高校野球を温存することに何の意味があるのだろうか。膿はこの際どんどん出していった方が将来的には、高校野球のためになると思うのであるがどうだろうか。一時的な同情論など、本当に高校野球を愛しているのなら、軽々しく口にすべきではない。


 夜7時から、『愛のエプロン』に『仮面ライダー響鬼』の細川茂樹さんがゲスト出演。
 「ヤマダ電器」でDVDを買っていたので、時間に十分ちょっと遅れたが、食事タイムには間に合った。今日のメニューは泥鰌の唐揚げに柳川鍋。料理人はデヴィ夫人、鈴木紗理奈、インリン、磯野貴理子、杉田かおる(久しぶりの出演で泣いてたけど、周りが結構白けてたのが印象的)。
 まあ、あまり味の方がイマイチ期待できないメンバーだが、以外に鈴木紗理奈がいい出来。磯野貴理子も味は濃かったがまあ美味しい部類。ほかはもう、どうしようもなかった。
 予想通りインリンの料理は殆ど「害毒」で、鍋に泥鰌と溶き卵を流してカツブシをまぶしただけなんだから、味の方は想像もしたくない。細川さん、口に含むなり、別部屋に駆け出して行った(もちろん吐き出すためである)。外はまッ黒こげだが、中が完全にナマで、噛んだ途端にホネが膨大に出てきて、口の中に刺さるそうである。おげえ。
 笑ったのは、細川さんが吐き出すたびに画面に「本当は強いライダーの活躍をご覧ください」と『響鬼』の画面が流れること。伊集院光から「このライダー弱え!」と突っ込まれていたが、魔化魍には強くてもインリンの料理には勝てないのだな(笑)。魔化魍の出没する地域にインリンの料理を置いといたら、自然に駆除できるんじゃないか。
 しかし細川さん、無精ひげが結構伸びてたけれど、『響鬼』の方で山篭りするシーンでも撮っているのだろうか。


 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文藝春秋)。
 タイトルはなんだかふざけているように聞こえるだろうが、これは立派な「マンガ家・赤塚不二夫」の評伝である。今後、赤塚不二夫について何か文章が書かれることがあるとしても、その際には必ず本書が参考文献として巻末に載せられることになるだろう。それほどに本書は赤塚不二夫の本質を忠実に描いて粉飾するところがない。
 長年の赤塚さんファンならば、作者の名前を聞いて、それが誰であるかを察することはできるだろう。「タケイ」と聞けば「少年サンデー」のデカバナタケイを、「イガラシ」と聞けば「少年マガジン」の「デガラシ」を思い出す。どちらも赤塚さん担当の編集者であるが、二人とも赤塚マンガにおける「マンガキャラクター」であった(ほかにも実在人物の赤塚キャラと言えば、男ドブスの水島新司・牛次郎とか、カメラ小僧の篠山紀信とかがいるが、彼らはホンモノとは全然似ていないキャラデザインである)。
 赤塚不二夫のことを書ける人間はこの二人の編集者に如くはないが、五十嵐隆夫さんが『天才バカボン』一作の担当であったのに対し、武居さんは『おそ松くん』『天才バカボン(マガジンから一時的に移籍)』『モーレツア太郎』『レッツラゴン』と、そのギャグの「進化」を、身をもって語れる立場にあった。この事実は、本書を執筆するにおいて重要なファクターとなっている。すなわち本書は、一人のマンガ家の評伝としての意味だけでなく、そのマンガ家の精神史を描くことによって、日本ギャグ史を描くことにも繋がっているからである。
 
 昭和40年前後のフジオ・プロが、赤塚さんを中心として、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、竹中健治、高井研一郎、北見健一(現・けんいち)、芳谷圭児、あだち勉らによるアイデア・作画の完全分業体制で作られていたことは当時から知られていたことである。
 ストーリー及びギャグは赤塚、長谷、古谷、それに武居記者が加わって練り上げる。それを元にして、ネームは赤塚さん一人がこなし、下描き、ペン入れ、背景、仕上げを残りのスタッフに委ねるという作業過程である。
 そのようなプロダクション制を取っていたためだろう、本書には次のような記述がある。「赤塚は、『赤塚不二夫』というペンネームは、自分一人のものではないと思っている。符合だと思っている。自分はその代表者だと思っている」と。しかしそれは私にとってはかなり意外なことであった。
 確かにフジオ・プロがさいとう・プロに先駆けてそのような分業制を取っていることは私も昔から知ってはいたが、あの一時代を画したギャグ・ギャグ・ギャグを見せつけられていたせいで、作家性の強い人だと思い込んでいたのである。私は他のアシスタントは赤塚さんの影響下にあるお手伝い人程度にしか認識していなかったのだ。事実は全くの勘違いであった。
 もちろん赤塚さん自身もキョーレツな個性の持ち主である。しかし更にキョーレツな人々が、まさに多士済々、赤塚さんの周りには群れ集っていた。何に驚いたかというと、『おそ松くん』に登場するキャラクターで、主役のおそ松たちを「食って」しまって後半の主役に躍り出た脇役たち、イヤミ、チビ太、ハタ坊、ダヨーン、デカパン、彼らはみんな古谷三敏のデザインだったのである。それじゃあ後半の『おそ松くん』は殆ど「古谷三敏とフジオ・プロ」名義でも構わないほどだ(逆に古谷さんの初期の『ダメおやじ』のストーリー、アイデア、ネームは全て赤塚さんが担当していた)。
 しかも、その協力者たちが実力を付けていくと、赤塚さんは次々と独立させていく。となれば当然自分の作品のアイデアマンが減って行くわけだが、そんなことを赤塚さんは意に介さない。『レッツラゴン』の時にはもうアイデアは赤塚、武居の二人だけで担当している。そして、ネームも作らずにそのまま原稿を描いていくという殆ど「セッション」のようなスタイルでマンガを描いていくのだ。あの「ギャグの極北」のようなマンガが成立していたのは、先を考えずに連想だけで描いていっていたからだったのである。

 武居さんは『レッツラゴン』の『伊豆の踊子』の中身をこう紹介している。
 「馬鹿熊のベラマッチャが、学帽にマント姿で伊豆を旅していて、踊子に出会う(私注・当然ドブスである)。踊子に連れて行かれて、ベラマッチャは、旅館に泊まる。旅館の主が出てきて『学生さん』と呼びかける。ベラマッチャが『なんだね、ドストエフスキーくん!!』と答える。(中略)そこから一気に、狂気の世界に入っていく」
 作中ではあとの展開が書かれていないが、言葉では説明のしようがないくらいに脈絡がない。ベラマッチャは最後にはついに夏目漱石になってしまうのである(ということは夏目房之介はベラマッチャの孫か)。

 私が好きな『レッツラゴン』のエピソードはこんなのだ。
 男ドブスの水島牛次郎は、ドブスのあまり、全ての存在から嫌われている。人からだけでなく、モノからも嫌われているのだ。寝ていると、布団から嫌われて朝目覚めると裸になっている。卓袱台を出そうとすると、卓袱台はヘタる。食事をしようとするとおかずは「さあ、殺せ!」と言って泣く。背広は着られてくれない。ベルトは締めてくれない。靴は履かれてくれない。ウンコはドブスの体内から出られて嬉しくてダンスを踊る。ところがそんなドブスを見ても、馬鹿熊のベラマッチャだけは、少しも嫌うそぶりを見せないのだ。けれどそれはドブスをぬか喜びさせるためのイジメだった。怒ったドブスはベラマッチャを殴り倒して自分以上のドブスにする。やっと二人は仲よくダンス。オチは赤塚さんのモノローグで、「この男ドブスは実在します」(注・確かに、水島新司と牛次郎のご面相はお世辞にも美男子とは言えない。けれど赤塚さんの描く似顔絵はホンモノの100倍もドブスである)。
 この「水島新司・牛次郎ドブスネタ」は当時の赤塚漫画ではしつこいくらいに繰り返されていた。よく、水島新司と牛次郎が怒らなかったものだと思う。 
 
 文字では伝えにくいが、赤塚マンガのアナーキーさが少しはご理解いただけるだろうか。
 そんな作り方をしていけば、作品が破綻していくのは目に見えている。『レッツラゴン』が赤塚さんのマンガの実質的な終点だった。それ以後の作品に見るべきものはない。それはずっと赤塚マンガを追いかけていた我々ファンにもハッキリと判った。そんな悲しい事実すら、武居さんは何一つ遠慮せずに冷徹に記していく。
 赤塚さん一人で描いた『クソばばあ!』は面白くもおかしくもない駄作になった。創刊したマンガ雑誌『まんがNO.1』は長谷邦夫の個人誌と化し、潰れた。詐欺に引っかかり、ヤクザに追いかけられ、愛人を作り、最初の妻と離婚した。アル中になり、マンガも描けなくなり、アシスタントたちも全ていなくなった。まさに転落人生としか言いようがない。
 ところが、それらの出来事を記す武居さんの筆致は、扇情的な暴露にも告発にもならず、またお涙頂戴の感動ドラマにもならない。そこにあるのは、まさに一つの「歴史」だ。司馬遼太郎の歴史小説である。これはとても恐ろしいことだと思う。しかし同時に、人間を描くとはまさにこういうことかとも思う。
 作品作りのみならず、赤塚さんの私生活にも「密着」していた武居さんだからこそ書けたことだとは言え、この冷徹さは残酷に過ぎるほどに見える。しかし恐らく、武居さんのその残酷さも、赤塚さんとの二人三脚の中で培われてきたものなのだ。

 赤塚さんが脳内出血で倒れ、昏睡状態となったのが平成十四年の四月。今もまだ赤塚さんは七十歳の誕生日を目前にして眠り続けている。
 武居さんは今年刊行された赤塚不二夫傑作選の『レッツラゴン』の巻末ではその事実をぼかして書いているが、本書は評伝としての意味合いがあるので、あえてその事実を書いている。
 もう赤塚さんの新作を読むことはかなわない。
 その残酷な事実を書いてなお、武居さんはこう書いた。
 「僕が赤塚のことを言うなら、こうかな、と思う。
 『女好き、大酒を飲む子供、小心者、歩く幼稚園、泣き虫、マザコン、人情家、天才漫画家』
 そして最後は『不死鳥』と結ぼう。
 不死鳥だったら、立ち上がって、四文字言葉を叫んでみろよ!!」
 だからこの評伝は、愛の物語なのだ。
 胃の腑をえぐるほどの罵倒語で綴られた愛の物語なのだ。
 読むべし。

 本名・赤塚藤雄、昭和十年九月十四日、満洲熱河省生まれ。
 私の父はその八日後に生まれている。母は同じく外地である台湾・台北にいた。トキワ荘の仲間たちがみなそうであるように、赤塚さんは私の両親と同時代人だ。個性的でバラバラに見える彼らに共通するキーワードはやはり「戦争」だろう。
 しかし、手塚治虫も、石森章太郎も、藤子不二雄もみな「戦争」あるいは「反戦」マンガを描いていたのに、赤塚さんは殆どそんなマンガを描こうとしなかった。もちろん、そんな必要はなかったのである。赤塚さんのアナーキーでナンセンスなマンガの全てが、戦争を含む人間の下らん生き様を笑い飛ばしていたのだから。 

2004年08月24日(火) 江角英明さん追悼
2003年08月24日(日) キッチュと言うか、トンデモなのかも/『爆龍戦隊アバレンジャー』第26話/DVD『キノの旅』2・3巻ほか
2001年08月24日(金) 祝! 退院!/映画『RED SHADOW 赤影』
2000年08月24日(木) たまには一人で映画を見る日もあるさ/映画『怪異談・生きてゐる小平次』ほか


2005年08月23日(火) オトナもコドモも/『彼氏彼女の事情』21巻(完結/津田雅美)

 夏映画の興行収入予測が概ね出揃ったようで、1位は『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』で、最終的に110億円前後になりそうだとか。もっともこれは『エピソード1 ファントム・メナス』を上回るのはちょっと難しそうだということで、完結編だというのに客の伸びがイマイチだったのは、やはり1、2、3、通した映画の出来がまあアレだったせいがあるんじゃないのかな。
 ノベライズ版を読んで、毎回思うことだけれど、『スター・ウォーズ』シリーズは小説の方がよっぽど人物描写が濃密でキャラクター心理が深く心に迫ってくるように感じてしまう。要するに映画の方は役者の演技力が不足しているということなのである。もちろんそれを引き出せない監督の演出力の方により問題があることは論を待たない。悪役好きの私としては、なんでドゥークー伯爵やパルパティーン評議委員長をあんな単細胞な深みのないキャラクター(あれじゃせいぜい中ボスレベルだ)に演出してくれたかと歯噛みする思いだ。無駄アクションシーンも退屈さを増すばかりだし、全シリーズを通して見られた殺陣がダース・モールとCGヨーダだけってのはあまりにレベルが低すぎるんだが、もともと殺陣の良し悪しなんて分かるわきゃねえアメ公に期待する方が間違いってことかね。
 2位は『宇宙戦争』だが、1位に拮抗するほどの成績ではなく、60億円程度になりそうだと言う。『NEWTYPE』の今月号で、ゆうきまさみが本作を絶賛していたのだが、世間の悪評紛々たる状況を見て「オレの目はフシアナなのか!?」と頭を抱えていた。まあフシアナなんではないですかね(笑)。いや、最後にあっさり火星人(とは全く明記されてないがあえてそう書く)が細菌でやられちゃうのが拍子抜け、という批評については「原作がそうなんだから」という反論もあるようだが、アレは驕り高ぶった人間に対する文明批評としての寓意なんだからね。それを現代に生かすための工夫ができていないと言うか、原作の精神を全く正反対に演出しちゃってると言うか、その点でやっぱりマトモな評価は下せないんである。
 ハリウッドの馬鹿映画が1位、2位だってのはまあしゃあないことではある。もともとヒットする映画の最大要素は、馬鹿馬鹿しさにあるからね。ただ、もいっちょ突き抜けてない中途半端さが見ていてどうにもイラつくんだけどさ。
 3位は定番『ポケモン』の40億円、もちろん例年成績は落ち続けているのだけれど、それでもこれだけ稼いでいるというのはさすがだ。なかなかしげが付き合ってくれないのでテレビで後追いで見ることしかできないけれども、そこそこな出来ではある。アニメファンも中高生になるとこういう児童アニメを馬鹿にするようになっちゃうけど、そういう姿勢がアニメファンを視野狭窄に陥らせてる一因なんだよね。
 4位は『電車男』で、これは夏映画というよりは春からのロングラン映画。オタクの初恋っていう「特殊性」(笑)を除けば中身は他愛無い恋愛モノなんだけれど、それが35億円まで行っちゃうんだから、日本人の潜在的な「癒されたい」願望はそんなに根深いものになっちゃったのかといささか情けなくはなるね。
 5位は『亡国のイージス』で25〜30億円見当とか。渋い男臭い役者ばかりで、ミーハー人気はあまり望めない映画なので、これは純粋に作品内容の力だろう。枝葉末節の揚げ足取りや、原作との単純比較に過ぎない的外れな批判はあるけれども、夏映画では一番普通のエンタテインメントだった。
 6位は『マダガスカル』、『星になった少年』が20〜25億円あたり。相変わらず動物モノは強いってことかな。でも私がランディに会えるのはこの分だとテレビになりそうである。
 しかしもう何十年も「大人が見る映画が少なくなった」と嘆かれて久しいけれども、確かにこのラインナップの中で「大人」が心惹かれそうな映画が『イージス』くらいしかないってのは、残念なことである。でまた若い連中の中には「『イージス』面白いよ」って勧めたって、「難しそうで分かんない」とか言いやがるやつがいるんだよな。「知識」がなくたって、「映画を見る力」が素養として備わってれば、映画は大人も子供も関係なく面白く見られるんだよ。Yahooの映画評とか見てると、「この映画は大人向け、これは子供向け」と選別してるやつほどガキだって状況があって、しかもそんな批評とも言えない感情の垂れ流しがもうすっかり蔓延してしまっている。
 なんかもうね、日本人の映画鑑賞眼を底上げするためには、小中高校で週一回、必ず「映画の時間」とか設けて、国内外の名作映画を見せてくくらいのことをしなきゃならんのじゃないかと思うけれども、そういうことを考えるだけの度量がそもそも文部科学省にカケラもないってのが、一番の問題だと思うんだけれどもね。

 
 「GTF グレータートウキョウフェスティバル」の映画部門として、8月12日〜18日まで開催されていた「トーキョーシネマショー」の最終日に、最も優れた日本語タイトルのつけられた作品を選ぶ「筑紫賞:ゴールデンタイトル・アワード」に、韓国映画の『箪笥』が選ばれたというニュース。
 審査委員長の筑紫哲也は、「『海を飛ぶ夢』か『北の零年』にしようと思っていたが、若い学生に意見を聞いたところ、『箪笥』の評価が高かった。原題(「二人の姉妹の物語」)と全く異なる邦題のほうが、この作品の怖さが伝わる点を評価した」と選出理由を語っていたって言うんだけれど、筑紫さんはこの邦題が半村良の怪談小説『箪笥』から取られてるってことに気づいてないのかね? 配給会社は「いや、このタイトルはオリジナルでそんな短編なんて知らない」としらばっくれるかも知れないけれど、映画中、件の「箪笥」は重要アイテムの一つではあるけれども、映画全体のタイトルとしてふさわしいかどうかはちょっと疑問がある。だいたい怪談短編の傑作と言われ、白石加代子の『百物語』の演題の一つとしても語られている『箪笥』を知らないというのは不勉強と言われたって仕方がないのだ。
 多分、配給会社の方は知っててこの邦題を付けたのだろうけれど、筑紫哲也は全く知らなかったのに違いない。つか、周囲に誰もそのことを指摘してやるスタッフがいなかったということか。筑紫さんにどれだけのブレーンが付いているのかよく知らないのだけれど、こんな初歩的なミスを犯しているようじゃ、たかが知れていると思うのである。
 けど、タイトルはともかく、『箪笥』はよく出来た映画である。どこがよく出来ているかはネタバレになっちゃうので詳しくは言えないが、「ホラー」を期待して見ると全然違う映画なので、そこはちょっとご注意とだけ言っておこう。


 天野ミチヒロ『放送禁止映像大全』(三才ブックス)。
 どこぞからの抗議やら自主規制などで、再放送、再上映やソフト化がされなくなっている映像作品をなんと全263作品も紹介した日本映像史の裏面史とでも言うべき本。その分量の多さには驚きもするし、資料の収集、調査にはかなり苦労をしたものと思われる。その努力には素直に敬意を表したいとは思うのだが、どうしても先行する安藤健二の『封印作品の謎』の後追い企画のようにしか見えないところが本作の弱点ではある。
 確かに、これだけの作品量を『封印』はカバーはしていないが、各関係者への取材、インタビューを通じて、作品への抗議、告発の根拠のなさ、自主規制のいい加減さなどの熾烈な追求においては、『封印』の方が充実している。『放送禁止』の方はどうにも表面的な「なぞり」だけに終わっている感が強いのだ。
 一つには、天野ミチヒロ氏の映像作品に対する素養が著しく低いことも関係しているだろう。つか、一般的な常識もあまり持ち合わせてはいない人のようで、記事のあちこちに間違い、勘違い、情報の偏りが見受けられる。取材不足というより、常識を知らないための誤謬がやたら多いのだ。
 知識がオタク方面に偏っているだけならご愛嬌ですむのだが、『アパッチ野球軍』を紹介する項目で「アパッチ」という語句を「ネイティブアメリカンの蔑称」と記載していたのにはのけぞった。言うまでもなく、「アパッチ」というのはそのアメリカ原住民の一部族の名前であって蔑称でも何でもない。自主規制や用語規制の歪さを告発する本が、かえって差別的な誤解を広めるようなウソを書いてどうするのかね。
 まあ、一応、封印作品の資料としては使えるけれども、どうしてその作品が処分を受けることになったのか、その事実関係の検証は不十分なものが大半である。斜め読みするだけであまり内容を信用し過ぎないほうが無難だと思われる。


 マンガ、津田雅美『彼氏彼女の事情』21巻(完結/白泉社)。
 長編マンガはやはり終わってみなければ具体的な評価はしにくいものだけれど、まあ実質的な物語は全巻までで終わっている。最終巻は後日談も含めてキャラクターの整理編、と言った印象。
 正直な意見を言わせてもらえれば、有馬の心の闇の謎とやらをやたら長い間もったいぶって引いていたので、いったいどんなに悲惨な運命に弄ばれてきたのかと、ちょっとハラハラしながら読んでいたのだが、結末は「えっ? この程度のことでアンタ、自分のことを不幸って言うの? それ、人生舐めてない?」と言われても仕方がないくらいありふれたものであった。ジャリん子チエが聞いたら「不幸ぶってるんやないで、あほ」と一刀両断されてしまうだろう。
 まあ、このマンガの珍しいところは、少女マンガにしては一切ヤンキーや不良が出てこないという点にあった。まあ、これまでのマンガがあまりにも不良を美化したものばかりだったので(ヒーローはバイク野郎でたいていはバンドをやってたりする)、そういうものに対するカウンターカルチャーとして機能していたとは思うが、だからと言って、登場人物が殆ど全て一流の才能の持ち主ばかりというのは設定に無理がありまくりである。多分作者はヤンキーマンガが嫌いでこんなムチャクチャな設定で押し通してきたのだろうけれど、作者自身の「優等生臭さ」(本当に優等生かどうかは知らない)がそのままマンガの「臭さ」にも直結してしまっていたのが、マンガがどんどんつまんなくなっていった原因であるように思う。
 こういうとファンは怒るかも知れないけれど、登場人物を「天才」に設定したいんだったら、ちゃんと天才としての行動、実績をマンガの中で描かなきゃいけないわけね。口で言ってるだけでやることなすこと「凡人」だったら、ハッタリかますだけにしかならないの。有馬も雪野もごくフツーの人間なのになぜか「天才」ってことになってるのは作者が自分で「天才」を描けるだろうと思った自信の現れなんだろうけれども、SFとかファンタジーならともかく、基本的にリアルな学園ドラマでそれやっちゃうと、結果的に作者の「非才」を露呈することにしかならないのだね。現実に「天才」なんてそうそういるわきゃないのである。
 これで完結だと言うのに、あとがき等でアニメ化のことについて作者が全く触れていないのも何かワケアリだね。よっぽど賛否両論の騒ぎが鬱陶しかったものか。これは続きのアニメ化はまずないな。

2004年08月23日(月) 第10回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ……『頭山』!
2003年08月23日(土) 恋から自由であるということ/映画『呪怨2』
2001年08月23日(木) What is Okyuto?/『新暗行御史』(尹仁完・梁恵一)ほか
2000年08月23日(水) 若いって、イタいことなのよん/『エノケンと呼ばれた男』(井崎博之)ほか


2005年08月22日(月) 「優勝」の意味はどこに帰属するのか/『アニメーション監督 原恵一』(浜野保樹編)

 何ヶ月前だったかねー、全世界の話題になってた「謎のピアノマン」。
 まるで現代のカスパー・ハウザーのような騒ぎになってたけれども、案外つまんないオチが付いたようである。
 イギリスのデイリー・ミラー紙によると、「ピアノマン」の正体はドイツ人の同性愛者で、パリで失業して、イギリスに来たのは自殺目的だったという。一言もしゃべらなかったのは医師らをかつぐための芝居だったとか。ピアノの絵を描いたのも「最初に思いついただけ」という、なんじゃそりゃ? な結末である。
 つかさー、今更かもしれないけれど、記憶喪失の身元不明者って、そんなに話題にしなきゃならないことだったのかねえ。病気の人の人権侵害になる危険だってあったわけだし。身元確認のために情報公開したというのは分かるのだけれども、それにしても大々的に過ぎたように思うんである。発見されて報道されるまで、たいして間がなかったよね? その前に身元不明者の照会とか、警察に連絡するとか、そっちの方が先にやるべきことだったんじゃないのかな?
 この事件が大仰になってしまったのは、やはり、本人の背景に「何かある」ことを期待した野次馬連中の「盛り上がり」の影響の方が大きかったんじゃないかなあ。でも、本当にピアノマンに公表しがたいような事情があったら、どうなっていたのだろう。カスパー・ハウザーの場合は、謎の死を遂げているのだよ。
 穿った見方をしたがる世の雀たちは、この「オチ」にも何か陰謀があるのではないかと騒ぎ立てるのではないかと思うが、火のないところに煙を立てるようなマネは、いい加減でやめてほしいものである。それをあえてするのがマスコミだと言われればそれまでなんだけれどもね。


 こないだ日記で、明徳義塾高校の甲子園大会出場辞退問題について「どうせほかの学校だって似たような不祥事があるんじゃないか」と書いたのだが、予想がドンピシャと当たったような出来事が。それもなんと優勝校である駒大苫小牧高校にである。
 22日夜に、苫小牧高校で開かれた同校校長の会見によると、野球部の部長(27歳)が三年生の部員に、「態度が不真面目である」という理由で、二度にわたって暴力をふるったという。加害者である部長は、現在、謹慎処分中。
 問題となるのは、被害者の保護者から学校に通報があったのが8月8日、甲子園大会の三日目だったのだが、その時点で苫小牧高校は高野連に事情の報告をしなかったということである。明徳義塾の事件が既に明るみになり、「学校の報告が遅延したこと」が問題視されている最中であるにもかかわらず、不祥事の発表を優勝決定後に伸ばしたということは、それだけ苫小牧高校の方がより「悪質」だったと考えざるを得ない。
 多分、今回も、「優勝は取り消しになるのか、次の大会に出場はできるのかどうか」、この点が論議の対象になるとは思うが、恐らく、世論の多くは「努力してきた部員には関係がないのだから、優勝を取り消さないでほしい」と同情論が幅を利かせることになると思う。しかし果たしてそれは「正しい」判断だろうか?
 まず、公表が遅れたということは、即ち学校が事件のもみ消しを図ったということである。即ち、この件がもしバレたなら、問題になるということを学校側はしっかりと自覚していたということなのだ。これだけでも苫小牧高校に同情してやらなきゃならない余地は全くない。
 「問題なのは部長の方で、部員は無関係だから処分すべきではない」という意見は、筋が通っているように見えるが、ただの感情論で、冷静に教育の本義を考慮したものだとは言えない。問題が教育者である部長の方にあるのならばなおのこと、学校は、「生徒を監督する義務を負うものの責任として」、事後報告などという薄汚い行為をするべきではなかったのである。
 高校野球における「優勝」とは、野球部員個々人の努力だけに与えられるものではない。それぞれの学校の「教育の成果」に与えられるものである。部活動が教育の一環であることを忘れてはならない。「不祥事にはほっかむり」なんて学校の姿勢を評価できるわけはないではないか。教育の本分を考えるならば(特に明徳義塾が出場辞退をしている状況を鑑みるならば)、「優勝取り消し」が最も妥当な裁断である。優勝旗を苫小牧高校に与えたままにしておくなら、実質、学校に責任を取らせることを完全免除したも同然である。
 もし「優勝取り消し」となれば、野球部員たちは悔し涙に暮れるだろうが、結局は部長の暴力を看過した部員たちにも責任のあることだ。これは泣いて頂くしか仕方のないことなのである。ちょっと考えてみれば、部長の暴力行為を他の部員たちが知らなかったはずがない。「優勝しちまえば、そんなに簡単に処分なんかできないだろう」と部員たちが高を括っていなかったとどうして言えるだろうか。
 そうは言っても、高野連は、結局は世論に流されて(昔から世間は他の部活動には冷淡だが、高校野球にだけは甘い)、既に部長が処分されたことでそれ以上の追求はしないような気がしてならない。本来これは、事実を隠蔽しようとした校長が自ら引責辞任をしてしかるべき事態なのである。しかしその権限は高野連にはない。高野連にやれることは一つしかないのだ。
 高野連が本気で高校野球界から暴力を追放しようと考えているのなら、この際、大鉈を振るうべきだと思うが、そんな度胸はあるまいね。だって高野連の連中自身が、これまで「そういうこと」を平然とやってきたやつらだろうから。既に「明徳義塾とは事情が違う」と、処分を流すための伏線も敷いているのである。
 しかしここでハッキリと断言しておくが、これで処分が軽いものですんでしまえば、もう高校野球界では「バレなきゃいい」が常識化するぞ(まあ、もうなってるから、苫小牧も緘口令を布いてたんだろうがね)。そこまで考えずに平然と高野連に情状酌量を嘆願する連中は、全くのお天気野郎なのである。


 浜野保樹編『アニメーション監督 原恵一』(晶文社)。
 十年前ならばいざ知らず、もはや「原恵一」の名前を知らないアニメファンは、アニメファンの名に値しないだろう。
 分かっている人にはもう充分分かりすぎていることであるが、宮崎駿、富野由悠季、押井守、大友克洋、庵野秀明、今敏、etc.世界にその名を知られたアニメーション監督たちに比しても、原監督の演出力は一頭地を抜いている。
 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』が公開されたとき、『キネマ旬報』の映画評論家諸氏は殆どこの傑作を無視したが、数年後、「アニメーション・オールタイムベストテン」を選出したときには、ベストテンの上位にランクインされていた。プロの評論家と称する半可通はいつだってこんなもので、自分の目で本当に面白いものを見抜く目を持たない。常に他人の批評を気にし、評判が高いと知ると誉めそやし、不評が多いと口汚くののしる。いつだって他人の尻馬に乗るばかりだ。そんな批評に関係なく、『オトナ帝国』(それ以前の『クレヨンしんちゃん』映画もそうだが)を評価し得たことは、「シロウト」である私の誇りである。
 後追いで「しんちゃん映画」に出会った人たちは、「『クレヨンしんちゃん』なのに」、という表現をよく使っていた。『クレヨンしんちゃん』をよく見もしないで馬鹿にする連中がやたらいたころだから、そういう無遠慮な言葉遣いにもあまり目くじらを立てないで看過するようにはしていたが、本当は『クレヨンしんちゃん』だからこそ、あれだけの傑作が作れたのである。「なのに」なんてふざけんじゃねえ、だ。

 本書の編者である浜野氏もそんな「後追い」の人なのだが、自らの不明を恥じてなのだろう、まるで汚名返上とばかりに原監督の旧作を片っ端から見返し、「原恵一」をどこまでフィーチャーできるかというコンセプトのこんな大部の本を作ってしまった。
 原恵一監督へのロング・インタビューに始まり、監督の担当した絵コンテ、樋口真嗣・荒井晴彦・田口ランディ・五十嵐太郎各氏のエッセイ、矢島晶子・湯浅政明・茂木仁史各スタッフ・キャストのインタビュー、曽利文彦・中島かずき・中島信也各氏へのインタビュー、海外からのレポートなど、様々な角度から「原恵一」の映画監督としての能力を照射するための記事をこれでもかってくらいにぶちこんでいる。
 浜野さん自身、原監督との直接対談や評論の中で、小津安二郎、木下恵介の系譜の末裔として原監督を捕らえ、『クレヨンしんちゃん』前期の監督である本郷みつる監督のSF嗜好・ファンタジー嗜好と対極にある「日常性」を追求する原監督の映画の特徴を高く評価している。
 けれどもまあ、昔からのしんちゃんファンにとってはそんなことはもう今更言わずもがなの自明のことなので、このあたりの熱い語りにも、浜野さんの後追いの焦りが感じられて、ちょっと微笑ましくなる。

 浜野さんが、執拗なほどに食い下がって聞き出した原監督の「好きな映画」。

 デヴィッド・リーン『アラビアのロレンス』『ドクトル・ジバゴ』『旅情』
 木下恵介『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾年月』『野菊の如き君なりき』『永遠の人』『楢山節考』『笛吹川』
 小津安二郎『秋刀魚の味』『東京物語』『麦秋』
 タルコフスキー『ノスタルジア』『ストーカー』
 ヘルツォーク『フィッツカラルド』
 塩田明彦『どこまでもいこう』
 井筒和幸『岸和田少年愚連隊』
 山本政志『ロビンソンの庭』
 チャウ・シンチー『少林サッカー』
 沖浦啓之『人狼』
 湯浅政明『マインド・ゲーム』
 宮崎駿『風の谷のナウシカ』
 杉井ギサブロー『銀河鉄道の夜』。

 何年か前、ある作家さんとメールをやり取りしていたときに、その方が「原監督は昔の映画はあまり見てないと思う」とか、どういう根拠でモノを言っているのかよく分からないが、かなり乱暴な書き方で決め付けていたことを思い出した。このリストを見るだけでも、それがただの思い込みに過ぎないことがお分かりいただけると思う。
 当然、どんなに実力のある映画監督でも、無から有を生み出すことはできない。影響を与えた先行作というのは常にあるのだ。このリストを見て、その「趣味のよさ」が原作品を「映画」にしているのだという事実を感じ取っていただければ幸いである。

 原監督の次回作はもう『しんちゃん』ではない。矢島晶子さんなどは原監督に再び戻ってきてほしいと対談で懇願していたが(そりゃ、今年の『三分ポッキリ』なんてヘボ映画に出演させられてちゃ、嬉しくはないだろう)、未だに「しんちゃんなのに」と言いたがるエセ評論家が跋扈している状況に足元を掬われない、自由な環境で作られた原監督の新作を見てみたいものじゃないか。
 ああ、それから、本書中でも批判されてたけど、『オトナ帝国』や『戦国大合戦』がオトナに受けたからと言って、やっかむように「子供は退屈していた」とか反作用的にワルクチいうのは止めようね。これも「馬鹿批評」の典型で、大人が映画を見て賛否両論に分かれるように、子供だって、感想は二つに分かれるのである。全ての子供を満足させる映画なんてありゃしないし、私が劇場で見る限り、『オトナ』も『戦国』も、子供にだってちゃんと受けてたよ。たまたま自分の近くにいた子供がアクビをしていたからって、それで全てが図れるわきゃないのであるよ。

2004年08月22日(日) どんなふうにイジったかはヒ・ミ・ツ♪
2003年08月22日(金) 病院尽くし/『炎の転校生』1巻(島本和彦)
2001年08月22日(水) オタクの花道/同人誌『オトナ帝国の興亡』ほか
2000年08月22日(火) とんこつラーメンは臭い/『ここだけのふたり!!』8巻(森下裕美)


2005年08月21日(日) 終わらない歌を歌おう/映画『リンダ リンダ リンダ』

 『仮面ライダー響鬼』二十八之巻 「絶えぬ悪意」。
 こないだからチラッと出ていた和服姿の謎の男(村田充)と女(芦名星)、まあ童子と姫と同じ人が演じてるんだけれども、どうやらこちらが「ホンモノ」らしい。男も女も自分の声で喋ってたし。黒服に白服の「クグツ」(「傀儡」という意味かな)も同じ人だったから、つまりはこの二人が作り上げたクグツが更に魔化魍を作り出すというシステムになってねみたいね。このヒトたちは、先祖代々そういうことをやっとるんかねえ。それともこいつらはヒトではないのか、正体は武内宿禰か?(もちろん諸星大二郎のね)
 今回、試験管の中に蜘蛛と液体を入れて「土蜘蛛」を作り出していたけれども、えーっと、この方式だと、ヤマアラシとかテングとかどうやって作ってるんだろうね? ドロタボウとか、元は何なんだよ。もちろんこういうツッコミは怒っているわけではないので誤解なきよう。
 今週も勢地郎は出なかった。下條さん、ただの夏休みだよね?


 夜、キャナルシティで映画『リンダ リンダ リンダ』。
 ファンタジーやSFの好きな人の中には、リアルな物語、日常の物語を必要以上に毛嫌いしてしまう人がいる。曰く、「映画や小説の中でまで、現実を見ていたくない」。
 その気持ちは痛いほどに伝わってくるのだが、完全に現実性を拒否した物語が面白いかというと、そうでもないからことは簡単ではない。徹頭徹尾「作りもの」だと、今度は荒唐無稽すぎて感情移入がしがたくなるものだからだ。リアル:ファンタジーの割合は、5:5から7:3くらいまでがちょうどよいように思う。

 まあ、なんで、こんな話を前フリに置いたかというと、「文化祭前日に、突如バンドを組むことになった女子高生四人が、ブルーハーツをコピーして猛練習を始める」というストーリーが、粗筋だけはよく似た『スウィング・ガールズ』と違って、「適度に作りものめいたところの少ない」物語になっていたことに驚いたからだ。
 説明するのが難しいのだが、「リアル」だということは、できるだけ虚構を排することである。しかし、虚構を排すれば、確かに現実的にはなるものの、物語としての面白さを減殺してしまうことだってある。実際、この映画は「ドラマチックな要素」を極力削除しているために、全体的なストーリーや個々の描写は、かなり「つまらない」のだ。では、この映画を私が「駄作」だと考えているかというと、決してそうではないので、話が難しくなるのである。日常的な退屈な描写が続くのに、少しも退屈ではないのだ。
 似たようなことをしげも感じていたようで、見終わったあと、「つまんないけど面白い」と、なんじゃそりゃ?な説明をしていた。しげは以前見た鴻上尚史の舞台『リンダリンダ』に不満を持っていて、それとの比較も念頭にあったようである。

 主人公の四人がバンドを組むようになったのは、全くの偶然である。
 もともとは恵(香椎由宇)、凛子(三村恭代)、萠(湯川潮音)、望(関根史織)、響子(前田亜季)の五人がバンドを組んでオリジナルの曲で出場を予定していたのだが、ギターの萠が左手に怪我をして参加できなくなった。凛子がそこで代役を立てようとしたのだが、そこでその冷徹さに反発した恵との間で諍いが起こり、バンド自体が空中分解する。恵は、望と響子にそれでも出場すると言い張り、「ブルーハーツのコピーならあと三日でも何とかなる!」と、もう一人のメンバー・ボーカルを探し、練習を始めるのだ。
 物語が転がり始める前のここまででも、この映画は数々の「リアル」を積み上げて構成されている。女の子同士が、この程度のつまんない理由で諍いを起こしてしまうこともそうなのだが、周囲の人間たちが(教師も含めて)彼女たちの関係修復に手をこまねいている、いや、手を出したがらないでいるその人と人との「距離感」がまずリアルだ。
 彼らはみな、仲がいいような、けれどもそれほど親密でもないような、微妙な関係にある。実際に、高校時代の友達関係なんて、この程度の「擬似友人」みたいなものが殆どではなかろうか。実のところ、本映画中で語られるとおり、喧嘩をしている恵と凛子の方が、「魂」は近かったりするのだ。似たような性格の者同士が反発してしまうのも現実によくある話である。
 これらの設定は、物語の後半になるにつれ、じわじわと「効いて」くることになる。それは、彼女たちが演奏曲に「ブルーハーツを選ぶ」という「リアルさ」において、この映画の成否が決定してしまったと言ってよいほどの効果を生むことになるのだ。

 ブルーハーツをやる、と言い張る恵に、凛子が「やって意味あるのかな?」と疑問を呈する。これは「ブルーハーツが嫌い」というよりも、「コピーバンドに意味があるのか?」という問いかけだろう。
 ところがこれに恵は「別に意味なんかないよ」と返事する。意地っ張りでそう言っただけだろうが、「意味がなくてもバンドする」というこの姿勢もまた実にリアルだ。言っちゃなんだが、高校生なんてみんな馬鹿である。しかしこれは単純なワルクチではない。馬鹿が取り得のようなもので、馬鹿だから何も考えずにやりたいことをやれるし、意味なんてなくても気にならない。無茶も無謀もし放題である。そこにあるのは「熱さ」と「勢い」だけだが、それで全然構わないのだ。
 しかも選曲があの「ブルーハーツ」だ。
 ブルーハーツは、本人たちが歌ってるのを見ると、これはもうただの不良ソングで、これにハマるやつらもたいていはただのヤンキーだ。
 ところが、そんなブルーハーツを誰かがカバーすると、これが不思議なことに俄然「いい曲」になってしまうのである。オリジナルは耳障りな雑音のようにすら思えるのに、他の歌手が歌うと、あるときは勇気凛々、あるときは哀切、またあるときは狂おしいほどの人間賛美、様々な「顔」を見せることになる。
 かく言う私も、カラオケでしげが『TRAIN TRAIN』を歌ってるのを聞いて、「あれ? これってこんなにいい曲だったっけ?」と驚いたことがあるのだ。

 「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
  終わらない歌を歌おう 全てのクズどものために」

 ブルーハーツが歌うっているのを聞いていても、このフレーズはナルシスティックにしか聞こえない。世界を勝手に「クソッタレ」なんて決め付けるな、「クズ」って俺たちのことを言いたいのか、ふざけるな、クズなのはお前らだけだ、傲慢なこと言ってやがるんじゃねえ、と、反感すら抱いてしまうのだが、ひとたびブルーハーツの手を離れると、そんな歌い手の自己陶酔的なムードがきれいサッパリと消えてしまうのである。「クズども」は我々を貶める言葉ではなくなり、全世界に広がって「みんなクズでいいじゃないか、みんなのために歌おう」と、我々の歌のように聞こえてしまうのである。
 これはいったい何なんだ、私の錯覚か、と思っていたのだが、パンフレットで、この映画のプロデューサーがこんな発言をしているのを読んで、ああ、これは私だけの感覚ではなかったのだと合点が入った。「魅力的なカバーは、下手なオリジナルよりインパクトがある」「文化祭ライブで『リンダリンダ』をやると異常に盛り上がるとはリアルな実話であったし、ブルーハーツならば、急遽2、3日でコピーできたとしても全然変じゃない」
 要するにブルーハーツはヘタなのである。たいした音楽ではないし、たいした曲でもない。しかし、「熱さ」と「勢い」だけはあって、才能も目的も意志も持ち合わせてはいないけれども、何か心の中にわだかまりだけはある我々クズにとっては、これはまさにドンピシャのソウル・ソングになりうるのだ。
 劇中では誰の曲を歌うかで恵と響子が頭を悩ませるシーンがあるのだが、そのときに名前を挙げられた歌手たちが、ジュディマリ、椎名林檎、デリコ、パフィー、ユニコーンなどである。ブルーハーツが選ばれたのも実にリアルな選択であったということがご理解いただけるだろうか。
 鴻上尚史の『リンダリンダ』の失敗は、初めは「勢い」だけだった物語が、次第に世の中の不正とか矛盾とか不条理に対する「怒り」にスライドされていくその「思想性」にあったと言える。そんな「思想」はブルーハーツには最も縁遠いものだ。そこが鴻上尚史にはまるで理解できていない。

 「ブルーハーツをやろう」、ここまでは実にリアルな展開である。
 そして、これからがこの映画の中で唯一「虚構」と言える設定が持ち込まれることになる。
 残るメンバーの一人、ボーカルに「韓国人留学生」のソン・ミヘ(ペ・ドゥナ)が無理やり加入させられるのだ。
 その過程は、この映画で最もユーモラスなシーンの一つで、恵たちは、日本語のよく分からない彼女に「ハイ、ハイ」と言わせて(言う方も調子よすぎだが)、殆ど強引に仲間に引き入れているのである。恵は意地になっているから、ソンがブルーハーツを歌えるかどうかなんてとこまで考えていない。いや、そもそも拒絶される可能性すらまともに考えてはいない。
 けれど、『リンダリンダ』のカセットテープを聞いたソンの頬を涙が伝ったところから、促成バンド「パーランマウム(韓国語で「青い心」)」は、本格的に動き始めるのである。文化祭最終日まで、わずか三日……。
 
 しかし、「作りものめいた展開」はせいぜいこのあたりまでで、あとの展開はやはり非ドラマチックなものになる。
 響子が練習に遅れて恵がむかつくとか、徹夜で練習し過ぎて居眠りこいて文化祭に遅刻してしまうとか、そういう「ありうるような」トラブルはいくつかあるが、それで友達同士の仲が壊れるとかいうこともないし、仲間外れになった凛子が復讐をたくらむとかそんな少女マンガ的大映ドラマ的展開もない。
 ライバルバンドも出てこないし、ソンがやっぱり歌えないと泣きじゃくるとか、「韓国人が日本語の歌を歌うな!」とほかの韓国人が乱入してくるような『チルソクの夏』的展開もない。
 ただ、みんなで練習して、初めは全然形にならなかったのがいい感じになってきて、最後に『リンダリンダ』と『終わらない歌』を熱唱して終わる。殆ど癖がないと言ってもいい。それだけの映画なのに、やっぱり最後は盛り上がるのだ。それはいったいなぜなのだろう。
 
 ちりばめられた小さなギャグの可愛らしさ、それが物語をダレさせることを防いでいるということもある。
 他人の恋愛にはすぐ首を突っ込みたがるソンが、いきなりコクられてキョトンとし、全く意に介しないシーンなど、画面から漂ってくる「間抜け感」は、そういうギャグの分かる人にはもう欣喜雀躍したいところだろう。ソンを演じたペ・ドゥナ、実はもう高校生なんておトシではないのだが、こういう高校生のぽやーっとした雰囲気を天然じゃないのかという感じで見事に演じている。ギャグ担当はもっぱら彼女の独擅場だ。
 もちろん、ラストの彼女の熱唱、伸びやかで癖のない声、その素晴らしさ。これ自体がドラマであることは言を待たないだろう。
 しかし、やはり歌われる曲が「ブルーハーツであること」これが最大の魅力であると見るしかないのではないか。ブルーハーツ自体が「熱い」のだから、それまでのドラマがいかにも虚構で、非リアルな世界であっては、物語と歌が相克の関係になってしまう。「リアル」は、ブルーハーツを「ハレ」の舞台とするための必要条件であったのだ。
 
 映画は文化祭最後のステージの熱狂で終わる。
 それを見ている我々にも感動が押し寄せてくるのは、そこに、我々がかつて経験してきた「文化祭前&文化祭期間中」のあの何とも言えない濃密な空間が再現されているからだ(現在高校生である人たちにとっては、まさに映画と現実とがシンクロして感じられるだろう)。
 そしてその「濃密さ」にはブルーハーツの無意味なくらいの「熱さ」が、似合い過ぎるほどに似合っているのである。
 私はカラオケで一度もブルーハーツを歌ったことがないのだが、この映画を見て初めて『リンダリンダ』を、『終わらない歌』を歌いたくなった。それは、「無意味な熱さ」への共感なのである。

2004年08月21日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」4……打ち止め。
2003年08月21日(木) ぼーくーは、ないちっち(^o^)/『BLACK JACK ザ・コンプリート・ダイジェスト』(中野晴行編)
2001年08月21日(火) 台風の日は病院で寝転んで/『偶然が残すもの 記憶鮮明�供戞米�渡早紀)ほか
2000年08月21日(月) 一日経つと記憶が消える。……年か?/ドラマ『柳橋慕情』ほか


2005年08月20日(土) メイドさんがいっぱい/DVD『金庫室の富豪刑事』

 昨日の「水野晴郎ショック」で(笑)、あっちこっちのサイトを覗いて、映画の感想などを拾い読みしてみる。
 もちろん、マトモな映画好きからは酷評を食らっているのだが、こういうときほど「批評の有効性」というものについて考え込んでしまうことはない。本気で怒っている人も多々あるのだけれど、アノ映画に怒ってどうなるんだという気がしてしまうのね。
 面白かったのは、故・深作欣二が「三田佳子はどうしてオレの映画を蹴って水野晴郎の映画に出るんだ」と怒って『シベ超3』を見に行ったあと、「天然には勝てないな」と述懐したというエピソード。深作監督だってかなり天然が入ってる人ではあるが、その人にすらこう言わせてしまうというのが、マイク・ミズノ・フィルムのものすごさである。評価の埒外にある映画を評価することくらい徒労なことはないよ。
 映画にはそれぞれの「見方」があるんで、ピーマンにステーキの味を求めるのは見当違いも甚だしいということをこの日記でもしょっちゅう書いているのだけれども、視野狭窄な人間にはそのへんのことが全然分かんないんだねえ。誰ぞが書いていたが、これはもう「映画」として楽しむのは間違いで、『シベ超』という一つのジャンルとして楽しむのが正解だろうと思われるのである。
 ま、そういう見方をすれば『スター・ウォーズ』だって『スター・ウォーズ』という映画とは別物だと考えれば何も腹は立たないのだが。


 明治時代に製作されたと思われる(恐らくは現存する日本最古の)アニメーションと思われるフィルムが、京都市の旧家で見つかったとのニュース。これまで日本最古とされるアニメーションは、1917(大正6)年の下川凹天作『芋川椋三 玄関番の巻』とされていたので、それを更に10年程さかのぼる可能性があるという。
 もっとも発見されたのはわずか50コマで、ループ状にのりで繋いであったということだから、上映したとしてもせいぜ3秒。単独の映像作品というよりは、「驚き盤(フェナキスチスコープ)」のような、繰り返しの動きを楽しんだもののようである。
 記事を読むと、これが「日本最古」とされる理由は「製作方法や一緒に見つかった映写機の製造年代から」というから、根拠としてはかなり薄弱であるように思う。それに、『芋川椋三 玄関番の巻』は曲がりなりにもフィルム一巻をかけた「映画」であるが、それとこのタイトル無しのフィルムとを同列に扱うのには疑問が残る。
 もしかしたらこの程度の「オアソビ」としてのアニメーションフィルムなら、同時期には他にも結構あったのではないかという気がするのである。同様のものが今後発見されないとも限らない、いや、「そんなんならうちにもあるぞ」と言い出すやつが出てくることだってありうると思うのである。
 別にこの発見にケチを付けたいわけではないが、日ごろマスコミの「針小棒大」な報道姿勢には腹が立つことが多いので、正式発表がまだの段階でこういう大々的な報道をするのはどうか、という疑問を呈しておきたいのである。


 昨日か一昨日だったか、深夜番組を漫然と見ていたら、何かのコーナーで、「九州初上陸! メイドカフェ!」とかいうのを放送していた。
 天神のビルの一室で営業しているらしいのだが、場所は「まんだらけ」や「とらのあな」からも近いらしい。なんかどんどんあのへんがオタクスポットと化しつつあるな。
 ドアを開けて一歩入ると、メイドさんが「いらっしゃいませ、ご主人様」と出迎えてくれる。ここで即座に「主人モード」にココロを切り替えられることが、この店が楽しむためのコツなのであろう。
 メイドさんは口調がメイドさんなだけで、あとは普通の喫茶店のウェイトレスさんと特に変わったところはない。その点、いかがわしい期待はしちゃいけないよ。別にずっとそばにいてくれるわけじゃなさそうだから。
 食事はオムライスがお勧めらしいが、値段も700円前後で普通と言ったところだろう。ケチャップでオムライスの上に好きな文字を書いてもらえるそうで、そこでどんな字を書いてもらうかでオタクのセンスが問われるところだと思われる。間違っても「君の○○○○○○○○○○」とか書かせちゃダメなんである。
 開店してまだ十日ほどで、働いているメイドさんはまだそんなに多くないようだ。ルックスはどうかという点についてはまあかわいいんじゃないですか、と言っておこう。別に適当にごまかしているわけではなくて、思い入れのない女性の美醜というものは、私にはよく分からないのである。うちの劇団の女の子ならみんな可愛いと自信を持って言えるのだが(ヨイショ)。
 まあ、お客さんは(来てたのはだいたい二十代くらいの男どもだけである)メイドコスの女の子がかしずいてくれるシチュエーションが嬉しいんだろうから(レポーターの若い男は「萌え萌えー!」を連発していた)、スタイルとかご面相はそこそこでも充分なんじゃなかろうか。スカートは結構短い。本物のメイドはそんなにスカート短くないと思うんだが、やっぱそれがオタク仕様ってやつですかね。
 まあ、私はメイドさんにもコスプレにもたいして興味はないのだか、こういう店の存在は面白いと思う。需要がなければ供給もないわけで、オタクも二次元世界に閉じこもってばかりいるわけではなくて、こういう「コスプレ」とか「ご主人様とメイドの擬似関係」いう「クッション」があれば、ナマの女の子にアプローチもできるのだ、という見方もできなくはない。寂しいけどな。
 実際、どんなところか確かめてみたい気はするのだが、さすがにこの歳だともう無理がある。かと言って、劇団の男どもに突撃レポートを頼んで見てもなあ、誰に頼んでもそれぞれの立場でいろいろとイタい思いをして帰ってきそうでなあ。
 まあ、どこの何という店か知りたい人は、ネット検索で何とか探し出してみてくださいな。私も教えるにやぶさかではありませんが、そっちの方が手間がかからんで簡単に見つけ出せると思います。
 

 DVD-BOX『富豪刑事』。
 未放送シーンも含めた完全版、及び新作ミニドラマ『金庫室の富豪刑事』まで特典映像としてついているなかなかサービスのよいボックスである。ミニドラマと言っても各巻5分強、全5巻合わせれば30分にはなる堂々たるものである。長さだけは(笑)。
 放送終了後にキャストを集めたために、スケジュールが合わなかったのだろう、レギュラー出演者は深田恭子(神戸美和子)、山下真司(鎌倉熊成)、鈴木一真(猿渡哲也)、載寧龍二(西島誠一)の四人のみ。鈴木一真とか、どうやら現在はヘアースタイルが放送当時のカーリーヘアではなくなっているらしく、それを誤魔化すためかアフロのカツラを付けていた。違和感ありまくりである。
 お話の方は本放送に負けず劣らずの珍トリックで、「こんなもん、密室トリックなんて言えるかあ!」と卓袱台をひっくり返したくなるような、もはやギャグとして見るしか仕方がない、あまりにデタラメなものである。
 デタラメ過ぎて、つい説明してしまいたくなるが、それでも一応、ネタバレは避けてあげよう。殆ど小学生向けの「推理クイズ」の粋を出てはおらず(つか頓知クイズとか意地悪クイズに近いな)、そんな密室、警察が調べて気が付かない方がどうかしてるんである。
 ちなみに、被害者が残したダイイング・メッセージは、こんなのだ。
「足
 毛 園射」
 (足・毛で一文字、園・射で一文字。答えは一文字じゃありません)
 さあ、みんなも解いてみよう! (笑)  
 多分、このド手抜き脚本、書くのに一日もかかってないんじゃないかな。エンドクレジットには脚本家の名前が出てこなかったのだが、客から非難されるのを恐れたせいのように思えてならない。私はもう今更怒らんが(笑)。
 そのあたりの事情を勝手に憶測すると、脚本家がプロデューサーから「明日までに脚本書いてよ。キャスト集められるの明日一日しかないから」とか“撮影前日”に言われて、ふざけんなよとは思いつつも開き直って徹夜して、朦朧としたアタマでなんとか完成させたのはいいけれど、あまりにムチャクチャな出来になっちゃって、提出したあとで「しまった」と思ったけれども全ては後の祭り、せめて名前だけは消してくれと懇願した……とか、そんな事情じゃないのか。
 もしホントにそうなら同情し申し上げる。名無しの脚本家さんには、ミステリ映画史上「最もしょーもないで賞」を差し上げたいと思う。
 それにしても気が付いたら『下妻物語』のDVDも買ってしまっているし、これではまるでフカキョンのファンみたいである。いや、一応、『リング2』も『死者の学園祭』も『Friends フレンズ』もDVDまでは買ってないけど一応見てるし、役によっては使える人だよなあと思ってはいるのだが。年を取らないうちに『下妻物語2』を作ってほしいなあと思ってはいるのだけれど。


 DVD『ゴジラ FINAL WARS スペシャル・エディション』。
 何とかゴジラシリーズを全作見返せた。
何かと貶しちゃいるが、結構面白いシーンもあると思ってはいるのである。でもやっぱり北村龍平監督の自画自賛のコメンタリーを聞いてると、いちいち腹が立って仕方がない。やたら「このシーンはハリウッドでは受けた」を連発するんだけれども、当然、「日本では受けなかった」ことの言い訳である。案内役のアナウンサーが「でも日本人は感情を表に出しませんから、内心では面白がっていたと思いますよ」とフォローしてるんだけど、フォローしきれてないよな、これじゃ。
 北村監督の「昔のゴジラシリーズの特撮のいいところと、CGなどの新しい技術を合わせようと思った」という言葉は立派なんだけれども、それが「ただのパクリ」にしか見えないことに気が付いてないんじゃ、やっぱりこいつはダメだってことにしかならないのである。言うに事欠いて、「次は『ゴジラ FINAL WARS2』だ」とか抜かしてやがるぞ、こいつは。どうしてくれようって感じだよな。
 でも、海外サイト「IMDb」とか見てみると、この『FINAL WARS』のユーザー評価が全シリーズ中、ダントツで高いのな。アチラの連中が『ゴジラ』シリーズをどう見てたかってことがよく分かるね。
 映像特典の「スピリッツ・オブ・ゴジラ」のインタビューは必見。中島春男氏を初め、歴代ゴジラ役者を中心に、特技監督ほかのインタビューを織り交ぜて全シリーズを振り返っている。50年前の当時を知る人たちって、本当に中島さんを含めて数えるほどになっちゃってるんだよなあ。


 夜、CS放送で『.hack//SIGN』全28話連続放送。
 人気はそれなりにあったみたいだけれど、本放送の時には今ひとつ引っ掛かりがなくて見逃してたものである。ファンタジーかと勘違いしてたけど、バーチャル世界の御話だったのね。
 全体的になんだか『AVARON』のアニメ版、悩める少年少女向けバージョンって感じでどうにも辛気臭い。伊藤和典さんの脚本にしては、ありきたりで「流したセリフ」が目立っていて、アクチュアルな感じがしない。せっかくの貞本義行のキャラクターデザインも、アニメートされた途端にパターン化されしかもその種類も少ない表情ばかりになっていて、その魅力を失ってしまっている。
 つか、登場人物全員に「さっさと現実に帰れ」と言いたくなるアニメだ。最後まで付きあって、徹夜で全部見ちゃったけど、頭痛が痛い。だって、録画してもあとで見返すかどうか分かんないし(馬鹿である)。

2004年08月20日(金) そんなに世間は病人に優しくない。
2003年08月20日(水) びっるーのまっちーにがおー!/『金色のガッシュ!!』12巻(雷句誠)
2001年08月20日(月) クルーゾー再び/『パンプルムース氏のおすすめ料理』(マイケル・ボンド)ほか
2000年08月20日(日) 眠い日/『大江戸化物図譜』(アダム・カバット)ほか


2005年08月19日(金) 映画が「見られる」ことの意味/水野晴郎トーク・ショー&映画『シベリア超特急5』

 三島由紀夫がかつて製作・脚本・監督・主演を務めた短編映画『憂國』(1966/実際上の監督は劇作家の堂本正樹だったそうだ)のネガフィルムが、東京・大田区の三島邸で発見され、DVD化されることが決まったというニュース。
 ちょっと映画やミシマに詳しい人ならこの映画の存在は有名で、その内容に嫌悪感を示した三島瑤子夫人によって、国内にあるフィルムは全て焼却処分され、幻のフィルムとなっていた。私もリアルタイムで見たことはなくて(3歳では無理である)、スチール写真でしか知らない。写真を見る限り、花びらの中で青年将校(三島)とその妻が抱き合い、死んでいる姿は、絢爛なイメージではあるがゲージツゲージツしていて鼻白む印象がないでもない。
 ともかくモノホンを見ないことには感想の述べようもないので、いっぺん見てみたいとは思っていたのだが、ともかく瑤子夫人の反対がある以上はかなわぬことであった。不謹慎な言い方で申し訳ないが、今回の「発掘」は、瑤子夫人が亡くなられたために実現している。
 夫人の反対は理解できないでもない。三島由紀夫は生前から様々な形で「批評の対象」として毀誉褒貶甚だしいものがあったが、瑤子夫人にとってはそんなことはどうでもよく、三島の割腹自殺以降は「夫」としての「平岡公威」を独占しておきたかったのだろう。ポール・シュレイダー監督の『MISHIMA』も未だに日本公開の目途が立たないが、これも瑤子夫人が本編中の三島のホモ描写に激怒したためだと伝えられている(私はあるルートでビデオを入手したが、それなりによくできた映画ではあった。身内以外の人には面白いだろう)。
 けれども、作家とか、役者とか、有名人は、ある程度はプライバシーを犠牲にしなければならないところがある。と言うよりも、もともと私生活も研究批評の対象となることを免れない存在なのだ。ましてや『憂國』にしろ『MISHIMA』にしろ、公共に提供されるべく作られたものなのだから、瑤子夫人が長年取ってきた措置は、横暴と非難されても仕方がない。
 『憂國』が公開されるとなれば、どうしても注目は三島の「割腹」シーンに集中することになるだろう。既にニュースの見出しは「自決を予告?」(読売新聞)だったりする。瑤子夫人の危惧が当たったようなもので、結局、世間の興味はそういう扇情的かつ表面的な部分にしか向かない。あるいは晩年の三島の「思想」がらみで、批判的に見られる可能性もある。それは、『憂國』に興味を持つ客の方にも影響を及ぼしかねないことで、つまり、こういう映画を見たがってるやつはみんな「ウヨク」じゃねえかとか、短絡思考で誤解されるかもしれないのだ。
 そりゃ、ウヨさんも見たがるかもしれないけれど、私ゃ単純にミシマという作家の軌跡に興味があるんだからね。大学時代、故・小田切秀雄先生の講義を受けて「三島は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』だけを読んでおけばよい。彼の書く小説は『小説以前』だ」という話を聞いて以来、三島の『黒蜥蜴』(乱歩原作!)がものごっつ好きだった私は、反発するようにその三作以外の三島作品を愛してきたのだ(念のため言っとくが、三島本人は嫌いだ)。ともかく、三島は付与する情報が多すぎて、作品が作品として純粋に見られることがあまりに少ないと思う。
 しかしそれを三島作品の「不運」と言い切ることはできないと思う。どんな作品であろうと、それが日の目を見ないことには批評の俎上にすら乗せられることはないのだ。たとえ偏見だらけで見当外れの批判をされようと、「作品」は「見られてナンボ」である。凡百のエセ批評など気にすることなく、『憂國』DVDの発売を待ちたいと思う。


 仕事を引けて、しげと博多駅の紀伊国屋書店で待ち合わせ。
 天神に移動して食事をしたあと、「ソラリアプラザ」で映画「監督」水野晴郎氏のトーク・ショーおよび『シベリア超特急5』を見る。
 もはや説明の必要もないほどに「有名」になってしまった『シベ超』シリーズであるが、なんだかんだで私は全作、付き合ってしまっている。そんなに面白いのかどうかと言われると困ってしまうのだが、ともかくこれは「愛」に満ちた映画だ。それは間違いない。
 映画を見れば一発で分かるのだ。スタッフもキャストも、水野晴郎氏を愛している。
 毎回、話は殆ど同じだ。水野晴郎氏扮する山下奉文大将がヨーロッパ視察のためにシベリア超特急に乗る。そこで謎の殺人事件が起こる。それは山下大将の名推理によって解決するが、そこには戦争の悲劇が横たわっている。山下大将はひとしきり「戦争はいかん」と言って終わる。そのあとに、「意味のないどんでん返し」が待っている。当然、今回もそんな話だ。
 殆ど同じ話を繰り返していながら、誰も水野氏を止めないのは、これはもう「愛」以外の何物でもないだろう。一作目を見たときには破綻したストーリー、トリックとも言えないトリック、意味不明の展開、無駄なアクション、殆ど直感でしかない名推理、不必要な懐かしの名画へのオマージュ、何より水野氏の素の演技に眩暈すら起こし、唖然として怒りもしたのだが、もう六作も作っちまった現在(舞台版の『7』が既に作られている)、映画としてどうこうなんてことを突っ込むのはかえって野暮というものである。
 一作目でもうおなかいっぱい、というお方は2作目以降を見る必要はないかもしれない。しかし、一度ハマッてしまえば、たとえ同じことの繰り返しだと分かっていようとも、中毒のように二作目、三作目と見たくて仕方がなくなる。スタッフ・キャストの「愛」に観客も包まれてしまうのだ。だから、取ってつけたような「戦争はたくさんの人を不幸にする」という反戦メッセージも、ここまで続けて念を押されれば、もうその通りだと頷くしかなくなってしまうのである。
 本編もものすごいものであったが、トークショーもすごかった。と言うか、「トークショーで予め内容を聞いておかないと、本編がますます分けが分からない」のである。例えば、「冒頭の長回しのシーンで、大陸浪人たちの向かいで顔を見せずに手袋をつけている人物がいますが、これが真犯人です」なんて説明したりする。しかし、そのことを聞いていないと、本編中では実はそいつが犯人であったという説明は一切ないので、「あの人物はなんだったんだ?」という疑問が観客の心の中にわだかまったまま映画を見終えることになる。多分、これは編集で「説明カット」を入れるのを忘れてしまったのだ。
 「見所は万里の長城での『階段落ち』です。ロシアのエイゼンシュタインが『戦艦ポチョムキン』でやって、『アンタッチャブル』でマネされましたけど、プライアン・デ・パルマ何するものぞですね」と意気軒昂に語られるので、実際に本編を見てみると、これがまたとんでもなかった。「シベリア超特急から吹っ飛ばされた主人公が、万里の長城の上に偶然あった荷車の上に落ち、そのまま延々とジェットコースターのように階段落ちしていって、勢いがついて更に跳ね飛ばされ、超特急の終点である満洲里まで辿りつく」のである。「エイゼンシュタインのマネがしたかっただけだ」ということを事前に聞いておかないと、画面を見ていて何が起こったのか理解不能に陥る人も多数であろう。
 この映画のすごいところを列挙して行けば本当にキリがないので、このへんにしておくが、往年の映画をあまりご覧になってない方や、ミステリーにあまり慣れてない方は、そういうシュミの方と一緒にご覧になって、どこがどうおかしいか、説明してもらうのがよいかと思う。

 上映後のサイン会で、「鏡のシーンは『市民ケーン』ですか?」と水野さんに伺ったところ、「そうです、さすがよくお分かりになりましたね」と仰ってニッコリされたあと、聞いてもいないのに「あのシーンはラナ・ターナーの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で、あのシーンはローレン・バコールの『脱出』で、あのシーンはマレーネ・ディートリッヒの『嘆きの天使』で」と、どんどん解説してくださった。
 正直な話、水野さんの映画評論は大したことがないと長年思ってはいたのだが、こんなに映画を愛している人には滅多に出会えるものではない。これはウソでも何でもなく、本当に何十作でも『シベリア超特急』を作って頂きたいと、心の底から思ったのである。
 「ぜひ、十作まで作ってください」とつい言ってしまったが、水野さんはちょっと寂しそうに笑って、「ありがとうございます。長生きしないとね」と仰った。水野さんは『5』の撮影中に転倒して、背骨や左腕など、四箇所も骨折されて、今も歩行がやや不自由なのである。現在製作中の『6』を完結編とするご意向のようで、多分、体調の面でもそれ以上作り続けるのは難しいのだろう。
 会場では、その水野さんの右手の骨折レントゲン写真をプリントしたTシャツも売っていた。「転んでもタダでは起きない」と仰っていたが、文字通りである。当然、即買いである。パンフにメンコ、DVDにポスターも買って、サインをしてもらいまくり、ツーショットで写真も撮ってもらった。しかも「こんなに買ってくれてありがとう」と、メンコをもう一組、余計に頂いた。
 むちゃくちゃ嬉しかったのだが、こういうときに喜びをうまく表せない自分のポーカーフェイスが恨めしい。

 あんまり嬉しかったので、この日記の愛読者の方にも幸せのおすそ分けさせていただきたいと思います。パンフレットは二部買って、どちらにもサインをしていただいたので、一部、15万ヒットのキリ番の方にプレゼントしようかと思います。ほぼ90%の確率で通りすがりさんに当たって、気が付かれないまま終わっちゃうとは思いますが。もし、「当たったー!」と仰る方は、メール下さい。お待ちしてます。

2004年08月19日(木) 香水は12年で熟成するか。……危険だってば。
2003年08月19日(火) 懸賞つき日記(^o^)/『イリヤッド 入矢堂見聞録』3巻(東周斎雅楽・魚戸おさむ)
2002年08月19日(月) 偽善者の宴/『探偵学園Q』6巻(天樹征丸・さとうふみや)/『虹の子』(石ノ森章太郎)ほか
2001年08月19日(日) 毛が三本/『ふざけるな専業主婦』(石原里紗)ほか
2000年08月19日(土) 今日、彼氏彼女は相々傘であった/『占い師はお昼寝中』(倉知淳)ほか


2005年08月18日(木) 幻想の絆/DVD『盲獣VS一寸法師』

 休み明けで、久々の出勤。
 雑用が溜まってはいるが、まだまだ慌てることはない。ちびちびと片付けて行く。
 休みボケがありはしないかと、自分でも心配していたがそれほどでもない。それより、長いこと一緒にいたので、しげがまた私が出勤するとなると「さびしんぼう」に成り果てている。
 これが一番困るので止めてほしいのだが、そうするとしげはクスリをまた多飲してしまうのである。まあ、確かにそうやって昼間眠ってれば寂しくもなかろうが、するとまた家事をしなくなるのだ。しげがマトモに日常生活を営める手段はないものだろうか。

 URLを変えたせいで、長いことホームページのコンテンツが「NOT FOUND」状態だったのだが、しげが懸命に頑張ってくれて、一部が復旧。
 と言っても、マークが元に戻ったのと、「こんなにひどいよ名探偵コナン」の第一回が読めるようになっただけですが。
 けれど私が何度操作しても全然復旧できなかったので、しげの奮闘には(私が寝ている間中、ずっとやってたらしい)もう頭が下がって地べたにこすりつけて穴掘って入りたいくらいである。
 まあ、それまでに書いた分だけでも膨大な量があるので、完全復帰までには相当時間がかかりそうだけれど、みなさんしげを応援してやってくださいませ。
 え? お前は何もしないのかって? だから私が何をやっても言うこと聞いてくれないのですよ、このパソくんは。きっとこいつの前世はスケベな爺さんに違いない。
 それにしても四苦八苦しながらもパソコンを復旧させるようなことはできるのに、どうしてしげは「炊事洗濯まるでダメ」なんだろう。よっぽどこっちの方が単純作業のように思えるのだが。


 先日、旅行に行ったときの父との会話。
 例のゴミだらけのキャンプ場を見ての父の慨嘆であるが、私のココロの声付きで再現する。
 「日本人のマナーはどんどん悪くなりような」
 「そうだね(昔から悪いよ)」
 「事件がいろいろ起きるのもしょんなか(=仕方がない)な」
 「そうだね(論理が短絡的だよ)」
 「親子の愛情もどんどんなくなりよる」
 「そうだね(うちの場合もないけどな)」
 「パチンコして子供を車の中に放り出しといて熱中症で死なせる親とか、言語道断やな」
 「そうだね(オレも子供のころ、あんたの暴力で死にかけたこと何度もあるけど)」
 全く実にいい親子関係を築けているものだと自分でも感心する。
 子供のころ、酔っ払った親父に殴る蹴るの暴力を振るわれてお袋が止めに入ったとか、しょっちゅうだったんだが、見事に忘れてやがるんだよな、この親父は。鉄製の盆で後頭部を殴られたこともあったぞ。今だったら児童虐待で逮捕されたっておかしかないと思うが、当時はこのくらいの暴力は「しつけ」の範囲内だったのである。しかし、この躾が本当に躾として機能していたかどうかは、前述の会話で明らかであろう。「仮面親子」だとつくづく思う。
 
 「しつけ」の名目で妻の連れ子の小学4年生女子を殴る蹴るの暴力を振るった挙句、庭に掘った穴に埋め、全治2週間の怪我を負わせた埼玉県春日部市の会社員、三山英志容疑者が傷害容疑で逮捕された。女子の顔の痣に気付いた小学校の先生が児童相談所に連絡して虐待が確認されたという。
 「首まで埋める」というのはまんま「犬神」であって、そういう土俗的な知識でもあったのか、この父親、と一瞬、思った。けれど、『戦場のメリークリスマス』でもデヴィッド・ボウイが土の中に埋められて殺されるシーンがあったし、旧日本軍では捕虜に対してわりとこういう刑罰は行われていたもののようである。もしかしたら、この「生き埋め」ってのは日本人の遺伝子の中にスタンダードな虐待手段として脈々と受け継がれているものなのかもしれない。地中に埋められているだけでも長時間に渡れば呼吸困難と脱水症状で死に至るのは当然で、このオヤジに殺意があった可能性は高い。
 同時にこれも説教節などで延々と語られ続けてきた「継子苛め」の物語の系譜の果てにある事件なのである。

 「親子の絆が失われた」と嘆く向きは多いが、さて、翻って日本の歴史を見直してみたときに、「子供」はそんなに大人たちから大切にされてきていただろうかという疑問も生じてくる。明治期に来日した外国人の多くが、日本国中津々浦々で「子供や赤ん坊が大切にされている姿」を見て、驚いている。「日本は子供の天国か」と。しかし、外国人たちが見たのは主に「赤ん坊をねんねこで背中におんぶした」母親や姉やたちの姿であり、そのような習慣のない西洋人の目にはこれが「過保護」のように映ったのだ。この事実のみを以って即、「子供が大切にされていた」と断じるわけにはいくまい。
 ハッキリ言えば、日本の家庭で大切にされていたのはほんの何十年か前まで「跡取り息子」だけだったのである。それ以外の次男、三男はただの「冷や飯食い」でしかなかったし、娘は「嫁」に出すものでしかなかった(嫁に行った先で「母」になってようやく地位が得られるのである)。
 こういう言葉がまだ「生きていた」時代に私たちの世代はギリギリ引っかかっている。分かりやすく言えば、長子以外の子供はみな、長子に何か事故があったときの交代要員でしかなく、長子が存在している限り、「虐待されるのが当然」な存在であったのだ。江戸期の武士階級においてこの「制度」は絶対的なものであったが、町人・百姓の間でも、あるいは時代が下った庶民の間でも、この「感覚」だけはかなり長期に渡って継承されていた。うちのオヤジは職人の家に生まれた次男であるが、次男であるがゆえに祖父の跡を継げなかった恨みをかなり長いこと愚痴ってばかりいた。
 「惣領の甚六」という諺があるが、これは、惣領(=跡取り息子の長男)はチヤホヤされるので馬鹿が多いという意味である。この感覚が庶民のものであった証拠はあの『サザエさん』にも表れており、磯野家の隣に住む小説家・伊佐坂先生の長男の名前はまさにこの「甚六」である(この長男はアニメ版ではいつの間にか姿を消してしまった。名前が差別語であると判断されたためだろう)。
 日本人の家庭の場合、悲惨なのは、長男以外の子供をより迫害しているという自覚が親にはあまりないという点である。「冷や飯食い」であるから、親の財産が必ずしも贈与されるとは限らない。兄弟が三人いたとして、三人に財産を平等に分けて行けば、次の代、次の代と、財産はどんどん目減りしてしまう(財産が「田んぼ」であった時代には、これを指して「田分け者」と言っていたわけだ)。
 だから、親は次男以外の子供には自然、独立するための道を勧めることになる。次男以外の子供に辛く当たるのは当然だ、という理屈がここに生まれる。ましてや、長男がいて、もう一人の子供が「継子」であれば、これはいずれ追い出すのが当たり前という感覚であったろう。親にはこれが虐待であるというような意識はない。「辛く当たるのが子供のため」と思い込んでいるのである。
 「継子苛め」の物語がシンデレラよろしく、逆転して幸福な結末を迎えることが多いのは、現実には悲惨な目にあった継子たちがいかに多いかを示している。

 この事件をたいていの識者は「残酷な虐待事件」と評するだろう。
 しかし私には、この「生き埋め」という虐待の仕方の「古臭さ」を考えると、何となくこれが「未だに残る前近代の事件」であるような気がしてならないのである。
 この三山容疑者に、この連れ子の女子以外の「実の子」がいたかどうかは分からない。しかし「継子苛め」であることは確かだ。義理の娘を土に埋めた動機は「女子が学校生活上の約束を守らなかったこと」だそうである。「義理の娘だからと言って、甘やかすわけにはいかない」という道義心も働いていたかもしれない。
 ともあれ、この事件は「2週間程度の怪我」に過ぎず、「女子が死んでいない」以上は、これが三十年ほど前であれば、「事件にすらならなかった」可能性も高いのだ。

 私は別にこの親父の行為が正しかったと言いたいわけではない。細かい事情が分からない以上は、この逮捕が適切であったのかそうではなかったのかは判断しかねる。
 私が言いたいのは、「躾」という概念自体が既に前近代の、言わば旧式の価値観に過ぎなくなっているということである。現代の親は、子供に相対する場合の価値観を一度喪失してしまっており、「子供の個性の尊重」という美名の元に「放任」以外の対応ができなくなってしまっている。子供は子供で、「放任」にすっかり慣れてしまっているために、そこに改めて旧式の観念である「躾」を持ち込んでも、いたずらに反発するだけになっているのだ。
 私は、「躾」が、たとえ親の暴力を伴わなかったとしても、ただひたすら説諭のみを以って対応したとしても、それが親と子の人間関係を結ぶものとしては簡単には機能はしない、という事実を指摘しておきたいのである。
 近代と現代が、旧式の価値観と新式の価値観がある瞬間を以って鮮明に切り替わるものでない以上、このような事件が途絶えることはないだろう。
 
 こういった事件を「悲惨な事件」の一言で片付けてしまうことは、我々を取り巻く「現在」を構成する要素の全てが「過去」によって成り立っているという事実を忘れてしまうことになりかねない。現実には過去と現在とは常に絡み合い、脈動しながら未来に向かってゆっくりと進んで行く。状況が激変する中にも不変な分子は必ずあるし、逆に自分が今「常識」で不変のものだと思っている「行為」が、次の瞬間には「暴力」と認定され否定される事態だっていくらでもありうる。
 さて、そこで我々は過去の価値観に固執して現在に挑戦を試みるか、現在に迎合して過去を捨て去るか、常にどちらかを選択せざるを得ないわけであるが、将来において果たしてどちらが正しいと判断されるのか、それはまさしくケース・バイ・ケースで、我々の浅薄な予測など的中率はゼロに等しく、蟷螂の斧のごとく裏切られる結果となる場合がほとんどだ。結局、未来予測などは「賭け」のようなものである。
 子供を虐待死させるのは論外としても、親は子に一切手を上げることができないのか。「親にだってぶたれたことないのに」は二十年前だったら言った当人の「甘ったれ」な台詞でしかなかったが、今や「正当な主張」となりつつある。子供がどんな生意気な口を利いても、「子供の個性だから」と暖かく見守ることだけが親にできる「躾」なのか。親が子供を殴って、「はずみで」歯が折れたりしても、それは軽く「全治2週間」程度にはなる。そこで子供が訴えたら、親はやはり懲罰を受けることになるのか。
 それでも親が子に何かを躾けようと思ったら、自らが破滅する可能性も視野に入れた上で「賭け」るしかあるまい。
 しかし私には、カルト宗教の事件なども、親がそうした「賭け」に敗れて子供が野放しになってしまった結果であるように思えてならないのである。


 高野連が、昨17日、喫煙及び部内暴力で甲子園大会への出場を辞退した明徳義塾(高知)を初め、秋季県大会への参加を差し止めた四校を発表。明徳義塾以外の三校は、熊本学園大付(熊本=複数部員の部内のいじめ)・松本第一(長野=複数部員の喫煙、飲酒)・鶴ケ島(埼玉=複数部員の万引き、飲酒)。
 全国でたった三校かよ! ウソつけ! というのが偽らざる心境であるが、なんだかこうなると本当に「正直者はバカを見る」の世界だよなあと、高校野球界の腐敗ぶりにもはや嘆息する気すら起こらない。処罰された学校はまさしくスケープ・ゴートであって、一応、これで健全化は図ってますよというポーズだけは取った形になる。
 けれども、自分ところの不祥事をほっかむりして、いけしゃうしゃあと健全なる球児でございという顔をしているやつらは処分された学校の何十倍、何百倍あるか分かりゃしないのだ。もしも高野連が「本気で」不祥事撲滅の大鉈を振るったなら、全国大会はおろか、地方大会大会すら満足に開けなくなるのはまず間違いがないのである。
 明徳義塾がかわいそうだ、俺らだけ大会に出られるなんて申し訳ない、正直にタバコ吸ってたこと告白して辞退しよう、なんて学校はついぞ出てこない。みんな、内心では「オレたちはバレなくてよかったよな」とか「あいつら正直に上に報告したりしてバカじゃないか?」と思っているのだ。そんなことはないなどという反論は根拠を持たない。実際に明徳義塾が、匿名投書がなければ堂々と不祥事を隠したまま出場しようとしていたではないか。
 高校生にアンケートを取れば、四割強が「喫煙の経験がある」と答える。たとえ匿名アンケートでも真実は答えたくない、と思うやつもいるだろうから、実際には高校生の喫煙経験者は五割を越えるだろう。で、野球部員が全員「吸ってない半分の方」にいるなどという判断するやつがいたらそいつは相当にオメデタイやつだ。この場合、「どの学校でも野球部員の半分は喫煙経験がある」と判断する方が妥当である。で、そいつらはみんな「黙ってればわかんねえよ」と陰で笑っているような根性曲がりなのである。高校球児の殆どはそんな腐れたやつらばかりだ(まあ、高校生の大半が腐れていると言うべきではあるが)。
 マトモな神経があれば、もう長いことその腐敗が指摘され続けている高校野球になんか興味が持てるわけがない。青春の汗と涙も、根性と努力と友情も、みんな嘘っぱちだ。なのに未だに興味津々なオトナは、やはりどこかイカレていると判断するしかないのではないか。野球トバクに関わってるか、単に地元の高校が勝つことだけにしか興味がないか、でなければ高校時代に運良く野球部員の知り合いがいなくて未だに幻想を信じていられる幸せなドリーマーだけだろう。
 

 注文していたDVD『盲獣VS一寸法師』が届く。
 注文したときには石井輝男監督が亡くなられるとは少しも考えていなかったので、手に取ってみるのもそぞろ寂しい。パッケージはチラシと同じ竹中英太郎画伯の『盲獣』と『一寸法師』の挿画だ。竹中画伯の絵こそが乱歩の幻魔怪奇の世界を的確に描出し得たことを、石井監督はちゃんとご存知であった。旧仮名遣いで書かれた惹句も素敵である。

 「お気味がわるいでせうか
  何も見えない盲の目で、
  あなたをずっと
  見つめておりました。
  光とどかぬ
  アトリエには、
  三つの顔と、
  四本の手、
  三本足の裸美人、
  さあ、
  闇と握手を
  いたしませう。」

 ああ、詩だなあ。こういう文章が書けてこそ、「作家」だと威張って言えるんだと思う。
 今でも劇場で『盲獣VS一寸法師』を見たときのことを思い出すが、見終わったあと、若いカップルが「思ったほどヘンじゃなかった」とか拍子抜けしたような発言をしていた。彼らは『恐怖奇形人間』の「オカアサン!」(乱歩よりもこれは夢野久作だが)くらい意表を突いた展開を期待していたのだろう。しかし、石井監督が目指していたのは、あくまで「乱歩世界の映像化」である。トンデモ映画を作ることではない(『奇形人間』だとてトンデモ映画ではない)。
 DVDのメイキングを見ると、このころの石井監督はすこぶる元気で、八十に垂んとして全くボケを感じさせない。以前も書いたことだが、物語の破綻は乱歩の原作にそもそも存在するもので、それをあえて破綻のまま、いや、破綻を拡大する形で2作を合体増幅する形で混迷の世界を描いたのは、石井監督が確信的に行ったことなのである。
 超低予算ゆえにセットすら作れず、そこに造形の原口智生氏が手弁当で助っ人として参加し、ようやく撮影できたシーンもある。小林紋三役のリリー・フランキーさんは役者でもないのに石井監督に請われて主演した。ほかの監督だったら、リリーさんはきっと断っていただろう。集結するキャスト、スタッフの名前を見ているだけでも、監督がどれだけ愛されていたかがよく分かる。
 この映画の批評で、「昭和初期の設定のはずなのに、あちこちに現代のものが映りこんでいる」と批判していた人がいた。確かに低予算ゆえに「ありもの」で勝負するしかなかった弊害と言えばその通りなのであるが、そんなことは大した問題ではない。乱歩の小説は時代を映す鏡であったが、同時に普遍的な人間の心の闇を描いていた。時代がいつとも知れぬ混乱と違和感は、かえって乱歩らしいほどだ。
 「盲獣と一寸法師が戦っていないじゃないか」という批判も全くの見当違いである。これは物理的な戦いではなく、狂気と狂気の精神的な戦いなのだから。
 この映画に関しては、本質を見ずに瑣末的な印象批評だけが横行し過ぎていたように思う。
 2001年には完成していた本作が劇場公開されたのはようやく昨年。その間、3年の月日が経っている。日本人が、乱歩の描いた「人間の本質としての変態性」を本当に受け入れられるだけの「健全さ」を持ち合わせていたなら、劇場公開も速やかに行われたであろうし、あと一本くらいは石井監督が映画を撮ることも可能だったように思えてならないのである。
 奇しくも石井監督の「異常性愛」シリーズが続けてDVD化されることになった。劇場公開時、私は小学校低学年で、当然リアルタイムでは見られなかった。若い人には刺激が強すぎるだろうからあまり勧められはしないが、少なくとも「こういう世界」が自分よりも遠いところにあるとは思わない方がいい。嗜虐は全ての人間の原初的な嗜好として、必ず意識の底に偏在しているものだからである。

2004年08月18日(水) 見てない映画は☆の数。
2003年08月18日(月) ギャグをやるなら命がけ/『魔法先生ネギま!』2巻(赤松健)
2002年08月18日(日) 草臥れ休日/アニメ『サイボーグ009』地下帝国“ヨミ”編/『エキストラ・ジョーカー KER』(清涼院流水・蓮見桃衣)ほか
2001年08月18日(土) オトナの玩具はコドモ/『悪魔の手毬唄』(横溝正史・つのだじろう)ほか
2000年08月18日(金) 気が滅入る話/『明日があるさ』(林原めぐみ)ほか


2005年08月17日(水) 危険が迫っていても手抜き/『GUNSMITH CATS BURST(ガンスミスキャッツ バースト)』1巻(園田健一)

 劇団のですね、あるメンバーのですね、掲示板にですね、書き込みがあったんですけどね、そこにこういう文句がありまして。
 「ヲタク名義に尽きます」
 いや、それは「冥利に尽きる」だっ!

 ※冥利(みょうり)に尽(つ)きる
 自分の立場や職業などによって受ける恩恵が、もったいないほどありがたい。「役者―」(旺文社 『旺文社国語辞典[第九版]』)
 
 「名義に尽きる」ってなんだよ、意味不明じゃないか。名前とか肩書きをたくさん持ってて、もう作りすぎてこれ以上は作れないってことか。「私はアニメオタクでマンガオタクで特撮オタクでアイドルオタクでゲームオタクでミリタリーオタクで乙女系で……」って、そういうことか。
 これがメンバー本人の文章だったらですね、私も遠慮なく突っ込むんですよ。でも、書いてらっしゃるのはそのメンバーのお友達の方。横から無関係な私が「言葉間違えてますよ」なんてとても言えるもんじゃない。
 気になるのは、その書き込みにレスを付けてるメンバーのコ、「それを言うなら『冥利』でしょー?」とか突っ込み入れるかと思ったら、全然してないのね。やっぱりお友達に遠慮してできなかったのか、それともそのコも言葉を知らなかったのか……? うう、気になる(本人に聞けよ)。
 ああ、一応その子のサイトにもリンク張ってますけど、誰のことかなーとか探さないであげてくださいね。
 

 先週の映画興行収入、一位はなんと、ドリームワークスのフルCGアニメ『マダガスカル』だった。ちょっとこれは驚きである。
 アニメ関係はとりあえず見たいことは見たいので、一応、しげに声をかけてはみたのだが、ニベもなかった。設定を聞く限り、「都会生活に慣れた動物たちが、マダガスカルで苦労する」って、「まんま『ジャングル大帝』じゃん!」と思っちゃったので、それほど興味が惹かれなかった。レオが実は都会育ちだってこと、もう忘れてる人も多くないかな。別に「動物もの」に拘らなきゃ、「都会人が田舎で苦労する」話なんていくらでもあるわけで、『おもひでぽろぽろ』のパクリだと言おうと思えば言えるのである。要するに新味というものがまるでない。
 更に言うなら、主人公の動物たちもマダガスカルの動物たちも、全部CGで擬人化されているわけである。それで「都会」のキャラと「自然」のキャラの絵的な違いが表現できるものかどうか? いろいろ疑問があったので、みんな気持ちは似たようなものだろう、たいしてヒットはしないんじゃないかと思っていたのだが、全然そんなことはなかったのだね。
 公開2日間の成績は、動員が24万人、興収が3億円。これは今年の3月の『シャーク・テイル』(興収20億円)を上回って、興収30億円も狙えそうな勢いだということである。
 そうかあ、『シュレック』『シュレック2』よりも上ってことは、やっぱり世間の親たちは毒のあるアニメよりもキレイゴトのアニメの方がお気に入りということなんだねえ。ますます私の趣味の映画ではなさそうな気配が濃厚で、どんどん興味はなくなりつつあるのだけれど、ヒットする作品をヒットしているという理由で毛嫌いするのはあまりに狭量というものである。一回、アタマをリセットして、見に行った方がいいカなあと思うのだが、それを言い出すとほかにも見たいアニメはあって、実は『ミュウと波導の勇者ルカリオ』も『NARUTO 大激突!幻の地底遺跡だってばよ』も『金色のガッシュベル!! メカバルカンの来襲』も見たいのである。でもさすがにコレを全部見るなんて言い出したら、しげがどれだけ怒り出すか見当もつかない。大半は諦めてテレビ放送を待つしかないのだが、民放が殆どだから見逃すこと多いんだよなあ。
 それにしても今夏のアニメは小粒なやつが多い。昨年の「大作」連発が印象的だったせいもあるが、「目玉」がないんだよなあ。予想通り『鋼の錬金術師』もはやばやとベストテン圏外に去ってしまった。『キネマ旬報』でも「中高生以外に広がりがない」と書かれてしまっているくらいで、やはり映画としての体裁を整えることをもうちょっと考えた方がよかったよなあと思う。


 宮城県沖地震の続報。
 天井板が落下した仙台市の「スポパーク松森」のプール、天井をつり下げる「つりボルト」に本来は横に渡しておかなければならなかった揺れ止め金具が殆ど付いていなかったことが国土交通省の調査で判明した。
 プールの建物自体も揺れやすい構造になっていたそうで、テレビの取材に設計技師が答えていたが、殆どマトモに喋ることができておらず、どうやら設計段階からの「手抜き」だったようである。
 国交省は芸予地震や十勝沖地震のときにも同様の事故があったとして、落下防止対策を取るよう、通知していたそうな。だとすれば、「スポパーク松森」はその通知を守っていなかったのか、忘れていたのか。どっちにしろ、地震が頻発していた地域ですら、対策が取られていなかった施設はあるという事実は変わらない。災害に対する意識の低さに、地域差はないようである。
 福岡でも、地質研究の結果、再び地震が発生する確率は高まったと報告されているのに、「これでもう福岡に地震は来ない」と思い込んでいる人間はやたら多いのだ。あるいは、「天災だから悩んだって仕方がない」という開き直りである。私の場合は、どっちかというと後者に近い。地震が起きても大丈夫な土地があるなら教えてもらいたいものだが、だからと言って引っ越すカネだってない。またこないだよりデカイ地震が来たら、落ちてくる本に押しつぶされて死ぬしかないのだ。助かれば「ああ運がよかった」と思うだけである。
 しかし、何度も言うように、個人はそれで構わなくても、行政が「天災だから仕方ないっスね」で済ましちゃ、大いにマズイのである。
 地震調査委員会は、今回の地震は、本来「M7・5前後の地震が30年以内に起こる確率が99%」と想定されている宮城県沖地震とは別の地震だったと判断したとか。今回の地震が「呼び水」になる可能性も高くなったというわけだ。「スポパーク」の負傷者は、本来、怪我をせずにすんだはずの人たちだと思う。次の地震でまた同様の負傷者が出たとしたら、これはもう「人災」というほかはない。宮城のお役所の人たちが馬鹿じゃなきゃいいと願うばかりである。


 マンガ、園田健一『GUNSMITH CATS BURST(ガンスミスキャッツ バースト)』1巻(講談社)。
 園田健一の代表作が新シリーズで復活。『エグザクソン』のあと、何を始めるのかなあと思ってたら、やっぱりここに戻ってきたね。以前から単発で短編を描いていたから、予測はしていたのだけれど、やはりラリーの活躍が見られるというのは嬉しい。
 私はガンマニアでもカーマニアでもなければ、園田健一の作るオハナシもそれほど好みではない。キャラクターがやたらココロもカラダも傷ついてしまうのだが、リアルな世界を描いているようでいて、単に作者のシュミなんとちゃうかという気がしてならないからである。簡単に犯される女の子キャラが多いのが何ともねえ。
 じゃあなんでついつい買っちゃうかというと、やはりアクションの快感、これに尽きるんである。
 マンガは当然「絵」だから、実は全く動いちゃいないのだが、それが「動いている」ように見せるためには、やはりレイアウトやコマとコマの間の取り方にセンスが必要になる。いしかわじゅんが安彦良和の絵について「動きが描けない」と指摘したのはまさにそのことで、安彦さんの絵は「止まって」いるのである(もちろん、止まっていたところでそれがすぐに欠点に繋がるわけではない。安彦さんを非難してはいないので勘違いしないように)。
 同じアニメーター出身でありながら、安彦さんの絵が「止まって」見えて、園田さんの絵が「動いて」いるのはなぜか。一言で言ってしまえば、安彦さんの描くキャラクターは今でも「アニメーションのためのキャラクターデザイン」であって、「マンガ」にはなりきれておらず、それに対して園田さんの絵は、「マンガ」として確立しているからだと言える。
 安彦さんはいしかわじゅんに反論して、「今でも中割りして見せられる」と主張されたが、それが大きな勘違いで、「中割りできるような絵」は、マンガの場合は読者の読むテンポを遅くし、さらには想像力を減殺してしまうことにしかならないのだ。
 読者はマンガを読む場合に、「コマに描かれていない」部分も想像力で補完し、無意識に繋げて読んでいる。そこに「連続する動き」を持ち込むと、かえって情報が増えて、間延びしてしまう。例えば、安彦さんがしばしば数コマに渡って、「原画を並べたような」連続の動きを描くことがあるが(『アリオン』の冒頭シーンなどである)、これは読者には「スローモーション」にしか見えない。最近のマンガではここまで露骨な描写は減ったが、それでもアングルを変えて、同じシーンをゆっくりとトレースすることがよくある。もちろんそれは安彦さんの場合は効果的に使われていて、サム・ペキンパーかジョン・ウーのようなスローモーション効果を生んでいるので、決して欠点ではない。安彦さんのマンガでは、爆発ですらスローモーションである。
 それに対して園田さんのマンガは岡本喜八である。アクションは省略に継ぐ省略、必要なカットは見せるが、それもロングとアップを何度も切り返し、コマとコマとは殆ど絵として連続していない。だから逆に「動いて見える」のだ。
 文章で説明をするのはとても難しいのだが、たとえば66ページで、銃を突きつけられたラリーが、足でシートを引っ掛け、上半身を倒し、マガジンを投げて敵の銃にぶつけ、跳ね上げたシートを敵のタマを受けるバリアーにし、再びマガジンを装填して攻撃するまでの流れなどは、間に「中割り動画が全く存在していない」ことが理解できるだろう。これがスピード感を生むのである。ガンアクションをマンガとして描かせた場合、園田さんが紛れもなく第一人者であるのは、この「省略の妙」にあると言える。
 ストーリーの紹介をせずに、絵の魅力ばかり語っているけれど、物語にはあまり興味がないんだから仕方がない。つか、園田さんの場合、ストーリーの方がガンアクションを見せるための道具だからね。
 ああ、あともちろん、女の子がアニメ絵でむちゃくちゃ可愛いです。巨乳かロリータで中間が殆どいませんが(笑)


 マンガ、ゆうきまさみ×田丸浩史『マリアナ伝説』3巻(完結/角川書店)。
 男シンクロナイズドスイミングという、決して『ウォーターボーイズ』をパクったわけではない(連載はこっちの方が先)、鍛え上げられた男の肉体がムリムリ出てくるちょっと気持ち悪いマンガも、掲載誌を変えた末にようやく完結。とりあえず「大会で決戦して終わり」というマンガの王道はちゃんと辿ったのかな(笑)。
 一応ラブコメ要素もあったようななかったような微妙な感じではあったが、まあゆうきまさみさんにはなかなか普通の恋愛は描けないから、結末もこんなものだろう。つか、ああいう結末にするなら、寺澤と天野、無理にカップルにする必要なかったんじゃないのか(オビに「衝撃のエンディングが君を待つ!?」とか書いてあって、どうやらネタバレ禁止みたいなので、一応オチは書きません)。
 何となく作者“たち”の女性に対する怨念がそこはかとなく漂ってるような感じだったねえ。男はバカだけれど、それを許せないのは女の罪、みたいな。でも、天野とか、キャラがいい具合に立ちかけてそこまで行かなかったような、ちょっと惜しいキャラだったと思う。生徒会長はもう、『究極超人あ〜る』のときまんまだから、声もちゃんと川村万梨阿で聞こえてくるんだが、天野はイメージボイスが浮かんでこなかったからなあ。
 いやね、ゆうきさんのマンガの場合(これは絵は田丸さんだけど)、キャラクターのイメージボイスが聞こえてくるかどうかで、作品の成否が決まってくるような気がするもんで。もっとも私は新しい声優はあまり知らないので、寺澤の声とか神谷明が浮かんだりするんですが。
あと、会長の弟のセリフで、「予約特典が気に入らないからってCD買わないくらいヘンな理屈」ってのには受けた。しょうもない特典が付いて怒るのは分かるけど、ヘンクツなオタクにこういうやつ多いからね。自分が鬱陶しいやつだってことに気づいてないんである。


 マンガ、丸川トモヒロ『成恵の世界』8巻(角川書店)。
 えー、隠れ人気キャラの一人、古本屋の娘さんで、太い眉毛がチャームポイントの永岡四季ちゃんがメインのオハナシ……というよりは実質上の主人公は、今は亡き、そのまたお婆ちゃんの折さんであります。
 と言っても、今回は別に回想話ではない。四季ちゃんが働いてる古本屋「時台屋」がオーナーでもある爺ちゃん・光太郎の横暴で、潰されてしまいそうになる。ところがそこに、突然「結婚直前」の若き日の折さんがタイムスリップしてきて、爺ちゃんに出会って……という展開。だからまあ、これもまた『時をかける少女』のパターンなのだけれども、この手の話に付きものの「奇跡」の描き方が、なかなか上手いのである。
 キーワードになるセリフはコレね。
 「ねえ、光太郎さん。私たちの未来は、悪いことばかりでしたか?」
 目の前に、死に別れた妻が、若き日の姿のままで座っている。彼女は、これから先、自分とどのような未来を築いていくかは知らない。けれども、その未来を現実に知っている年老いた夫に向かって、自分の未来を信じていることを告げているのだ。折さんが爺ちゃんをどれだけ深い愛で信じていることか。作者が何歳なのか分からないけれど、これはなかなか若い人には書けないセリフだ。それが描けたのは、「SF」という仕掛けがあったからこそだろう。 
 『成恵の世界』は、一般的なマンガファンの間では、数あるハーレムマンガの中の一本に過ぎないみたいに扱われてて、ちょっと損しているなあと思う。これは立派なSFマンガなのに。
 所詮はご都合主義である点では違いはないじゃないかという批判に対しては、こう答えよう。確かにご都合主義と言われればその通りだけれども、学園ものとか下宿もので美少女いっぱいものをやられた場合、一応、その世界は「現実」なのだから、ご都合主義はわざとらしく目立ち過ぎて、読者は今ひとつ乗り切れなくなるのだと。けれどヒロインが宇宙人だったり未来人だったり異次元人だったり女神だったりすれば、「価値観がフツーの人間とは違うんだろう」で納得できなくはない。
 つか、SFマンガだと、主人公を巻き込むトラブルが破天荒でキャラクターも暴走しまくるから、「なんでこんなフツーのやつがモテるんだ?」って疑問に気付く間もないのである(笑)。今回も和人の影が薄いこと。つか、名前も読むまで忘れてたよ。

2004年08月17日(火) 「狐の嫁入り」考。…いや、そんな大層なもんじゃなくて。
2003年08月17日(日) 穏やかな休日/映画『宮本武蔵』『續宮本武蔵 一乗寺の決斗』『宮本武蔵完結篇 決闘巌流島』
2002年08月17日(土) しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん/アニメ『プリンセスチュチュ』第1話/映画『ピンポン』
2001年08月17日(金) 代打日記
2000年08月17日(木) 明日から仕事/『夜刀の神つかい』(奥瀬サキ・志水アキ)ほか


2005年08月16日(火) 対策なんて何もない/『素晴らしき特撮人生』(佐原健二)

 しげのクスリがまた切れたので(飲みすぎだっちゅーの)、病院に回って処方してもらう。
 医者からも「飲みすぎですよ」と注意されているのだが、「だって落ち着かんっちゃもん」とすぐに飲み過ぎてしまう。マリリン・モンローみたいになりゃしないかと(スタイルのことではない)心配しているのだが、もう完全にヤク中状態で、クスリが手放せなくなってしまっているのである。飲んでないときは今まで以上に情緒不安定で、部屋の中を意味なくウロウロ歩き回っているのだから全く始末に悪い。
 結局、心を落ち着けられるのは自分自身で、自分以外の何かに頼っちゃダメってことか。


 合同庁舎の郵便局で、新しく通帳を作る。
 局員さんに「お名前の漢字が違うようですが」と言われて、また説明に手間がかかる。前にも日記に書いたが、戸籍係が漢字を書き間違えたおかげて、私の名字は先祖代々の本当の漢字と、戸籍の漢字と、更に父の名字の漢字の三者が全部違ってしまっているのだ。どれに統一にするにしても手間がやたらかかるので、結局放り出したままである。しようがなく、もう一度書き直すが、その訂正印の印鑑の漢字がまた字体が違うことにまでは局員さんは気がつかなかったようだ(笑)。


 父のマンションに通帳を届けに行って、やや遅めの朝食を福岡空港国際線のレストランで。
 うちと父のとことを往復するときには必ずその横を通るのだが、国際線の中にまでは入ったことがない。見物がてら中を見回るが、周囲を飛び交う言葉は韓国語ばかりだ。ハワイ航路もなくなっちゃうし、韓国線と言い換えたほうがいい感じね。
 送迎ロビーで飛行機の離着陸をちょっと見物して、買い物を少し。売ってる品はハンカチやらTシャツやら湯飲みやらマグカップやら扇子やら、全部、浮世絵柄である。まさにエキゾチック・ジャパンってな感じだが、Tシャツの柄で「新撰組の格好をしたポパイ」があったのには笑った。アチラの人には「シンセングミ」は理解可能なのだろうか。更に発見したのは「花魁ベティ・ブープ」(「ベティ・ザ・ゲイシャ」と言った方がいいのか?)。これが実に可愛い。『ロジャー・ラビット』じゃ、「モノクロじゃ仕事ないのよね」とボヤいてたベティさんだけれど、ちゃんと色を塗られて仕事も見つけているのである。よかったよかった。
 一階のロビーで小さな海洋写真展などが開かれている。その横にリンドバーグ夫妻が福岡空港まで乗ってきたという飛行機の模型が展示してあって、その時の写真も公開されている。昭和四年のことだそうで、さすがに父もこのころには生まれていない。これはまだあの「リンドバーグ事件」が起きる前だろうか。先日、あの悲しい事件を元にしたクリスティーの小説を映画化した『オリエント急行殺人事件』のBS放送を見たばかりだったので、夫妻の笑顔が何となく寂しげに見えた。


 父を博多駅で下ろして、いったん帰宅して一休みする。
 何気なくテレビを見ていると、また地震のテロップが流れる。
 今度は前々から危険区域とされていた「宮城県沖」である。マグニチュードは7.2、震度は6弱を記録した地域もあるとか。負傷者もかなり出た由である。
 印象としては福岡の西方沖地震と同程度のような気がする。新築されたばかりのプールの天井が落下して二十人以上が怪我したとかで、地震に対する防備が福岡よりも進んでいたはずの宮城でこのテイタラクかと思うと、本気で国の地震対策なんて口だけじゃないかという気がしてくる。
 『地震列島』って映画のタイトルがフィクションじゃなくて切実感を伴って聞こえる状況になってしまっている。しかしもっと悲しいのは、地震対策がマトモに行われない行政の現状である。『地震無防備列島』と言い直した方がいいんじゃないのか。我々の税金は、ホント、どこにどう使われてるんだろうかね。


 天神の福家書店で京都帰りのよしひと嬢と待ち合わせ。
 ゲームの攻略本を探しているということで、ジュンク堂、紀伊国屋と何軒か本屋を回るが、売り切れでないとのこと。
 喫茶店でひと休憩でも、とスターバックスなどを回って見るがどこも満席。結局、天神コアの七階レストラン街まで登って、そこの喫茶店でお土産交換などする。
 よしひと嬢はそれまで「アニメイト」や「まんだらけ」などを回っていたそうだが、かなり「いたたまれなかった」そうな。もうどんな客が群れ集っているのか目に見えるようであるが、私などが足を踏み入れた日には違和感ありまくりであろう。それでも平気で入り込むことあるけどね(笑)。


 佐原健二『素晴らしき特撮人生』(小学館)。
 表紙は『ウルトラQ』の主演お三方、佐原健二・桜井浩子・西條康彦のスチール写真。このカバーを外すと、今度は“現在の”お三方が全く同じポーズで……。考えてみれば、『ウルトラQ』に携わったスタッフ・キャストの方々の多くが鬼籍に入られた中で、主演の三人がまだ活躍して(西條さんは一応、役者を引退なされているけど)いらっしゃるというのは本当に嬉しい。佐原さんは母と同い年だ。
 実を言うと、『ウルトラQ』で佐原さんが演じた「万城目淳」というキャラクターはそれほど好きではなかった。子供の目にはあまりにもヒーロー然としていて「ええかっこしい」に見えたし、星川航空のパイロットとという設定はまだしも、「SF作家」というのがどうにも似合わないような気がしていたのだ。本書を読んで、「実は平田昭彦がこの役をやりたがっていた」というのを知って、「ああ、平田さんが演じていてくれたら!」と思ってしまったのは、もちろん私が平田昭彦絶対主義者であるからである。冷静に考えて見れば、クールさが魅力の平田さんが万城目を演じるよりも、佐原さんの方がよりベターなキャストであるということは理解できるのだが。
 「万城目」が嫌いだからと言って、佐原健二さんが嫌いなわけではない。何と言っても『モスラ対ゴジラ』の虎畑次郎はゴジラ映画史上でも、最も印象的な悪役の一人だろう。この役を演じるために「本物の不動産屋に役作りのためという目的を隠して会った」というのだから、その役者魂には感動する。虎畑のあの人を小馬鹿にしたようなせせら笑い、あれは「ナマ不動産屋」の表情だったのだなあ。全ての不動産屋さんが虎畑みたいなカネの亡者だというわけでもなかろうが、いかにも「らしい」のは佐原さんの演技力である。
 しかし、佐原さんが虎畑を演じてくれていなかったら、私は多分、長いこと佐原さんの演技力に気がつかないままだったろう。佐原さんは、主役から脇に回るときに内心忸怩たるものがあり、恩師である本多猪四郎監督に相談したというが、「ちっぽけなプライドは捨てろ」の言葉に勇気付けられたと言う。実際、主役にこだわって、佐原さんが役者を辞めてしまっていたら、たとえ『ウルトラQ』があったとしても、長く特撮ファンの間で佐原さんが愛され続けることはなかったのではなかろうか。佐原さんが万城目淳から虎畑次郎までを演じられた「役者」であったからこそ、「ゴジラ映画出演最多俳優」にもなれたと思うのである。
 本書には当然のごとく、数多くの特撮映画・ドラマに関わった人々が登場してくる。そのエピソードをとても全部は紹介できないが、「ウルトラマンの生みの親」金城哲夫についての次のエピソードだけは紹介しておきたい。
 ゴジラ映画がヒットを飛ばしていても、東宝では「ゲテモノ映画なんて」と陰口を叩いているやつの方が実際には幅を利かせていたそうである。もちろん佐原さんはそんな腐れた人間ではない。『ウルトラQ』のロケ中に、金城さんは佐原さんにこう言ったという。
 「佐原さんはやっぱり研究熱心ですね。(中略)私は、特撮が本当に心底好きでしかも手を抜かない俳優さんは、私なりに見抜けるつもりでいますよ」
 昔も今も、特撮に偏見を持っている人間はいくらでもいる。最新作の『ゴジラ FINAL WARS』でも、「ちょっとこいつは」という役者がアレとかコレとかいなかっただろうか? ある意味、映画そのものが「特撮」であることを理解できない人間は、役者も、監督も、いや、ファンである資格すらないと思うが、どうだろうか。
 東宝で、「怪獣映画に出ようとしなかった主演級の役者」は、たいていが映画界から姿を消して行ったと思う。役者とは何か、答えはももう出ているのだ。

2004年08月16日(月) 老けてるけどトシヨリってほどじゃないぞ。
2003年08月16日(土) 危険な予感/『空想科学大戦1』(柳田理科雄・筆吉純一郎)
2002年08月16日(金) ドリンクバーの果てに/『フラッシュ!奇面組』1巻(新沢基栄)/『永遠のグレイス』(川崎郷太・伊藤伸平)ほか
2001年08月16日(木) 代打日記
2000年08月16日(水) 橘外男&中川信夫ワンダーランド/映画『女吸血鬼』ほか


2005年08月15日(月) いつでも危険と隣り合わせ/『沈夫人の料理人』3巻(深巳琳子)

 昨晩、家に帰る途中で福岡空港のそばを通っていたとき、カメラマンがやたら集まって、滑走路に向かってシャッターを切っていた。何やってんだろうと思っていたのだが、朝のニュースを見ると、一昨日、JALウェイズ機が離陸直後にエンジン部分で爆発を起こし、600個あまりの金属片を散らばらせていたのである。
 幸いにもすぐに着陸したので乗客に死傷者は出ずにすんだけれども、落下物に当たってやけどなどの軽傷を負った人はいたそうである。
 しかし、テレビの映像を見ると、エンジンはかなり火を噴いていて、全くこれでよく墜落しなかったものだと呆れるほどだ。怪我人ゼロっての、奇跡に近いんじゃないか。
 ところが国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会は、これを「航空事故とは見なさない」とし、調査官も派遣しないと決めたとか。さすがにこれには無能で知られる本県の麻生渡県知事も、現状を視察した後で「市街地の真ん中にある空港。重大な事故ではないとの考えは非常におかしい」と批判のコメントを出した。出したところで状況を改善できる力はないのだろうがね。
 実際、福岡空港くらい「市街地に近い」空港というのも全国でも珍しいらしい。しかし何も市街地の真ん中にわざわざ作ったわけではなくて、市街地が後からこの空港を取り囲んでしまったわけだが。もともとは終戦間際に軍用に作られ始めたのだが結局は間に合わず、米軍に摂取されて基地として整備され、そのあと返還されて空港として使用されるに至った、というのが時代を知る父の説明である。民間のことを考えていないのは初手からだったわけだね。
 今となっては、福岡空港は博多の町の再開発にとって(しなくていいとは思うが)目の上のタンコブになってしまっている。町が東に伸びるのをここで堰き止めてしまっているので、だからこそ今の福岡空港は潰して更地にしてしまって、交通と街の開発の邪魔にならない新宮沖とか雁ノ巣とかに新空港を作ってウォーターフロントに、なんて計画も何度となく俎上に上るわけだが、バブルがはじけちゃった後じゃあ、画餅どころか税金の無駄遣いで福岡経済の命取りにもなりかねないのである。こういう計画をポンと立てて進めちゃおうとするから麻生知事は評判悪いんだけどね。
 今回の事故で、福岡のテレビ各局は一様に何年か前のガルーダ機の墜落事故を思い出して「福岡空港の危険性」を訴えているのだが、実際、これまで民家への墜落事故などがなかったのが不思議なくらいである。
 そのことを考えれば、確かに「事故の原因究明」なんて悠長なことを言ってるんじゃなくて、今の空港を取っ払っちまった方が「危険のモト」自体が断てるわけだが、でもじゃあどこに新しく作ったらいいかって言うと、もう海を潰すか山を潰すしかないというところにまで来ているのである。そりゃ簡単に実現はできんわな。
 結局、こんな事故がどれだけ続出しようと、こんな空港のそばに住んでること自体、運命と思って我慢していくしかないってことなんだね。NHK料金が安くなるのだけはメリットだけど。


 夕方から父のマンションで送り火。
 五時の約束だったが、もちろん父は三時に電話を入れてきた。
 つか、マナーモードにしていたので気が付かなかったのだが、私の携帯を見てみると、既に二時に電話を入れてきていたのである。せっかちにもほどがあるってば。
 ちょうど外出中で寿司屋にいるというので、そこで合流する。昔なじみの寿司屋で、もちろん回転などではない。当然、ネタは時価だが、美味さは格段だ。トロの脂身が舌の熱でとろけて、口いっぱいに甘く広がるのがもう至福の味わいである。適当に握ってもらったけれども、あとで勘定を聞いて目の玉が飛び出た。
 「普通の寿司屋」ってのはやっぱり高級料理でさ、百円寿司って、ネタがよくないから当然なんだけれども、破格の安値なんだよねえ。

 マンションに着いて、一息つく。
 テレビを見ると、終戦記念日で(でも段々と「終戦の日」って呼び方をするようになったな)、また靖国参拝のニュースなど。
 私がしげを指して、「こいつ、よく僕に『進駐軍に会ったことある?』って聞くんよ。いったい何歳だと思ってるんかねえ」と言うと、父は「それはおれのことやな」と言って笑った。
 「お父さんは『ギブ・ミー・チョコレート』って言ったことあるん?」
 「おうあるぜ」
 「進駐軍を追いかけよったと?」
 「道に落ちとるのを拾いに行きよった」
 「チョコレートを?」 
 「チョコレートもあったばってん、缶詰を拾いに行きよったな。あれは米軍がわざと撒きに来よったっちゃろうな」
 「ジープで?」
 「そう。ともかく何にもないけん、何でん美味しかった。チョコレートも、多分、今のに比べたらたいして美味しゅうはなかったと思うばってんがな。
 お前の婆ちゃんと、大きい婆ちゃんと、畑やら家の前の道で野菜ば育てて、それで料理ば作ってくれよったとやが、これがまたよう盗まれるとたい。ころあいやなあと思っとったら、次の朝、見たらくさ……」
 「盗まれとる」
 「そうたい」
 父は笑った。
 「ばってん、おれはお母さんみたいに苦労はしとらんけんな。お母さんの苦労はどんだけか分からん。引き上げでどんだけ苦労したか……」
 「引き上げの途中で殺された人もおったやろうしね」
多分、それ以外にもいやなことはあったと思う。普通に考えれば、台湾にいた母の家族が、何事もなく帰って来れたはずはないのだ。父も母からそういう話は聞いているのだろう。それきり、口をつぐんだ。  

 道が混まないうちに、早めに送り火を焚くことにする。
 焚き付けの新聞はこちらで用意してきたので、今度はオガラもすぐに燃えた。
 父がまた「お母さん、長生きするって言いよったとに」とブツブツ文句を垂れるので、「お母さん、ずっと自分の方がお父さんより年上だってことで引け目感じてたから、お父さんが追い越すの待っとったっちゃろ」と言って揶揄する。
 「おれは全然そんなこと気にしよらんかったとになあ」と笑う父。「十年やなあ」としみじみと呟いた。
 祖母の死からはもう25年である。祖母が死んだとき、母が「婆ちゃんはまだどこかにいる気がするとよ」と呟いていたことを思い出した。人間は、死を実感することが一番難しいのかもしれない。葬式も盆も、儀式はみなファンタジーである。

 所定の場所に線香を立てに行く。
 毎年同じ川岸だというのに、しげはいつも道を覚えていなくて、自身なさげに車を走らせている。父も父で、もう十年このあたりに住んでいるのに「ここやったかな?」とやはりよくわからない様子。せっかちなところと言い、道をおおまんたくり(=適当)にしか覚えていないところと言い、血が繋がってないのに、こういうところは父としげは実の親子の私よりも似ている。
 それでもさほど迷いもせずに現場に着くことが出来た。まだ五時前だというのに、マコモに包まれた供物も山と積まれているし、何蝋燭も何十本も立っているが、風で全て火が消えている。毎年思うんだけれど、風除けくらい付けられないものなのかな。

 父からまた食事に誘われたが、さっき寿司を食ったばかりで、また食事ができるはずがない。通帳を早く作れとせっつかれたので、明日また会う約束をして辞去。
 今年の盆も終わった。
 

 毎日新聞が戦争の評価などについて、電話で全国世論調査を実施したところ、日中戦争・太平洋戦争などについて以下のような結果が出た。
「間違った戦争だった」43%
「やむを得ない戦争だった」29%
「分からない」26%。
 アンケートというものがその質問の仕方によっていくらでも大衆操作ができることはもはや説明するまでもないことだが、この手の質問にうかうかと乗せられちゃってる人も結構いっぱいいると思う。何がインチキって、このアンケート、項目が少なすぎるのよ。肝心な質問項目が決定的に欠けている。
 何が言いたいかっていうと、これにもう一つ、こういう質問を付け加えたら、「目からウロコ」だと思うんだけどね。
 「やむを得ないが間違った戦争だった」。
あるいは、「間違っているがやむを得ない戦争だった」。
 どっちを先にするかでニュアンスが変わるから、両方入れてもいい。そしたらこの二つの質問だけで六割以上は行くと思うが、どうかね。
 つまり「大東亜共栄圏」という日本のスローガンは、「自衛戦争」でもあったが「侵略戦争」でもあったということである。中国も朝鮮も欧米列強の前ではまるでアテにならなかったのは事実だし、同時に資源のない日本が大陸の権益を独占しようとしたのも事実である。だとしたら両方の面があったって判断したらどうしてダメなのかね。
 太平洋戦争についてだって、「アメリカに経済封鎖を受けたから、南進するしかなかった」。即ち、「やむを得なかった」面と、南方は日本の領土じゃないんだから「侵略」の面の両方があったことは事実で、どっちも否定できないでしょうが。
 なんかね、二十年くらい前にね、「日本は侵略もしたけど、中国・朝鮮に対していいこともした」と誰ぞが意見を言ったらね、「侵略を正当化している」とアチラさんに曲解されて非難されてたんだけどね、そのときは決して「あれは侵略戦争ではなかった」とは誰も言ってなかったのよ。「侵略」の面だけをより強調したりするなって言ってただけで。
 それが段々と論点が二極化されてね、もう「果たしてあの戦争は自衛だったのか侵略だったのか」ってどちらか一方しか認めないような二項対立の図式に意図的にずらされていったのね。だから上記のアンケートも、多分、毎日新聞自体、おかしいってことに気付いてないんだよ。
 今や、「侵略」の面を強調するあまり日本の立場を全否定するサヨク連中と、逆に「自衛」やら「共栄圏」の面を主張することで「侵略」が全くなかったように装うウヨクの連中とに日本人は二極化しつつある。アンケート電話を受けた連中も、「質問がおかしい」とか「両方の面があるだろう」って見抜けなくなってるんだよね。
 どっちの意見であろうと「洗脳」されてる点では同じ。まだ「分からない」って答えた人間の方がマトモだ。つまりマトモでない人間が七割以上いるってのが日本の現状なわけだ。たいへんな事態じゃないか。
 私が何が言いたいかよく分からない人がいるなら、もっとストレートに言うけど、つまり、先の質問を受けて、質問のおかしさに気付かずに、「分からない」以外の答えを選んだ人は、もうそれだけで「洗脳されている」人か、「洗脳されやすい」人のどちらかなんだってことなんだよ? あなたはそうなってないか、自問自答してみたらどうかな?
 日本にはね、「本気で戦争したがってる」人間は実際にいくらでもいて、別に街宣車でがなり立てるような行為に走らなくても、何食わぬ顔をして社会の中に溶け込んでるんだからね。自分の頭で考える力をなくしてる人たちは、気が付かないうちにいいように動かされちゃうかもしれない。もう動かされてないかな?
 国家のことや政治のことを日頃から得々として語る人は、右だろうと左だろうと、それだけで既にイカレちゃってると判断されても仕方がない。身近にそんなやつがいたら、上記の質問をしてみよう。それでその質問のおかしさに気付かなかったり、ムキになって自分の主張を押し付けようとしたりしてきたら、その人はもう考える力を根元からなくしてしまっていて、その思想はとっても危ない誰かさんに植え付けられたものだってことなんだよ。
 危ない危ない。近づかない方が無難無難。


 マンガ、深巳琳子『沈夫人の料理人』3巻(小学館)。
 精進料理の「精進」は、中国語だと(北京語かな?)「jingjin(チンチン)」というのだそうな(笑)。誰かもう『トリビアの泉』には送ったかな?
 美食家の沈鳳仙夫人のために料理の腕を振るう李三の奮闘を描くシリーズ第三弾。苛められれば苛められるほどその技量が発揮されるという李三のキャラクターは、あまりにも卑屈すぎて好感は持てないのだが、Sっ気(サドの方ね)のある人は、沈夫人になったつもりで、李三の右往左往を楽しめるだろう。
 正直、料理マンガというのは本当に料理が食えるわけじゃなし、料理を取り巻くシチュエーションやドラマがいかに工夫されているかによって良し悪しが決まるものだ。今回は李三を陥れようとする新しい召使・高子安や、ついにその究極の麺打ちの技を披露する李三の兄・李大など、李三が始終オドオドビクビクしているのを叱咤するようにアクの強い魅力的なキャラクターがどんどこ登場してくる。
 何よりやはり、ヒロインである沈夫人のサドな魅力が、本作を他の凡百の料理マンガと一線を画す要因となっている。もちろん、サドなだけが彼女の取り柄なのではない。彼女はただの意地悪女ではなくて、豊かな知性と、李三の料理人としての類稀なる腕を見抜いている洞察力、あまりに惨めっぽい李三についほだされてしまう可愛らしさ、そういったものを併せ持っていて、だからこそどんなに高慢ちきな態度を取っていても許せてしまうのである。
 最初は前近代の中国を舞台にした料理マンガとは、気を衒ってるばかりでそんなに続かないんじゃないかと思っていたのだけれど、1巻より2巻、2巻より3巻と、俄然面白くなっている。1巻のころにはまだ自信なさそうな線も次第に伸びやかに、整ってくるようになり、登場人物たちの表情も実に生き生きと、微妙な感情まで表現できるようになっている。


 マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』7巻(小学館)。
 『ギャラリーフェイク』に比べるとエピソードごとに何となくムラがあって、これまではやや停滞気味だった感じの本作。『フェイク』がめでたく完結したので、作者はこちらの連載の方に力を入れるようになったんじゃないかと想像していたのだが、これがそれほど面白くなってはいないのだね。
 まあ確かに「春居筆美」の正体に小泉じゅんが少しずつ迫っていく過程は面白くはある。けれど、Dr.WHOO以外のキャラクターをあまり非現実的なものにしてしまうと、肝心のDr.WHOOが霞んで見えてしまうのである。あの「シロウサギ」ってのは何なんだろね。
 シロウサギの陰謀(ってのが、Dr.WHOOとの過去が具体的に描かれないから、どういう陰謀かもよく分かってないのだが)を食い止めるために、Dr.WHOOがシロウサギの愛娘を誘拐するってのは、細野さん、アタマでもイカレたのかと疑いたくなるくらいにデタラメな展開である。
 それじゃあ、Dr.WHOのほうが明らかに「ワルモノ」じゃないのよ。読んだあと、何とも重苦しい気分なって、とてもカタルシスなどは得られなかった。
 連載が長くなると、「これはいったいどうしちゃったんだ」って言いたいくらいに話が矛盾だらけになり、迷走する癖をこの作者は持っているのだが、今回もそんな感じになりそうな気配である。
 あまり長く続けずにあと1、2巻くらいで完結させるのがよかないかなあ。

2004年08月15日(日) この日を記念日にしたのは「盆」だから?
2003年08月15日(金) 記念日って何の/DVD『レッド・ドラゴン』
2002年08月15日(木) 母の呼ぶ声/『フルーツバスケット』5〜9巻(高屋奈月)/『神罰』(田中圭一)
2001年08月15日(水) 代打日記
2000年08月15日(火) 盆休みも終わり……なのに毎日暑いな/映画『シャンハイ・ヌーン』ほか


2005年08月14日(日) 日田屋形船と鵜飼い見物/『仮面ライダー響鬼』二十七之巻 「伝える絆」

 今日は西鉄旅行のバスハイクで、親子三人、大分日田温泉への一日旅行。

 朝になって、ふと、自宅のクーラーを消し忘れてるんじゃないかということに気が付いた。
 しげに、「クーラー、消してないかな?」と聞いたら、軽く「かもね」と答えた。
かもね、じゃねーだろ、と慌てて飛び起きる。 
 うちのクーラーも、かなりガタが来ていて、すぐに埃が詰まって水が逆流してしまう。先日は水浸しになったキーボードがイカレてしまって、買い直さなきゃならない事態になってしまったのだ。もしかしたら、もうクーラーの真下は水浸しになってるかも、と不安になって、自宅にとって返す。
 部屋に入ってみると、クーラーも電気もテレビも全部点けっぱなしである。後から出たのはしげだったので、全部しげの消し忘れなのだが、しげは「どんなに慌てて出たかが分かるね」と言ってノンシャランとしている。私が同じ失敗をすればジト目で睨めつけるくせに、他人に厳しく自分に優しいジャイアン気質は、しげのホネの髄にまで染み付いているのである。

 朝食を三人でまた「ジョイフル」で取る。
 日曜、朝の恒例、『仮面ライダー響鬼』を居間で見るが、父はさすがにこれには付き合わない。別の部屋で朝のニュース番組を一人で見ていたが、同居することになればこういうちょっとしたことですれ違いが生まれてしまうことだろう。年を取れば取るほど、頑固さだけは弥増していくだろうに、我慢できるのかなあ。

 『響鬼』は二十七之巻 「伝える絆」。
 前回より新登場の努(渋谷謙人)が、「親の反対で鬼になることをあきらめた」元鬼候補であったことが判明。名字はなんて言うんだろうか、ツトム君。ツクモとかツジサワとかツワブキとかかなとか、どうも本筋以外のことを気にしてしまうのはもうかなり病膏肓である。今のところ全話録画してるんだが、特典映像次第で改めてDVDを買うべきかどうか思案中だ。
 「鬼にならなくても明日夢は弟子」。このヒビキの台詞は効いたなあ。申し訳ない、私はまだまだ『響鬼』を甘く見ていた。全体的にトボケてるし、ベタなギャグも多いし、面白いけれど逆に言えば「軽くてお気楽」なお話で、石森章太郎のマンガが本質的に持っている暗さ、そういうものとはもう決別した『仮面ライダー』をスタッフは作るつもりなんだろうと勝手に思っていたのだが、違った。
 ストーリーは遅々として進まないが(笑)、それはじっくりと「受け継がれる魂」を描こうとする物語だったからなのだね。『五重塔』だよ、職人映画だよ、これ。そういうのを深刻に説教臭く語らせるんじゃなくて、何気ない会話の中で、さらりと言わせるところが上手いわ。
 ラストの花火のシーンもいいねえ。お子さんと一緒に見ているお父さんお母さんは、お子さんから「『たまや』って何?」と聞かれたら、ちゃんと答えてあげよう(笑)。でも、勢治郎が2週連続で出演してないのがちょっと気にかかるな。下條さん、夏休み?
 あと、先週から始まった劇場版の予告パロディ編が本編以上に(と言っちゃ悪いけど)面白い。ザンキは映画では「トウキ」って役で登場するのだね。それをアスムが「ザンキさんでしょザンキさんでしょ」と突っ込むので、ザンキがついボケてしまう。あの渋くて渋くて渋いザンキにボケキャラを演じさせるってんだから、これはもう大笑い。完全にスタッフのアイデア勝ちだね。アスム君が全然イヤミじゃないのもいいんだよなあ。
 それから、これはお知らせですが、8月24日(水)の『愛のエプロン』に細川茂樹さんが出演するそうです。さすがのヒビキもインリンの超激マズ腐れ料理に果たして耐えられるかどうかミモノなので、ファンはぜひとも見ましょうね(後からこの日記読む人には意味のない告知でした)。


 『響鬼』を見終わって、いざ出かけようとしたら、父は自分の部屋で居眠りしていた。私たちがうっかり寝過ごさないようにと、前日から泊めていたくせに、自分が寝過ごしてちゃ世話はない。疲れてる上に酒が効いていたのかもしれないが、放置はできないので無理やり揺り起こす。
 「石原慎太郎がテレビに出とったけん、見ようとしたら、寝てしもうた」
 「で、石原慎太郎は何喋りよったん?」
 「寝とったけん分からん」
 即寝かい。「いつでもどこでも三秒で眠れる」のは我が家の血筋のようだ。

 バスを乗り継いで、天神の日銀前に9時半に到着。
 参加者は総勢29名とか。殆どが爺ちゃん婆ちゃんであるが、親子連れも何組か。中年の女性同士もいるが、若い男女のカップルというのは見当たらない。
 安い旅行をするにはバスハイクは結構穴だと思うんだけれど、やっぱりジジババ向きってイメージが邪魔してるのかもね。
 帰省ラッシュで、時間通りに到着できないかも、という添乗員さんのアナウンスであったが、途中の高速道路は案外スムーズに行けた。
 むしろ、最初の訪問地である「龍門の滝」に着いてからの方が、観光客が大挙して押し寄せていてバスを停める場所が全くなく、立ち往生してしまった。
 仕方なく運転手さんが橋の真ん中でバスをいったん停めて、乗客を降ろし始めたのだが、後ろに付いていた車がこれに腹を立てた。「ワレ、何しとんじゃ! ちゃんと誘導せんかい!」とサングラスをかけたあんちゃんが車を降りてきて、運転手さんに向かって怒鳴ってきた。
 私たちは、バスから降りてきてちょうどその場面に出くわしたのだが、父がいきなり「ちゃんと誘導しよるよ!」と口を差し挟んだので、一瞬、血の気が引いた。火に油を注ぐつもりかこのオヤジ、と思ったら、そう言い放った途端、そそくさとその場を離れてあっちに行ってしまったのである。って、おい。
 後に残されたバスの運転手さんとサングラスのあんちゃんは、顔と顔を五センチくらい近づけて睨みあっている。乱暴でも働くようなら止めなきゃと、私も含めて何人か乗客が様子を見ていたので、ややあってあんちゃんは舌打ちして自分の車に戻って行ったが、全く冷や汗がドッと流れたことであった。
 なんつーかね、オヤジもね、ボケかけてるとは言ってもね、こーゆートラブルの種撒いて自分ひとりだけとっとと逃げるようなマネはね、さすがにやめてほしいんだけどね。マンガだよこれじゃ。

 昼食は「龍門茶家」といういかにも鄙びたよろずや風の店の座敷で、鮎の煮付けに名物だという鴨そば。「鴨」と言いながら入っている肉はあまり鴨っぽくなく鰯っぽかったが、汁は肉の味がしたからやっぱり鴨だったのかも。ニンジンが程よく柔らかく味が滲みていて美味い。こういう田舎そばはも一つ、こんにゃくが入っていたら極上なんだが、そこが物足りなかった。
 「龍門の滝」は、日田から耶馬渓に至るまでの間に無数にある滝の一つで、ただ眺めるだけではなく、流れ落ちる途中が緩やかな棚になっていて、ウォータースライダーのように上から滑り降りることができるのが特徴である。言ってみるともう、ざっと見ても二、三百人くらいの観光客、キャンプを張った連中が滝の周囲に群がっていて、人を掻き分けていかないと川にも近づけないくらいの混雑ぶりだった。何とか水辺まで近づいて見たが、滝の近くの川の水は、普段は恐らく底まで透き通っているのだろうが、今はもう泳いでいる人たちのせいで泥まみれになっている。それでも子供たちはみんな気にせずに上からボードに乗って滑り降りてくるのだから、たとえ狭苦しくても楽しいことは楽しいのだろう。
 この近辺は、こないだ『妖怪大戦争』にも登場した「川姫」の伝説が残っているあたりのはずなのだが、これでは獲物にも事欠かないが、引きずり込む場所もありはしないという感じである。
 父が突然、「ああ!」と叫んだので、何事かと思ったら、「ここ、前にバスハイクできたことある!」。以前、秋口にやはりこのバスハイクに申し込んで、一人で来ていたというのだ。
 「あのときは紅葉の時期も過ぎとって、全然人がおらんかったとに、夏場はやっぱり人が来るとばいな」
 と、感心しているのだが、一度来ているのならそう何度も繰り返し来ることはなかったのである。やはりボケが来ているのだが、まだ「一度来たことがある」のを思い出せただけまだマシと言うべきか。
 しげは少し下流の、人がやや少ないところで靴下を脱いで水の中に入り、一人きゃあきゃあと楽しんでいる。犬を連れて川の中に入ってくる人もいて、かなり大きな犬だったのでしげは怖がって逃げた。すると今度はそっちにも犬連れの人がいて、しげはまた逃げる。周囲の人はしげの存在など気にも止めていないが、遠巻きに見ている私には犬に追われて右往左往している様子が可笑しくて、まあしげが楽しめたんだったら来てよかったかなと気を取り直す。
 けど、やたらバーベキューの匂いは臭いわ、あちこちに無造作にゴミは捨てられてるわ、決して気分はよくなかった。バスハイクも少しは状況を考えてコースを決めてほしいものである。

 次に回ったのはまた滝のあるところで「岳切(たっきり)渓谷」。
 今度はバスも入り口の駐車場に停めることができたが、添乗員さんは「時間が50分しかありません。滝までは遠いので見に行っても途中で引き返してもらわなければならないと思います」と言う。だったらそんなところをコースに選ぶなよ(涙)。
 ここも父は「前に来た。先に行っても滝しかなかぜ」と言うので、下流でまたしげがぱちゃぱちゃやって終わり。父は「あのときは紅葉の時期も過ぎとって(以下略)」。まあしげが楽しめたんなら(以下略)。私は蜘蛛の巣だらけのトイレでウ○コした。幸い腹の調子は戻っていて、下痢ではなかった。

 続いて、サッポロビール工場を見学。
 ガイドさんの案内で、ビールの製造過程を説明してもらうが、壁に描かれたイラストが明らかに浦沢直樹の模写だった。酵母の研究をしてる人がマスター・キートンなのである。どこかの業者に依頼して描かせたんだろうけれど、こういうのは問題にはならないのかね。
 ビールの試飲の時間になって、休憩所で一息つき、ようやくここで気分が落ち着いた。時間までビールを何倍飲んでもいいということなので、父はテーブルとカウンターを何度も往復する。私もせっかくだからコップに半分ほど味見をしてみたが、やはり少しも美味くない。私の舌はビールには向いていないのである。あとはお茶とジュースで渇きを満たした。
 土産コーナーで、しげにリボンシトロンのTシャツを買ってやる。恵比寿ビールのTシャツも売っていたが、これはしげの気に入らなかった。結局、今回の土産はこれだけである。

 最終目的地の日田温泉に着いたのは五時半ごろ。滞在は入浴、夕食、鵜飼い見物を含めて約三時間。
 三隈川(筑後川)沿いのホテルで、名前もそのまんま「みくまホテル」である。控え室は三階のホールで、そこで日程の説明を聞く。
 夕食は屋形船の上で鵜飼いを見物しながらということだが、そのとき灯篭を流すこともできるので、希望者は先に申し出るようにとのこと。
 父が「お母さんの分、流そうか」と言うので、「いいけど、二つ買うの?」と答えた。
 「なんで二つも要るとや」
 「……ばあちゃんは?」
 「そうか、ばあちゃんもおったな」
 そりゃいるがな。もう完全に祖母の存在が念頭になかったのである。実は昨日、迎え火をしたときも父は祖母のことを忘れていた。本当にどんどん危なっかしくなっているんだが大丈夫かなあ。大丈夫じゃないよなあ。
 荷物をいったん一階のカウンターに預けて、十階の露天風呂へ向かうが、父は着替えも全部預けてしまったので、風呂から上がって「しもうたなあ、着替え持って来とっても何もならんが」とぼやくぼやく。もう私は慣れたよ。
 総ひのきの露天風呂は六人入れば押し競饅頭になってしまうくらい狭かったが、十一階建てのホテルは周囲でも一番高く、南に耶馬渓を望む眺めはなかなかである。このくらい高いと、夏場でも風は涼しい。男湯はベランダだが、しげは一つ上の屋上でのんびり風呂に入っているはずで、もっと周囲が見渡せていることだろう。

 いったん三階の控え室に降りてしげと合流。
 しげも「リボンちゃんのTシャツ、着替えにすればよかった。服が臭い臭い」と父と似たようなことを言う。
 「からだは洗わなかったのかよ?」
 「うん。浸かっただけ」
 何のために温泉に来たんだか分かりゃしない。
 父は控え室の窓からビデオカメラで三隈川の景色をずっと撮っていて、乗客みんなが出て行くのにも全く気が付かない。「そろそろ時間だよ」とせっついて、一階のロビーに集合する。
 ホテルは直接、川岸に面しているので、屋形船には玄関からではなくてロビーの窓から降りて乗りこむ形。見ると、あっちのホテル、こっちのホテルにもずらりと屋形船が並んでいる。鵜飼い見物はこのあたり一帯のホテルが共同で企画しているもののようだ。
 舟に乗りこんで初めて「鵜飼いの舟が来るのは八時前」と聞かされる。って、まだ六時半じゃないの。いくらなんでも待ちが長すぎるんじゃないのか。
 けれどそれは杞憂であった。前に並べられた御膳の夕食が、ちょっと半端じゃないくらいに大量にあったのだ。食前酒に鮎の姿焼き、刺身にから揚げにステーキに煮付けに団子、海老に海老に海老に海老、鍋にまたしてもそば、グレープフルーツ、最初はやはり刺身のシャキシャキした食感に舌鼓を打っていたのだが、食っても食っても食いきれない。次第に食が進まなくなって、ちょうど食べ終わったころに周囲は真っ暗になり、鵜飼いの舟が次々とやってきた。
 屋形船は、川の中ほどで合体して繋がって停まっている。そこへ、下流の方から先頭に篝火を炊いた舟が一艘、また一艘と、川面を滑るようにかなり速いスピードで近づいてくる。火は見えるが、鵜が乗っているかどうかは分からない。けれど、何週か屋形船の周囲を回った後で、一艘の舟がちょうど私としげが座っている場所の真後ろにぴったりと縁をくっつけてきた。
 「があがあ」と声が聞こえる。ここまで間近なら、私にも篝火の下に群れをなして羽を広げている鵜たちの姿がよく見える。一羽一羽が意外に大きく、ちょっと羽ばたけばこちらにまで飛んで来そうだ。しげは怖がって背中を向けたままだが、それではかえって怖くなるばかりだろう、「前を向けよ」と向かせる。でも前を向いても怖がっている様子がありありだ。
 鵜飼い舟は五分ほどで縁から離れて行った。鵜飼いの実演はなく、鵜を見せに回ってきただけのようだ。多少、看板に偽りありだが、季節の関係でいつもいつも鵜飼いを見せられるものではないらしい。まあ、鵜の実物は見られたので、一応満足ではある。

 その後、母と祖母の灯篭を流す。
 母の灯篭がしばらく流れずに屋形船にくっついていたのを、船頭さんが熊手で川の流れのあるところまで押しやった。
 その様子をビデオカメラで撮りながら、父は「お母さん、なかなか帰らんなあ」と呟いた。
 「これでお盆も終わりたい」と言うので、「明日はどうするの?」と聞いたら、「明日って何や?」とキョトンとした様子。
 「灯篭流したら、明日はもう送り火はせんの?」
 「あ! 送り火があったったい!」
 もう何でもかんでも忘れるのである。そりゃ母も流れて行きにくかろう。

 帰りのバスでは。父も私もぐっすり眠ってしまったが、しげは眠られなかったそうだ。さてまた何を興奮していたものか。

2004年08月14日(土) 月に一度はお芝居に。
2003年08月14日(木) やっぱり長く書けません。/映画『SF巨大生物の島』/DVD『天才マックスの世界』
2002年08月14日(水) 魔性の女/DVD『プカドン交響楽』/『藤子不二雄論』(米沢嘉博)ほか
2001年08月14日(火) 代打日記
2000年08月14日(月) せっかくいい気分だったのに……/映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ほか


2005年08月13日(土) 石井輝男監督、死去/『月館の殺人』上巻(綾辻行人・佐々木倫子)

 映画監督の石井輝男氏が、昨12日、肺がんのため死去。享年81。
 つい先月、『盲獣VS一寸法師』に主演されたリリー・フランキーさんのサイン会で、石井さんの話を伺ったばかりだった。私が「誰が何と言おうと、あれは乱歩の世界を忠実に描いた傑作だと思います」と言ったら、リリーさんは「石井監督も喜ぶと思います。あとで伝えておきます」と仰っておられたが、多分、お伝えする余裕はなかったろう。そのことを残念に思ってはいない。批判の多い映画、キネ旬ベストテンではただの一票も入らなかったが、あの映画の面白さに熱狂したファンは、きっと石井監督の傍にはたくさんいたと信じるからである。
 同じく死の直前まで乱歩に固執した映画監督に深作欣二がいるが、彼の『黒蜥蜴』を見る限り、乱歩への認識は浅薄なものだったと断定せざるを得ない。彼が映画化を模索していた『怪人二十面相』も、完成していたとしても十中八九、駄作になっていただろう。
 石井監督は『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『盲獣VS一寸法師』という二本の乱歩映画を残した。他の乱歩映画の大半が乱歩作品を映画のための素材としてしか扱っていないのに対し、石井作品のみが乱歩の幻魔境を深く理解し、映像化することに成功していた。乱歩の世界はとても寂しい。太宰治のような他人に媚び甘えるための「手段としての孤独」ではなく、人間が人間として生まれてきたからには逃れることのできない根源的な孤独である。乱歩小説の犯罪者たちが、犯罪という反社会的な行為を通してしか世界との接点を持つことができないのは、それが人間を二重三重に囲繞する様々な社会文化的虚飾を排したときに浮かび上がってくる最も根源的かつ究極の「孤独の解消法」だからである。
 『奇形人間』の土方巽も、『一寸法師』のリトル・フランキーも、とても寂しそうだった。二人とも既に故人である。
 映画としての破綻は問題にならない。あの破綻は、狂気と混乱と猥雑によって成立している乱歩世界を活写したことによる必然的な破綻だからである。カルト映画作家として、B級映画の雄として(このどちらの評価も私は好きになれないが)『スーパージャイアンツ』シリーズの、『網走番外地』シリーズの、『忘八武士道』ほか異常性愛路線の、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』二作のつげ義春の理解者としての石井監督を誉めたたえる人は多い。しかし、『奇形人間』や『一寸法師』をギャグではなく乱歩の忠実な映像化作品として評価する人は少ない。乱歩がこれほど人口に膾炙していながら、真の理解者が少なく、逆に世間から拒絶すらされている現状は悲しむべきことであるが、唯一喜ぶべきことは、石井作品だけが映像化という手段でもって乱歩世界を掬い取っていたことだ。他の傑作群についてはあえて触れない。そのことだけを指摘しておきたいと思う。
 先日、チャンネルNECOで清水宏監督の『慕情』が放映されていたが、これが石井監督の助監督デビュー作だった。


 夕方、父のマンションで母の迎え火。
 五時ごろに店まで父を迎えに行く約束だったのだが、時計が四時を回ってすぐ、父から電話がある。「お前、なんでまだ家におるとや?」
 「ああ、今から出ようかなと思ってたとこだけど」
 「もう俺の方は準備ができたばい」
 「ああ、じゃあ、すぐに行くよ」
 まだ、約束の時間には早いじゃないかと文句は言わない。どうせ、約束の時間なんて忘れてるか思い違いをしているかのどっちかだ。寝こいていたしげを叩き起こして、慌てて飛び出す。
 ウチから店までは車で15分ほどなので、四時半より前に到着した。着く間もなく、椅子に座らされて散髪。
 以前は父が散髪して、洗髪と顔剃りは姉がという仕事分けだったのが、今は父が仕上げまで全部して、姉には触らせようとしない。父と姉の溝はまた少しずつ広がっているように思う。姉は店の片付けを父に任せて足早に帰って行った。
 父は「オレの頭も姉ちゃんはいっちょんしてくれんくなった」とボヤくが、多分、姉に言わせれば「お父さんの方が勝手に別の床屋に行くようになったとよ」と反発することだろう。博多弁で言えば「やおいかん」(どうにもならない)状態で、気休めでもうちょっと仲良くなんて言える感じではない。
 父はこないだから「新しく通帳を作れ」と言っている。微々たるものではあるが、残せる財産は姉にではなく私の名義の通帳に移したいというのである。それはそれで構わないのだが、本来は姉に譲るつもりだった店とか、勝手に売っぱらってその通帳にカネを入れたりしないかと、それが心配だ。私は別に姉とケンカするつもりなんかないのだが、勝手にそんなことをやられた日には、あとで関係がギクシャクするのは目に見えている。そうならないように目を光らせてなきゃならないわけだが、全く爺さんというのは余計な作業ばかり増やしてくれることである。

 店を片付ける父を待つ間、待合で「少年ジャンプ」のバックナンバーなどを浚い読みする。
 『ユート』の最終回などを見るが、全くの尻切れトンボで、ほったゆみさんの無念が偲ばれる。9月、11月に2、3巻が出で、そのときに描き下ろしで完結編が掲載されるようだが、それだけでもとても完結には至るまい。話はいいのに、マンガ家さんの絵にイマイチ花がないのがネックになったと思う。けれど、読者のレベルが“また”低くなっていて、やっぱり「キャラ人気」だけがアンケート評価の判断基準になってんだろうなあ、ジャンプは、と思うと、「サンデー」にでも移った方がほったさんにとっては活躍の場が広がるんじゃないかと、そんなふうにも思う。
 『デスノート』はどんどんセリフが上滑りになって行ってつまらなくなってるけど、まだ人気はあるのかな。ライトのとうちゃん、死んじゃったけど、こういうキャラは最後まで生かしといて、ライトの正体を知ってどう行動するかを描いた方がドラマチックになるはずなのである。作者が物語を展開させるのに倦みつつあるのではないかと、ちょっとばかし心配だ。

 五時を回ったころに、父のマンションまで移動。
 途中、本屋に寄って、マンガなどを物色。車を降りるときにやっぱり父はドアが開けられずにモタモタしてしまうので、しげが予めロックを外すようにした。細かいことをすぐ忘れるようになっているので、会わない時間をできるだけ少なくした方がいいような感じである。とは言え、平日とか覗きに行くのはちょっと難しいし、やはり散髪にかこつけて会いに行く方がいいかもしれない。
 マンションの来客用の駐車場、空いているかどうかが心配だったが、まだ時間が早かったので、余裕で駐車できた。
 迎え火は、父が焚き付けの新聞紙をうっかり全部ゴミ出ししてしまっていたので、仕方なくTVガイドを破って火を付ける。ところがマッチの火が付いてもこれがなかなか燃え広がらない。特殊なインクでも使ってるのか、燃えにくくなっているようで、ちょっと手間がかかってしまった。
 「お母さん、なかなか帰って来よらんなあ」
 父が寂しげに呟いたが、もしそうなら理由は何なんだろうね。
 父からはついでに「万葉の湯」にでも行かないかと誘われていたのだが、昨日から下痢がひどく、湯船でつい脱糞でもしたらエライことになってしまうので、それは遠慮することにする。あそこの食堂では今話題の「こどもびいる」を出しているので、行きたいことは行きたかったのであるが。
 代わりにマンションのはす向かいの「ジョイフル」で安い食事。一緒に外食するとなると、父はすぐに奢ろうとするので、こちらの方が父の財布を痛めずにすむ。「たまには高いものでいいやないか」と父は言うが、盆の時期はその「たま」が「しょっちゅう」になるので、これも父の言をそのまま鵜呑みにはできないところである。
 マンションに戻ったところで駐車場を覗いてみると、もう満杯になっていた。もし駐車できなかったら、今日は泊まらずにいったん自宅に帰ろうと考えていたので、これは父のせっかちのおかげである。
 父はもう居間に布団を用意してくれていた。昔の父ならこれも、「自分で押入れから出して勝手に寝ろ」と言うところだろうが、息子夫婦に妙に気遣いをするようになっているのである。こういうことをされる方がかえって寂しいんだがなあ。

 テレビを見ながら、横になった途端に疲れがどっと出て、先に眠る。
 多分、8時になったかならないかくらいのころで、寝が浅かったのか、2、3時間ほどで目が覚める。『エンタの神様』をやっていたが、波田陽区やレギュラーが既にあまり面白くなく、出演時間もかなり削られている。売れたのがそもそも間違いみたいな芸とも言えない芸ばかりだから、もちっとネタを磨くなり新しい切り口を考えるなりしないと、「世間の予測どおりに」早晩消えちゃうぞ。


 マンガ、綾辻行人原作・佐々木倫子漫画『月館の殺人』上巻(小学館)。
 話題のコラボレーション作品が、既連載分が一冊に達した時点ですぐの単行本化。待ち望まれてたのがよく分かる。
 連載第一回の「IKKI」の表紙を見たときには、その意外な組み合わせにちょっと驚いたものだったが、考えてみれば佐々木さんは、『動物の御医者さん』以前には『ペパミント・スパイ』や『忘却』シリーズの中で、何作もミステリーマンガを描いていたのである。『動物の御医者さん』の中でも、漆原教授が持っていた写真の女は誰かとか、日常の中で起きた「謎」を追う話がいくつかあった。
 のほほんとした作風で、真相も「な〜んだ」という落とし話に近い形の解決が図られることが多かったので、血なまぐさく理屈っぽい印象のミステリとはどうにもイメージが結びつかなかったのだが、紛れもなく佐々木さんはデビューのころから「ミステリマンガ家」であったのである。今回はまさに「原点」に戻った作品と言えるだろう。

 雁ヶ谷空海(かりがや・そらみ)は沖縄に住む17歳の女子高生。
 しかし彼女はこれまで沖縄から一歩も外に出たことがない。修学旅行に行ったこともない。彼女の母が異常なほどの「電車嫌い」で、電車に乗ることを許さなかったからである。
 そんな母が亡くなって2ヶ月、天涯孤独の身となった彼女のもとに、母方の祖父の代理人として、弁護士がやってくる。祖父は「高名な人物」で、財産相続の話をするためにも祖父は空海に会いたがっているというのだ。
 まだ見ぬ祖父に会うために、空海は北海道の地に立った。そして、「月館」行きの夜行列車「幻夜」に乗り込む。それは輸入されたあの「オリエント急行」だった。祖父への思いに心を弾ませる空海。
 しかし、一緒に乗り合わせた乗客たちは「コレクション・テツ」「撮りテツ」「乗りテツ」「時刻表テツ」「模型テツ」「鉄道考古学テツ」……みんな揃って「鉄道オタク」であった!
 そして雪に閉ざされた列車の中で新たな「オリエント急行殺人事件」の幕が上がる……。
 
 冗談みたいな設定が、既にミステリーであるが、まあ、この空海の祖父というのが相当な「鉄ちゃん」であることはまず間違いのないことだろう。空海の母が極端な鉄道嫌いになったのも、「パイロット」である空海の父と駆け落ちしたのも、娘に「空」「海」と、「陸」を外した名前を付けたのも、みんな父親への反発だと思われる。
 けれど見当が付くのはそれくらいで、肝心の「密室殺人事件」、犯人もトリックも全然分からない。いや、素直に考えれば事件の裏には祖父が仕掛け人としているんだろうとか、殺人事件に見せかけてるけど実は死んでないんじゃないかとか、いろいろ考えることはできるのだけれど、どうにも推理をする気になれないのね。あの「佐々木さんののほほんとした雰囲気」のせいで。
 つまり、殺人を描いているにもかかわらず(血まみれの死体すら出てくるというのに)、全然、血なまぐさくないし緊迫感もないのだ。登場人物もみな「佐々木ワールド」の住人で、全く犯罪者には見えない。
 殺人が起こったというのに、乗客のテツどもは自分のシュミのことにしか興味がない。小説ならこれはなかなか非人情の世界で殺伐とした空気が漂うものなのだが、これが佐々木さんの筆にかかると実に場面が和んでしまう。だいたい主人公の空海自身が、「密室」と聞いて、「ひも」を使ったトリックを想像して、そのひもにはなぜかマクラが「意味もなく」結び付けられたりしているのである。これ、『本陣殺人事件』のパロディなんだろうなあ。
 即ち、このマンガの最大のトリックは(って、まだ上巻の段階で決め付けるのも早計かもしれないが)、「佐々木さんの絵では誰も犯人に見えない」「佐々木さんの絵でミステリーを描かれても笑ってしまって犯人探しをする気になれない」というメタトリックであるのだ。これは坂口安吾の『不連続殺人事件』を江戸川乱歩が「安吾氏の文体では全ての人物が犯人にしか見えない」と評したのと正反対の効果を生んでいる。だからこそこのミステリは「マンガ」として描かれなければならなかったのではないか。
 いや、もう私はこのマンガに関してはトリックの解明とか、そういうのは放棄してひたすら佐々木さんのほほんギャグの世界に浸りたいと思う。
 「いきなりぎっくり腰」のお母さんも、「あえてセルシオに乗る」弁護士さんも、「選ばれたのだから」の乗客たちも、「ホームを表定速度60キロで走る」お婆さんも、もちろん「この中から結婚相手を選べってことなのね!」の思い込み空海ちゃんも大好きだ。読んでない人には何のことか分からないだろうが、これ全て本作のお間抜けギャグなのである。
 そして、この笑いの果てにはきっと、我々の予測を見事に凌駕した奇想な真実の解明が行われることをぜひ望みたい。

2004年08月13日(金) 博多人のワルクチ
2003年08月13日(水) でもちょっとだけ長く書きました。/『雨天順延 テレビ消灯時間5』(ナンシー関)
2002年08月13日(火) オタクの血/『アンダンテ』2・3巻(小花美穂)/『魔王ダンテ 神略編』1巻(永井豪)
2001年08月13日(月) 代打日記
2000年08月13日(日) 盆がはよ来りゃはよ戻る/『明治快女伝』(森まゆみ)


2005年08月12日(金) これだから腐女子はなあ/DVD『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』ほか

 ふと気が付いたら、この日記をかなり長いこと「お気に入り」に登録してくださっていたある方が、いつの間にか登録を取り消しておりました。
 まあ、そういうこともよくあるのですが(笑)、その方の日記を拝見すると、自分で自分を「腐女子」と言い切って恥じない人でしたので、多分、最近の私の日記の「腐女子はしょうがない」といった一連の記述にハラを立てたのが理由でしょう。『鋼の錬金術師』とか、かなりお好きなようでしたし、『妖怪大戦争』についてもトンチンカンな批判ばかりしてましたし。
 この日記をずっとお読みになっていらっしゃる方なら先刻ご承知のことでしょうが、私の腐女子さんたちに対するスタンスは殆ど容赦がないものです。しばしば「キャラ萌えだけで作品を見るな、普通のファンからはメイワクだ」なんて、存在を全否定していると取られても仕方がないようなモノイイをしてしまうので、逆にその腐女子の方が随分長いこと私の日記に付き合ってきていたということのほうがフシギではあったのです。
 実は以前にも私の日記の内容について、その方は文句を付けてきたことがあって、そのときもその文句がいかに的外れであるかを指摘し反論して黙らせたことがあるのですが、そのときはどうやらしぶしぶではあっても納得はしたようでした。けれども内心ではかなりくすぶっていたものがあったのでしょう。今度は黙って登録削除という態度に出たのだと思います。
 もちろん削除されたことを怒ってもいませんし、非難しようとも思いませんが、結局は「腐女子ってキャラ萌えだけでしか作品を見ないイタいやつ」って批判に耐え切れなかったんだなあと、そのことは残念に思います。過激な表現をあえてしていますから誤解されても仕方がないのですが、私は実は「キャラ萌え」自体は全然否定してはいません。よく読めばそのことには気付いていただけるように書いているのですが、上っ面でしか文章を読んでいない人にはそれが分からないような仕掛けになっています。少しは読解力のある人じゃないかなと思っていたので、そうでもなかったと分かって、それがいささかガッカリだったということです。

 私が常日頃非難しているのは、実は「批判に耐えることのできないオタクや腐女子の精神的な脆弱さ」のほうだと言っていいでしょう。どんな作品でも、全ての人から完全に受け入れられることなんてありえません。完璧な作品などありえないからです。ですから、他人の批評が自分の意見と違っていて、激烈に批判されることがあったとしても、それに耐える精神力を持つことは「作品を鑑賞する者に等しく求められる最低限のスキル」であるわけですが、これが理解できない人があまりにも多いのです。
 私が作品を貶したときに「そんなに腹が立つなら最初から見なきゃいいじゃないか」と文句を付ける人がいますが、こういう人はもう作品を見たり読んだりする資格を初めから放棄しているも同然です。「実際に見なきゃ批判もできるわけがない」、こんな当然のリクツも理解できないくらい、アタマの回転がニブくなってしまっているのですから。好きな作品を貶された腹立ちのあまりの悔し紛れのセリフだとしても、こういうセリフをしょっちゅう吐いているようじゃ、その人の意見はもうマトモに相手にすべきものではなくなってしまいます。
 普通、そういう「常識」は日常会話の中で培われていくものなのですが、それが全然身に付いていないということは、その人が結局は周囲の意見にまるで耳を貸さない傲慢な人間だということを証明しているんですね。「だったらお前もそうじゃないか」と馬鹿はまた墓穴を掘った反論を返してきますが、残念ながら私は殆ど自説には拘っておりません。私は自分の意見は全て『仮説』に過ぎないと思っていますので、自分の意見の根拠を翻すような意見に出会えば、いつだって素直に「ああ、そうだったのか」と自分の意見を取り下げています。実際、そういうことも日記にはよく書いているのですが、私を「自説に拘泥する意地っ張り」に仕立てたい人はそういうところはきちんと読まないんですね。昔、某作家さんとあることについて意見のやり取りをしたときにも、全然こちらの文章を読まずに一方的に自説だけを押し付けてくるので、一度思い込んだら本当に人と言うのは自分を省みられなくなるものだなあと唖然としたことがありました。
 私がそこまでの頑固者ではないということは、例えば、以前、私は『Mr.インクレディブル』についてはかなり高い評価を下していたのですが、アメコミに詳しい箱男さんの今年の7月19日付の日記にこう書いてあるのを読んで、評価がちょっとトーンダウンしたことでも充分にご説明ができると思います。

> 『Mr.インクレディブル』がやっているのは完全に『マーヴルズ』(小学館プロダクション)、『アストロシティ』(ジャイブ)以降のスーパーヒーローコミックスのアニメ版。
> なにしろこの映画、カート・ビュシークが『アストロシティ:ライフ・イン・ザ・ビッグシティ』序文でいっている「もしスーパーヒーローがそんなに強力で実用的な少年の思春期に関するメタファーであるのなら、それを使ってあなたは何か違ったこともできるはずだろう。スーパーヒーローの物語を使って少女の思春期を語ってみては? あるいは壮年期の心理的危機を? あるいは親となった大人が迎える人間としての変化を?」という発言をほとんどそのままとりいれたストーリーなのだ。

 簡単に言えば「やたら持ち上げるほどオリジナルな話じゃない」ということで、もちろんそう思って『Mr.インクレディブル』見返しても、つまんなくなることはないのですが、これまで私はこの映画を大絶賛していたのですが、少なくとも「誰も見たことがないような大傑作」だなんて口にするのは止めようと思った、という次第です。矢玉四郎さんのトンチンカンな批評には疑義を呈しますが、こういう根拠のある指摘について自らの無知不明を省みる気持ちは当然あります。
 ですから、私に文句をつける方は、もちろんいくらして下さっても自由なのですが、自分がどれだけ根拠のある発言をしているか、批判する前に少しは熟慮していただければと思うわけです。私を頑固者だと思う前に、自分が感情的になっているだけじゃないのかとちっとは考えていただきたい。そうでないと、結局作品の価値を貶めることになるのは、オタクであり腐女子である「あなた」だということになるのですから。
 再度繰り返しますが、『鋼の錬金術師』は、原作派とアニメ派が不毛な争いをしなければ、もっと世間的な作品評価は高くなったと思います。プロの評論家ですら「口を挟むのもウンザリ」なんて状況を作り上げてしまったのは大多数の腐女子の皆さん一人一人の責任です。論争には論争をするだけの基本的な素養が必要なのですが、腐女子の皆さんにそれがあまりにも欠けていたことは紛れもない事実なのです。


 「ダコタはすごい」。
 『アイ・アム・サム』をご覧になった方はご首肯いただけるだろうが、知恵遅れな父親を演じたショーン・ペンを向こうに回してのダコタ・ファニングの知性的な演技はとても7歳だとは信じられないほどで、私もしげも、この映画から彼女にすっかり参ってしまっているのである。
 何がすごいって、それはもう、表情の作り方、さりげない仕草、セリフの発声、間の取り方、抑えた中にも滲み出る豊かな感情、その全てであって、『アイ・アム・サム』を私と一緒に見てくれたら、「ホラ、ここのこの演技が彼女の心の中での葛藤を表していてね」と、いちいち全部説明してあげたいくらいなのである。誰も希望はしないだろうが。
 ところが残念なことに、『サム』以降の出演作品には映画としては結構雑なものが多い。『マイ・ボディガード』も『ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ』も『宇宙戦争』も、いずれも脚本に難がある。それでもとりあえずダコっち(勝手にこう呼ばせていただく)が出演していれば、印象が3割は底上げされて見えるから、やはり彼女の実力は映画にとって極めて必要不可欠な要素となっているのである。
 だからまあ、誰が何と言おうと「ダコタの出演作に駄作ナシ」と言い切っちゃっても構わないのだが、それが具体的な「数値」として証明されたような調査がニュースになっている。
 アメリカのエンターテイメント・ウィークリー誌で、ダコっちがこの4年間で出演した12本の映画で打ち出した興行成績を計算したところ、なんと6億4700万ドルを記録していて、ジュリア・ロバーツ(5億8600万ドル)やニコール・キッドマン(4億9700万ドル)など、トップ女優たちの成績を上回っていたことをしょうかいしているのだ。ウィークリー誌が彼女につけた称号が、「ハリウッドで最もパワーを持つ女性」とか。
 興行収入だけで女優の価値が計れるわけでもないし、12本全ての映画がダコっちの主演作品というわけでもないのだから、この試算はどうかというご意見はあろうが、彼女が「このようなニュースの話題になった」ということが大切なのである。既に彼女が「天才子役」ではなく「女優」になったのだという何よりの証明なのだから。日本では神木隆之介君が「天才子役」なんて騒がれているけれども、こういうおべんちゃらでしかない称号は早く取り払われた方がいいのである。神木君ものぼせ上がらなきゃいいけどな。
 人気が出てくれば、いずれバッシングも起こりそうだけれども、それに耐えて「もっといい作品」に出演してくれればいいなあと思う。今んところダコっちの最新作はディズニー・バージョン『となりのトトロ』のサツキの吹替え(メイ役は妹のエル・ファニングだ!)。ジブリ、日本版も英語吹き替え付けて再リリースしてくれ。次回作は往年の名作アニメの実写&CGリメイク『シャーロットのおくりもの』。ダコっちは豚のウィルバーの飼い主の女の子・ファーンを演じる。蜘蛛のシャーロットの声を演じるのが興行収入第二位のジュリア・ロバーツだから、これはもう、大ヒットは間違いなしの予感である。もちろん、原作の絵本が文句なしの傑作なので、別にダコっち目当てでなくても見に行く人が多ければいいなあと願っているんだけどね。


 以前買った『ゴジラDVDボックス』、買ったまま見ないのもなんだというので、休みを利用して片っ端から見ることにする。
 あまり見返す機会のない昭和ゴジラ後半を中心に、コメンタリーを楽しみながら以下の四本。たくさん見たんで、もうコメントは簡単に書く。

 『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』。
 オーディオ・コメンタリーの樋口眞嗣がもう「ガイガンファン」を公言して熱く語る語る(笑)。『ファイナルウォーズ』の特撮、やりたかったろうなあ。いちいち「このカットはあの映画からの流用」「この音楽はあの映画からの流用」と指摘するのはオタク以外の人が聞いたら鬱陶しいかもしれないが、これをやってしまうのがオタクである。樋口さんの指摘にいちいち「そうそう」と頷いている私がいる。そして、メーサーの光線の当たった先にガイガンではなくガイラがいるように見えるのも「錯覚錯覚」と自分にウソをつくのもオタクの性(さが)なのである。

 『ゴジラ対メガロ』。
 コメンタリーは主役の佐々木勝彦。解説で「親子二代に渡ってゴジラ映画に出演された」と言われてたけれども、おじいちゃんの佐々木孝丸から数えて、千秋実(娘婿だけど)、勝彦さんと来るから三代だよ。自分の出演シーンに関しては「ヘタだヘタだ」を連発して、共演の林ゆたかを誉めてばかりいるが、優しい人柄が滲み出てくるコメントで、映画の内容もほのぼのして見える。映画については「メガロのダム破壊のシーンにしかお金をかけていない」当時の映画界斜陽の状況が説明されていて寂しいものがあった。佐々木さんと岸田森との交友の話も必聴。

 『ゴジラ対メカゴジラ』。
 コメンタリーは特技監督の中野昭慶。佐藤勝の音楽は伊福部マーチに比べると評価が落ちるし、佐藤勝自身も自分はゴジラ映画には向いてないと口にすることがあったが、このメカゴジラのテーマはもう痺れるほどにかっこいい。中野さんがコメントしてた通り「アクション映画」としての音楽なのだね。ゴジラ生誕20周年記念映画ということで、お金がちょっと余計に使えて、沖縄ロケもできたわけだが、中野さんのコメントによるとまだアメリカから返還されて数年、米軍基地の数も多くて、ロケハンは外国に行くような雰囲気だったそうだ。今はもちっと変わってるかな。

 『メカゴジラの逆襲』。
 コメンタリーは撮影監督の富岡素敬。こうして見ると、毎回コメンタリーの人選も随分バラエティーに飛んでることが分かるね。
 説明されるまでもなく、本多猪四郎監督久々のゴジラ映画復帰作であり、同時に遺作でもあり、平田昭彦さん最後のゴジラ映画出演作でもあり、本作でいったんゴジラシリーズが終焉を迎えたという、ファンにとっては涙なくしては見られない作品でもある。私は当時、小学校六年生、親の「いい加減で怪獣映画から卒業しなさい」のひと声でこの最終作を劇場に見に行けなかったウラミは未だに深い。こんなことで親子の絆など簡単に切れるのだから、もともと絆とか血に拘っちゃいけないとつくづく思う。

 ほかにも『VSビオランテ』『VSキングギドラ』『VSモスラ』まで見たのだが、もう細かいコメントは避ける。出来の悪いシーンが目立ちすぎて総じて不評の方が多いシリーズだが、見所も決して少なくはない。再評価が必要なのではないかな。
 コメンタリーで大森一樹が田中友幸プロデューサーについて「大人向けにしろと言ったり子供にも分かるようにと言ったり」とその朝令暮改ぶりに文句を言ってたのが印象的だった。悪名高い『ビオランテ』の沢口靖子昇天シーンは田中プロデューサーのゴリ押しだそうだから、あまり大森監督を責めないでやってくださいね。


 週末なので映画に行こうかとしげを誘うが、特に行きたいものがないというので諦める。実は『星になった少年』がかなり気になっているのだが、こういう動物モノでしかも感動モノって、しげは全然興味を惹かれないのだね。いや、私も実話が元になっているとは言え、感動の押し付けをされるのは苦手なんで、話自体には興味はないのだが、ともかく象がいっぱい出るのがいいのである。間違っても主役の男の子に惹かれてではないことを誓っておく(笑)。
 なんたって私は幼稚園のころ、動物園の象の絵を描いて市民賞かなんかを受賞したくらいに根っからの象好きなのだ。亀の次に愛していると言ってもいい。どうしてそんなに象が好きなのかと言われれば理由は簡単で、「でかいから」である。昔、しげがふざけて「象さんパンツ」を買ってきたときも、口では「ヘンなもの買って来るな」とは言ったが、内心喜んでいた。そんな私が『星になった少年』を見ないではいられない気分になっていることをぜひともご理解いただきたいのだが、いかんせん、泣く子と女房には勝てないのである。 
 ああ、もうすぐ公開が終わってしまうと言うのに、私はランディに出会えるのだろうか。


 夜、沖縄から帰ってきた東京のグータロウ君に電話。無事帰宅できたようで重畳である。
 今日、『妖怪大戦争』を見てきたというので、感想を聞いてみたのだが、家族揃って好評のようでよかったよかった。
 「『川姫』っていうのは福岡の妖怪って紹介されてるけど?」と聞かれたので、「福岡の妖怪はともかく河童だよ。北九州には河童地蔵もあるし」と答える。「川姫」というのも河童の異類の一つだろう(あとで調べてみたら、築上郡や大分、四国での名称だと分かった)。
 グータロウ君とこのお子さんたちも、これがきっかけになって民俗学的な見地に目覚めてくれると嬉しいことである。


 映画や小説の感想を書いてると、今度はマンガの感想が書けなくなる。
 更新も遅れがちになるので、かなり省略してるんだけど、かと言って読んだ本のタイトルだけを書くと、それだけでアクセスしてくる人がいるので、それもしにくいのである。また気が向いたらマンガの感想ばかりズラリと書こうかと思っているので、しばしのお待ちを。

2004年08月12日(木) またまた詐欺メール……しつこいってば。
2003年08月12日(火) もうあまり長く書けません/映画『地球へ二千万マイル』
2002年08月12日(月) ほしのローカス(笑)/『トライガン・マキシマム』7巻(内藤泰弘)/『コータローまかりとおる!L』4巻(蛭田達也)ほか
2001年08月12日(日) 代打日記
2000年08月12日(土) 地雷炸裂/『スヌーピー26 ぼくはどこへも行かない夜』(チャールズ・シュルツ)ほか


2005年08月11日(木) 夢の中の人/『ムーミンのふたつの顔』(冨原眞弓)

 福岡市文学館(赤煉瓦文化館)に、会場の予約に出向く。
 こないだ聞いたときには、受付を設置することはできないという話だったのだが、二階を全て借り切るのなら、廊下に受付を出してもよいとのこと。何分、会場が普通の劇場ではなくて「文化財」であるから、縛りはいろいろとあるのだが、それが少し緩和された感じで、少しホッとする。
 まだまだ公演を打つためには乗り越えなきゃなせない壁があれやこれやとあるのだが(特に衣装)、私がやらなきゃならないのは脚本を読んだ役者のみなさんが「これなら演じてみたいな」と思えるものを書くことである。今回は殆どが劇団外部の役者さんの客演ということになるので、プレッシャーも相当なのだな。
 私にプレッシャーなんてあるのかと驚かれる方もいらっしゃるかもしれないが、私にだって赤い血は流れているのであるよ(笑)。


 今朝方、夢を見たのだが、夢の中で私はしげとパンフレットの打ち合わせをしているのである。今度の芝居がこれまでで一番大規模なものになりそうだから(会場は小さいが)、これまで劇団に参加してきたスタッフ、キャストのプロフィールを全員紹介しようと話し合って、見本刷りができてきたのを私は見ている(あくまで夢なんで、現実にこういうパンフはまず作らない)。

 劇団を作ってそろそろ10年になろうかという、歴史だけはそれなりにあるので、関係してきたスタッフ・キャストを客演・お手伝いも含めれば30人くらいにはなる。
 なのに全然大所帯になる様子もなく、キャストを集めるのにも苦労している一番の原因は、主演女優がどんどん辞めていってしまうことにあるのだが、その大半はあえて名前は伏せるけれども関係者にはバレバレな、ある特定個人のせいだったりする。
 まあねえ、あの件とかあの件とか、我々も散々な目に合いはしたが、長い人生、いかんともしがたい運命というものもあろうから、今更何か文句を付けようなんて気は全くないし、少しも恨んだりしていないのである。
 基本的にうちの劇団、出入り自由だから、特に申し出がない限りは正式に退団ってことはない。だから彼のこともまだちゃんと劇団員だと思っている。バツが悪くて顔も見せられないんだろうが、声をかけてくれば、元気にやってるか、くらいの挨拶はする。カネの無心は断るが(笑)。
 けれども、ウワサを聞くと未だにあの件と似たような失敗ばかり繰り返しているようなのだね。いくら何でもちょっと学習能力がなさ過ぎやしないか。
 もう夢なんか見てないで汗水流してちゃんと働けってば。パソコンなんて君には要らん。

 夢の話なのにちょっと現実が混じってしまったが、パンフの中に懐かしい顔がいくつもあったので、ちょっとムカシに思いを馳せてしまったのである。
 あの娘やあの娘は、今ごろどうしているのかなあと写真を見ていきながら、その中に一人の男の子の顔を見つけて、ハッとしたところで目が覚めた。

 赤煉瓦に行った帰り道、車の中でしげに夢を見た話をした。
 「K君、今頃どうしてるかなあ」
 久しぶりにその名前を私が口にするので、しげは意外そうに眉間に皺を寄せて横目で私を見た。K君というのは劇団の創立メンバーの一人で、「P.P.Produce」の「パンプキン・パラダイス」というネーミングも彼が発案した。創立時のうちの劇団の中核をなしていたと言っていい。
 彼にはある持病があって、当人もそれが悪化する危険を感じていながら、「今のうちにやりたいことをやるんだ」と言って、本当にエネルギッシュに活動していた。どれくらいエネルギッシュだったかというと、ピースボートに乗って世界一周の旅に出ていたくらいである。
 劇団の練習に参加しているときも、エチュードをやらせれば抜群に上手く、天性の才能があると思った。贔屓目ではなく、彼がプロの役者になれば舞台であろうと映画であろうと、シリアスなドラマもコメディもこなせる個性的な俳優になれていたと思う。
 第一回公演の少し前までは元気だったのだ。けれども神様はK君にたいして時間をくれなかった(だからやっぱり神様はいないのである)。病状は悪化し、劇団活動はできなくなった。それからしばらくして、K君のご家族から連絡があって、病状がやや回復したことを伝えられはしたが、それでも劇団に戻ることは期待できない状況だった。それ以来、もう十年近くが経ってしまったが、ご家族からの連絡は途絶えている。
 「(ご家族も)よくなったら連絡するって言ってたし、何もないってことはまだよくないってことじゃないの?」
 「やっぱりそうかなあ」
 「あんた、『K君が戻って来るまでは劇団を続ける』って言ってたやん」
 「言ったかな、そんなこと」
 私の記憶ではそれを言ったのはしげだったような気がしたが、しげがそんなふうに思っているんじゃないかと思って、私が代弁したのかもしれない。
 どっちにしろ、私もしげもずっと待っているのである。
 多分、劇団のみんなでK君を知ってる人はやっぱり待っていると思うのである。
 『ゴドー』だね。
 

 このところ、アクセス解析で「日航機事故」「御巣鷹山」「川上慶子」「写真」で検索してくる通りすがりさんが結構いらっしゃって、いささかゲンナリしている。そんな写真、ここにはないぞ。つか、どうしてそんなの見たがるのだ。中にはこれに「美少女」というキーワードまでくっつけて来るやつがいるんで目的はハッキリしてるんだが。
 全く、ネットってのは人間の欲望を吸引して肥大していく妖怪みたいなもんなんだなあと、三流SFマンガみたいなことを考えてしまう。
 何か事件関係の感想を書くと、必ずと言っていいほど何らかの反応がある。時には何千件ものアクセスがあったりするので、「いや、うちはそういうサイトじゃないし」と困惑することもしばしばだ。ただの日記サイトなんだから、「感想」や「批評」はあっても、「情報」はそんなにない。誤解されて覗かれるのも本意ではないので、最近は事件関係については血なまぐさいのが連発していることもあって、書くのを控えるようにしていたのだ。
 ところが、先日からずっとワイドショーの格好のネタになっている「自殺サイト連続殺人事件」、犯人の前上博が、「快楽殺人をテーマにした江戸川乱歩の小説を中学生のころに何冊も読み、影響を受けた」と供述していることがわかって、またもやマスコミの報道の仕方に腹を立てたんで、ちょっとヒトコト言ってやりたくなったのである。
 いやね、乱歩についていろいろ言うやつがいるのはもう乱歩の生前からのことでね、正直、今更なのよ。『蜘蛛男』とか『盲獣』とかさ、今度の光文社の文庫全集版まで、「戦前に削除された部分が復活されなかった」、それくらい淫靡で風紀紊乱の罪があるってことで迫害されてきたんだからね。
 けれど文学が人間の本質を描き出すことを目的としている以上、闇の部分を見通していくことは絶対に必要なことだ。だからこそ乱歩の描いてきたエロ・グロの世界は、どんなに弾圧されても必ず蘇ってきた。この世の中に「快楽殺人の欲求」を持っていない人間なんて存在しない。そこまで行かなくても、「女の首を締めたい」欲求を持たない男なんて存在しない(そこの彼女、彼氏に「あなたは私の首を締めたいと思ったことある?」と聞いて御覧なさい。もしそこで「ないよ」と答えたらそいつは天性のウソツキだから早めに別れた方が無難ですよ)。宮澤賢治にだってマハトマ・ガンジーにだってそれはある。斉木しげるだって「みなさん、女の首を締めたいと思ったことは?」とコントの中で言っている(おいおい)。
 だから我々は乱歩を読み、自らの内なる変態性に向き合いそれを克服する必要があると言える。
 それがまあ、テレビの報道の仕方がどうかって言うと、特定の文庫本をズラッと映し出して、いかにもこれが犯罪の元凶であるかのように演出するのだよ(もちろんそんな馬鹿な報道なんかしない局もあったが)。
 我々もこれまでたくさんの事件を見てきて、事件の全体を詳細にレポートした本なども何十冊も読んできている。だから、犯人が供述する内容が実はきわめて多岐に渡っていることも、テレビや新聞で報道されるのはその中のほんの一部に過ぎないことも、充分知っているのだ。情報の取捨選択の基準となるのは、それがどれほどキャッチーか、悪く言えば扇情的な効果があるかってことに限られていて、「真実を報道する」なんてことをマスコミはこれっぽっちも考えちゃいない。
 犯人の変態性欲が乱歩の小説だけで喚起されたわけではないことは明らかである。しかし、テレビは、マスコミは、常に犯罪の原因が犯人以外のどこかにあるように演出する。いい加減で、「そういう演出こそが事件を単純化し、原因究明を阻害する原因になっている」ことに気付いたらどうなんだ、とマトモな神経の持ち主は誰もが言ってることだ。なのに、マスコミは日本で一番馬鹿な連中が集まるところだからそんな批判にはキョトンとするばかりで、今後も改善の余地はまるで見込めない。
 まあ、乱歩は今更この程度の横ヤリで消されてしまうようなヤワな作家ではない。かえってこれが宣伝になって、全集の売り上げが伸びてくれればいいくらいのものである。乱歩に興奮してまたぞろ犯罪に走るやつが出るんじゃないかと心配の方々にはこう言っておこう。そういう変態は生来のものだから、乱歩を読まなくてもやっぱり必ず犯罪に走るのである。かえって影響を受けて「早めに目覚める」から、早期発見、犠牲者が少なくてすむくらいだ。
 今回の事件で問題になるのは、既に犯人に犯罪歴があり、その性癖が早期発見されていたにもかかわらず、示談だの執行猶予だの微罪だのってことで簡単に社会復帰させた法制度の不備と、こういう変態をぶち込んどく施設を建設しない行政の怠慢と、そもそもこいつがどうしようもない変態だと知っていて放置しといた親の罪だ。なんで早いとこ首締めて殺しておかないかなあ。
 気になるのはねー、こいつ、自殺志願者を殺したわけだからうまい弁護士に当たっちゃったら殺人じゃなくて自殺幇助かなんかになっちゃってまた社会復帰したりしやしないかということなんでねー、さすがにそれはないと信じたいんだけれども、もう何が起こったっておかしかない世の中だからね、ぜひとも検察官のみなさんには頑張ってこういう変態は早めに死刑にもってってほしいのである。


 冨原眞弓『ムーミンのふたつの顔』(筑摩書房)。
 筑摩なら、いつか文庫になるだろうから、それを待ってもよかったかと思うがつい買ってしまった。ムーミンファンも長いと、ちょっとでも目新しい本が出るとつい買ってしまうのである。
 『ムーミン・コミックス』の翻訳のほか、ムーミンシリーズに深く関わった著者による「ムーミン概観」というべき本で、単に作品の紹介に留まることなく、作者のトーベ&ラルス・ヤンソンの小史も付し、世界でのムーミン受容史も可能な限り紹介しており、文化史的にムーミンをどう捉えればよいかを考察するためのよすがとして、非常にうまくまとまっていると言える。
 もちろん、一冊の本にムーミン史をまとめることなど容易なことではないので、物足りなさを覚える面はある。アニメからムーミンに入った世代としては、日本では絶大な人気を誇る「スナフキン」の造形に深く携わった監督の大隅正秋(現・おおすみ正秋。言わずと知れた『ルパン三世』第一シリーズの監督でもある)の名が全く出てこないのが残念でならない(アニメシリーズの流れを概観はしている)。引き合いに出されている『となりのトトロ』(もちろん、「トトロ」の語源となった「トロール」は、「ムーミントロール」のそれと同じものだ)の宮崎駿の名前は出しているのに。
 けれども、逆に「アニメのムーミンしか知らない」日本のファンにとっては、ムーミンが「様々なふたつの顔」を持っていることに驚かされる内容になっている。以前、日記に書いたことがあるが、アニメしか見たことがない人が小説に「ノンノン」が出てこないことに驚いたということがあるのだ(原作ではあくまで「スノークのおじょうさん」である)。
 私とて、アニメのムーミンが初体験であるから、原作小説のいくつかを読んだときにはその「暗さ」に驚いたものである。本書でも内容が詳しく紹介されている『この世のおわりにおびえるフィリフョンカ』では、神経症に罹ったとしか思えないフィリフョンカの姿が描かれ、そして驚いたことに「偶然にも」彼女の不安は的中して、突然の竜巻で彼女は全ての財産を失ってしまうのだ。しかし彼女はようやく「これで破滅の不安に襲われずにすむ」と思い、笑い出してしまう。およそ児童文学には不似合いなブラック・ユーモアで、小学生でこれを読んだときの何とも言葉にできない違和感は、未だに鮮明に脳裏に蘇ってくる。
 作者のトーベ・ヤンソンは、自らのこうした「暗い作品」に「子供向けではないのではないか」と批判が寄せられたときにこう明言している。「説得力のある児童文学とは、象徴や自己同一視や自己執着に満ちていて、幼い読者とは無縁の代物だ」と。簡単に言えば、「私は自分の好きな世界を書く。子供に媚びる気はない」ということであろう。媚びた文学はかえって子供からそっぽを向かれることもしばしばだ。この姿勢があったからこそ、ムーミンシリーズは人間の原初的な感性と感情とを、登場するさまざまな得体の知れないモノノケたちに託して象徴的に描くことが可能だったのだろうと思う。
 日本のファンで、トーベ・ヤンソンがフィンランド人であることはかろうじて知っていても、実は彼女がフィンランドの少数民族であるスウェーデン系フィンランド人であり、ムーミンシリーズが全てスウェーデン語で書かれていたという事実まで知っている人はそう多くはないだろう。そういった作者の出自と、ムーミン一家がムーミン谷に至るまで、家族離散の中で放浪の旅を続けていた事実とは決して無関係ではないと思われる。小説によって、ムーミンたちが一般的な「明るいムーミン」と「寂しく暗いムーミン」のふたつの顔を見せているのは、ヤンソン自身がいくつもの「ふたつの顔」を持っていたことに起因しているのに違いないのだ。
 ヨーロッパのムーミンと日本のムーミン、明るいムーミンと暗いムーミン、ラルス・ヤンソンのムーミンとトーベ・ヤンソンのムーミン、児童文学のムーミンとコミックスのムーミン、そして児童作家としてのヤンソンと、大人作家としてのヤンソン……。いくつもの二項対立を積み重ねながら、筆者はムーミン世界の多様性を詳述していく。
 ムーミンシリーズの開幕作品『小さなトロールと大きな洪水』が上梓されたのは1945年。今年は戦後60年というだけでなく、ムーミン生誕60年でもある。小説のムーミン、コミックスのムーミン、絵本のムーミン、ヤンソンのほかの大人向けの小説、自伝などが今でも全て読めるのは本国フィンランドを除けば、世界では日本だけである。この中のどれか一つしかムーミンを知らないという人には、本書はそのサワリだけでも触れることができるきっかけになると思う。

2004年08月11日(水) ウソツキは恋の始まり
2003年08月11日(月) 水がまた来る/『さちことねこさま』1巻(唐沢なをき)
2002年08月11日(日) 島田賢志君、元気?(読んでねえって)/DVD『∀ガンダム�供〃邯�蝶』/『キカイダー大全』(岩佐陽一編)ほか
2001年08月11日(土) 代打日記
2000年08月11日(金) 小心者は女房に内緒で寿司が食えるか?/『冥王と獣のダンス』(上遠野浩平)ほか


2005年08月10日(水) 14万ヒット御礼/DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻

 この日記も更新遅れを繰り返しながら、ついに14万ヒット。
 しょっちゅう休んでるのに、忘れもしないで覗きに来てくださる方がいらっしゃるのは自分でもフシギで仕方がないのですが、アクセス解析を見ると、しっかりブックマークして下さってたり、いつの間にかリンク張ってたりしてくださってる方もいて、いちいち挨拶はしていないけれども、心から感謝の念を抱いております。
 もちろん、常連さんでいらっしゃっても、毎度毎度これだけ好き勝手なことばかり書いてますから、お怒りの方もいらっしゃるでしょうし、ご批判したい方もたくさんいらっしゃると思います。時間と体力と気力が許す限り、誠実に対応させて頂きますので、いくらでもメールを下さって構いません。
 いや、実際に批判メールを頂いて、意見交換しているうちに、「やっとられんわ」と嫌われてそっぽ向かれちゃうこともよくあるのですが(苦笑)。たいていの人はそういうやり取りも面倒くさくて、「なんだこいつは?」と、覗きに来ることもやめるのが普通だと思います。それなのに、名も知らぬ常連さんがいつの間にか増えているのは、一応、私の駄文にもそれなりの道理があると思って頂けているということなのでしょうか(思い上がりかな)。
 なかなか信じて頂けませんが、私は私と意見が異なる人であっても、嫌いになるということがありません。つか「嫌いになる」という感情がよく分からないのです。言葉が通じなくて途方に暮れたり、トンチンカンなことを言われてムッとしたりすることはあります。けれど、それは相手を嫌いになったということではありません。
 よく日記に悲惨な犯罪事件のことを書いて、犯人のことを嗤ったり罵倒したりしてますが、こういう場合ですら私は犯人のことを憎んだり嫌ったりはしていないのです。たとえどんな極悪人の犯罪者であっても、「人間、一皮向けばみな同じホネ」ってのが持論で、仮に「死ねばいい、あんなやつ」とか言ったりしてたとしてもそれは言葉だけのことです。基本的に私の人間認識は「環境次第でどんな人間だって犯罪者になっちゃうもんだ」ってことなんですよ。まあ、「他人を嫌うことに何の意味があるか」と思ってるって言った方が正しいでしょうか。
 だもんで、仮に私が誰かから悪し様にののしられたとしても、ココロの中は愛でいっぱいですので、決して怒ったりはしません(笑)。
 つか、人から馬鹿にされて怒る人間は、もともと誰かを馬鹿にしたがってる傲慢な人間なんですけどね。怒っていいのは下らない映画を見せられたときだけで充分(笑)。 


 WOWOWで映画『映画女優』。
 劇場公開時に見たときにも、脚本は説明ばかりでセリフが皆無に等しいし、役者は森光子以外大根ばかりだし(特に吉永小百合と菅原文太が学芸会レベルである)、そのあまりの駄作ぶりに閉口してしまったものだが、久しぶりに見返してみるとやっぱりつまらなかった。つか、以前にもまして欠陥をいくらでも指摘することができる。これと『竹取物語』の二本しか市川崑作品を見たことがない人は、この監督はマイケル・ベイ以下の糞監督であると弾劾するに吝かではないだろう。……いや、この二本は市川さんがどうかしちゃった映画なんで、あまり責めないでほしい。あと『鶴』も。
 原作・脚本は『小説田中絹代』の新藤兼人なんだが、田中絹代の長い人生を松竹入社から『西鶴一代女』まで絞ったのは慧眼のように見えて実は中途半端である。これはもう、『西鶴一代女』のバックステージものとして、そこだけに物語を絞った方が散漫な印象を与えずにすんだはずである。もっともそれでも主演二人の大根ぶりは変わるわけでもなかろうから、結局はそこそこにつまんない映画にしかならなかったとは思うが。世のサユリストには悪いけど、田中絹代を吉永小百合に演じさせるってのがそもそもの間違いなんである。「映画はキャストで決まる」ってのは市川さんの持論じゃなかったのかなあ。
 ついこないだ、古川薫の『花も嵐も』を読んだばかりだったので、比較して気付いたのだが、映画では田中絹代と城戸四郎の男女関係については一切触れていない。松竹社長の城戸四郎は、単に田中絹代のよき保護者ということだけの存在ではなかったのだが、そこを描かないと、物語は表面の上澄みだけを掬い取ったような、キレイゴトの世界にしかならなくなる。徴兵忌避をして失踪した絹代の長兄の存在にも一切触れない。この兄の存在が、田中絹代の人生にどれだけ大きな影となってその道を縛ってきたか。それもこの映画は一切描かない。
 実在人物を扱っているのせいで何か差し障りがあったのかもしれないが、だったらもう田中絹代の名前を使わないで映画化した方がよかったのではないか。溝口健二、五所平之助、清水宏、城戸四郎などは名前を変えて登場しているのに、小津安二郎や鈴木伝明、大日向伝、牛原虚彦などは実名のままというアンバランスさが、この映画の居心地の悪さをそのまま象徴しているのである。随所に映画史に残る傑作のスチールやフィルムが挿入されるが、これがまた物語の流れを阻害して鬱陶しくて仕方がなかった。
 この映画だけを見て田中絹代という稀代の女優を判断されてしまうと本気で困る。こんな中身スッカラカンの伝記映画を見るよりは、オリジナルの田中絹代の映画に当たってもらいたい。日本映画専門チャンネルとかで時々放映してるから、まめにチェックしてくださいな。代表作の『愛染かつら』は今の若い人には少々辛いかもしれないけれど、感性が磨耗してなければ見所はたくさん発見できると思う。『伊豆の踊子』『お琴と佐助』あたりは文芸好きな方には必見だし、『西鶴一代女』『雨月物語』は日本映画黄金期の映画が世界に与えた影響の大きさをその画面から如実に感じ取ることができる。『サンダカン八番娼館 望郷』はもう役者の演技ってここまでの表現ができるものなのかって驚きに魂が震えるほどだ。


 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖國論』(幻冬舎)。
靖国神社をどう考えるかってことについての私の意見というかスタンスは特にない(笑)。誰が何を信仰しようとそりゃ当人の自由なんだから、知ったこっちゃないって言った方がいいかもしれない。私には右も左も関係ないし、カミサマとか英霊も信じてないから、基本的に靖国に対する思いは何もないのである。
 だからと言うわけではないが、靖国問題に関して私は、右とか左とかに左右されずに、比較的客観的に状況を見られているほうだと思う。つまり私は別に小林よしのり信者ではないということで(笑)。このことを先に明言しておかないと、やたら「てめえ、右だろう」と勘違いされてしまうので、面倒くさいのである。
 基本的に小林さんの靖国神社についての歴史認識と判断は普通に正しい。「靖国の存在自体がかの侵略戦争を肯定している」というアチラさんの主張が難癖に過ぎないことは、「靖国に祀られているのはペリー来航以来の英霊」という事実だけで簡単に証明できる。それなのにいつまで経ってもアチラさんが難癖を付けるのを止めないのは、アチラさんが「反日」を国家統合のためのスローガンとして利用しているからだ。
 日本人にとって神社とは宗教というよりは「習俗」なのであって、政治にも信仰にも関係なく、これを拝む。初詣をするクリスチャンがいてまるでおかしくないのは、日本においては宗教が常に習俗化される文化が存在しているからだ。「食事の前に手を合わせる」のも何かに対して拝んでいるわけではない(ご先祖様だったりお天道様だったりするが、極めて曖昧である)。
 外国人は日本人の宗教ちゃんぽん行為に首を傾げるが、こういった習慣・文化を知らなければいつまで経っても疑問は消えないだろう。お隣さんたちは自分たちが日本の文化のルーツだと信じていて、宗教観も似たようなもんだと思い込んでいるから、なおのこと理解が難しくなってしまっている。日本人の宗教観はかなりの部分で他国と隔絶しているのだ。
 だから私も、カミサマなんぞ信じちゃいないが、神社に行けば手を合わせる。靖国で手を合わせても、これは「あなたたちの無念を晴らすためにいつかあの国とかあの国とかあの国をぶっ潰してやりますから」という意味にはならない。
 しかしアチラの国については、宗教は即政治である。「英霊を祀る」行為は、復讐を誓っているとしか受け取られまいし、そして政府は国民にそう喧伝している。そうすることで、国内政治の混沌を隠蔽し、恨みつらみを国外に転化しているわけだ。
 歴史の捏造はどの国でも自国に都合よく行っていることだが、ありがたいことに、アチラさんには実に簡単に洗脳されるアタマのお弱い方がいっぱいいらっしゃって、政府のプロパガンダをいとも簡単に信じて支持してくれているのである。ちょっとネットを開けば世界各国の情報も入手できるのだから自国の情報ばかりが正しいわけではないと気付きそうなものなのだが、多分、国民の大半が文盲なのであろう。馬鹿の一つ覚えのようにしょっちゅう反日デモばかり起こして日の丸を焼いているが、暴動を起こすやつに正義があってたまるか。
 だから馬鹿にビビッて、A級戦犯の分祀だの無宗教の慰霊碑の建立だの、そんな姑息な手段で解決を図ろうとしたって、こちらが一つ要求を飲めば図に乗って別の難癖を付けてくるに決まっているのだから、結局は何の意味もないのだ。どんなに困ってるときでも、馬鹿の言うことを聞いちゃいけないってことね。
これは小林さんだけが指摘していることではなく、現実にアチラの政治状況を見ていれば誰にでも理解できる紛れもない事実であるので、ゴーマニズムに反発を覚えている人でもこの点に関しては小林さんと意見を一にしなければならないことだろう。それにアチラの人でも、特に洗脳されてない人は反日デモに参加なんかしないのである。
 ただそれでも問題がややこしくなってしまうのは、日本人の中にもやっぱりアチラさんを憎み蔑み、「いつか復讐してやるぞ」と心に誓ってる連中はいて、そういうやつらと同一視されたくないから靖国参拝を控えざるを得ない普通の人々もいっぱいいるだろうなと思うわけである。筆頭は天皇陛下(笑)。
 鑑みるに、小林さんは右に行く一歩手前で踏みとどまっていると思う。これまでの言動を見て行けば、街宣車でがなり立ててるいかれた連中と一緒にならんことははっきりしている。それをいかにも軍国主義の権化のように口汚くののしっているのは、左翼の方がよりトチ狂ってると言われても仕方のないところだ。
 確かに、小林さんは資料の読み間違いも多いし、南京大虐殺はなかった(かも知れない程度で押さえているけど)とか、全ての主張を鵜呑みにするわけにはいかなってことも分かりはするのだ。感情に流された勢いで馬鹿だの狂ってるだのテキさんをわざと挑発するようなモノイイをするのだって、あまりうまいやり方ではない。
 しかし、だからと言って、いくつかの誤謬だけを根拠に「小林よしのりの言ってることが全て間違い」だなんて断言していいわけがない。
 これまで小林さんが『ゴー宣』で俎上に乗せてきた題材はどれもこれも一筋縄ではいかない困難な問題を含んでいるものばかりで、ちょっとした話し合いであっさり解決できるなんて簡単なものは殆どなかった。薬害エイズの事件についても、オウム真理教事件についても、従軍慰安婦の件についても文字通り小林さんは体を張って取り組んでいる。これだけの事件に首を突っ込んで、とりあえずできるだけ角を立てないように冷静に対応しようったって、土台無理な話なのだ。論戦になれば結局は激しく言葉をぶつけあい「馬鹿阿呆間抜け」とののしりあわざるをえなくなる。しかし、それだけの言葉をぶつけるということは、小林さんがまさに「本気」だということの証ではないのか。
 だから読む方だって最初から「小林よしのりの言うことだから」で初めから鼻で笑ったような読み方をするもんじゃないよと思うのである。相変わらずコマ割りはヘタだし、恣意的でわざとらしい表現は多いし、習俗の問題を政治にすり替えようとする意図は見受けられて、そこんところが一番鬱陶しいのだが、少なくとも極右の人たちのように日本の軍国主義化を標榜しているわけでは決してない。そんなふうに小林さんのマンガを読み取りたがってる左の人は多いようだけれど、それも政治的かつ恣意的に過ぎる読み方である。
 ディテールに腑に落ちない部分はあっても、「靖国の存在が外圧に左右されてどうにかされてよいことではない」という基本的な主張は全面的に正しい。一時期に比べればアチラさんのデモもだいぶ沈下しているが、これはやはり国際的な批判を浴びたおかげだから、外圧に弱いのはアチラさんも同じなのである。受けに回った方が立場が弱くなるのは当然だから、小林さんの責めの姿勢はやはり貴重だと思う。
 まあ、批判したい人はもちろんして構わないんだけど、「コヴァ」なんて斜に構えたモノイイで論争を最初から回避するような態度はやめといてほしいんだけどねえ。

 
 DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻。
 初回生産限定豪華コレクターパッケージ仕様ってやつで、黒っぽいカバー(色弱なんで色は分からん)に、英語で「Victorian Romance Emma」って華麗に書かれてるのがすげえ素敵。って、パッケージに惹かれてうっかり買っちゃったみたいだが、もちろん中身のアニメも傑作である。 
 いつの間にやら「メイド萌え」モノがアニメ界を席巻するようになって久しいが、私は多感な学生のころですら特にアンナミラーズにもハマらなかった朴念仁であるので、メイドコスとかにはまるで興味がない。アニメ見ててもフリフリ作画するの大変だろうなあとか、そんなことしか思わない(『ぷぎゅる』とかはその心配いらないから楽だな。ってあれもメイドアニメって言っていいのか)。
 ところがもうファンには一切説明は要るまいが、これはメイドさんに「ご主人様、何でもお言いつけを♪」とこぼれそうな微笑みでかしずいてもらってる主人公に感情移入してムネがドッキンドッキンバックバックしちゃうような妄想逞しいオタクのためのメイドアニメなどではないのである。もちろんそういう観点で見ることだって不可能ではないのだが、それ以前にこれはもうイギリス・ビクトリア朝・ロンドンを舞台にした世紀の大ロマンであり、近代小説が「恋愛」という、ドラマを構築するための重要な要素を獲得したのが、まさにこのビクトリア朝の身分社会を活写することから始まっていることを確認させてくれる画期的な物語であるのだ。
 浅薄な知識なのでいろいろ突っ込まれたい方はおありだろうが、『チャタレイ夫人の恋人』を生み出した土壌もここにあり、全てのハーレクイン・ロマンスの、メアリー・ウェストマコット(正体はあの人ですね)の諸作のルーツもこの時代に求めることができるという理解はそれほど外れてはいないと思う。
 私が原作マンガの『エマ』を見て、今更ながら、ああ、と嘆息したのは、小説以上に広範な守備範囲を誇り、古代ギリシャから近代ヨーロッパ、アメリカ西部劇の時代まで、ありとあらゆる時代、国を舞台に物語を展開させてきた日本のマンガシーンが、この「ビクトリア朝ロンドン」に関しては、ほとんどそのマンガ化と言えば「シャーロック・ホームズ」以外に見るべきものを生み出してこなかったよなあ、という事実である。
 この時代、風俗、これを活写するためには、単に人物のキャラクターが描けていればそれでいいという訳ではない。人々を取り巻くその風景、リージェント・ストリート、コベント・ガーデン、ハイドパーク、ピカデリー・サーカス、タワーブリッジ、ロンドン塔、セントポール大聖堂……。まあ、絵に描くのは大変だってのは分かるけれども、これらが人々の精神世界を象徴する風景としてきちんと描かれ、「機能」していてこそ、近代小説の祖としての恋愛ロマンを現代のマンガとして再生することができるのである。
 ビクトリア朝の美術については、宮崎駿の(美術の山本二三の)アニメ『名探偵ホームズ』の細かいレンガの描き込みを見たときにも舌を巻いたものだったが、原作の森薫の背景描写へのこだわりにはそれ以上の熱情がある。それをアニメはさらにグレードアップ、原作にないディテールに至るまで設定し、動かし、匂うような空気まで感じさせてくれるほどに描き出してくれた。本作の美術を担当した櫻井純子・矢野祐子両氏の仕事はまさしく「入魂」の一語に尽きる。
 ここに描かれている建物が、調度が、衣装が、流行が、ロンドンの人々を支配し拘束しているからこそ、ウィリアム坊ちゃまとエマの恋は「その世界に縛られつつも自由であろうとするエネルギー」を生み出し、ロマンの炎を燃え上がらせているのである。
 まあ、堅っくるしい言い方を避けて簡単に言っちゃえば、女性が一個の人間として「恋愛」できるようになったのは、「身分を越えた恋」を経験できるようになってからってことなんだよね。凡百のメイドアニメが一見、主人公とメイドさんとを対等に描いているように見えながら実はメイドさんが精神的には男の性奴隷となり果てている状況の中で、『エマ』は見事なほどに正統派の恋愛ロマンを蘇らせてくれたってわけ。

 1巻は、第1章「贈り物」、第2章「二つの世界」を収録。
 2巻は、第3章「告白」、第4章「ミューディース」を収録。
 美術の話ばかりしてしまったが、シリーズ構成・脚本の池田眞美子の簡潔でさりげない伏線の張り方の見事さにも感動を覚えるし、決して枚数が多いとは言えない中で、登場人物たちの微妙な表情に気を配り、ここぞというときには髪や衣服の重みまで感じさせるように動かす緻密な作画には私は拍手を惜しまない。いやまあ、スタジオぴえろだし、作画監督も田中比呂人さんをはじめ錚々たる人たちだし、当然のことではあるのだが。
 オーディオコメンタリーは監督の小林常夫さんのほか、時代考証を担当している村上リコさんに加え、なんと原作者の森薫さん自身も登場。でも画面に見入って鼻歌を歌うばかりで、全然解説をしてないのであった。それだけアニメが素晴らしいという逆証明にはなってるけどね。

2004年08月10日(火) 本名、また変わりました(T∇T)。
2003年08月10日(日) 二元論の陥穽/『魔法先生ネギま!』1巻(赤松健)/『金田一耕助ファイル6 人面瘡』(横溝正史)ほか
2002年08月10日(土) 映画ファンってどこにいるの?/DVD『∀ガンダム�機|狼絽�』/『アフター0 著者再編集版』1・2巻(岡崎二郎)ほか
2001年08月10日(金) 代打日記
2000年08月10日(木) トマトの罠/『太陽がいっぱい(リプリー)』(パトリシア・ハイスミス)ほか


2005年08月09日(火) おしまいはおしまい/DVD『ベルヴィル・ランデブー/老婦人とハト』

 『ゴジラ ファイナルウォーズ』のDVD発売記念イベントで、プロデューサーの富山省吾さんが、「ゴジラは最長ブランク9年で復活している。今度もそのくらいでよみがえる。新世代のスタッフで新しいゴジラの復活を待ちたい」と2013年ごろに復活させる意向を語ったそうな。
 「ファイナルってウソじゃん!」と怒っているゴジラファンはもうそんなにはいないと思う。もう騙されるのは何度目だかわかんないくらいだしね。
 富山プロデューサーは『ファイナルウォーズ』公開直後から、「いつか復活」は明言していたから、今更驚きゃしないんだが、それにしても発表が早すぎる。言った舌の根も乾かぬうちに掌返すような態度に出るところが富山さんがファンから嫌われてるとこなんだけど、自覚はないのかね。
 以前、『VSデストロイア』でいったんシリーズに終止符を打ったときも「20世紀中の復活はない」と断言していたのだ。ところがわずか三年で『2000ミレニアム』を製作。けれど前VSシリーズほどにはヒットせず、その後遺症はミレニアムシリーズに最後まで付いて回ったという手痛い失敗があるのに、どうしてまあ、また同じ轍を踏もうとするのか、本気で理解に苦しむよ。
 ハッキリ言うが、ゴジラシリーズには既に往年の神通力はない。なんだかんだで初期のゴジラシリーズは映画が黄金時代だったころの産物である。昭和30年代、子供が楽しみに劇場に見に行くことのできた特撮モノと言えば、ゴジラ(と、他の東宝特撮シリーズ)しかなかったのだ。だから、その「名残り」でVSシリーズには初期ゴジラのファンだった親たちが子供を連れて劇場まで足を運んでくれた。
 けれども、ミレニアムシリーズのころの親たちは、昭和40年代、あるいは「9年間の空白期」のころに子供だった世代である。このころの子供たちにはゴジラ以外に熱中できる特撮モノがほかにもいくらでもある。別に「ゴジラ映画に行かなきゃならない」義務感などはないのだ。ましてや、更に2013年までゴジラ復活を待つということになれば、ゴジラを応援する世代は「VS」シリーズや「ミレニアム」シリーズで育った子供たちということになる。
 あの、どこからどう貶せばいいやら見当が付かぬほどフ抜けたテイタラクの両シリーズに、誰がどれだけの思い入れを持つことができるというのだろう。いくつか部分的に見るべきものはあったとしても、もはやゴジラは特撮の王道ではなく、たくさんある特撮モノの一つでしかない。たとえ10年経とうが20年経とうが、一般人はおろか、特撮オタクの間でも、「ゴジラ復活? へーえ」程度の反応で終わりそうな気がしてならないのだ。
 私だって、決して初代ゴジラからリアルタイムで付き合って来た世代ではない。ゴジラよりもガメラに入れ込んでいた世代であることは明言しておかねばならない。しかしそんな私でも、「ガメラのライバルであったゴジラ」が惨めな末路を迎える姿は、見たくもないのだ。若い連中がゴジラになんて興味ないという態度を取られるのが寂しくて仕方がないのだ。
 観客動員数が落ちている以上、「飢餓感をあおって客を寄せる」という手を打とうという目論見は分からないでもない。けれども現実にそれが成功した例はそんなに多くはない。それに、新世代のクリエイターによる新しいゴジラをったって、それをやろうとして失敗したのがUS版『GODZILLA』ではなかったのか。東宝は単にバクチを打とうとしているだけじゃないのか。
 「ファイナル」だと言ったのなら、その言葉を守って、潔くゴジラは過去の歴史の中に輝く存在のままでいてほしい(つかもうかなり薄汚れてしまったが)。万人を満足させるゴジラ映画なんて、もう作りようがないのだから。
 ……でも、それでも「一縷の望み」を期待してしまう自分が一番切ない。これがオタクの性(さが)ってことなのかねえ。

 
 しげの情緒不安定、まだ何となく緩やかに続く。
 またすぐに自殺未遂なんてことにはなりそうにないし、なったとしても実効性はあまりないことしかしそうにないから、いざというときは何とかなると思いはするのだけれども、脈絡もなくいきなり「オレ、母ちゃんと一緒にいられたの、どっちも五年だけだ」とか呟くのを聞くと、もちっとセルフコントロールしてほしいものだと切に思う。
 要するにしげがどうして自殺なんてことを考えたかというと、私が先に死ぬのがいやだったからである。
 先日、父としげと三人で食事をしたときに、父がいつもの口癖で「お母さん、なんでオレより早く逝ってしもうたかなあ」と呟いたので、「年の順だから仕方ないよ。僕がお父さんより先に死んだらやっぱり怒ろうもん」と私が言ったこともしげの記憶に残っていたのかもしれない。
 でも、十中八九、私の方がしげよりも先に逝く。多分、それは避けられない。
 そのことをしげに言ったら、「あんたは私が死んでも寂しくなかろ?」と来た。
 言いたいことは分かる。私は昔から孤独に慣れているから、しげが先に死んでも耐えることができるが、しげの場合は私が先に死んだらとても孤独に耐えるだけの自信はないと言うのであろう。
 確かに私は一人には慣れているが、かと言って、しげがいなくなって寂しくないわけはない。仮に今しげがいなくなっても、そのあと、自分が誰かと再婚する可能性はまずなかろうと思う。「人間は気が変わるものだから」と言われそうだが、これまでしげに散々ヒドイ目に遭わされてきても、全く浮気心が芽生えなかったように(まあ、コンビニで『プレイボーイ』を見る程度である)、しげ以外の人間との結婚生活というものが、自分が50、60歳になったときの状況を想像してみてもいささかもピンと来ないのである。
 私だって、しげに寂しい思いをさせたいわけではないから、しげが70で死ぬなら80まで生きたい。しげが80まで生きるなら、90まで頑張りたいと思う。でも多分、それは無理だ。だとしたら、願うことは「しげに強くなってほしい」。それしかないではないか。
 今まで散々私の期待を裏切ってくれているのだから、せめてそれだけはしげに望みたいと思うのだが、ダメかねこれも。


 先日6日、毎日新聞の報道で、「甲子園大会の開会式前に、広島代表の高陽東高校が全代表校に黙祷を呼びかけようとしたところ、高野連の幹部が『原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない』と制した」、というのは誤報だったと判明。
 あとで関係者に確認したところ、「取材の不備で、そのような趣旨の発言をしていないことが分かった」んだと。毎日新聞は「おわび」を掲載することを決めたそうだが、さて、気になるのは「取材の不備って、何をどう間違えたのか」、その過程だ。
 高陽東と高野連との間で行き違いがあったのは事実のようだが、それはまあ偶然のいたずらで仕方のない面があったのかもしれない。しかしそれがそのまま事実として報道されず、「言葉の捏造」が行われたとしたら、それは誰のどういう意志が働いたせいなのだろうか。高野連は実際に黙祷を制止させたのだから、そこで「何か」を言ったのは間違いないことである。さらにてっきり黙祷を呼びかけられると思いこんでいた高陽東の選手たちが、素直に「はいそうですか」とは言わなかっただろうことも容易に想像はつく。理由を聞くなり、どの程度強くかは分からないが何らかの抗議はしたろうと思う。そしてそのやりとりを新聞記者に伝えた者が脚色なり誇張を加えたとしたらどうか。そこに脚色者のどういう意志が働いたか、記者の受け取り方にもどの程度バイアスがかかったか。
 まさに「伝言ゲーム」のようだが、私もホモオタさんの件で新聞記者に取材を受けた経験があるから「様子」は見当が付く。新聞記者の方が聞けば腹を立てるかもしれないが、あえて断定させていただく。新聞記者とは決して「事実を報道しよう」などとは考えない人種である。かなり恣意的に記事を作り、しかもそれが限りなく捏造に近い創作であるにもかかわらず、自分がウソをついているという認識がない。ゆえに罪悪感も全くない。自分はあくまで「正義」のために「真実」を書いていると思いこんでいる。ハッキリ言えばただの妄想家だ。
 今回も、「黙祷呼びかけ中止」「選手の抗議」、この二つの事実だけで、実際のやりとりがどうだったか、記者は勝手に想像して記事を書いたと思われるが、その時点でもう記者のアタマの中では「記事」は「事実」であると変換されてしまったのだと思われる。
 「高野連が黙祷呼びかけを拒否した? それはヒロシマの記憶が風化しているせいだな? きっと乱暴な口調で選手たちを傷つけるようなことを言ったに違いない。『ヒロシマなんて関係ない』とかそんなことを言ったんだろう」
 そう思い込んで取材をし、選手が仮にちょっとでも「ニュアンスとしてはそんな感じです」とでも言おうものなら、もうその発言は「事実」ということになってしまう。恐ろしいことのようだが、これは日常の人間関係でもしばしば起こることで、まさに言葉というものが「受け取る者の恣意によって決定されてしまうもの」であることの一つの事例でしかない。
 注意しなければならないことは、新聞や雑誌、マスコミの流すニュースの言葉は、程度の差はあれ100%例外なく基本的には「捏造」であるという認識を持つ必要があるということだ。「捏造」という言葉が過激過ぎるなら「演出」と言ってもいい。「どこそこで事故があった」とか「誰それが何をした」という基本的なことは事実であっても、それを報道する側の姿勢の中に、「このニュースをこのように見せよう、聞かせよう」という「演出」が混じるのである。
 今回の件はその「演出」が「見え透いて」いたから、すぐにバレた。事件としてもそう大したことはないから、収束させるのも簡単だった。しかし、これが「政治的な事件」だったらそう簡単にはいかない。たいていの国民は政治に関してはシロウトであり、騙されないように気をつけていても裏を返されて騙され、真実に気付いたと思ったらまたそこには裏があるという二重三重四重五重のウソに翻弄されてしまうからである。
 「騙されないでいられる国民はいない」、これが政治における唯一の真実である。だからまあ、私はこの日記ではできるだけ政治的なことを書くのは避けているのだが、世の中には「自分には政治的な判断力がある」と思い込んでいる御仁はやたら多いのである。裏の裏まで見通しているのだと自信ありげな人は多いのである。虚飾を剥ぎ取ったその向こうには必ずたった一つの真実があると信じている人は多いのである。
 「自分が事実として受け取っているものも実は虚構である」という認識を前提として持っておかなければ、いざその虚構によって自らの立場が侵食されるような事態が生じたとき、その虚構を捨てられなくなってしまうのだけれどもね。「あの人は私を裏切ってほかの人のもとに走ったけれども、本当は今でも私のことを愛しているのだ」とか。いや、なんか卑俗な例で落としてしまいましたが、別に他意はありません。ホントよ。


 DVD『ベルヴィル・ランデブー』。
 まあ、以前の日記でも散々褒めちぎったから、再度内容を繰り返すことはしないけれども、DVDの画像の明晰さと言ったら、劇場版以上に艶やかだったんで驚いた。映画を見たときは人物の顔とかがやや平板に見えてたんだけれども、発色がハッキリしたおかげで、かなり立体的に見えるようになっているのである。
 解説書も微に入り細に入り、特にミルクマン斎藤さんが「見所」を逐一指摘してくれていたので、「そうだったのか!」と気付いたことも多い。
 最初のモノクローム映像のシーンで、ワンカットだけギターを弾いていたのがジャンゴ・ラインハルトであるとか(だって一瞬だったんだもん)、ホッテントットが踊ってると勘違いしてたのがジョセフィン・ベイカーであるとか(あんな踊り方してるとは知らなかった)、タップを踊って靴に食われたのがフレッド・アステアであったとか(ジンジャー・ロジャースと一緒に出てきてくれれば分かったのだ。だって顔が似てないんだもん)。
 シルヴァン・ショメ監督の前作『老婦人とハト』の主人公の警官がカメオ出演していたことにも気が付かなかった。こういったことは「遊び」だから、作品の価値と直接的な関係はないわけだが、気が付けば気が付いたで新たに「発見」できることも多い。
 そう言えば、広島アニメーション・フェスティバルで本作が上映されたときに、質疑応答の時間にショメ監督に向かって「私もジャンゴ・ラインハルトが大好きなんです!」と上気して質問に立っていたお客さんがいらっしゃったことを思い出した。ショメ監督は「同志がいて嬉しい」とばかりにニコニコして、「ジャンゴ・ラインハルト、そしてジャック・タチはぼくの心の師匠です」といった趣旨のことを話されていたが、その言葉の意味も今回ようやくDVDを購入して合点がいったのである。
 DVDを買う喜びは特典映像にあるが(映画のネット配信が普及してもここまでのサービスはできまい)、まず面白かったのはショメ監督と高畑勲監督との対談である。ショメ監督は、ディズニーなどの資金をかけて時間もかけて作った大作がかえって空疎な内容の作品ばかりになっていることを指摘して、逆に日本のアニメーションが時間も資金も制約を受けていることでかえって豊穣な作品を作り得ているのではないかと、実に見事な分析をしてくれているのだ。
 これに対して高畑監督が苦笑いをしていたのが可笑しい。なんたって、その「時間も資金も制約がある中でアニメを作る」方式を成功させたのは高畑監督のいた東映動画ではなく、そのライバルたる手塚治虫率いる虫プロだったのだから。ショメ監督はそういう日本の事情を知らず、感じたままのことを口にしただけなのだろうが、偶然にも手塚治虫の功績を世界に通じる技術として賞賛した格好になった。手塚嫌いで宮崎信者のアニメファンの方、あまり自説に拘り過ぎない方がよろしいと思いますよ。
 私も手塚アニメと宮崎アニメのどっちが好きかと言われたら、実はやっぱり宮崎アニメ派なのである。東映動画の昔から大ファンではあったが、だからと言って、手塚さんの功績を宮崎駿が口汚くののしるほどに全否定はしていないのだ。『Zガンダム 星を継ぐ者』の感想のときにも書いたが、テレビアニメを見て育った我々は、等しく「テヅカの子ら」であるのだ。
 もう一つ、DVDの嬉しい特典は、ショメ監督のデビュー作、『老婦人とハト』も収録されていることである。これももう7年ほど前に広島アニフェスで見たっきりで、世界のアニメーションに関心の低い日本の現状では、二度と見ることはかなわないだろうと思っていた。基本的にはハートウォームな『ベルヴィル』に対して、こちらは徹頭徹尾ナンセンス&ブラックなホラー・コメディーである。
 腹をすかした警官が、ある老婦人が公園でハトに豪勢なエサを撒いているのを見て、「ハトに変装して食事を恵んでもらう」ことを思いつく。普通ならこんなアホな計画、成功するはずがないのだが、それがなんとうまいこといっちゃうのだね。けれどそこには裏があって……。というストーリー。
 この物語がどれだけブラックかというと、警官がハトに変装するためにハトの羽根を毟って被りものを作るのだが、哀れ裸ん坊になっちゃったハトがどうなったかというと……。いや、とてもグロくて言えねえ(苦笑)。ジブリも本当はこういうブラックなアニメが作れなきゃ、世界に通用するアニメスタジオとは言えないんだけどなあ。

2004年08月09日(月) 「さびしんぼう」は詐欺師のエサ
2003年08月09日(土) 一足遅れの祝4周年/『なんだかコワレ丸』4巻(矢也晶久)/『プリティフェイス』5巻(叶恭弘)
2002年08月09日(金) 文学を教養で語るな/劇場版『機動戦士ガンダム』四部作/『まんがサイエンス�次.蹈椒奪箸陵茲親察戞覆△気蠅茲靴箸�)ほか
2001年08月09日(木) 代打日記
2000年08月09日(水) 姓は愚奈印、名は南公/映画『ジュブナイル』ほか


2005年08月08日(月) 「思想」がらみで映画を見るな/映画『亡国のイージス』

(昨日の日記の続き)
 映画『亡国のイージス』。
 『妖怪大戦争』は満席だったが、こちらは公開後一週間が経ったせいか、かなりお客さんは少なくなっている。入っているのがせいぜい四、五十人くらいで、広い劇場内がやや閑散としている印象。休日の夕方だって言うのに、これでホントに50奥が狙えるのかなあとふと心配になる。
 客層は『妖怪』が親子連ればかりだったのに対して、こちらはカップルや若い女性同士でってのが目立つ。渋いキャスティングだから、大人が多いかと思っていたのだが、おじさんファンの女の子が集まってきているのかな。

 公開前から、あちらのお国で、日本の軍国主義を肯定する映画だとか、出演したあちらの女優さんが本国でバッシングを受けたりとか、映画外での騒動が喧しかった作品である。「なんであの国とかあの国とかあの国とかはいちゃもんばかり付けてくるのだ」ともうウンザリも通り越しているのであるが、この手の映画ではどうしても政治がらみになることを避けられない。
 けれども、『亡国のイージス』は基本的にエンタテインメントである。この程度の物語に目くじらを立てるというのは狭量と言うほかはないし、第一アチラでは反日思想まるだしの(しかも事実の捏造に基づいた)映画を腐るほど作っているのだ。文句を付けられる筋合いのものでもなかろうと思うのだが、自分たちがいかにリクツの通じない難癖を付けているのかって自覚はこれっぽっちもないのであろう。
 あちらさんに反論したところで、マトモに会話ができるわけもない。既知外に既知外めと言ったところで既知外だから理解できないリクツである。あるいは「謀略」を題材にされたことが「図星」だったためにいきり立っているものか。どっちにしろ外野は無視して、この映画は世界にでもどこにでも持っていけばいい。この映画の意味は、世界の観客が判断してくれるだろう。

 海上自衛隊のイージス護衛艦「いそかぜ」の副艦長・宮津弘隆(寺尾聰)が、某国のスパイ・ホ・ヨンファ(中井貴一)と共謀して艦を乗っ取った。
 「現在、本艦の全ミサイルの照準は東京首都圏内に設定されている。その弾頭は通常に非ず」
彼 らは最新特殊兵器「GUSOH(グソー)」で首都東京を狙い、日本政府に防衛庁情報局(DAIS)の存在を公表することのほか、様々な要求を突きつけてくる。
 DAISの渥美大輔(佐藤浩市)は、ヨンファの陰謀を早くから察知し、「いそかぜ」に工作員として如月行(勝地涼)を潜入させていた。しかし先任伍長・仙石恒史(真田広之)の勘違いから、如月の防止工作は失敗に終わってしまう。
 政府は東京壊滅を回避するために「いそかぜ」の爆撃を決定した。タイムリミットまでおよそ10時間。いったんは退艦させられた仙石だったが、事態を解決するべく、一人「いそかぜ」の奪取に舞い戻る。果たして間に合うか。

 原作はかなり以前に読んだので中身を殆ど忘れているのだが、こうして映画にまとめてみると、なんだか『東京湾炎上』か『機動警察パトレイバー2』かって印象を受けるね。もっとも福井晴敏の小説はどれもドラマの骨格は同じなんだが。
 それでも長大な原作を説明過剰に陥ることなく、うまくまとめている印象で、決してつまらないということはない。ヘタな監督だと、背景となる事実の説明をするのにナレーションに頼ったり説明的なセリフばかり連発したりして、ドラマを停滞させてしまうのだが、個々の会話がよく練られていて、もたつきを殆ど感じない。
 「原作派」はやたらと「説明不足」だの「省略のし過ぎ」だのと騒ぐが、「小説と映画はそもそもメディアが違う」という常識がいつまで経っても定着しないのはどういうわけなのだろうか。みんな学校に通ったことがないのだろうか。それとも日本の学校では「小説と映像の読解の仕方の違い」を教えたりしていないのだろうか(してない学校も多いんだろうな)。
 小説が、読者に提供しなければならない情報を「説明」しなければならないのは「文章」の特性として当然なことなのだが、映画は基本的に「映像」なのだから、情報は映像中にモノとして映し込むことしかできない。「説明」することなどはそもそも不可能なのである。従って、映像に描かれたものを情報として還元、あるいは補完するのは、観客の洞察力、想像力に任されている。
 言い換えれば、映画を見てすぐに「分かんない」と文句を付けるやつは、単に自分の無知、無教養、理解力の欠如を告白しているに過ぎないことになる。原作小説を読んでいて「説明不足」とほざくやつはメディアの違いを理解していない知ったかぶりの阿呆なのだ。「分からなくても、説明不足な部分はあっても面白い」ことがなぜ認められないのか、先入観や偏見で映画を見ているからどうしてもそうなってしまう。
 『妖怪大戦争』もそうだったが、ネットでの感想を見ると、この「先入観による読み間違い」があきれるほどに続出している。例えば問題になっている「思想」というやつだが、確かに事件の発端となる宮津副長の息子の論文は随所に引用され、日本が「亡国」と化している状況を痛烈に批判してはいる。ヨンファもまた、「まだ日本人は気が付かないのか」と、その平和ボケぶりを嘲笑する。
 しかし一方では「怠惰な平和」のどこが悪いかとの反論も内調の瀬戸(岸部一徳)によってなされているし、たとえ日本政府の対外政策がふがいなかろうが、それがテロリストの暴挙を正当化していいわけではないことは、まさに仙石の「いそかぜ}奪還行動によって示されている。これを単純に再軍備を奨励しているとか、過去の歴史を反省していないとか、決め付けるやつに言ってやりたいのだが、ではテロに対して唯々諾々と従って、無策でいることがいいとでも言いたいのか、ということだ。仙石は別に「思想」で行動しているではない。ちゃんと映画の中でこう言っているではないか。「これは『任務』だ」と。
 映画が「物語」である以上、そこに登場する人物には大なり小なり必ず何らかの「思想」(行動原理、動機と言ってもいい)が存在する。「桃太郎」が何となく鬼退治をやらかしたり、「シンデレラ」が意味もなく舞踏会に現れたら、ドラマは破綻してしまう。登場人物それぞれの思想が交錯し葛藤が生まれ、複雑な事情が絡み合うことでドラマは成立する。思想はあくまでそのための素材に過ぎないのだ。
 仙石や如月の行動は、あくまで「任務」である。即ち、時代が違い、国が違い、立場が違えば、その「思想」も「任務」も変わるということだ。「思想」が全てに優先される絶対的なものだという見方が一般に支配的になれば、結局は「思想統制」が行われるだけだ。自らの職能に基づいた「任務」に徹することが、思想による洗脳やファシズムを打破する唯一の方法なのである。

 『ローレライ』でも『戦国自衛隊1549』でも、登場人物の何人かに語らせていたように、原作者の福井晴敏自身が安穏とした日本の現状に危惧を描いていることは事実であると思われる。まあ別に福井晴敏に説教されなくても、どうしてここまで日本人は自国民としての誇りを無くし、戦争を対岸の火事としてしか見られなくなってしまったのか、ということを憂えている人は多いだろう。
 しかし、福井作品に登場しているその「思想」の持ち主は、『ローレライ』では浅倉大佐(堤真一)であり、『戦国』では的場毅(鹿賀丈史)であり、本作では宮津隆史及びその父の弘隆(寺尾聰)である。つまりどの作品でも彼らはみな「クーデターの実行犯」として設定されており、最後にそのクーデターが「必ず失敗する」点に注意しなければならないのだ。
 福井作品は全部『機動警察パトレイバー2』だなあと言ったのはまさにこの点にある。彼らはみな柘植行人(根津甚八)の子供たちであるが、一点だけ違っているのは、柘植がクーデターに失敗してもなお「この国の未来を見たい」と呟き、「果たして本当にこの国に未来などがありえるのか」という痛切な問題提起を観客である我々に突きつけたのに対し、福井作品の首謀者たちはいともあっさりと後腐れもなく物語から退場してしまう。
 即ち、誰もが福井作品を見てそこに共通しているとすぐに分かる思想は、たとえこの国がどんなに歪んでいようと、その歪みを正すのに更なる歪みを以て行うことは許されないということ、即ちアンチ・テロリズム、それだけなのである。そしてそれは、どの国がどうとか、一国だけを標的にして批判していることでもないし、自国の歴史を隠蔽・美化するためになされていることでもない。単純に数多くの映画のモチーフとして機能している「暴力の否定」、それがここにあるだけである。
 つまり『亡国のイージス』を「思想的に」批判することは、反作用的に「暴力の肯定」ということになってしまうのだが、あちらさんはそのことを理解して批判しているのだろうか? 十中八九、映画も見てなけりゃ原作小説も読んでないと思うがね。
 理不尽なテロルを防止するためには何が必要なのか、日本はどのような道を辿るべきか、それは憲法改正か自衛隊の自衛軍化かと、観客の身としてはそこまで考えたくはなるのだが、そこまでのメッセージをこの映画は描いてはいない。それを描いていたのは『パトレイバー2』の押井守である(なのにあちらにはサヨクからのバッシングは全くなかったね)。
 今後の日本の行く末は、「映画の外」で観客が勝手に考えればいいことだろう。だから、右の方であろうと左の方であろうと、本作を「自分たちの都合のいいように」思想的に読み解くことは、一般の観客にとってはメイワクなことでしかないのである。だから映画として、アクションやそれぞれの陣営の攻防、役者の演技や演出、そういったものに注目して批評しましょうよ。あと原作と比べてどうってのも、映像表現としての意味を探るよすがの一つとして見るならともかくも、単純比較だけでどっちが上とか下とか、不毛で無意味で馬鹿げたことはしないようにね。

 で、ようやく前置きが終わったのであるが(笑)。いやもうあとは短く書く。
 もう最近は寺尾聰の演技に釘付けになっているので、その「軍人らしさ」に舌を巻いてしまったが、あの「静かな怒り」の表現は寺尾さん以外にはまずできない至芸だろう。これまでの福井作品に主演してきた役所広司や江口洋介、鹿賀丈史と言った連中は寺尾さんの爪の垢を煎じて飲むがよろしい。
 いや、寺尾さんのみならず、これまでの戦争映画や怪獣映画に出演して安っぽい演技で我々のアタマを悩ませてくれていた吉田栄作とか谷原章介とか豊原功輔とか池内万作とか、この人たちが格段に「上手く」なっているのである。これは阪本順治監督のリアルな演出もさることながら、自衛隊の全面協力があったことも大きいだろう。谷原・豊原の二人は「VSゴジラ」シリーズでそれぞれ主役を張った経験があるが、二人ともパンフのプロフィールにそれを載せていない。まあ、こういう渋い演技ができるようになれば、とても恥ずかしくて載せられるものじゃないだろうが。
 怪獣映画で閣議シーンが出てくると、これがもういい役者さんを集めていてもどこか絵空事めいて見えてしまうものであるが、これが実に「ちょうどいい」緊迫感を醸し出しているのである。総じて現実の政治家も緊急事態にはオタオタしてまるでマンガのような醜態を晒してしまうものであるが、現況をなかなか認識できない総理大臣を原田芳雄は好演している。「なんでオレのときに」と呟き、自分の選挙区に帰ることの方を気にしている様子はカリカチュアされているが、現実の総理がこれ以上にマンガチックな存在でであることを我々はよく知っている。平泉成、佐々木勝彦、天田俊明、鹿内孝ら、内閣の面々も、適度な無能さである。
 中井貴一は口跡がハッキリしているわりに、どこかリアリティを感じさせない発声で、ちょっと「使いにくい」役者だろうなあと思っていたのだが、これが某国人にはよく似合う(笑)。ヨンファとジョンヒ(チェ・ミンソ)とが実は兄妹であるという設定は映画の中では具体的に語られず、二人の過去に何があったのかもよく分からない。だから「説明不足だ」と文句付けてる人が多いのだが、家族の写真をヨンファが燃やすシーンで、「何かあったのだろう」と察するだけで「映画としては」充分である。そこに文句を付けるのは映画の見方を知らない人間のすることだ。あとは二人の「妖しい雰囲気」(照)を感じておけばいいではないの。
 で、いいとこだらけかと言うと、主役の二人が演技的には一番弱い(苦笑)。
 如月行の勝地涼君(『1980』で、ともさかりえとエッチしてた子だな)は頑張ってはいるが、アクションに今ひとつ腰が座ってなくて、プロフェッショナルな工作員という感じがしない。真田広之はもう、最近はどの映画に出ても真田広之で。あのいつも鼻で笑ってる演技、役柄を考えて少しは控えるようにしてほしいものだ。
 主役二人がイマイチでも、ほかの要素がかなりよいので、トータルではやはり福井三部作では一番の仕上がりになっている。特撮にあまり頼ってないのもポイントが高い。自衛隊のホンモノの迫力には人間の演技はなかなか太刀打ちできないやな。
 でも世間にはフ抜けた前二作の方が「ファンタジックでよい」なんて批評もあるから、人の感じ方は全く様々である。まあ戦争なんて現実、ファンタジーとして認識しなきゃやってられないってのはあるんだろうけれどもね。

 こないだ買い損なってた『鋼の錬金術師』のパンフレット、デラックス版の方もようやく入手。しかしデラックスと言ってるくせに、たった46ページで1200円ってのはかなりボッてるよなあ。『イージス』がやはり大部でシナリオまで完全収録しているけれども、それでも1000円、『妖怪大戦争』は大判サイズで700円だ。こんなところでセコく稼ごうっての、松竹が未だに傾いたままだっていう証拠なのかな。



(これより本日の日記) 

 深刻なんだかふざけてるんだか、妻が自殺未遂を働いた。
 とだけ書いちゃうと深刻にしか聞こえないので、実態を説明しなきゃならないのだが、しげがやろうとしたのは首吊りでも飛び込みでもなくて、「アイスクリーム死」である。
 昨日の夜中、トイレに起きてみると、しげが台所でうずくまっている。
 「何してんだよ?」と問いかけてみると、「アイス食ってる」と言う。
 様子がおかしくはあったが、私はまだ寝ぼけていたので、「ふーん」と言って便所を済ますと、また寝床に戻った。
 それからしばらくして、またトイレに起きたのだが(頻尿なので、3時間もすれば目覚めてしまうのである)、しげはまだ冷蔵庫の前にうずくまっている。
 「……何やってんだよ?」
 「アイス食ってる」
 「さっきもじゃん。いつまで食ってるんだよ」
 しげはうつむいたまま返事をしない。こちらもまだ眠いので、「いい加減で早く寝ろよ」とだけ声をかけてまた布団にもぐりこんだ。
 その時点で、こいつは「アイスを食いまくって腹を壊して死のうとしてるんだな」と気づいたが、放っておいた。冷蔵庫には二十個くらいアイスを買い込んでおいたが、これを全部食って腹を壊したところで、そうそう死ねるものではないと思ったからである。
 朝になったら、しげはおなかを押さえながら、「しょうゆアイスはまずいよ」と言った。どうやら戦時中に醤油瓶飲み干して徴兵忌避しようとしたエピソードを思い出してやってみたらしい。「そりゃまずいだろう」と言って笑った。
 「アイス食って死のうと思ったのか?」と聞いたら「あんたに助けられたね」と答える。「特に助けなくてもいいと思ったから放っといただけだよ」と返事をして、「アイスはまだ残ってるの?」と尋ねてみたが、もう三、四個しか残っていないと言う。一人でやはり十数個は食っちゃったようだ。これ以上食われても困るので、残りは私が食うことにした。それでこの件は終わりになった。
 しげが本気で死ぬつもりだったのかということについてだが、しげのアタマの状態を考えれば充分本気だったろうと思われる。きっかけや原因はよく分からない。唐突にそんな気分になったものか、例の自殺サイト殺人事件に影響でも受けたのか、最近、私の体調がよくないので不安になったものか。
 どっちにしろ、しばらく傍にはいないといけないかなあと思って、ちょうど仕事がひと段落ついたところでもあったので、今日から夏休みを取ることにする。アイス食ってこちらも腹が壊れてしまったし(笑)。

2004年08月08日(日) 悪魔と狂人の間に…
2003年08月08日(金) 新車の名前はまだない。/DVD『諫山節考』/『低俗霊DAYDREAM』5巻(奥瀬サキ・目黒三吉)ほか
2002年08月08日(木) モラリストは読まないように(^_^;)/『軽井沢シンドロームSPROUT』1巻(たがみよしひさ)ほか
2001年08月08日(水) 代打日記
2000年08月08日(火) ボケ老人の夕べ/『カランコロン漂流記』(水木しげる)ほか


2005年08月07日(日) 日本人の「常識」/映画『妖怪大戦争』

 『仮面ライダー響鬼』第二十六之巻 「刻まれる日々」。
 26話でちょうど折り返し。もっとももう八月に入っちゃってるから、52話放映できるかどうかは分からない。最終回とか一時間スペシャルにしてくれるとか、そういうサービスがあるといいんだけどね。
 ちょこちょこといろんな設定が明らかにされてはいるが、「夏の魔化魍」ってのもかなりいい加減。つか、「黒い謎の男から作られる大きな魔化魍と、白い謎の男から作られる人間と同じ大きさの魔化魍の2種類があって、等身大の魔化魍は夏になると出てくるため、『夏の魔化魍』と呼ばれている」なんて、無駄な設定、作りすぎ。まあドラマは相変わらずまったりしてるけど、まったりしすぎていて、果たしてきちんと終われるのかどうか心配になってきた。つか、終わんなくてもいいのか。なんかいつどこで終わってもおかしくないくらい日常ドラマになっていて、今や特撮版『渡る世間は鬼ばかり』になってる感じだ。まあ下敷きは『寅さん』だけどね。
 今回、下條アトムがお休みだったけれど、単に役者の都合なのか、これもドラマ上の何かの伏線なのか。この人も役に立ってんだか立ってないんだか全然分からないね。

 
 ノルマを果たすようにキャナルシティで映画をハシゴ。
 一本目は『妖怪大戦争』。
水木しげる・荒俣宏・京極夏彦・宮部みゆきの四人共同のプロデュースだけれど、印象としては、「京極色」画より強く出ている感じがする。ともかく妖怪ファンの妖怪ファンによる妖怪ファンのための映画で、次から次へと繰り出されて来る妖怪を見ているだけで楽しい。最初は人間が妖怪を顔出しで演じるということで不安もあったのだが(昔の大映版では「油すまし」や「ぬらりひょん」はかぶりものをしていた)、竹中直人がCGでドデカ頭にさせられていて、ちゃんと油すましに見えたのには大笑い。あれは最後までデカアタマで通してほしかった。
 必ずしも伝承にある妖怪ばかりではなくて、京極さん命名の「新しい」妖怪も多数で、どれが創作された妖怪か探すのも一興だろう。私は大満足であったし、会場満杯の親子連れも大笑い、これはなかなか評判がいいんじゃないかと思っていたのだが、帰宅してネットの反応を見てみると、必ずしもそうでもなかったので、ちょっと驚いてしまった。しかもその中身がかなり「混乱」しているのである。

 映画の何に惹かれどこを見るかというのはもちろん自由である。物語に惹かれるも、キャストに惹かれるも当人の自由であるし、どんな感想を抱いたって自由だ。
 ただそれは「基本的には」ということであって、その映画を見るにはそれなりの「素養」が必要になることは常識であって、映画によっては「素養」に欠けた人間の感想や批評は、無意味などころか映画の価値を不当に貶めることにもなりかねない。
 外国映画で、キリスト教的世界観が分からなければ何のことやら見当もつかない映画はたくさんあるが、そんなことに一向に無頓着に感想を述べて頓珍漢なことを書き散らしているプロと称する批評家は腐るほどいるのである。
 けれども、外国映画のことを日本人が分からない、というのなら仕方のない面はある。けれども、日本人が日本人としての「素養」を知らないということになれば、これはかなりゆゆしき事態ではないかと思う。

 映画に関して賛否両論が巻き起こるのは当然のことだが、『妖怪大戦争』のネットなどでの感想、「否」を唱える人の意見がどうにも「的外れ度」が高いのである。どれだけ混乱しているかというのは、この映画について、「所詮は子供向け」「オトナのお友達しか楽しめない」と正反対の反応があることからも分かる。この映画を「子供が見るか大人が見るか」という視点で見ること自体、「的外れ」なんだが、批評の言葉が少ないというか、映画を見るキャパが狭い連中には、その程度の常識的な見方もできないのである。つか、なんでそんなやつらばっかり映画を見に来てるんだよ。
 確かに映画のセオリー、ドラマツルギーを考えた場合、あえて定石を外している展開は随所にある。しかしそれはこの物語の目的が、映画としての辻褄を合わせることよりも、妖怪という「習俗」をいかに映像に定着させるかという点にあるからで、その前提を理解せずに批評をしても、それはやはり単に難癖をつけることにしかならないのである。
 妖怪の中にも「戦争」をするやつらはいるが、それは狸とか河童とか、数の多いやつらだけのことだ。「落剥した神々たち」は下手をすると人間に「祟る」ことすら忘れてしまっている例が多い。「油すまし」などはどんな妖怪だか分からず、伝承の中ではただそこにいるだけである。
 代表的な反論か「妖怪が戦わないので拍子抜け」というものだが、作中で「妖怪は憎まない、戦わない」存在であるということが言明されているのだから、戦うわけにはいかないのは当然なのである。「四の五の言わずに戦え」と怒り狂ってた人もいるが、何を阿呆なことを言っているのかと理解に苦しむ。よっぽど戦争が好きなのであろう。

 代表的な反論として、「PREMIERE」誌の次の批評を参照してみよう。

>「妖怪大戦争」三池崇史監督以下、豪華なプロデュースチームが放つ自信作だが…
> 妖怪というマイナーな存在を広く一般に知らしめたのは、言うまでもなく水木しげるの一連の著作とアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」である。

 基本的な素養がないと言うのはこのことで、冒頭のこの文章で「はあ?」である。「妖怪がマイナー」って、こいつの出身地には妖怪の伝承は全くなかったのか?
 「腹を出して寝てると“雷様”にへそを取られる」とか「川で遊んでると“河童”に尻こだまを抜かれる」とか。確かに地方ごとに妖怪の伝承はあって、その地域でしか聞いたことのない妖怪というものはあるけれども、全国区的に「有名な妖怪」はいくらでもある。「鍋島の化け猫騒動」が何度映画になったと思ってる? 「なまはげ」は東北だけにしか知られてないか? 福岡などは河童伝承には事欠かず、私も子供のころに近所の「河童おじさん」から延々と河童の話を聞かされたことがあるぞ。
 文学の世界でだって、江戸期以降、妖怪・怪異の類はいくらでも扱われている。小泉八雲の、泉鏡花の妖怪譚はマイナーなのか? 柳田国男の『遠野物語』や『妖怪談義』の存在を知らないのか?
 「口裂け女」や「人面犬」や「トイレの花子さん」など、今も妖怪は生まれ続けているのに、こいつはそういうのを全て「マイナー」と言い切るつもりなのだろうか。
 水木しげるさん自身だって、妖怪の話を初めて知ったのは「のんのんばあ」から聞いたのだと自伝等の著書に何度も書いていることである。『鬼太郎』以前から各地に妖怪伝説はあったのだ。
 けれども、ネットを散見するとこのライター氏と同様の馬鹿意見がやたら幅を利かせているのだ。妖怪はどうのこうのと余計なウンチク垂れるな、なんて意見もあるが、これはウンチクではなくて、「素養」の問題なのである。もし皆さんの中で、「だって『鬼太郎』読むまで妖怪なんて知らなかったもん」と仰る方がおられるのならば、妖怪もいない悲しい環境に育ってきたのだなあと同情を申し上げる。そういう話をしてくれるじいちゃんばあちゃんがただの一人も身近にいなかった孤独な人だってことだから。
 けれどそういう人間にはもともと「妖怪」を語るための素養が備わってはいないのだということを自覚していただきたいものだ。

> いや、1960年代に大映が放った妖怪三部作も忘れちゃならない。三池崇史監督がメガホンを執ったこの久々の本格的な妖怪映画は、大映版を下敷きにしつつ、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきという豪華な顔ぶれがプロデュース・チームを組んで原案に参加したという期待の1本。が、その仕上がりは“微妙”なものと言わざるをえない。
> 最新デジタル・テクノロジーではなく、あえてチープなアナログ感漂う着ぐるみ&特殊メイクを前面に押し出して妖怪を映像化した選択は悪くない。ひょんなことからひ弱ないじめられっ子から妖怪界の救世主、麒麟送子(きりんそうし)に祭り上げられる人気子役、神木隆之介もはまり役で、特大サイズの剣をふるっての大奮闘を披露。妖怪に出くわすたびに愛くるしいびっくり顔を浮かべ、女妖怪、川姫のむっちりとした太股に悩殺される彼の熱演を眺めているだけでも楽しい。
> しかし神木君を取り囲む妖怪たちがはしゃぎすぎで、“大戦争”が繰り広げられるはずのクライマックスはさながらほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会といった風情になってしまい、緊張感は皆無。せっかく神木君扮する主人公タダシが捨て身で勇者へと成長を遂げたというのに、彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこけるというオチにも拍子抜け。愉快なエンターテインメントではあるが、締めるべきところは締めてほしかった。

 ここまでトンチンカンだともう笑うしかない。
 そもそも妖怪たちには加藤保憲(豊川悦史)と戦う意志も力もないということにこのライター氏は全然、気がついていない。一緒に戦おうと仲間に呼びかけても、ほとんどみんな臆病風に吹かれて逃げて行ってしまう(このあたりのシチュエーションは『鬼太郎』版『妖怪大戦争』へのオマージュ)。だいたい呼びかけ人になっている猩猩(近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)の三人(匹?)が、自分たちで戦う気などサラサラなくて、だからこそ稲生家の子孫であるタダシ(神木隆之介)に「麒麟送子」の役目を押し付けているのである。
 その「麒麟送子」が結局は役立たずなのも、彼が所詮は憎しみや恨みに支配されてしまう「人間」に過ぎないからで、「捨て身で勇者へと成長を遂げた」りなどしてはいない。加藤保憲が「人間の憎悪」を糧にして東京の破壊を試みようとしている以上、タダシは最初から最後までカトウに利されるだけの存在でしかないのである。
 人間の努力を鼻で笑い飛ばすように「彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこける」からこそ面白いのである。最終的に加藤を倒すのが人間・佐田(宮迫博之)と妖怪・小豆洗い(岡村隆史)の“最も無力な”コメディアンコンビだという点にこの映画の人を食った(いかにも妖怪らしい)「粋さ」がある。それを感じることができないというのは、これもやはり「素養」がないからなのである。
 「締めるべきところは締めてほしかった」なんて、ちゃんと締めてますがな。「小豆」の伏線もちゃんとじいちゃん(菅原文太。ボケ演技はこの人にしては名演技)が張ってくれてるし、だからこれは伝承や習俗に拠ってる映画だから、妖怪映画として最も適切な終わり方をしているのである。ウソをついて「大人」になったタダシに妖怪たちの姿が見えなくなるってのも、ちゃんと「座敷わらし」の伝承を受け継いでいるのである。あれを否定するのなら、『となりのトトロ』も否定しなさい(別の意味で私は否定するが)。
 ……そう言えば、ぬらりひょん(忌野清志郎)がタダシに向かって「お前、靴が破れたからって捨ててるだろう!」と説教するシーンを見て、「靴が破れたら捨ててもいいじゃないか! 理不尽だ!」と怒りの意見を書いてた人がいたが、これがその理不尽さを狙った「ギャグ」だって気付いてないんだなあ。昔から「化け草履」とか、古くなったモノがこういう「付喪神」になるって感覚はこれも常識的な習俗としてあって、別に「もったいない」という感覚とは関係がないのである。モノは理不尽にも妖怪になるものだって素養がないからギャグの一つも分からなくなっちゃうのだよ。
 まあ、タイトルに『妖怪大戦争』とあるから、すっかり騙されてしまうのだろうが、「ほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会」になってしまうのもわざと「看板に偽りあり」をやってるんで、「妖怪大戦争」のセリフが、「そこに紛れ込んだだけで状況が何も分かってない」佐田の口から出ているという点に着目すべきなのである。妖怪とか鬼とか、よく山ん中で宴会やってるわなあ。そこに紛れ込んじゃった人間がいかに脱出するかって民話とか、たくさんあるよなあ。昔話の『こぶ取りじいさん』とか落語の『田能久』とかの素養もないのかよ。……って、どうしてこうも「俺たちの世代までだったらすぐにピンと来る素養」がこんなにも失われてしまってるのだ?
 確かに、ある程度の知識がないと「これはどういうこと?」と疑問符の浮かぶ説明不足の描写はある。なぜ妖怪と対決する役目がタダシに振られたのか。タダシの名字が「稲生」であることと、最後に山ン本五郎左衛門(荒俣宏)と神野悪五郎(京極夏彦)が登場することに気付けば、彼が『稲生物怪録』の稲生平太郎の子孫なのだなと分かって、それは疑問にもならないのであるが。でもさすがにこれは地元の三次に住んでる人たちでも知ってる人はあまり多くはない伝承だろうから、気づけと言っても難しいかもしれない。
 加藤と川姫、安倍晴明(長澤俊矢)の間に何があったのかも一切説明はされない。だいたい、陰陽師の格好こそしているけれども、加藤の後ろに立ってたのが晴明だとはパンフを見なけりゃ分かるこっちゃない(ワンカットの出演なら、野村萬斎に来てもらえばよかったのに)。川姫が「ヒトガタ」だったことを考えれば、晴明に式として使われ捨てられ、そこに加藤が付けこんだのだろうと見当はつくが。私が驚いたのは、「将門以前」に加藤が存在していたことで、つまり加藤の正体は千年の地霊だということなのだろう。ともかく関東に人がはびこってること自体が気に入らないのだな。
 このあたりは確かに描写として不親切ではあるが、何となく察することができればいい程度のことで、本筋を辿る邪魔にはならないし、腹を立てなきゃならんことはないのである。私が「これはどうかな」と思ったのは川姫の扱い方くらいで、「憎しみを持つのは人間だけ」のセリフを「絶叫」させちゃちょっと妖怪らしくない。あそこは「所詮タダシもただの人間」と、加藤だけでなくタダシもまた糾弾する(自分で麒麟送子にしておきながらヒドイ話である)シーンなのだから、もっと静かに演じてほしかったところだ。
 三池崇史の映画もかなり見てきたが、その演出は、総じて「雑」なので、ディテールに関しては不満が残ることが多い。意外に海外での評判はよいようであるが、去年の『IZO』とか、ドラマなんてないに等しかったけど、一種のトリップ・ムービーとして見られているのだろうか。『妖怪大戦争』も海外展開が考えられているようであるが、日本文化がマトモに継承されていない日本よりは海外の方がかえって作品を深読みしてくれて好評を得るかもしれない。もしそうなれば、またしても「日本人は自らの文化すら知らない」と失笑を買うことになりかねない。世の親御さん、この映画見てお子さんから「これどういうこと?」と聞かれたら、ちゃんと説明してあげてね。説明できたらの話だけど。
 余談だが、主役(実はそうじゃないけど)の神木隆之介君、『インストール』では上戸彩のチチ触ったり、今度は高橋真唯のフトモモ触ったりイイ思いばかりしているが、学校で友達に苛められたりしてないだろうか。心配である。


 続けて『亡国のイージス』も見たのだが、規定分量をオーバーするので、これは明日の日記で。
 ここまでやたら書かなくてもいいと言われそうだが、まだこれでもかなり内容を省略しているのである。映画の見所も見えないのに批判するやつが多くてホント困るよね。

2004年08月07日(土) キャナルシティの『ブルース・ブラザース・ショー』3……多分4まである(^_^;)
2003年08月07日(木) さよならロドリゲス/『クロノアイズ グランサー』2巻(長谷川裕一)/『謎解き少年少女世界の名作』(長山靖生)
2002年08月07日(水) コギャルかく語りき/DVD『久里洋二作品集』/『ヒカルの碁』18巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2001年08月07日(火) 代打日記
2000年08月07日(月) 胃袋には限界があるのだ/『江戸幻想文学史』(高田衛)


2005年08月06日(土) 60年間の原爆/舞台『おじいちゃんの夏』

 『ウルトラマンマックス』第六話「爆撃、5秒前!」(装甲怪獣レッドキング 両棲怪獣サラマドン 飛膜怪獣パラグラー 電脳珍獣ピグモン登場)。
 二話連続、前回の続きで完結編だけれども、まあ予定調和でこんなもんかって終わり方だった。「歩く爆弾」レッドキングの扱い方は旧ウルトラマンと同じように見えるけれども、旧作が水爆を飲み込んでたって設定だったのに対して、今回は島そのものが爆薬で、その岩を飲み込んでいるって設定に変わっている。なんで岩なんか食ってたんだレッドキング。
 水爆なんてツマラヌものを作っちまった人間の浅知恵に対する批判が今回なくなってしまったのは残念で、なるべくメッセージ性を排して純粋エンタテインメントに徹しようというつもりなのかもしれないが、話もその分、薄く軽くなっちゃってるのはなんだかなあである。もっともこの薄さは『ティガ』以降の平成ウルトラマンシリーズに全て共通している要素なんで、今更文句言ったって「色」が変わることはありえまい。でもこの「薄さ」に慣らされちゃってる若いファンが増えてしまって、前作『ネクサス』に過剰なまでの反感を抱いてしまったのはやはりウルトラシリーズにとっては不幸であったと思う。話の広がりと言うか、新しい試みができないような状況を作っちゃってるからね。シリーズというものはこうしてだんだんとマンネリ化し、逼塞していくものなのである。


 広島の原爆投下から60年。
 戦争体験者は、それも終戦時に成年に達していて、あの戦争がどういう戦争であったのかを実体験を元に語れる世代はもう80歳以上になっている。
 「風化を許すな」というスローガンはもう何十年も声高に叫ばれてはいるが、けれども実際にその風化を食い止めるための実効力のある試みがどれだけなされていたのだろうかと思う。
 「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と考えているアメリカ人は人口の八割に上る。未曾有の犯罪を自己正当化して傲然と構えている連中がそれだけいるのである。これは、日本人がアメリカに対して実質上、「反戦のための働きかけを何もしてこなかった」ことの結果ではないのか。自分たちが間違っているという可能性を少しも考えない連中に、ただ「核捨ててよ」と言ったって聞き入れるわけがない。もっと強権的に、たとえ敗戦国民であろうとも、「人間として」、「非戦闘員を大量虐殺する方法に正当性などない」という主張を、アメリカの政府に、マスコミに、教育機関に働きかけることをどうして日本人は怠ってきたのだろうか。
 確かに、毎年毎年、8月6日に、9日に、15日に、広島や長崎は世界に向けて不戦のメッセージを発しているが、どこで誰がそれを受け止めているのだろう。あんなものはただの風物詩にしかなってはいない。
 反戦を訴えながら、現実には日本は日米の協調路線を戦後60年に渡って継続させてきているのだ。政治的なレベルでは日本がアメリカに「核廃絶」を「本気で」訴えたことなど一度もない。現実に核も戦争も許容している歴史に協力していながら「反戦」を題目のように唱えたところで、誰がそれを信じるというのだろう。これでは日本の国内でも戦争の記憶が劣化していくのも当たり前である。
 広島の小学生たちの四割は、60年前の戦争のことも原爆投下のことも知らないという。原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませんから」の「過ち」という言葉に反感を抱いてキズをつけようとした馬鹿も現れている(慰霊碑のあり方に不満があろうが、それを暴力的に破壊しようとする行為が許されるはずがない)。これは「風化」などというヤワい言葉で表される現象ではない。
 日本人はこの60年、積極的にあの戦争を忘れようとしてきたのだ。8月が来るたびに戦争が「過去のもの」であることを確認し、その実態を思い返すことを拒否してきたのである。
 そういう事実を無視して、広島は、長崎は、まだ十年一日のごとく「戦争は人が死ぬからダメだ」の単純かつ表面をなぞっただけの空虚な言葉を発し続けるつもりなのだろうか。たとえ日本が日米安保を破棄できなくても、広島と長崎だけは反米の姿勢を貫かなければならなかったのではないか。家族を、同胞を、愛する人々を虐殺された無念と怨念を、アメリカにぶつける必要があったのではないか。広島と長崎の声は、我々日本人にも届いてはいない。原爆は60年間、まだ投下され続けているのである。そして未来も。


 実は今日はマンガ家の西原理恵子さんのサイン会が福岡で行われていたのだが、ほかに予定が先に入ってしまっていたので行けない(涙)。
 北九州のリバーウォークまで、舞台『おじいちゃんの夏』を見に行くのである。
 今回は、細川嬢とお友達のK嬢ともご一緒なので、一時半に九産大前駅で待ち合わせる。ところがしげが寝坊するわ、駅に着いたら着いたで、無茶苦茶激しい雷雨に見舞われるわで、大変な目に遭った。直径二センチはある雹がダダダダダと降っていて、駅から外に出られなくなってしまったのである。
 少しばかり小降りになったところで、K嬢の運転する車に慌てて移動したが、それでもちょっとばかり濡れた。席を少し湿らせてしまって申し訳ないことであった。ところがこの雨が北九州に向かって走り出した途端、キレイサッパリ上がってしまったのだから、なんだか空にからかわれたような気分である。
 リバーウォークには道を二、三回間違えながら到着。細川嬢もK嬢も現地には二、三回、行ったことがあるそうだが、そのたびに道を間違えているそうである。やっぱり女脳というのは「地図が読めない」ものなのだろうかと考えたが、これは女性差別じゃないよね。

 会場は北九州芸術劇場の小劇場。中や大は入ったことがあるが、小は初めてだろうか。大きさが違うだけかと思ったら、椅子が折りたたみ式の簡易なもの。中や大に比べると、ちょっと「造りが甘い」感じである。
 『おじいちゃんの夏』は今回が再演で、作・演出はもちろんG2さん。初演は見ていないので比較はできないが、ストーリーは同じでもキャストに若干移動があるようだ。

 ある夏の嵐の夜、「ハハキトク」の電報に、山田家のお父さん・育雄(廣川三憲)とお母さん・政子(佐藤真弓)は慌てて実家に飛んで帰ってきた。ところが二人の前に現れたのはまるで元気なおばあちゃん・鈴(武藤晃子)。びっくりしながらもホッとする二人だったが、そこへおじいちゃん・惣一郎(小須田康人)が顔を出し、「たった今、鈴は亡くなったよ」と言う。じゃあ、今ここにいるおばあちゃんは? おばあちゃんは暢気に「あら、私、死んじゃったんだねえ」と微笑む。そしておばあちゃんの幽霊は、最後におじいちゃんに謎の言葉を残して消え去る。「あれをお願いしますよ、あゆみに」。
 おじいちゃんには「あれ」が何だか分からない。それどころか、ショックでおじいちゃんの頭はボケ始めてしまった。そして、3年の月日が経った。
 おじいちゃんの世話をするために。山田一家は実家に引っ越してきていた。おじいちゃんはもう、家族の顔もまるで分からなくなっているが、いつものんびりとマイペースで、そんな姿に、孫のあゆみ(武藤晃子・二役)は、何か癒されるものを感じていた。
 ところが夏休みを目前にして、山田家にとんでもない事態が遅いかかって来る。お父さんが会社をリストラされ、お母さんがサラ金で一千万円もの借金を作っていたのだ。
 借金の取りたてに山田家にねじ込んできた目黒組のヤクザ・太宰正臣(及川直紀)に向かって、お母さんはこともあろうに「あゆみが出場するクイズ番組で優勝して、一千万円を手に入れる」と見得を切ってしまう。けれどその番組「クイズ・ペアでミリオネア」は、家族ペアであることが出場条件。お母さんはクイズなんて全然ダメ、お父さんは舞台度胸がない。いったいどうすれば? 
 しかも、同じ番組に、あゆみのクラスメートで目黒組組長の娘・もみじ(小沢真珠)も出演が決まっていた。子分の桜田しじみ(高木珠里)を従えて親分気取りのもみじは、何かというとあゆみにライバル意識を持って突っかかってくる。今回も太宰をパートナーに、優勝を狙っていたのだ。なんとかトラブルを回避したいあゆみだったが、担任の高崎先生(粟田麗)はちょっと天然が入っていてあまり頼りにならない。
 結局、あゆみのパートナーになれるのはおじいちゃんしかいない。友達の坂本健太(小野ゆたか)に協力してもらって、クイズの特訓に明け暮れるが、おじいちゃんは普通の会話もままならなくなっていて、前途は多難。しかし、そこに思いも寄らない「奇跡」が起こったのだった……。

 一言でまとめちゃうと、G2版『アルジャーノンに花束を』って印象。ちょっとネタをバラしちゃったかな。
 ファミリー演劇も、人情喜劇も初めてで勝手が違ったのかもしれないけれど、果たして「演劇」として作らなければならない物語だったのか、むしろ映画にした方が面白かったのではないかという疑問が残る。
 小須田康人がメイクで老人に扮しているわけだが、これは本当に60代くらいの役者が演じた方がボケの面白さは表現できるだろうし、子供たちだって本当の子供が演じた方がいい。女の子はまだそうでもないが、サカケンを子供に見立てろというのは、ちょっと無理がありすぎる。子供向けの芝居というのはよりリアルを追求しないと逆にそっぽを向かれてしまいかねないということに、G2さんは気付いていないのだろうか。
 「小学六年生」のもみじが、オトナの女性に変装しておじいちゃんを誘惑する、という設定も、演じているのが色気ムンムンの小沢真珠だから、元に戻っただけである。“これではギャグにならない”。現に、ここで会場の子供たちはほとんど笑っていなかった。「だってオトナじゃん」って感じるばかりで、シラケてしまうのである。小学六年生なら本当に大人っぽい女の子もいるから、実際にそういう子を探し出してきて演じさせた方が、「えっ、この子が小学生なの!?」って驚きを共感できるわけで、そっちの方が面白いに決まっているのだ。役者がいくつかの役を演じ分けているのもこの芝居の場合はいただけない。
 小須田さん以下、役者の皆さんは決して下手ではないし、熱演もされているのだが、申し訳ない言い方になるが努力が空回りしている。これはもともと「企画のミス」なのである。
 児童演劇がその観客対象である子供たちからかえってそっぽを向かれてしまうのは、大人には通じる「見立て」が子供には通じにくいのだということを充分に理解していない点に原因があることが多い。子役をそんなに抱えられないという物理的な事情もあるのだろうが、こういう点に気を配っている児童劇団って、実は少ないんだよね。児童劇、ファミリー劇について言えば、原則として「大人は大人の役しかやれない」のである。「大人が何を子供のフリしてるんだ」って思わせちゃダメだってことを認識しないと、結局児童劇は他の演劇から一等低いものとしてしか扱われないのである。

 物語自体は本当に「いい話」だと思うのである。
 おじいちゃんはもうすぐ「逝って」しまう。それは冒頭のおばあちゃんの死からも予測されていたことだ。おじいちゃんの寿命が尽きるあと3年、わずか3年のうちに、あゆみに伝えておかなければならないことがある。
 それは、目に見えて崩壊していく息子や孫たちの間に、「見えない絆」が実はあること、そのことに気がついてもらうことだ。おじいちゃんとおばあちゃんがお父さんやお母さんを愛し育て慈しんだように、どんなにだらしなく見えてもお父さんとお母さんがあゆみを愛しているのだということに気付いてもらうことだ。
 家族の崩壊が如実に現れている現代に、この芝居が訴えているものの意義は大きい。そしてその「絆」は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるから、どうしても「おじいちゃんの口から語られねばならない」のである。
 そのことを考えれば、「年寄りのフリをした」あるいは「子供のフリをした」役者がこの芝居を演じることに欺瞞の匂いが漂ってしまうことにはどうしても避けることができないのである。

 それから余談だけれども、作中、おじいちゃんが語るトリビアの一つに、「不良品のことを指してどうして『オシャカになる』と言うのか」ってことについて、説明がないままであったが、そもそもイマドキの小学生は「オシャカになる」なんて言葉は滅多に使わないだろうから、これも脚本としては不自然である。
 これの語源については、知らない人はどうぞ自分で調べてください。

2004年08月06日(金) 女の子がいっぱい
2003年08月06日(水) 落ちていくのーねー♪/『ミステリー民俗学者八雲樹』5巻(金成陽三郎・山口譲司)/『クレヨンしんちゃん』36巻(臼井儀人)
2002年08月06日(火) プールサイドの妖精……誰が?/映画『パワーパフガールズ ムービー』ほか
2001年08月06日(月) 復活日記(笑)1・加筆もあるでよ/村上春樹『約束された場所で』ほか
2000年08月06日(日) まぬけ三態/『テレビ消灯時間2』(ナンシー関)


2005年08月05日(金) ああ、勘違い/『海野十三敗戦日記』(海野十三著・橋本哲男編)

 夜7時から、天神岩田屋本店(元の「Zサイド」)NTT夢天神ホールで、『Musical Mates Planning vol.3 ミュージカル コズミック・ダンス』を見る。
 原作・脚本が堤亮二、原案・演出が井上ひさお、作曲は山口紗希栄・佐藤金之助・井上寿夫。詳しくは知らないのだが、みなさん地元の方だろうか。
 この劇団の芝居を見に来るのは初めてだけれど、劇団名からも分かる通り、毎回オリジナルのミュージカルを上演しているらしい。出演者は総勢34名、うらやましいくらいの大所帯である。
 物語はこんな感じ。
 大洪水から数百年を経た世界。残された陸地をめぐって、人々は果てることのない争いを続けている。戦火から取り残された東の珊瑚礁の島に、郵便飛行機が誤射で打ち落とされ不時着する。その島は精霊たちの住む島であった。そこでパイロットは、妹に似た女性に出会う。懸命に修理を続けるパイロット。現実と架空が交錯する中、彼は自らの生き方を自問自答し始める……。
 地方のオリジナル芝居が面白いということは滅多にないが(失礼)、これは設定と出だしにはなかなか見せるものがあった。しかし、いかんせん、登場人物が多すぎる。メインになるのはパイロットと妹、そしてその子供時代の幻想である二人の四人だが、そのドラマを縦糸に、島の住人たちや精霊たちのそれぞれのドラマが横糸のように描かれていくのであるが、残念ながらそれぞれのドラマが有機的に絡んでこない。ただひたすら大筋とは無関係なドラマが挿入されるばかりで、これが物語の幹を壊し、全体として散漫な印象に終始させてしまっている。
 キャラクターを減らして、もっと主人公たちの心をかき乱すような存在として精霊たちを設定し、また洪水後の世界との関わりをもっと目に見える形で描いていれば、舞台にもっと緊迫感や詩情も生まれたはずである。どうしてこんな話があっちこっちにふらつく本を書いたのかなあと疑問に思ったが、つまりこれ、この劇団が役者をたくさん抱えてるせいなんだね。できるだけみんなにいい役を振ろうと思ったら、どうしても「そういう脚本」にするしかないのだ。けれど、脈絡のない話をブツ切りで見せられるほうはたまったものではないのである。
 オリジナルの音楽でミュージカルを、という姿勢は高く評価したい。ただ、印象に残るほどの曲が少ないのと、やはり役者の力量にばらつきがあって、「聞ける」人と「聞けない」人の差が激しい。「使う」立場から行くと役者は簡単に切ることができないのだろうが、「見る」立場からだと「あいつとこいつは要らないなあ」とどうしても感じてしまう。人が少ないと、今度は「使えないやつも使わないといけない」事態になるので、それもまた悩ましいことではあるのだが。
 それからこれは芝居の本筋とは関係ないのだが、気になって仕方がなかったことが一つある。舞台になっているのがどうやら未来の沖縄らしく、セリフに「ニライカナイ」とか「マナ」とか琉球語がしょっちゅう出てくるのだが、その中に「キムジン」あるいは「キムジナー」という単語があったのである。パンフを見ると精霊のことで、「樹夢人(キムジン)」という字を当てるとある。
 これでズッコケてしまったのだが、沖縄の伝承にある精霊の名は、「キジムン」ないしは「キジムナー」である。樹の上の精という意味で、「キ」は「樹」、「ジ」は助詞で、「ムン」は「モノ」である。「ムナー」となるのは複数なので、すなわち「樹の者たち」である。
 昔、水木しげるがこの妖怪を『日本妖怪図鑑』か何かの自著で紹介するときに、うっかり誤植して「キムジナー」にしてしまっていた。おかげで私もかなり長い間、「キムジナー」が正しいと思い込んでしまっていたのだが、後に発行された本ではちゃんと「キジムナー」に訂正されている。
 ところが、もう30年も前の記述を鵜呑みにしたまま、未だに「キムジナー」が正しいと信じ込んでいる人が結構いるようなのである。恐らく、この芝居の作者も、昔、水木さんの本を読んで、勘違いしてしまっているのではなかろうか。わざと言葉を変えなきゃならない必然性がないからである。
 しかしこの劇団の人たち、結構人数いるのに、一人も「キジムナー」のこと知らなかったのかなあ。映画『ホテル・ハイビスカス』でも名前が出てきてたし、ちょっとでも沖縄のことをかじってたら聞いたことくらいはあるだろうし、結構有名だと思ってたんだけど、沖縄はまだまだ遠いのかね。九州からでも。
今度の芝居に客演していただく予定の草生四葉さんが出演されているので、見に行ったのだが、正直な話、少しばかり期待外れであった。四葉さんご本人は可愛らしかったのだけれど。

 芝居の帰り、駐車場から車を出すときに、手を繋いだカップルとすれ違った。
 狭い路地なので、しげのヘタな運転ではちょっと引っ掛けてしまいそうな気配だったが、何とかすり抜けて表通りに出ることができた。
 「人、撥ねるなよ。ここ狭いんだから」
 「そうなんよ。いっつも撥ねそうになるっちゃ」
 威張って言うこっちゃない。ふと「カップル」を見ていて、先週の『仮面ライダー響鬼』を思いだした。明日夢の母さん(水木薫)が「アベック」という言葉を使った途端、日菜佳(神戸みゆき)が「あ、アベック?」とむせるシーンである。
 で、しげに振ってみた。
 「知ってるか? 今はもう『アベック』って言葉は死語らしいぞ」
 「え? そうなん?」
 「もう『カップル』としか言わないんだろうな。外来語もどんどん英語化されてくよな」
 「でも、『アベック』って言ったら、なんか『濃厚な男女関係』って感じがするやん」
 「フランス語じゃ“avec”って英語の“with”なんだけどな。『一緒に』って意味しかないよ。“couple”だって、もともと恋人同士を表す言葉じゃないのに。どうして素直に“lovers”って言わないのかな」
 「『ラバーズ』は言わんやろ」
 「昔は言ってたよ。歌にもあるじゃん。『私〜の〜、ラバさ〜ん〜、酋長の〜、ムスメ〜♪』って」
 ここで、しげがしばらく沈黙した。そして急に「ああ!」と叫んだ。
 「どしたん?」
 「『ラバさん』の『ラバ』って、“lover”の『ラバ』かあ!」
 「……そうだけど……。お前、今までどういう意味だと思ってたんだよ」
 「馬の『ラバ』」
 「……確かに、子供のころならそう勘違いしてたってのも理解できるよ。でも、今の今まで、生まれてこの方30年以上、気が付かなかったってのはどういうこと?」
 「意味通じるから」
 「通じねーよ! 『私のラバさん』って、なんでラバに『さん』付けするんだよ。それにラバが『酋長の娘』って、ラバがどうして人間の娘になるんだよ!」
 「いや、ラバはラバで、別に酋長の娘はいるんだよ」
 「意味わかんねーよ!」

 ※ちなみに『酋長の娘』というのは、1920〜30年代にはやった流行歌である。
 「私のラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
  赤道直下 マーシャル群島 椰子の木陰で テクテク踊る
  踊れ踊れ どぶろく飲んで 明日はうれしい 首の祭り
  きのう浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で眠る
  踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に ゆくものか」

 日本が南進政策を取っていた時代だから、当時この歌もさぞや大衆の南への夢をかきたてたことだろうが、現代ではとても暢気に歌える歌ではなくなっている。歌そのものは暢気なんだがね。
そんな古い歌をどうして私が知っていたかというと、当然、母が歌っていて覚えたのである。けれど私より十以上若い(はずの)しげがどうして知っていたかはよく分からない。見かけは若いが、あれで戦前から生きてる可能性も捨てきれないのである。

 それからしばらく、「意味を勘違いして覚えている歌はないか」という話でひとしきり。マンガ家の中田雅喜さんの娘さんが『花』の「げにいっこくもせんきんの」を「げに一刻堂千金」と勘違いした話とか。
 恐らく、若い人の殆どは『仰げば尊し』とか意味も知らずに歌ってるだろうとか、『巨人の星』の「思い込んだら」を「重いコンダラ」だと勘違いしてたってのはヤラセっぽいとか(誰が最初に言い出したのだろう)。
 でも私の場合、記憶を辿ってみても、そんなに面白い思い間違いをしていたという経験がないのである(聞き違えてもすぐに自分の間違いに気付くか、単に意味が分からないままでいるかのどちらかだ)。多分、分からないコトバがあったら、すぐに親とかに聞いていたからだろう。


 マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』21巻(講談社)。
 ついにあと一巻で完結。最終エピソードとなる『棲龍館殺人事件』(「館モノ」だよ!)は今巻では終わらずに、次巻まで持ち越しである。作者としては質・量ともに力を込めて、華麗なるフィナーレを、という趣向なのであろう。
 けれども作者の意図に反して、本作に対して世のミステリファンの大多数が「ふざけんな早く終われ」と目ん玉ひん剥いて怒り狂っていたであろうことは想像に難くない。ともかくパクリや稚拙なエピソードが多すぎたからね(あまりにツマラン話はアニメ化の際、修正されまでしてたものなあ)。
 けれども私は、前作『金田一』ほどには嫌いではなかったのである。これは最初からあまりキッチリした本格ミステリは目指してなかったからね。
 だから、わざとらしいくらいにリュウが犯人に仕立てられようとしていても、「密室」と並んで必然性を持たせることにかなり苦労する「見立て殺人」を持ち出してきても、あまりメクジラ立てずにすんなり読んでいるのである。
 しかしまあ、面倒くさい見立て殺人を考えたもんだ。「龍生九子」? 「饕餮(とうてつ)」くらいは諸星大二郎の『孔子暗黒伝』で知ってたが、ほかのは全然知らなかった。「贔屓(ひいき)」って龍の名前だったのかよ。だったらこれが龍の名前からどうして「目をかけてやること」って意味になったのか、そこまで説明してくれたらよかったのに。まあ本筋とは関係ないんだろうけれど、ミステリに無意味なペダントリーは憑き物、ああいや、付き物だから。


 海野十三著・橋本哲男編『海野十三敗戦日記』(中公文庫)。
 まさかこれが文庫化されようとは思いもよらなかった。本屋で見つけたときには、本気で目を疑った。おかげで、購入したものかどうか、一瞬、迷ってしまったほどである。
 それだけ興奮してしまったのは、海野十三(うんの・じゅうざ)という名前に対する思い入れがかなり強いからである。どういうことかと説明し始めたら、もうこれは今日の日記が書ききれないので、もう無理に無理をして、箇条書きでまとめてしまおう。

 ・海野十三は、戦前・戦後にかけて活躍した探偵小説家、空想科学小説家である。「日本SF小説の父」と呼ばれる。星新一、小松左京、筒井康隆、手塚治虫、藤子・F・不二雄ほか、影響を受けた作家、マンガ家は数知れず。
 ・数多くの少年小説、科学読物を著し、当時の少年少女たちに雄大な夢と科学的合理主義を啓蒙した。しかし同時に積極的に戦争協力し、戦意高揚小説も多数著していた。
 ・敗戦後、自らの責任を感じ、自殺まで決意する。しかし「生命ある限り科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払う」ことを決意し、なお四年を生きた(病没)。それほどに清廉な人であった。
 ・代表作に、『深夜の市長』『地球盗難』『火星兵団』『浮かぶ飛行島』『名探偵帆村荘六シリーズ』など。

 本書はその海野十三の昭和19年『空襲都日記』と同20年『降伏日記』を併せ収録したものである。敗戦のナマの記録としての価値があるだけではない。海野十三が「清廉の人」であることも忘れてはならない。
 日本が未曾有の危機に晒されているときに、国を愛する心があれば積極的に戦争協力することも当然ありうる。平和ボケした現代の視点でただやみくもに当時の日本人を十把一絡げに愚かであったと断定するのは決して正しい判断だとは言えない。海野十三は日本の戦略の杜撰さ、防衛力の貧弱さ、軍部の非合理な精神主義、そして敵国の科学技術の進歩も原子爆弾の存在も正確に理解していた。そんな状況を作家として少しでも打開しようとして、科学小説の執筆に打ち込んだ。
 空襲の危険を警告した小説を書いたこともある。まさにそれは国民への衷心、愛国心ゆえであった。しかし精魂込めて書き上げた憂国の小説は、軍部の検閲で発行が停止されることになる。軍部の返事はこうであった。
 「帝都上空に敵機が来ることなどありえない」。
 これがただの精神主義=妄想であったことは歴史が証明している。あの時代、誰もが妄想に取りつかれていた。戦局が悲惨の一途を辿ろうとも、東京が大空襲を受けようとも、イタリアとドイツが降伏しようとも、日本人は根拠もなく自らの勝利を疑わなかった。
 そんな能天気な人々を見ながらも、海野十三は絶望しなかったのだ。現実から目を背けず「世界の移り変わりを見る」ことを決意した。しかしその決意も「折れた」。
 広島と、長崎の原爆で。
 昭和20年の時点で、既に海野十三は、これが戦闘の名に値しない暴挙であることを激烈に非難している。この敗北が日本単独の敗北でなく、「世界の敗北」であり「科学の敗北」であることを喝破している。それでなお自らの責任を感じ、自決しようとまで考えたのだ。
 あの戦争を無条件に信仰し美化する者も、また左翼イデオロギーに取り憑かれて貶める者も、等しくこの日記を読むがよい。たとえその時代に生きていても、妄想に取り付かれ何も見えてはいなかった者の日記と、海野十三のそれは一線を画するのである。
 本当に歴史の闇から「蒙を啓く」者があるとすれば、それはやはり海野十三が示してくれた「科学的合理主義」の精神だと思う。我々が戦後60年で忘れてしまったものとは実はそれではないのか。
 
 何だか最近はこの日記で「近頃の若い連中はモノを知らない」と嘆くことが多くて、劇団のみんなとかは「最近、鬱陶しさが増したなあ」と感じてるんじゃないかと思うけど、まあ性分なんでカンベンね。面と向かって説教するような野暮はしないから。

2004年08月05日(木) 尾篭なお話。
2003年08月05日(火) 仕事ひと区切り/『金魚屋古書店出納帳』1巻(芳崎せいむ)ほか
2002年08月05日(月) いのち棒に振って/『おせん』其之四(きくち正太)/『ワンピースブルー』(尾田栄一郎)
2001年08月05日(日) ちょっとさよなら/『シルバー仮面・アイアンキング・レッドバロン大全 宣弘社ヒーローの世界』ほか
2000年08月05日(土) しまった、翌日になっちゃった/『人喰いの滝』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか


2005年08月04日(木) 「子供のために」と言ってる大人にろくなやつはいない/映画『ハービー 機械じかけのキューピッド』

 「政治とスポーツの話題にはあまり触れない」ようにしてるんだが、まあ、これは「スポーツ外」の事件とも言えるんで、あえて扱う。
 何のことかって言うと、あの明徳義塾高校の甲子園辞退事件のことだ。喫煙と暴行の事実が高野連にチクられたという。
 具体的な経緯は以下の通り。
 今年4月から7月にかけて、二年生・一年生部員11人が、野球部の寮内で喫煙。これは、野球部主将らが寮内で煙草の吸い殻を発見してその事実が判明した。主将がすぐに野球部部長・宮岡清治と監督・馬淵史郎両氏に報告したところ、当該生徒を特定できたので、厳重注意を行った。
また、5月から7月初めにかけて、三年生・二年生部員6人が、一年生部員を正座させた上、腕や胸をたたくなどの暴力をふるったという。
 これは7月中旬になって、被害にあった一年生部員の保護者からの連絡で判明、やはり部長と監督が被害者宅に家庭訪問して謝罪、「何とか穏便に」と頼み込んでコトを収めたつもりになっていた。
 どちらの件も部内で処理し、吉田圭一校長には全く報告されていなかった。校長が事実を知ったのは、昨三日に高野連に送られてきた投書により、高知県高野連が調査を開始したためである。辞退の決定はわずか一日で行われたわけで、異例のスピードだと言える。
 記者会見で馬淵監督は「全て自分の責任」と述べていたが、そりゃ確かにそうなんだけれども、こういう不祥事は決して初めてではないという事実を考えると、その一言で片付けちゃっていいの? って疑問を感じてしまうのだ。
 テレビのコメンテーターとかは「早い段階できちんと学校や高野連に報告しておけば、直前に出場辞退なんてことにはならなかった」と言っている。それは多分その通りで、「当該生徒をこれこれこういう形で処分しました」という形を取っていれば、まあ「禊」はすんだ、ということで、事件に関わらなかった選手の出場は可能になったのだろうと思う。
 でも、ということは「煙草吸おうが暴力振るおうが、形だけ謝罪しておけば、甲子園に行ってもいい」ってことになるんで、その罪の重さとか被害者の気持ちとか高校生としての規律の遵守とかってのは全然ないがしろにされてるってことなんだよね。「タバコとかイジメとかどこの学校でもあるじゃん。それくらいで出場辞退なんて厳しすぎる」って、事件自体を「軽く」考えてるって訳だ。
 そりゃそうだろう。今現在、出場が決定してる全国の野球部員で、喫煙経験がないやつがどれだけいるか。上級生が下級生をしごいてない学校がどれだけあるか。明徳義塾が出場辞退なら、全国で甲子園に行ける資格のある高校なんて、ごくわずかになるんじゃないか。ほかの学校が出場できているのは、単に不祥事が「バレていない」だけである、明徳は運が悪かっただけだと、そう感じてる高校野球ファンは、相当数、いると思うのである。
 でも実態はどうあれ、「高校野球」はあくまで「教育の一環」であるわけよ。たとえタテマエであろうがキレイゴトであろうが、「高校球児」には「清廉潔白」「質実剛健」を求めるしかないのね。決して「いいよいいよ、その程度のワルいことならどこでもやってることだから気にせずに出場しなよ」なんて言えるわけがない。喫煙や暴力を許すような対応は学校だって高野連だって、絶対に取れるわけがないし、そんな学校があっちゃ困るということは明徳に同情している世間の人にだって分かるリクツだと思うんだがどうかね。
も ちろん、「マジメな部員が巻き添えを食らって出場停止というのはひどすぎるのではないか」という主張は充分に根拠があることだと思う。けれど、こういう不祥事がいつまで経っても後を絶たないのはなぜかってことを少しは考えてほしいのだね。一連の不祥事を単に当該生徒の「個人の身勝手」だけで済ませられることなのかどうか。「未成年だからって、タバコくらいいいじゃん」「シゴキくらい運動部なら当然」って感覚は本当に一部の個人だけのものかどうか。実のところ、「多少の悪行は許容の範囲」という感覚が社会的に蔓延“しすぎている”せいじゃないのか。
 つまり、「この程度のことで出場辞退なんてかわいそう」と考えている「甘やかしの風潮」が、逆に彼らを出場辞退に追い込んでいるのである。明徳の部長と監督はまさにこの「甘やかし」をやらかしていたわけだ。それで「自分の責任」なんてちょっと片腹痛いんだけどね。だいたい、事件が起こったのはほんの先月のことだよ? それで充分に禊が済んでると思える感覚自体、既に「甲子園出場」に目がくらんで「教育者」としての本義を忘れていたのだと非難されたって仕方がないだろう。
「 部員の気持ちを考えて」というのは言い訳にはならない。これもこないだのサッカーの話と関連してくるが、「勝つことだけが、甲子園出場だけが野球をするための目的・理由なのか」ということなのだ。別に勝つために練習するなと言いたい訳ではない。勝つことのみに汲々としていると、本来「何のためにスポーツをしているのか」という本義が忘れられるぞと言いたいのだ。
 スポーツをする理由なんてハッキリしている。それが「好き」だからだ。明徳に限らず、コソコソ隠れてタバコ吸ってるような高校球児に言いたい。お前たちは「野球が好きだからやってる」のではないのか? 自分たちの行為が「スポーツを汚している」ことに気づいてないのか?
 でもまあ、高校生は所詮ガキだしね。中には分別がつかないやつが出てくるのも仕方がない。やはり一番責められるべきは部員を甘やかした部長に監督、大人たちだろう。たとえ一部の生徒であるにしろ、不祥事を起こした部員を抱えていたことに恥も覚えず、「甲子園出場」の「実績」を残すことだけを優先しようとしていたのだから(そうではないと主張するならまだ自分たちのバカさ加減に気がついてない)、これはやはりスポーツに携わる資格をいったんは放棄しなけりゃ、スポーツに対する冒涜であろうと思うのである。
 も一つ、これもやっぱり指摘しとかなきゃならないことなんだが、タバコ吸ってることが判明した時点で、親も自分の息子に部活するのを許してんじゃねえよってことだ。
 発覚したのが初めてのタバコか? 絶対そうじゃないだろう。中学のころから吸ってて、親だってその事実に気付いてたはずだ。それで何をノウノウと楽しげに野球させてるんだ。
 え? 本当に自分の息子が喫煙してる事実に気づかなかったって? だったらやっぱりお前はバカ親だよ。
 こういうバカ親がそこいら中に湧くほどいるうちは、「不祥事即出場辞退」という悲しい事態はなくならないのである。永遠になくならないな。
 世の親御さんよ、あんたんちの息子さん娘さんがタバコをこっそり吸ってるのを見つけても、「仕方ないわね」とかで軽く済ませたりするなよ。「どうせ説教したって聞きやしないから」って躾けるのを放棄したりするなよ。そんなふうに扱われる子供は不幸だよ。あんたらが子供を愛せないクズじゃないんだったら、子供を愛するってことがどういうことなのか、真剣に考えてみなよ。コトナカレ主義な学校に子供を預けちゃった責任は、あんたらにもあるんだからさ。

 もう一つ、ニュースはあまり触れようとしないけれど、事件の発覚が匿名の「チクリ」だってことについて、恐らくはウラで「犯人探し」が行われてるんじゃないかと思う。多分、真っ先に疑われるのはシゴキの被害者になった一年生の生徒たちかその関係者だろうが、そうでなかったらえらい濡れ衣になるんでもちろん断定なんかしない。私が考えているのは「別の可能性」である。
 つまり、もはや「公然の秘密」であるが、高校野球にはつきものの「野球トバク」がこの事件に関わっているのではないのか、という疑惑なのである。
 どのくらいのカネが動くものか、私は参加したことがないからよく知らないが(ホントよ)、地域によってはかなりの額になるところもあるかもしれない。これが、もしも「策略を弄してでも儲かりたい額」であったなら、欲に動かされてしまう人間も出てくるのではないか。この不祥事の事実を知って、明徳の対戦相手に賭けていた人間が、まさに試合直前の「賭けが終わったであろう」時期を狙って投書した可能性、決して低くはないと思うのである。
 だからさあ、高校の部活動で野球だけが突出して騒がれてる状況だって、決して教育的にいい効果があるとは思えないし、ハッキリ賭博に利用されてる事実だってあるんだしさあ、それこそ全国大会そのものをいっぺん自粛するくらいのことやってもいいと思うんだよ。いくらスポーツなんかしてたって、健全な精神なんて培えないんだから。


 夜、AMCキャナルシティ13で、映画『ハービー/機械じかけのキューピッド』。
 先週公開されたばかりだと言うのに、興行収入のベストテンに全く顔を出さなかったので、こりゃあ早々に打ち切られるなあと思って見に行く。
 出かける前、『亡国のイージス』を見に行きたがっていたしげとちょっとモメる。「そっちもどうせ見に行くんだから慌てなくてもいいじゃん」と言ったら、「ノルマみたいに見に行くのがイヤ」とそっぽを向かれた。これでも見に行く映画絞ってるんだがなあ。
 『ハービー』も最初はそれほど心惹かれるほどではなかったのだけれど、『ラブ・バッグ』のリメイクではなく、ちゃんと「続編」になっているというので、それなら見に行かなきゃ、という気分になったのである。
 1969年の『ラブ・バッグ』に始まる「心を持った」フォルクス・ワーゲン「ハービー」を主役に据えたディズニー制作の実写シリーズは、第2作『続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)』(1973)、第3作『ラブバッグ/モンテカルロ大爆走』(1977)、第4作『ビバ!ラブ・バッグ』(1980)、テレビ版リメイク『新ラブバッグ/ハービー絶体絶命!』(1997)と続いてきた。タイトルの「ラブ・バッグ(愛の虫)」は、フォルクス・ワーゲンがその形状から通称「ビートル(カブトムシ)」と呼ばれているため。
 多分シリーズのうち3作くらいは見てるはずなんだが、かなりムカシのことである上、内容が大同小異なので、どれがどれだったかよく覚えていない。ハービーの持ち主は作品ごとに変わってたように思う。なんとヘレン・ヘイズがオーナーだったのは第2作であった。
 続編ではあるが、冒頭にこれまでのシリーズを簡単に振り返るシークエンスが用意されているので、初見の人でも話を理解するのに困ることはない。かつてレースで連戦連勝だったハービーも、寄る年波か全然勝てなくなって廃棄処分、ついにスクラップにされかけてしまう。旧シリーズを見ている人にとっては、一度でもハービーに乗って友達になった人間が彼を捨てることになるとは信じがたいのだが、主役を若返りさせるためにはこのムチャな設定も仕方がないのだろう。新しいハービーのオーナーは、マギー・ペイトン。演ずるは今をときめくティーンのアイドル、リンジー・ローハンだ(こないだまで「リンゼイ」と表記してたのに、どこかからクレームでも付いたのか)。
 ペイトン家は一家でレーシングチームを結成しているが、連戦連敗。マギーもかつてはレーサーだったのだが、一度事故を起こしたために、父のレイ(マイケル・キートン)からレースを禁止されている。そんな彼女には、今のチームのふがいなさが歯痒くって仕方がない。
 マギーは大学の卒業祝いに買ってもらったハービーに乗って試運転。ところがハービーはいきなり勝手に走り出し、あげくの果てにはNASCARの人気レーサー、トリップ(マット・ディロン)に喧嘩を売ってしまう(バックミラーでトリップの車体にキズを付けていくシークエンスが可笑しい)。早速始まる二人のストリート・レース。とまどうマギーだったが、予想に反したアクロバット運転で見事にトリップを打ち負かす。そのとき、マギーの心の中に「走りたい!」という強い熱情が蘇ってきた。
 しかし、勝者のプライドをズタズタにされたトリップは、なんとかしてハービーの秘密を探り出し、復讐する機会を得ようと、巧みな罠をマギーに仕掛けてくる……。
 物語は定番だが、伏線の張り方と始末の付け方の上手さ、テンポのよい展開、勝利敗退再勝利のドラマと、映画作りの基本を忠実に守って、退屈はさせない。ディズニーは「アニメはダメだが実写はいい」という持論をまたしても確認することになった。ネットの批評を見てると「子供向けじゃないか」というトンチンカンな批評があったが、だから最初からファミリー映画だと分かってるものに文句を付けるのは八百屋で肉を注文するようなものなので、お門違いなのである。なんかこの手の批評とも言えない低レベルな感想が蔓延しているのを見てると、ホントに日本じゃ教育は機能してないんだなあと情けなくなる。
 一番笑っちゃった感想は、ラストのレースでハービーが壁を走ってトリップを追い抜くシーンを見て、恐らくはレースファンの人の意見なのだろうけれど、「あんなのはレースに対する冒涜だ」みたいなことを書いているのである。全く困った意見で、これは本格レース映画なんかじゃないよ、そういうのが見たければ、『栄光のル・マン』でも見ててくれ(私は未見)と言いたい。「壁走り」はこれまでのシリーズでのハービーの「得意技」で、これをクライマックスでやってくれたのはまさにオールドファンに対する制作者たちのサービスで、あれがなきゃ画竜点睛を欠くというものなのである。
 「壁走り」がどれだけ受けたかってのは、後に『ルパン三世 カリオストロの城』で宮崎駿がフィアットに崖を走らせたことでも分かる。これは、ワーゲンとかフィアットとか、丸っこくて可愛い車にさせるからこそ面白いのだ。そのへんの感覚も分かんないたかがレースファンが、映画を偉そうに語ろうってんだから、専門家気取りなやつの言はこれだから鬱陶しいのである。
 素直にファミリー映画として楽しめば、これだけ「安心して」子供を連れて行ける映画も珍しいくらいである。随所随所に見せ場はあるし、車にだって心があるってことで、子供にモノを大切にしようって気持ちを持たせる効果もあるだろう。かと言って、説教臭いわけでは全然ない。素直になエンタテインメントに仕上がっているのである。
 CGIが必ずしも「売り」になってはいないのもいい。ハービーの「表情」は、確かにバンパーがくにゃっと曲がったり、急に「顔面崩壊」してベロベロバーをしたりはするけれども、危惧していたほどにはわざとらしくなってはいない。これも旧作の雰囲気を大切にしようというスタッフの良心の表れだろう。
 オールドファンとしてちょっと残念だったのは、『ハービー』のテーマソングが、一回しか流れなかったこと。流してくれただけで嬉しくはあったのだけれど、『イージー・ライダー(ワイルドで行こう)』を流すくらいなら(いまいち雰囲気に合ってないよなあ)、もっと『ハービー』が聞きたかったという思いはしてしまう。
 主演のリンジー・ローハンはあちらではムチャクチャ人気があるらしくて、確かに勢いに乗ってる印象はある。
 けれど、これまでに出演している映画の殆どがリメイクだったり続編だったりで、その売り方がいかにも「アイドル」であって「役者」でない点が気にかかる。デビュー作の『ファミリー・ゲーム/双子の天使』は『罠にかかったパパとママ』(エーリヒ・ケストナーの『ふたごのロッテ』!)のリメイクだし、最大ヒット作の『フォーチュン・クッキー』もオリジナルはジョディ・フォスター主演の『フリーキー・フライデー』だ。で、全部ディズニー制作。
 何が気になるかって、こういうディズニー御用達の健康優良児(と言っても昔に比べればかなりワイルドではあるのだが)ばかりに主演してたら訳の幅が狭くなっちゃうんじゃないかとか、でもいきなり「オトナへの脱皮」とかで、汚れ役やっちゃって人気急落なんてことになってもよくないよなあとか、そういう余計なことを考えてしまうのだね。
 言っちゃなんだがリンジーちゃん、アチラでは今が旬で「魔法」がかかっているみたいだけれども、コチラではそうでもないので、恋人のケビン(ジャスティン・ロング)から「すごくきれいだ」とか言われていても、「そう?」と疑問符が付いてしまう。比較しちゃ悪いが、懐かしのエリザベス・テーラーほどに驚異的に美しいってほどでもないからね。
 かと言って、ジョディ・フォスターのようにズバ抜けた演技力があるわけでもないので、これから先、生き残りが厳しいような気がするのだ。若い役者を大事にきちんと育てていくシステムがあればいいんだけれども、アメリカでも日本でもそれはすっかりなくなっちゃってるんである。
 さて、果たして更なる続編シリーズ第6作が作られるのかどうかということだけれども、ちょっと難しいかなと思う。もともと『ラブ・バック』シリーズを復活させようという目的で作られたわけではなく、あくまでリンジー・ローハン主演映画を企画した流れの中で生まれたアテモノ映画であるからだ。リンジー・ローハンが続けて登板するならばともかくも、主役を変えて続編を、ということにはならないのではなかろうか。
 これはマンネリになっても構わないから(というよりもマンネリを楽しむ種類の映画である)、続きが見てみたい作品の一つなので、できれはリンジーが「もう一度ハービーに会いたいの!」とでも言ってくれたら可能性はあると思うんだが、なかなか難しいんだろうなあ。残念。

2004年08月04日(水) 既知外にサッカー
2003年08月04日(月) 映画の話いくつか/『モンティ・パイソン・スピークス!』(デヴィッド・モーガン)/『だめっこどうぶつ』1巻(桑田乃梨子)
2002年08月04日(日) 爆走……できねーなあ(^_^;)/『スーパーロボット烈伝』(石川賢)/『光の島』3巻(尾瀬あきら)/『黒ベエ』1巻(藤子不二雄A)ほか
2001年08月04日(土) やっと入院準備/映画『猿の惑星』/『20世紀少年』6巻(浦沢直樹)ほか
2000年08月04日(金) 特許成金、夢じゃない?/『20世紀モノがたり』(紀田順一郎)ほか


2005年08月03日(水) オタク道に女は要らない/『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(古川薫)

 日記開設から6周年。たびたび日記が飛んでて申し訳ない限りですが。
 でも、お客さんは確実に増えていってるんで、自分でもフシギで。読み返しても「つまんないこと言ってるな、こいつ」としか思えないんですが。
 何度か書いてることですが、勘違いする人が多いんで、改めて一言。私ゃ自分の文章で「啓蒙」しようなんてこれっぽっちも考えちゃいません。「あいつらバカか」とやたら過激な言葉を使うのは、そう書かないとナアナアな文章にしかならないからです。
 だって、宮崎アニメ見て「日本のアニメは世界最高!」なんてホザイてるやつを「バカ」以外のどんな言葉で表現すればいいですか?


 またまた父から突然の電話。
 もちろん父から電話がかかってくるときはいつも突然なのだが、電話に私が出られないと後で必ず「なんで出らんやったとか」と悪態をついてくるので、間が悪いときにかけて来られると非常に鬱陶しいのである。でもどういうわけだかオヤジの電話って、間が悪いときに限ってかけて来るんだよな。不思議と。
 用件は盆休みに旅行の予約が取れたということで、覚えとけというものであったが、ちゃんと忘れないでほしいのは父のほうである。今月14日にどこぞに鵜飼いを見に行くぞということであるが、私の視力でそれが楽しめるかどうかはちょっと疑問である。
 けれど14日ということは、見事に三井グリーンランドの『仮面ライダー響鬼』のヒビキ&イブキ・トーク・ショーとかぶってしまった。さすがに親父を遊園地に誘うわけにもいかないので(しかもどうやら徹夜で並ばないと座れないらしい)、こっちはもう諦めるしかないのであるが、客が押し寄せると初めから分かってるようなイベントは、ちゃんとチケットを発行してほしいものである。それをしないってことは役者さんを所詮は「客寄せ要因」としてしか考えてないってことだからなあ。


 神奈川県藤沢の映画館「フジサワ中央」では、映画『電車男』に「オタク特別料金」が設けられてるんだそうな。窓口で「オタク一枚」と自己申告すると、1300円で入れるということである。オタクである証明は特に要らないということだから、別にあえて百式Tシャツを着て行かなくてもOKなのだ(笑)。
話題作りとしても面白いが、何より「このシステムを知った非オタクがあえて『オタク』と名乗って入場できるかどうか」、試金石になっているところが興味津々である。さらに言えば劇場での表記は「ヲタク特別料金」となっているそうで、やや自虐的かつ差別的ニュアンスのあるこの表記には、たとえオタクとしての自覚があってもためらいを感じる人もいるだろう。
で、実際にどれだけの人がこの「特別料金」を利用しているかというと、劇場の話によれば「約半分」だそうな。
 さて、ここであまり根拠のない「試算」をしてみたいのだが、即ちロングラン・ヒットを飛ばしている『電車男』を見に来ている客の中で、「本物のオタク」はどれくらいいるか、という試算である。これが単純に「半数」と断定はできないのが現代オタク事情のややこしいところだ。
 つまり、「自分はオタクだ」と自覚し、そのことに恥ずかしさも全く感じてない人、濃いか薄いかは関係なく、こういう人は「純粋オタク」であると認めよう。彼(彼女)は、確実に「オタク一枚」と口にして入場することができる。
 問題となるのは、客観的に見て充分オタクなのだが、それを世間的にひた隠しにしている「隠れオタク」である。こういう人はたとえ料金が安くなろうと絶対に「オタク一枚」とは言わない。外出時には服装にも気を遣って正体がバレないようにしている可能性は大である。しかし、オタクの浸透度がかなり高くなっている現在、こういうパターンの人間はかなり少なくなっていると見ていいのではないか。彼(彼女)は「非オタク」の中に紛れ込んでいるかもしれないが、データを左右するほどではないと考えられる。
 逆に、「非オタク」なのに「オタクのふり」をして安く入って来る連中、これは結構いるんじゃないか。日ごろは「オレ、オタクなんかじゃねーよ」とか言ったり、「オレ、ガンダムに結構詳しいんだぜ。ガンダムって三号機まであるんだよな」とか意味不明なこと言ってるやつが、堂々と「オタク一枚」と言ってのけるのである。こいつらは断じて我々の「仲間」ではない。これが「オタク一枚」と名乗った者のうち何割ほどいるのか。ここが最も根拠がない試算であるが、一割、二割では利かないと思うのである。
 最初から堂々と「大人一枚」と入場する人間はもちろん「非オタク」である。彼らはたとえ安くなろうとも、「絶対にオタクとだけは名乗るまい」と決意している。即ち、オタク特別料金を支払わなかった「半数」の殆どは「敵」なのだ。
 となると、結局、『電車男』入場者のうち、オタクはどれだけいるのか。多分、二割から四割の間くらいだ。漠然とした試算ではあるが、「入場者の半数がオタク申告」という事実から考えると、あながちそれほど外れてもいまい。

 つまり何が言いたいかというと、確かに昔に比べればオタクは世間に浸透したかもしれないが、『電車男』を見に行くような(あるいは原作を読むような)人間の中に、オタクはそんなに多く含まれてはいない、ということなのである。あるいは、もともと関心の外にあると言った方がいいだろうか。オタクが見たいと思う映画はあくまで特撮、アニメなのであって、「自分たちの生態を活写したノンフィクション」などではないのだ。
 まあ別にこんな分析せんでも、ネットのレビューを見てりゃ、その殆どが『電車男』を普通のラブストーリーとして楽しんでいる「非オタク」な人々の意見ばかりだと言うことに気付きはする。そういった連中の感想って、「感動した」って言ってるポイントが「オタクなのによく頑張ったね」って言って「同情している」ところにあって、それってつまりは「オタクという属性は非社会的なものであり、かつオタクは一般人に比べて人間的に劣っている」という前提が観客の中にある、ということなのである。そんな蔑みのニュアンスが滲んでいる文章なんて読んでてもあまり嬉しくはないし、劇場で普通っぽいカップルが泣いてる様子を見ても、「ああ、こいつらは今、オレたちに同情してくれてるんだなあ」ということが目に見えて伝わってくるので、苦笑いしか浮かんでこないのだ。
 だからその点に気づいているオタクの感想の中には、「アレは真のオタクの姿ではない」と懸命になって主張しているものも散見していて、いかにあれが「虚構としてのオタクであるか」ということを具体的に説明しようとしている。もちろん、そんなのはやるだけ無駄な行為で、あの映画に感動している「非オタク」の人たちにとっては、あれがオタクの真の姿を映しているのかどうかなんてことはどうでもいいのだ。
 例えば「普通のオタクはあそこまでオドオドしてないよ。オレだって電車の中で女の子が絡まれてたら勇気を出して助けるよ」なんて言ったとしたら、相手はどう反応するか。「へーえ」で終わりである。だってそれじゃあ、「同情してあげられない」からだ。「女の子に声もかけられないくらい純情で、誰かが助けを求めても震えて動けないくらいに臆病」であるからこそ、電車男の「勇気」に「感動してあげられている」のに、それを否定する意見になど、一般人が耳を傾けるはずがないのである。
 ともかくヒット映画ってのは、「かわいそう」な人たちが「頑張ってる」姿を描いたら、それに「同情する」観客がオカネを落としてくれるシステムになっている。『砂の器』しかり、『エレファントマン』しかりである。それが実際は差別を許容しているシステムだと言うことには気が付いていないし、実はそうなんだよと言ってやってもやっぱり「同情」することは止めない。なんとなれば人間は誰かを差別し、優越感を抱くことでしか自らのアイデンティティーを保てない動物だからである。
 「非オタクな人々」が、「オタクの恋」を見に行く動機は、「オタク」が明らかに現代人のステイタスの最下層に位置しているからだ。だから、いくらオタクが『電車男』でのオタクの描き方が問題だと批判をしたところで意味はない。「オタク=コミュニケーション不全」であり、「オタク=恋もできない半端者」という刷り込みが前提にあるからこそ、ああいう映画が作られたのだ。その刷り込みは当人が無自覚なうちに行われているので、オタクがいくら「オタクをバカにするな!」と叫んだところで、一般のお客さんは「え? 別にバカになんてしてないよ」とキョトンとするだけである。人間の認識は常に実態よりも自分にとって都合のよいイメージの方を優先するものなのだ。
 まあ、オタクがバカにされないためには、結局は電車男君がやったように「自分も非オタクの仲間に入る=差別される側から差別する側に行く」のが一番の方法であるわけだが、それを潔しとしないオタク君は、たとえ女の子からキモイとかイケてないとか言われようとも、孤高を保ち、女にモテることなんて考えないことであろう。「オタク道に女は要らない」と覚悟することである。「オタクだって人並みの幸せはほしいんだ!」とか言ってるやつは修行が足りない。だいたい「女よりも楽しいこと」があったからこそ、オタクになったんじゃないのか。電車男はオタクの希望の星などではない。オタクを堕落へと誘惑するアクマの甘い実なのである。


 夜、7時半より、ぽんプラザホールで、FPAPの主催による「第2回制作者勉強会」にしげと一緒に参加する。
 演劇というとどうしても役者ないしは脚本家・演出家にスポットが当たってしまうが、実際に「舞台にかける」までの段取りを組むのは製作者の仕事である。ところが地方劇団やシロウト劇団ってやつは、この「制作」についての認識が甘かったりおろそかになってるところがやたらと多い。
 その結果どうなっちゃうかというと、役者が集まらなかったり集まっても喧嘩してやめたり劇場側と打ち合わせが不十分でもめたりチラシやパンフレットが間に合わなかったり公演当日になって「すみません、今日の公演は中止です」なんてことになってしまうのである。 
まあ、そういうことを回避しようってことでの勉強会だったのであるが、しげから事前に「そういう会」であることを詳しくは聞かされていず、「今度の芝居の企画書を書いてよ」と言われて、何のことやらよく分からないままに「見所」とか「あらすじ」とかを書いたものを適当にでっち上げて渡したところ、なんとそれを参加者全員で俎上に上げて「企画書としていかがなものか」と検討されてしまうという会であったのだった。
 ……だったらそう先に言っといてくれよ。それだったらもちっとマシなもの書いたのに。
 と後から思っても遅いのである。やれ「どこにどういう意図で出す企画書なのか」とか「具体的な資料が少ない」とか、当たり前の指摘をやたら受ける。まあ受け答えするのはしげだからいいけど。
 ほかの議題は「チラシの作り方」とか「北九州演劇祭についての情報」とか、また各参加団体の公演のPRとか。どっちかっつーと、宣伝目的で来た人が多かったみたいね。
 劇団「改・FREE’ズ+(カイ・フリーズプラス)」の堤さんもいらっしゃっていたのだが、しげとお喋りしていて、偶然にも高校が同じであることが分かった。しげの高校は北九州の方にあるので、福岡でこうして同窓の、しかも演劇関係者が知り合うと言うのはなかなか珍しい偶然である。こういうとき、人間ってホントに縁だよなあとしみじみ思うことである。


 古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫)。
 田中絹代が亡くなって、もう18年。もし生きていれば96歳。気が付けばもうすぐ生誕百年なのである。若い人たちにとって「名前も聞いたことがない」女優になってしまっているのは仕方のない現実ではある。現実ではあるが、本当にこの国の人間というのは文化とか伝統とか歴史とか言うものに背を向けて平気でいられるものなのだなあと今更ながらに嘆いても仕方のないことを嘆いている。脳のキャパ、自分で狭くして楽しいのかお前らと思うけれど、脳のキャパが狭いからそれも理解はできないのだろうな。
 しかし、本書を読んで「田中絹代がこの国の人間に何をされてきたのか」を考えたとき、この「飽きっぽさ」というか「過去に対する執着心のなさ」というか「楽しいことも楽しくないことも全部忘れてスッキリするクセ」というか、これこそが日本人の一番の特性なんじゃないかという気がしてくるのである。しかし、たとえ日本人の大半が歴史を過去に置き去りにすることで生きてきた民族だとしても、田中絹代は決して忘れられていい女優ではない。田中絹代はただ単に名女優であったというだけの存在ではない。日本は、日本人は、確実に「田中絹代の時代」を経験してきているからである。

 田中絹代の評伝は新藤兼人が『小説田中絹代』を著しており、これは市川崑監督・吉永小百合主演『映画女優』のタイトルで映画化もされた(映画は糞だったね)。
 即ち「定番」の伝記が既にあるわけで、にもかかわらずあえて大部の評伝を上梓しようというのだから、いったいどういう切り口で田中絹代に取り組んでいるのか、そこが気になるところである。
 筆者の「あとがき」によれば、本書を執筆するに至る最初のきっかけは「田中絹代の靴のサイズが22センチだった」ことだという。「そのちっちゃな靴で、『花も嵐も踏みこえ』トップスターの座を守り抜いたのか」。
 まあ、この感慨がピンと来る世代はもう日本には殆どいなくなっているように思う。私とて、亡き母に思いを寄せるときようやくその感慨の片鱗がうかがえるくらいのものだ。
 ムカシの人には説明不要だが、タイトルにも使われている「花も嵐も踏み越えて」のフレーズは、田中絹代の代表作の一つ、『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』の冒頭の一節である(ちょっと前までは「この歌のタイトルは?」と質問したらみんな『愛染かつら』と答えるので、「違うよ、『旅の夜風』だよ」と正解を言うクイズが流行ったものだったが、今や曲自体が忘れられてしまっているのが悲しい)。
 田中絹代という大女優を一言で語るとことは不可能だが、この一世を風靡した歌を語ることで、その時代に生きた女性の人生を象徴させることができる。「戦後」という時代がまず『リンゴの歌』に象徴されるとすれば、戦前、戦中を象徴する歌が『旅の夜風』だ。これはそういう歌なのである。
 私もこの歌は母の鼻歌で覚えた。母もまたこの歌に自分の人生を重ね合わせていたのだろうが、恐らく戦後の一時期くらいまでは母と同じように感じていた女性が一般的であったと思う。一つの歌が時代を映すことがなくなってしまった現代人には、「花も嵐も」に込められたかつての女性たちの思いはピンと来なくなってしまっているだろう。「花」だの「嵐」だの余りにも大仰で誇張が過ぎるように思えるだろうが、実際にそれが大げさに感じられないほどに情熱と苦悩を当時の女性たちは経験していたのだ。

> 花も嵐も 踏み越えて
> 行くが男の 生きる道
> 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
> 月の比叡を 一人行く

> 優しかの君 ただ独り
> 発(た)たせまつりし 旅の空
> 可愛い子供は 女の生命(いのち)
> なぜに淋しい 子守唄

 歌っているのは映画に主演した上原謙・田中絹代ではなく、霧島昇とミス・コロムビアである。歌詞を見れば分かる通り、一番が男の歌、二番が女の歌である。
 しかし冒頭の「花も嵐も」は当時、男性よりも女性によりアピールした。田中絹代が演じた高石かつ枝が、いや、田中絹代自身が花も嵐も踏み越えた波瀾万丈の人生を送っていた。そしてそのことを大衆も感じ取って、自らの身になぞらえていた。
 だからこそ、筆者の古川氏もこの評伝のタイトルに『花も嵐も』を冠したのだと言える。そういう感覚が普通だったのだということが理解できないと、「なぜ男の歌が女の人生に重ね合わせられるのか?」という疑問にぶち当たったまま、答えが出せなくなってしまう。
「田中絹代がどれほどの女優であったか」どんなに百万言を費やしたところで、知らない世代には伝わらない。いや、その生前から「忘れ去られていった」過程を古川氏の筆はある意味残酷に描き出して行く。
 田中絹代は日本発のトーキー『マダムと女房』に主演し、その「鼻にかかった甘ったるい声」で観客を魅了した。初代『伊豆の踊子』女優として、「純情可憐な初々しさ愛らしさ」を観客の目に焼き付けた。そして『愛染かつら』の高石かつ枝として、「空前のヒット」を飛ばした(既にキャリアのある「田中絹代」という名前を捨てて「高石かつ枝」と改名させようとする動きすら生まれたほどである)。
 それが、戦後、外遊して帰国、ファンに投げキッスを送っただけで「アメション女優」と呼ばれ、人気は地に落ちた。以後、田中絹代は復活を目指し、溝口健二監督とのコンビで『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』など世界の映画賞を総ナメにする傑作郡で名女優としての名声を確立するが、かつて「高石かつ枝」であったころに得ていた大衆的な人気を勝ち得ることは二度となかった。
 その時の状況を古川氏はこう記している。
「被占領国の日本には、絨毯爆撃で家を焼き、非戦闘員を殺し、あげく広島・長崎に原爆を落としたアメリカに対する面従腹背の隠然たる空気が充満している。(中略)しかし、たかがサングラス、たかが投げキッスをとらえて、報道機関がこれほどの憎悪を一人の同胞に向けるというのは、何とも歪な現象である。ジャーナリズムの論調に煽動されて、世間一般も絹代に軽蔑の目を向け、引き潮のようにファンは離れていった」
しかし、その「ファン」とて、その後、生活から思想に至るまで急速にアメリカナイズされていくのだから、田中絹代への憎悪は即ちアメリカさんの前に卑屈にひれ伏すしかなかった自分自身に対する憎しみの反作用であったとしか考えようがない。卑劣だったのは日本国民のほうだったのである。
 田中絹代の最後の輝きとも言える『サンダカン八番娼館 望郷』。これは確かに素晴らしい映画で、元「からゆきさん」を演じた田中絹代の演技はまさに「入魂」の一言がふさわしい。老いてなおあれほどに強烈な生の輝きを宿した目を、私は他の映画俳優に感じたことがない。若い人に「田中絹代のすごさ」を感じてもらうとすれば、この最晩年の傑作を見せることが理解は早いとは思う。しかしそれでも「田中絹代の時代」を感じることは決してできない。今見れば退屈ですらある『愛染かつら』、そこに「時代」を感じることができなければ、映画を本当に「見た」ことにはならないのである。
 古川氏は、田中絹代の魅力を語るときに必ずと言っていいほど「美人ではないが」と注釈をつける人々に対する反発もまた、本書を執筆する動機になったという。確かに言われてみればそういう形容を付ける評論家・解説者は結構いたようだが、私は田中絹代が美人ではないなどと思ったことは一度もなかった。美は主観的なものだし個人差はあると思うが、それにしても田中絹代を「不美人」と判断するのなら、日本人女性で美人と言える女性は皆無に等しくなってしまうだろう。人気絶頂を極めた田中絹代に対する、これは過剰なまでのライバルたちやマスコミのやっかみであったと思う。
 うつろいやすい大衆ではあるが、彼女の「美しさ」にだけは、決して背を向けはしなかったと思う。


 中田雅喜・円尾敏郎編・天都カネ子監修『日本個性派俳優列伝�検.謄譽咾�生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)、ようやく届く。
 一ページめくって読んでいくのがもったいないくらいで、なかなか先に読み進めないが(つか、読みながら泣いてるし)、天津さんについてはそのうち、思いっきり書いてみたい。いや、もうどこまで書いたらいいか自分でも見当が付かないもんで。

2004年08月03日(火) 5周年! ……タイトル考えなくていいのはラクだ(^o^)。
2003年08月03日(日) 見つかりませんでした/『アニメ&漫画コラボBOOK 茄子 アンダルシアの夏』
2002年08月03日(土) 手帳求めて花いちもんめ/DVD『刑事コロンボ 別れのワイン』/『忍者飛翔 桜の章』(和田慎二)
2001年08月03日(金) 1周年!/TVスペシャル『ルパン三世・アルカトラズコネクション』ほか
2000年08月03日(木) 巻頭言&近頃の若いやつぁよぉ……/『ジェームズ・ボンドへの招待』(ジェームズ・チャップマン)ほか


2005年08月02日(火) 痺れた指で書いてます/『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(日渡早紀)

 先週の映画全国興行収入、「eiga.com」によると以下の通り。

 1,スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐
 2,ポケットモンスター・アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ
 3,亡国のイージス(初)
 4,ロボッツ(初)
 5,宇宙戦争
 6,アイランド
 7,鋼の錬金術師 シャンバラを征く者
 8,星になった少年 Shining Boy &Little Randy
 9,皇帝ペンギン
 10,電車男

 1位、2位はしばらく不動って感じだけれど、注目は3位の『亡国のイージス』。今年の福井晴敏映画化三部作のうち、一番出来はいいんじゃないかと予測してるんだが、まあまあの好スタートを切ったようだ。新聞記事によっては「50億円も狙えて実写邦画の��.1も狙えるんじゃないか」とか書いてるけれど、この「eiga.com」の分析は冷静で、「30億円程度だろう」というもの。表面的な派手さでは『終戦のローレライ』『戦国自衛隊1549』の方が勝っている感じだし、ともかく前二作の評判が悪かったから、それを考えるとこのスタートは充分OKだろう。
 それに引き換え、封切り二作品が間に入ってきたとは言え、『ハガレン』のランク・ダウンはかなり激しい。評判よくない『アイランド』より落ちてるってのはやっぱり一般ファンへの浸透度はかなり少ないのである。先週、「どうせ一週間経ったら動員落ちるよ」と予測していたが、まんま的中するとはやっぱり腐女子しか見に来てなかったんだってことが証明されたわけで、情けないったらありゃしない。先週はこの「eiga.com」の編集部氏、「続編は確実」とか言ってたくせに、今週は急に「続編製作が難しくなるかも?」とトーンダウンしやがった。予測が甘いっつーか、単に「映画業界に詳しい人」ってだけじゃ、オタクとか腐女子に関する認識・理解がそもそもないんだろうね、だからオタクってすっかり細分化しちゃってるから、「一部に大受け」が全体に広がることってなかなかないんだよ。野村総研の「オタク市場は2900億円」なんて試算も殆どアテにならないのである。
 実際に『ハガレン』続編が作られるかどうかはまだ微妙ってところだろう。興行収入20億円は苦しくなったが、せめて10億行ければギリギリGOサインが出る可能性はある。いや、もう続編は作らない方がいいよと思っちゃいるのだが、一度コワレた作品がさらに奈落の底を転落していくのを追いかけてしまいたくなるのも『ヤマト』以来のオタクの悲しい性(さが)なもんでね。もういくらでも作ってくれ、『鋼の錬金術師SEED DESTINY』とか。


 女優のロ−レン・バコールが(っつっても知らない若い人もいるかもしれないが、自分で調べるように)、1日発売の『タイム』誌で、トム・クルーズをケチョンケチョンに貶したとか。ケイティ・ホームズとの婚約を映画の宣伝に利用してるとか、まあそのあたりの批判は誰しも言ってることだけど、クルーズの演技力について堂々と「(世間でクルーズの演技を「グレート」と評価していることに対して)グレートと言うならそれなりのことがなければならない。トム・クルーズなんかのことではない」と言い切ったというから、小気味よい。でも、天狗の鼻っ柱を折るにはバコールくらいの大女優を呼んでくるしかなかったってのが大根役者に大手を振って歩かせてるハリウッドの脆弱な体質を逆証明しているわけで、決して喜ばしい状況ではない。
 実のところ役者の「演技力」を測るのは簡単なことではない。「そもそも役者に演技力は必要なのか」という議論すらあるくらいで、「演技力論争」を本気で始めたら、延々と尽きることのない堂々巡りに陥ることすら覚悟しなければならない。だから「トム・クルーズは本当に大根かどうか」という問題についても、その批判の視点を明確にしなければたとえバコールの言と言えどもただの中傷と解されて終わってしまう危険も大である。正直、私だってクルーズの演技を上手いなんて思ったことは一度もないんだが(あの口をいつも半開きにする癖は何とかならんのか。知的な役をやっても全然知的に見えないぞ)、クルーズを責めるならほかにも責めなきゃいけない俳優がベン・アフレックとかベン・アフレックとかベン・アフレックとか、いっぱいいるんじゃないかと思うのである。
 バコールはトム・クルーズだけでなく、元妻のニコール・キッドマンに対してすら「キャリア不足」と斬って捨てた過去がある。なんかあちらのおすぎか井筒和幸みたいで小気味よくはあるけれども、感情的に自分の嫌いなタイプの役者をこき下ろしているだけのように見えなくもない(共演もしてるし本当は仲がよいのかもしれないが)。
 演技力があるとされている役者であっても、映画によってはミス・キャストと評されることもある。アカデミー賞を取った役者がその後鳴かず飛ばずになってしまった例も少なくない。とかく「演技」の評価は一定の確固たる基準を示せるものでもなく、水物だと言っていい。今回はいささか有頂天になりすぎているクルーズをたしなめる意味や、役者への太鼓持ち提灯持ち茶坊主的おべんちゃらを使うしか脳がなくなっているマスコミへの牽制の意味があるとしても、これで単純に役者の演技力をああだこうだと決め付けるような流れができたりしなきゃいいがなと憂慮するのである。


 手足の痺れ取れず、再び病院へ。
 先日の検査の詳しい結果も出ていたので、教えてもらうが、「痺れが出ても当然でしょう」ってくらいにあの値もこの値も昨年から跳ね上がっている。去年に比べりゃストレスは軽減しちゃいるんだが、去年の蓄積が今になってここに来たって気がしなくもないな。
 主治医の先生、「薬飲んで養生しても、痺れが完全に取れるようになるのは一ヶ月ちょっとはかかるでしょう」とのこと。もちろん、それで私の体質自体が治るわけではないが、節制すれば血糖値が下げることは年齢的にまだ間に合うのでがんばりましょうと激励される。確かに、ウォーキングも再開しているし、日常生活に支障を来たさない程度には状態を回復させないと、日記も書けやしないのである(と、更新が遅れてるのを言い訳)。


 終戦60年記念番組『二十四の瞳』。
 見ました。
 既に感想も何も書きたくないくらいだが、若い人たちにやはり言いたい。まかり間違ってもこんな安っぽいドラマで泣いたりなんてするなよ。『二十四の瞳』がどんな話か本当に知りたいのなら、壷井栄の原作小説を読みなさい。あるいは木下恵介監督版の映画を見なさい。
 脚本は臭いくらいに反戦を訴えていてかえって白々しいし、イデオロギーだけの上滑りしたセリフをいくら書いたって、感情に訴えかけるドラマには決して成り得ないという基本中の基本をこのくそばか脚本かは分かってない。
 役者の演技も脚本に引きずられて大仰で臭いばかりである。いや、脇はまだいいんだけど、主演がもう見ててまるで新興宗教の教祖である。なんか最近は「黒木瞳主演」ってだけでそのドラマ見る元気がなくなるんだけど、熱演のしすぎで押さえが利かないのだ、この人。舞台のときのクセがまだ抜けてねえんじゃないかな。


 マンガ、日渡早紀『ボクを包む月の光 ―ぼく地球(タマ)次世代編―』1巻(白泉社)。
 ヒット作品のパート2は落ち目の証拠ってのは『サルまん』でも書かれていた法則だけれど、本作はそういう「夢よもう一度」の企画ではない。作者が解説で書いている通り、家庭の事情で一時期引退を考えていたのである。ファンへの「最後の贈り物」のつもりで、読み切りを一編だけ書いた、それが第一話の『ボクを包む月の光』だったという次第。
 それが作者の事情も好転して今も続く連載に発展するようになったのだから、世の中何がきっかけに瓢箪から駒な出来事が起きるやら分からない。だもんで、今回に限り「二番煎じ」がどーのという類の批評は適当でないと言っておこう。
 サブタイトルにもある通り、これは1980年代から90年代にかけて、一大ブームを巻き起こした『ぼくの地球を守って 記憶鮮明東京編』(通称「ぼくたま」)の「次世代編」である。オリジナルビデオアニメにもなったし、『花とゆめ』の歴史上、最もヒットした作品の一つと言えるだろう。
 これも今や歴史の彼方になりつつあることで、説明が必要になってしまったことであるが、パート1のヒットには、一つ、「いびつな側面」も生じていた。
 主人公の坂口亜梨子(ありす)には、自分がもともとはるか彼方の宇宙の人間であり、月にいて地球を観測しているという「前世」の記憶があったのだが、実は同じ記憶を共有する仲間が、ほかにも六名いたのである。物語はその「月の仲間」との邂逅、そしてかつて起きた仲間内のトラブルが、時を経て現代のこの東京でも繰り返されようとしているというサスペンスを描いたものであった。
 ところがこの「前世の仲間との邂逅」という設定が、一部のファンの間で「自分にも前世の仲間がいるかもしれない」という錯覚を生み出してしまったのだね。「○○という名前に聞き覚えのある人、コンタクトください」なんて投書がオカルト雑誌の『ムー』とかにどっと寄せられることになった(すぐに規制)。
 そのあまりの反響の大きさに、作者が「これはフィクションですから」と単行本等で但し書きをすることになり、またそれにファンが「夢を壊すな」と反駁するなど、作品外での騒動が偉く喧しい事態に陥ってしまった。
 世間の識者からよく「マンガやアニメばかり見てる子供は現実と虚構の区別がつかなくなる」と非難されることに対して、ファンやオタクは「そんな阿呆がそうそうおるかい」と反論していたものだったが、実際にこうして「虚構と現実の区別がつかない若者」が大挙して現れちゃったおかげで、「やっぱりマンガファンってバカじゃん」って言われるハメになってしまった。もちろんそのあとにあの「オウム事件」が起きてしまって、マンガ・アニメファンに対する世間の風当たりはいっそう強くなることになってしまったのである。
 つまり前作『ぼくタマ』は作者の意図に関わらず「オウムの前哨」的な「事件」でもあり、キャラクターへの入れ込み度の過激な女の子たちを排出させた点で現代の腐女子どもを増殖させる温床ともなったマンガであり、まあなんつーか、いいマンガだったのになかなか素直に評価しにくかった作品でもあったのである。

 前置きが長くなったが、いろんなトラブルを巻き起こしつつも、前作は実にうまい形で「着地」をしたと思う。あれだけ人と人とが憎しみ合い裏切り合い、狂気すらはらみつつ、ハッピーエンドが訪れるとはちょっと予測していなかった。完結巻を読み終わったときには、何か積年のストレスが一気に晴れちゃったような爽快感を味わったものだった。
 だからこの作品だって、「続編」は「蛇足」と言えば蛇足なのである。前作できちんと始末がついていないキャラクターに未来路がいたが、無理に後日談を描かなければいけないものでもない。どんな物語でも一応の終わりは来るのだから、登場人物が死なない限り、「その後」は読者の想像に任せた方が本当はよいのである。
 ところが作者自身も予期せぬいきさつで「続編」は再開されることになった。
 小林輪・23歳。小林亜梨子・32歳。二人の子供、蓮(れん)・7歳。……えーっと、計算すると輪は16歳でパパかよ。結婚できる年じゃねーじゃん(多分二年間待ったのだろう)、でも三人の幸せそうな姿を見ると、ちゃんと「ハッピーエンド」は続いていたのだなあとホッとする。となると、普通「ドラマ」は生じないはずなので、どうしてもそこで波風を立てるキャラクターが必要になってくるわけだ。
 それがやっぱりというか待ってましたというか、永遠のやんちゃ坊主・紫苑なわけだね。叶えられなかった自分と木蓮と、そしてその子の生活を転生した三人に見出してちょっかいをかけてくるわけだ。でも、前作のようにまだ子供だった輪の精神を引き裂くまでには至らない。ちゃんと輪を眠らせてその隙に体を乗っ取るという一番ありがちなやり口(笑)。これも前作の紫苑を知っているファンなら、「何て人間が丸く優しくなったんだろう!」と感動することだろう。……いや、前作知らない若い方、ホントに紫苑って、極悪非道の外道だったんですよ。でも人気は一番。なんで世の女性はワルにばかり憧れるかね。
 でも、いったんはハッピーエンドで終わってしまった物語だから、多少のトラブルが生じても、前作ほどの緊迫感はない。紫苑だって、親子二代に渡ってそのカラダを乗っ取りまくってるけれど、もはやかつての悪意はない。トラブルメーカーではあるがあくまで蓮の「守護天使」に納まっているのである。
 「始末が付いてなかった」未来路はそのESP能力を買われてアメリカにいる。自ら犠牲になることで輪たちが研究対象にならないよう守っているが、そのために一人娘の日路子(カチコ)とは音信普通になっている状態。これが次巻以降、新たな「事件」の火種になるのかもしれないが、一ファンとしては、彼らがこれ以上苦しい「戦い」などに身を投じていってほしくはないという「願い」のようなものすら感じている。
 かつての紫苑と月の仲間たちとの戦いは、誰が死んでもおかしくない戦いだった。けれど誰も死なない形で収束した。それが素晴らしかったのだ。小さな諍いはあっても、もう彼らの誰かが「犠牲」になるような物語は展開してほしくはないのである。多分男性ファンはみんなこう思っているだろうが、「亜梨子の涙はもう見たくない」のである。まあ私は前作では女性キャラでは桜のファンだったのだが。
 絵柄が前作とはすっかり変わってしまって(前作自体も長期連載の中でキャラの顔はガラリと変わってしまっていたが)、全体的にふやけた雰囲気になってしまっているが、「核」になってるものは変わってないなと思えて、それが嬉しかった。再び描かれた子供のころの輪、確かに絵柄は全然違うのだけれど、そのいたずらっ子っぽい笑顔が、前作第一巻で新体操遊びをしていたころの笑顔に、すんなりリンクしたのだ。
 不明なことに、私はここでようやく十数年ぶりに気が付いたのだ。
 ああ、これもまた、ウェンディに置いていかれる『ピーター・パン』の物語だったのだ、と。そして、ついにウェンディに追いつくことのできたピーター・パンの物語であり、それでも自分がピーター・パンであることを忘れずにいられた少年の物語であったのだと。
 そうだ。バリーのウェンディは決してピーター・パンを待っていてはくれなかった。けれど亜梨子は、木蓮さんは、ちゃんと輪を、紫苑を、転生してまで待っていてくれたのだ。大人になることと、少年のままでいることと、輪はその両方を果たすことができたピーター・パンだったからこそ、亜梨子は彼を待つことができたのだ。これは、「そういう物語」だったのだ。
 そして「新たなピーター・パン」の物語は、ちゃんと、この「次世代編」でも踏襲されている。蓮も、日路子もまた、大人になることの恐ろしさを知ることになるだろう。イニシエーションは常に「恐怖」を伴って子供を蹂躙する。しかしそれでも蓮の、日路子の行く末が、少年らしさ、少女らしさを失わぬ「ハッピーエンド」であることをこの作者は描こうとしているのではなかろうか。それはもちろん、紫苑から輪へ、そして蓮へ、恐らくは未来永劫に伝えられる「少年の系譜」である。日渡さんなら「そこまで」描けるのではないか。今は、それを期待しても構うまいと思う。
 かつてこの物語に私が覚えた感動は、この物語の本質のほんの一部でしかなかった。だからと言って今私が全部を理解したなんておこがましいことを口にするつもりはないが、目からウロコの二、三枚は落ちた気がする。自らの愚かさを認識できるからこそ、本は何度も読み返さないといけないし、年も取らなきゃならんと思うのである。
 もう一度また前作を一巻から読み返してみたいが、残念ながらこれも書庫の山の奥に沈んだままである。……まんがカフェにでも行こうかなあ。

2004年08月02日(月) 9年目のお小遣い。
2003年08月02日(土) 新番組いくつか/映画『パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち』/『ルパン三世公式マガジン』8月18日増刊号
2002年08月02日(金) 復讐正露丸/『快傑ズバット』第一話/『芥川龍之介 妖怪文学館』/『秘宝耳』(ナンシー関)
2001年08月02日(木) 『題未定』ってタイトルのエッセイ集があったな/『キノの旅�検戞併�雨沢恵一)ほか


2005年08月01日(月) 無意識の戦争/舞台DVD『仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』

 これも先に但し書きしておかないとまた誤解を招きそうなんで一応断っておく。
 私はもともと、スポーツは決して嫌いじゃない。生まれつき体が弱いから苦手ではあったが、小学校時代、マラソン大会はいつもビリだったがリタイアしたことは一度もないし、地域の子供相撲大会とかに参加した思い出はあるし、平和台球場に野球観戦に連れてってもらったことだって何度もある。
 じゃあ、大人になってスポーツに全く興味を示さなくなったのはなぜかと言うと、ひとえに世間のファンの熱狂ぶりが鬱陶しくてたまらないからだ。
 特に世界大会の類になると、どうしたって政治や国際情勢と無縁ではいられなくなるから、純粋にスポーツを楽しむことはほぼ不可能になる。
 何度もこの日記でも書いてきたことだが、国家間のスポーツ試合が「代理戦争」になっていることを憂える人間があまりに少ないことは極めて危険な状態なのだ。だって、「負けた悔しさ」は絶対「雪辱」とか「復讐」という次なる「より過激な」戦いを誘発する要素にしかならないから。
 つか、実際にそうなった例はいくらでもあるというのに、相変わらず「○○○国倒せ」とか平然と言ってられるってのは、心の底ではみんな戦争がしたくって仕方がないのだとしか思えず、暗澹たる気分になる。クーベルタンの「オリンピックは参加することに意義がある」ってのは、スポーツが政治に利用されることを戒めることが目的であったのだが、真剣にこの言葉の意味を噛み締めてる人間がどれだけいるのだろう。
 「自分は純粋に試合を楽しんでるだけだ」と思ってらっしゃる方、でも周囲の人々、あるいはネットの匿名掲示板に群れ集ってる連中を見て御覧なさい。あなた以外のファンが本当に「スポーツだけを楽しんでる」と断言できるかどうか。
 ここしばらくの世間のサッカー熱もいい加減でどうにかしてほしいと思ってたのだが、何が一番いやな気分になるって、「絶対に負けられない戦いがある」ってあのキャッチフレーズだ。
 選手がそういう気分で戦うのは別に構わないけど、マスコミが煽るこっちゃねー(怒)。なんであんな選手無視の言葉が堂々とまかり通るってんだ? これまでのスポーツの歴史の中で、こういうマスコミや世間の過激な煽りのせいでダメになっちゃった選手の例、いくらでも挙げられるだろうが。そういう批判を避けるつもりかどうか知らんが、「誰のために」「何のために」負けられないのか、曖昧にしているところがこのフレーズの特にいやらしいところだが、またそれに簡単に乗っかっちゃうアタマ軽いファンがゴマンといるってことも情けなくてね。
 で、東アジア選手権で、日本は北朝鮮に1−0で敗退しちゃったわけだけど、ネットをあちこち覗いてみると、予想通り、日本チームをもう小汚く罵倒する連中の多いこと多いこと。
 こないだ勝ったとき北朝鮮をからかってたやつらと同じ連中かもしれないが、勝ったときに有頂天になりすぎてた感じだったから、負けたらいったいどんな反応するだろうと思ってたんだけど、日本チームへの慰めとかねぎらいの言葉がホント少ないのね。どうしてまあ、あれやこれやと欠点をあげつらうことばかりに血の道あげられるのか、神経を疑うよ。
 そりゃ、北朝鮮のファンの方がアタマはとことんイカレちゃいるんだが、ありゃ国家戦略で洗脳されてるんだから狂ってるのは当たり前だ。でも、日本人の場合、マスコミの影響だけでなくって自ら狂おうとしてるやつの方が多くはないか? 何も北朝鮮に対抗して、自分たちまでアチラのレベルにまで下がってやる必要はないんじゃないか? 負けたら負けたでいいじゃん。ドイツに行けることは決まってるんだしさ。照る日もあれば曇る日もあるって、どうして鷹揚に構えられないかね? 中国も北朝鮮も韓国も民度は低いが、日本だってあまり熱狂が過ぎると威張れたものではなくなるのである。今は本当に北朝鮮憎しとか韓国憎しとか中国憎しとか、敵愾心をあらわにしたにわかファンが増えてるから、「自分はそうではない」と冷静に自己認識ができるのなら、そいつらに同調するような応援の仕方にならないように自重したほうがいいと思うのである。
 しばらく日本チーム(「ジーコジャパン」って言い方も意味不明で好きになれないのでこう呼ぶ)も負けが込んだほうが、にわかファンも減って、本当のサッカーファンだけが残るんじゃないかね。
 「好きなチームが負けても決してファンはやめずに応援する」これが本当のファンってものじゃないかね。
 ……あ、それで今気づいたけど、俺って、「選手」のファンになったことはあっても、スポーツ自体のファンになったことはなかったなあ。長嶋は長嶋、大鵬は大鵬だから好きだったのである。だから未だに野球のルールとか全然知らないんだけど。


 朝起きたらまた手足が痺れていて動かない。ものは何とかつかめるが、握力がなくて強く握ることができない。立ってもふらついてコケそうになってしまう。ちょっとシャレじゃない状態だったので、仕事を休む。薬も飲み始めたし、休み明けには調子も戻るだろうと思っていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。
 年を取ったんだなあと自覚するのは悲しいが、ちょっと夜更かしが過ぎたりすると、すぐカラダに来てしまうようになってしまった。つかこれ、明らかにこないだのカラオケの影響だろう。もちろん体調のいいときなら多少の無理は利くんだが、体調のいいときの方が少ないんだから、もう無理はしちゃいかんということである。
 多分、毛細血管があちこち詰まりかけているのである。風呂に入っちゃ出、指先、足先を揉み解して半日過ごす。その間、しげが何をしているかというとやっぱり寝ているのである。もう文句を言う元気もないが、役に立ってほしいときに絶対に役に立たないんだよな、こいつは。


 舞台DVD『AGAPE store #10 仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』。
 G2演出の舞台はたいてい福岡か北九州には来るのだが、これはなぜか福岡での公演がなかった。DVD発売は何より嬉しい。「AGAPE store」としての公演だから、当然主役は松尾貴史である。『ガメラ』とか映画でのチョイ役出演や、バラエティ番組でのアンチ・オカルト・コメンテイターとしての彼しか知らない人には、舞台役者としての、喜劇役者としての彼をぜひとも知ってほしいところだ。
 今回は七人の作家による七つの短編オムニバス。どうしてもスケッチの羅列になってしまう分、松尾貴史が持っている天性の狂気と言うか毒と言うか胡散臭さと言うか、それがエスカレートしていく面白さは今ひとつ味わえないが、作品ごとに変わるキャラクターの変化、各作家の力量の差が見えるのが面白い。
 いや、一応、どの作品も水準以上の出来ではあるので、「差」と言っても部分的な視点における比較対照の問題でしかないということをお断りしておく。目安の意味で、今回は「点数」を付けてみることにする。
 共演は辺見えみり・コング桑田・八十田勇一・福田転球・久ヶ沢徹・春風亭昇太。

1,長塚圭史「素晴らしい愛をもう一度」55点。
 バスが自爆テロに遭って、妻(辺見)を失った夫(松尾)。彼は案内人(昇太)に連れられて、遺体が収容された公民館で妻と対面するが、妻は死んでいるにもかかわらず起き上がり、夫の浮気を責め立てる。そしてそれに同調するかのように他の遺体たち(コング・八十田・福田・久ヶ沢)も目覚め始め……。
 舞台でホラーをやるのはなかなか難しい。まあホラーというよりはブラックコメディだから特に怖くなくてもいいんだけれど、オチがオチだけに、笑いの中に一抹の怖さを漂わせることができれば本当はもっといいのである。起き上がるまではみんな死体っぽくていいんだけど、いったん目覚めると死体らしさがさらっと消えちゃうのが弱点。あと、冒頭の松尾と昇太の掛け合いがやや「外し」てるのもツカミに失敗している印象。案内人がわざと別の死体を教えるなんてイタズラ、いくらなんでもリアリティがないよ。

2,倉持裕「MEAT DOLL」70点。
 自己啓発セミナーで、3人の男(八十田・福田・久ヶ沢)が、指導官(昇太)から、「自分の肉体はあくまで『肉人形』に過ぎず、それを操る精神こそが自分なのだ」と洗脳される。その結果、ついに彼らは「他人の肉体」まで動かせるようになるのだが……。
 他人の体も動かせるようになる、という設定には無理があるが、3人のロボットチックなマイム、他人を動かすことによって生じるトラブルが面白く、そういう無理は気にならなくなる。発想は二人羽織なんだろうけれど、それを「一人」で演じるところがミソ。
 
3,土田英生「潜入」60点
 忍者七人が、敵の城に潜入して殿様を暗殺しようとする。ところが直前になって部下たちが次々と「草」(つまり二重スパイね)であったことが判明、味方はどんどん減っていく……。
 まあ、結局「そしてだれもいなくなった」って結末になるのは見えているが、その「去り方」にそれぞれのキャラクターに合わせた工夫をしているので決してつまんなくはない。コング桑田がくノ一というムチャな設定も笑わせるし、最も忍者らしからぬ春風亭昇太のトロくさい演技も微笑ましい。けれど「『忍たま乱太郎』だよこれじゃ」という印象もぬぐえない。

4,千葉雅子「危険がいっぱい」50点
 元漁師の清掃夫二人(コング・福田)が、ちょっとワンテンポ遅れた感じの後輩(久ヶ沢)をイジッてからかっている。けれど後輩の方はどこ吹く風。二人は適当にサボりながら好き勝手なことを喋っているが、突然後輩が倒れて仰天する。そこは原発で、漏れた放射能に後輩も二人も汚染されていたのだった。
 途中までは女の話なんかしていかにも俗っぽい先輩二人と、実は事故で脳に損傷のある後輩とのボケとツッコミのやり取りが楽しいのだが、落ちが唐突で脈絡がなく、「はあ」という感じの一編。原発に関する知識が全くないってのも不自然っぽいが、でも現実に原発事故で死んだ人はホントに知識がなかったりしてるから、リアリティがないわけではないんだが。

5,故林広志「理想の部屋」65点
 開戦を目前にして、シェルター内で討議を続ける総理大臣(昇太)・厚生大臣(松尾)・官房長官(コング)。評論家(久ヶ沢)。会話が盗聴されているということで、急遽「暗号での会話」に切り替えるが、その暗号コードが「カップルの会話」を模しているために、緊迫した状況が痴話げんかのように聞こえてしまう。ところがそこに厚生大臣の恋人(辺見)が現れて、本当に痴話げんかを始めてしい……。
 これもよくある「言葉の取り違え」ギャグだけれども、かなりな部分までエスカレートされていて、まあまあ高水準の出来。けれど、閣議に関係ないけどなぜか紛れ込んでしまったという評論家っておいしいキャラを後半の展開では生かしきれなかったことと、もっと混乱させてテンポを早くすることもできるんじゃないかって疑問が出て来る点で、若干消化不良が残る。
 
6,後藤ひろひと「ONE ARMED FORCES」70点
 戦場で、塀の上に横たわり、落ちてきた爆弾を片手にぶらさげ、必死になって重さに耐えている兵士(福田)。手を離せば当然爆弾は落下して大爆発を起こしてしまう。そこにニトログリセリンを本部に運ぶ途中の上官(松尾)がやってくるが、彼も左腕を負傷してい助けることができない。衛生兵(八十田)がやってきて二人を助けようとするが、うっかりニトロを受け取ってこれまた身動きできなくなってしまう。そして最後にやってきた女性兵士(辺見)は……。
 一編のスケッチとしては一番まとまっている。最終的にどう考えても脱出のしようがない(つか、手榴弾のピンを抜いているから、数秒後にはどうしたって全員爆死である)状況なのに最後がとぼけたセリフで終わるのもツボを押さえたオチだ。まとまっているだけにさらに「この状況から脱出できたらもっとすごいスケッチになるよな」とつい期待したくなるのは欲深な要求か。

7,ケラリーノ・サンドロヴィッチ「スポンサー」75点
 旅行先の料亭で、不倫カップル(松尾・辺見)が別れ話をしている。そこに仲居(昇太)が茶碗蒸しを持ってやってくる。茶碗蒸しを食べた夫は突然苦しみ出して絶命。実は女と仲居は共謀して夫を毒殺しようとしていたのだった。
 ……というのは実は2時間ドラマのクライマックスシーン。三人はみな役者だった。ところがそこにプロデューサーから連絡があって、スポンサーに製薬会社がいる関係で毒殺はNG、撮り直しという事態になってしまう。急遽脚本が練り直されるが、脚本家(八十田)が考えたストーリーはとんでもないものだった……。
 スポンサーの横槍でドラマが混乱ってのは三谷幸喜『ラヂオの時間』にもあった設定で、話がどんどん非現実な方向に進んでいくのも同工。殻は同じでも中身が違うから模倣した印象はないが、だったら三谷幸喜よりも面白くならなきゃいけない。まあ「すごく」とまではいかないが、死んだ仲居を二人羽織で操るギャグが秀逸なので、「少し」面白くなってるというところか。
 ラスト、全体を総括するに当たって、これまでのスケッチをこき混ぜた演出は、一見不条理劇的であるが、実は喜劇の定番のカタストロフ・エンディングである。ケラさんが「筒井の子」であることがよく分かって面白い。

 でも、全体を通してみると、「そこそこに面白い」印象はあっても「すごく面白い」ことにならないのはどうしたことか。これがオムニバスの持つ欠点の一つで、各エピソードに出来不出来が生じた場合、全体的な印象はどうしても「不出来」の方に引きずられる結果になるのである。シティボーイズやラーメンズのようなハイレベルな舞台であっても、それは起きてしまう現象で、それを回避するには「突出して面白い」エピソードが一つは必要になるのだが、今回はそれがなかった。「そこそこ面白い」が、全体として「今ひとつ」という雰囲気を作り出してしまっているのだ。
 先述した通り、松尾貴史の毒を充分に発揮させられなかったこともちょっとネックになっている。でも、こういう「合作スケッチ」の試みはもっともっと作られたほうがいいと思うんで、第2弾、第3弾とシリーズ化してくれると嬉しい。

2004年08月01日(日) あなたへ
2003年08月01日(金) 引用は盗用じゃないぞ/映画『茄子 アンダルシアの夏』/『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』
2002年08月01日(木) MANGA ATACK!/テレビ特番『パワーパフガールズムービー』/『トランジスタにヴィーナス』4巻(竹本泉)ほか
2001年08月01日(水) 掲示板変更&21世紀の夏/『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。 朝まで生テレビ!』(田原総一朗)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)