無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月31日(日) 政治を笑えば政治に利用されるということ/映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』

 昨日、本当は朝から映画を見に行くつもりだったのだが、体調がすぐれず控えていた。
 今日は昨晩の(つか朝までの)花火とカラオケで昼までくたばる結果になったので、その判断は正しかったと言えよう。
 夕方になってようやく体が動くようになって、シネ・リーブル博多駅に映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』を見に行く。世間は『亡国のイージス』の方に群がっているのだろうが、優先順位はやっぱりこっちが先になるよな(笑)。

 『サウス・パーク』のトレイ・パーカー&マット・ストーンによる懐かしの「スーパーマリオネーション」映画であるが、まず内容紹介以前に、気になってる方も多かったであろう「果たして天皇皇后両陛下の出演シーンは上映されるかどうか」について報告しておく。ハイ、見事にカットされておりました。『チンポコモン』と同じ憂き目ですな。日本のどこが自由の国だと悪態の一つも吐きたくなる方も多かろう。別に私は天皇制反対論者ではないが、こういうつまらんタブーが現実に存在している以上は(右翼が実際に過激な行動に出る可能性が常にある以上は)、「日本は絶対に右傾化なんかしない」という主張に説得力がなくなってしまうのである。自主規制なんかするな。
 多分、このシーンはDVD発売の際も日本版ではカットされることはまず間違いのないところだろうから(しかも何の説明もなく)、完全版を見ようと思ったら、本国版のDVDを取り寄せるしかない。お金の余裕がない人は、日本版を見てどこにどんな形でそのシーンがあったかを想像してみよう。
 公開二日目であるにもかかわらず、ガラスケースの中にパンフレットが見当たらなかったので、もしやと思ってカウンターで「パンフレットは売ってないんですか?」と聞いてみたところ、「制作されてないんですよ」とのことだった。本当かあ? なんかマズイこと書いたライターがいて、急遽回収されたとか、そういう可能性もありそうな気がする。映画の詳しい内容を文字で確かめたい人は洋泉社発行の『チーム★アメリカ/ワールドポリス インサイダー』を買うしかなさそうである。

平和を乱すテロリストに対抗すべく結成された国際警備組織「チーム・アメリカ」。世界警察を自認する彼らは、今日も今日とてパリで自爆テロを目論むアラブゲリラを見事に殲滅した。その過程でエッフェル塔やルーヴル美術館が全壊するなど、ちょっとした被害はあったが、世界の平和のためには微々たる犠牲である。たとえアレック・ボールドウィン率いる全米俳優協会から「救済と称して破壊を繰り返しているだけ」と非難されようと、チームは全くどこ吹く風だ。
 今日もエジプトはカイロで、憎きテロリストたちが大量破壊兵器を隠し持っているという情報を探り出したリーダーのスポッツウッドは、スパイを送り込むことにする。そのためにスカウトされたのは、なんとミュージカル俳優のゲイリーだった。果たして彼の「演技力」はテロリストたちの目を見事欺くことができるのか。そのころ、テロリストたちの背後に潜む黒幕・北朝鮮の金正日は、全面戦争を画策し、俳優協会を利用しようとしていた……。

 さて、本作については「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」にて、何度となく町山さんが制作レポートや実際に観劇したときの批評やアメリカでの反響などを紹介している。
 内容をかいつまんでまとめちゃうと、「トレイとマットの二人は自分たちではノンポリのつもりで、右も左もブッシュも反ブッシュもまとめてバカにしているつもりかもしれないが、出来上がった映画は政治的発言を繰り返す俳優たちへの嫌悪が勝ったせいで、『親ブッシュ』と捉えられかねない映画になっている」とのこと。あちらでの映画公開がまさしくブッシュ再選の直前だったせいで、実際に「政治的に利用された」と、彼らの「うかつさ」を痛烈に非難しているのだ。
 確かに、最終的にはチーム・アメリカたちは俳優協会の役者たちを殲滅し、実はエイリアンの尖兵(トレイとマットは絶対に『ゴジラ対ガイガン』を見ているに違いない!)だった金正日も宇宙に追い払うことに成功するのである。だから、町山さんのように、「チーム・アメリカはバカだけどバカなりに一所懸命正義を行っているのであって、戦争に反対する側が売国奴である、という展開になり、後半はチーム・アメリカを全然バカにしないで賞賛したまま終わってしまう」という見方をすることも充分可能だ。
 しかし、チーム・アメリカ(つかアメリカそのものだわな)が自らをDICK(ちん○こ)に例えたのは、まさにあの国の本質がそういう男根的暴力によって支配されていることを喝破しているのであり、決して褒め称えているわけではない。少なくとも日本人で「オレたちみんな、ちん○こ野郎だよな」と言われて感激して同意する人間はそうそういないだろう。なのにアメリカ人の間ではそれが「賞賛」のように錯覚させられてしまうのは、アメリカ人たち自身、自分たちがちん○こであることを「自覚」しているからである。いや、自覚どころか、ちん○こであることに、誇りすら持ってしまっているからである。「ヘイ、オレたちクールでイカしたちん○こ兄弟だぜ、おま○こもケ○の穴もみんなおいらたちがヤッてやるぜ!」って感覚なのだ。
 つまりそれくらいアメリカ人の大半は低脳でイカレた糞ったれどもばかりなのだが、自分がバカであることを誇りにしているバカに向かって「バカ」と言ったところで、堪えるはずがないのである。
 トレイとマットの二人は決して馬鹿ではないが、彼らの誤算は二つあったと思う。一つは、「親ブッシュ派」を「チーム・アメリカ」という架空のキャラクターに抽象化させたのとは対照的に、「反ブッシュ派」の連中を実在の俳優協会の面々に代表させたために、より「反ブッシュ」の色合いの方が濃く出てしまったこと(殺される俳優たちは以下の錚々たる面々。アレック・ボールドウィン、ジョージ・クルーニー、ダニー・グローバー、イーサン・ホーク、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、サミュエル・L・ジャクソン、スーザン・サランドン、リブ・タイラー、ヘレン・ハント。一番バカにされているのはマット・デイモンで、自分の名前しか喋れない)。
 もう一つは、「親ブッシュ派」の連中が「チン○コ野郎」とからかわれた程度では屁でもないほどにバカだったとは思いも寄らなかったということだ。「親ブッシュ派」の主流になってるのは反ホモのファンダメンダリストどもだが、実は他人のちん○こくらい喜んで舐める連中で、そのことを映画の中で指摘されても気づかないくらいに脳が腐れているのだ(そういうシーンがあるのである)。やつらを怒らせるくらいに馬鹿にするためには、「チーム・アメリカ」という衣装は“アメリカでは”まだまだカッコよすぎるのだろう。
 まあ、我々日本人であれば、チーム・アメリカを見てかっこいいなんて思うことはまずない。アメリカに在住している町山さんから見ればこの映画は「親ブッシュ」に傾いて見えるのだろうが、我々から見れば「親ブッシュ」も「反ブッシュ」も「所詮はみんな同じアメ公」であり、「こいつらみんなただの既知外じゃねえか」なのである。
 だからこの映画は、「アメリカ以外の人間にとっては」、既知外と既知外が互いを罵倒し中傷しFUCKし殺戮しあうとんでもなくアナーキーでスラップスティックな映画なのであり、この世界の警察を任じているやつらが本質的に狂っているという、笑えない冗談のような現実がまかり通っている恐怖を描いている作品なのである。
 いや、映画見ている最中には大いに笑ったけどね。エロでグロで不謹慎なギャグは大好きだ。マジメな人は「やりすぎで笑えない」なんて言って鼻白むだろうが、人形たちは実に大らかにSEXを謳歌し、単純に殺戮されていて、そこにギャグとしてのひねりは殆どないに等しい。大人向けではあってもギャグのレベルそのものはザ・ドリフターズの「うんこち○ちん」と同程度の幼稚なものなのである。しかしその「幼稚さ」は逆にトレイとマットの「武器」になっていて、戯画化された人物はどんなにその特徴を誇張されて造詣されていても、みな溌剌としていて愛らしく(恐らくはパロられた本人以外の人にとっては)魅力的なのである。
 ちょうど小林よしのりが薬害エイズ訴訟被告の安部英を戯画化したときに「思い切り憎たらしく描いたつもりなのにかえって可愛くなってしまった」と慨嘆したように、カリカチュアは差別化であると同時に対象をアイドル化してしまう効果もある。町山さんは「金日正だけが可愛く描かれている」とか日記に書いているが、決してそんなことはない。頭でっかちアレック・ボールドウィンもスーザン・サランドンおばさんも知恵遅れのマット・デイモンも自爆テロリストのマイケル・ムーアも全然可愛いのだ。
 場内はなぜか若い女の子のお客さんのほうが多かったが、彼女たちもけらけら笑いっぱなしだった。特に受けていたのは、マイケル・ムーアの自爆シーンと人形セックスのシーンと、「マイケル・ベイはどうして映画監督が続けられるの? 『パールハーバー』は糞だ♪」の歌のシーンであった。私も、これが聞けただけでも大満足だ。


 帰宅して、先日入手した舞台DVD『AGAPE store♯8 しかたがない穴』を見る。
 去年、福岡公演もあったのだが、つい見に行き損ねていたので、DVDででも見られるのは嬉しい。
 脚本はペンギンプルペイルパイルズの倉持裕の書き下ろしで、演出はもちろん我らがG2氏である。コメディが多いG2演出作品であるが、今回はホラー・コメディあるいはブラック・コメディ、あるいは不条理ギャグホラーとでも言うべきもの。笑って見ているうちにどういうわけかだんだんとこちらの神経の方が妙に敏感になるような不安になるような背筋に怖気が走るような、あるいはちょっとばかしトリップしてしまうような、そういうフシギな気分にさせられてしまう芝居である。

 南米にある架空の国「ガルガル」がこの物語の舞台。
 そこには大昔に陥没した巨大な穴があり、研究所がその穴の底に建設されていた。 その不思議な生態系を調査するために、調査団が派遣された。しかし、ヘリコプターでやってきた調査団は、骨折し意識を失った一人のガルガル人を残して、全員なぜか引き返してしまう。
 現地に取り残されたのは、調査とは直接関係のない四人。通訳の蜂賀(松尾貴史)、ノンフィクションライターの恵美(秋本奈緒美)、恵美の付き添いでカメラマンの天川(山内圭哉)、女医の留里子(松永玲子)。研究所に常駐していた所員の佐藤(小林高鹿)は、二重の六角形から成る奇妙な宿泊施設に彼らを案内する。
 その閉ざされた空間の中で調査団が再来するのを当てもなく待つうちに、5人の神経は少しずつおかしな方向へ傾いていく。
 蜂賀は自分の持ち物が全て「微妙に違うもの」に変わっていると主張する。 留里子は新しい病気の創作にふけるようになる。天川は「この世にあるとは思えない動植物」を執拗に追いかける。彼らの生態を取材し「記録」しはじめる恵美。しかし彼女は一本のペンも持ってはいなかったのだ……。
 そして穴の秘密を知っているらしい佐藤は狂気を帯びはじめた彼らを見ながら沈黙を守り続けていた……。

 穴の底の物語、と聞くと安部公房の『砂の女』が思い出されるが、あれが一軒家の男女だったのに対して、倉持裕が描く「穴」は更に複雑化し、「穴の底の迷宮」での五人の男女の絡み合いが繰り広げられる……と言っても、ベースはコメディなので、男女のモツレとか、現実の男女であれば起こり得るようなドロドロまでは描かれない。
 台形の同じ形の部屋が八つ組み合わさって、二重の部屋を作っているというややこしい構造は何のためか、というのは後で一応、そのわけが説明されるのだが、物理的原因は解き明かされても心理的原因まで作者は解説しようとはしない。そのあたりの観客を突き放した印象は、そのトリックの類似性とも相俟って、森博嗣の某小説を想起させるが、この劇にはミステリ風味はあっても本格ミステリを目指しているわけではないから、謎がやたら残るのは、それはそれで構いはしない。登場人物たちが「穴の謎」に振り回されるおかげで、男女の営みにすら一切頓着しないのも芝居を見ている間はさほど気にならず、一応納得できる流れにはなっているからである。
 しかし冷静に考えてみれば、誰かを閉じ込める目的であるわけでもない研究施設に交通手段がヘリコプター以外にないというのもおかしいし、そもそもこの四人が、調査団が引き返したのに自分たちだけ降り立ったというのも理由がよく分からないのである。普通、一緒に帰るって。やはり最初の時点で「穴の毒気」にやられてでもいたものか。
 即ち、この物語もまたリアルな現実劇ではなく、連綿と続く“何者かを待ち続ける”ベケットの『ゴドーを待ちながら』の末裔である不条理劇・抽象としての物語であるのだ。彼らは調査団の再来を待っている。怪我をして失神しているガルガル人の意識が回復するのを待っている。しかし、「調査団」は本当に存在しているのか? それは彼らの証言で語られているだけである。先述した通り、彼らがこの地に降り立ったこと自体、不自然なのだ。
 しかも、ギャグのように語られはするが、彼らはこの穴に降りて以来、本来の職種をいっかなまっとうできていない。通訳は本当にガルガル語を話せるのかどうか怪しげである。ライターは全くレポートを書こうとしない。カメラマンはろくな写真が撮れない。医者はまともな治療ができない。「穴」という特殊空間にいるために、それはいたしかたのない緊急事態として説明がされるが、そもそも彼らは本当に通訳で、ライターで、カメラマンで、医者なのだろうか? 疑い出せばキリがないくらいで、そもそも本当に「ガルガル」なんて国が実在しているのだろうか?(いや、架空なんだけど)。
 意識不明のままの「ガルガル人の学者」は本当に存在しているのか? 「演劇」が「見立て」によって成立する芸術である性格上、その学者はあたかも「そこにいるように見立てられて」演じられているのだが、もしかすると「彼」は「本当にいない」のではないか? 「彼」の正体は最後になってようやく明かされるのだが、たいていの観客は意味が分からずに困惑すると思う。もちろん意味なんて分からなくても構わないのだが、この芝居がまたしても「ゴドーの末裔」であることに気がつけば、その「意味不明」こそが作者の意図したことであることに思いが至るはずなのである。
 これは演劇関係者であるならば基本中の基本として知っていなければならないことであるが、『ゴドー』の本質は、ゴドーの正体が誰であるかということよりも、そのゴドーを待ち続けるウラジミールとエストラゴンの二人もまた「正体不明」であることにあるということだ。
 「人間とは何か?」「自分とは誰か?」そんな「答えが出るはずもない疑問」を持たされていることがまさしく人間存在の悲劇であり喜劇なのである。我々観客は彼ら五人の右往左往を笑ってなどいられない。彼らが狂気の徒であるならば我々もまた「この芝居を見る以前から」狂っている。我々は生まれついての狂人なのだ。その人間の本質を突きつけているのがこの芝居の最も恐ろしい、「ホラー」としての要素なのである。
 ある意味、「またゴドーかよ」という謗りを受ける覚悟も作者にはあったかと思うが(まあ意識しないで『ゴドー』になっていたという可能性もあるが)、舞台設定の見事さと役者陣の熱演で、二番煎じ三番煎じの印象を持たれることをうまく避けている。松尾貴史の操るいかにも胡散臭い「ガルガル語」(よく聞いてみると「愛があれば年の差なんて」「リンガーハットなぜ遅い」とか、日本語を外国語っぽく言ってるだけなのである)も、物語全体を通して見れば、ただのギャグではなく、「本当にガルガル語など話せないのではないか?」という彼のアイデンティティを疑う要素として機能している。全ての「実在」が疑わしくなったとき、そこから立ち上がるべき「人間」というものはありえるのかどうか。
 不条理劇の究極はデカルトへの挑戦である。それが笑いと恐怖の表裏一体のドラマとして描かれることの必然をこの芝居は明示しているように思う。
 一つだけガックリしちゃったのは、まあ、分かりやすくはあるのだけれど、六角形の部屋の上面図をわざわざ物語の冒頭から舞台に投影していた演出である。そんなの説明しないでいたほうがより舞台が「ややこしく」感じられてよかったんじゃないかと思うのだが。
 ついでだけど、天川を演じている山内圭哉、今まさに奥菜恵の浮気相手ではないかと巷のスズメが喧しい人だが、今回はトレードマークのスキンヘッド(後頭部のひとふさだけ残している)をキャップなどで隠しての出演。普通の人っぽく演じてるんだろうけれど、やっぱりどこかコワモテの雰囲気が漂うのは隠し切れない(笑)。でも本当に奥菜恵の相談とかに乗ってあげてたのなら、優しいところもある人なのかもね。


 テレビで映画『サトラレ』を放送していたが、久しぶりに見返してみると本広克行の演出が以前にも増して幼稚に見えてきた。一番よくないのは主人公たちを背後で支えているはずの「サトラレ対策委員会」の様子の描写で、委員たちのキャラクターがいかにもコトナカレな連中に戯画化されてしまっているので、それが物語全体に波及して全体的にチャチな印象を与えてしまっているのである。マンガだとサトラレにサトラレないようにする大騒動の様子などを描いても違和感ないのに、実写だとやっぱりどうしても「ありえねー」感じの方が先行してしまうので、それをどうにか処理しなきゃなんないのだが、その工夫が全くないのが本広監督の才能の限界である。
 まあ映画全体がつまんなく感じられる原因は、主演の安藤政信 の演技がまたシロウトに毛が生えた程度で見るに耐えないってのもあるね。でもやっぱり八千草薫は年取ってもすっげえいいわ♪

2004年07月31日(土) ドラキュラ×の味
2003年07月31日(木) 女の子がいっぱい/『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(岡田斗司夫)
2002年07月31日(水) しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか
2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか


2005年07月30日(土) 星に花火/『新吼えろペン』2巻(島本和彦)

 『ウルトラマンマックス』第五話「出現、怪獣島!」(装甲怪獣レッドキング/両棲怪獣サラマドン/飛膜怪獣パラグラー/電脳珍獣ピグモン登場)。
 なつかしの初代『ウルトラマン』「怪獣無法地帯」のリメイク。前作からはレッドキングとピグモンが継承されての登場で、怪獣ファンとしては喜びたいところだけれど、物語自体はまるで高揚感を得られない。
 まず、いきなり出現した謎の島に、DASHよりも先にトレジャーハンターたちが侵入してるという設定がヘンだけれども、またこいつらが定番過ぎるくらいにDASHの妨害をしまくるのが、ドラマ展開上ある程度は必要とは言え、説得力に欠けている。ものすごい犯罪を犯そうとしてるんだから、そこまでの行動に出るからにはよっぽど切実な理由とか緊急事態とかがなきゃなんないはずだし、何らかの心の葛藤だって描いてしかるべきなんだが、脚本はそんな緊張感を少しも描き出そうとしないのだ。いくらなんでもダッシュバードをぶち壊すのは笑いの種でしかない。そんな、駐車場荒らしじゃあるまいし、戦闘機のコックピットを簡単に壊させていいものか(カイトたちは開けっ放しで出てったのかよ)。
 昔は、子供だましでない脚本を志す人は、こういうところでも手抜きはしなかったものだ。こんなテイタラクなら、たとえ印象が暗かろうと前シリーズの方がよっぽどマシである。蛍雪次郎さんにインディ・ジョーンズの格好をさせるのもどうかと思う。
 怪獣の分類名が「どくろ怪獣→装甲怪獣」(レッドキング)、「友好珍獣→電脳珍獣」(ピグモン)と変わっちゃったことも気に入らない。着ぐるみの出来が40年前のものよりなんかチャチになっちゃってるのはどうしたものかね。
 貶しどころ満載だけれども、強いてよかった点を挙げれば、「怪獣島が移動し、日本に迫ってくる」という設定が、これまたなつかしの一峰大二作のコミック版『ウルトラマン』を踏襲していたことである。まあ、何で島が動くんだって説明、まさかコミックのまんま「島がホンダワラで出来ている」なんてことにはしないと思うけれども、今のところ前編の段階では何の説明もない。もしかしたら後編でも何も説明しないつもりじゃないかという不安があるんだが、そこまで脚本家がアホだったら、円谷はもう脚本のチェック機能がゼロどころかマイナスになっていると判断するしかなくなるなあ。
 

 アメリカ航空宇宙局(NASA)が、昨29日に、太陽系の最遠部に冥王星よりも1.5倍大型な「第10番惑星」を発見したと発表。
 これまた“第10番惑星と認定されたなら”、教科書を書き替えなきゃなんない大事態だけれども、発見された場所が例の小天体が群集している「カイパーベルト」の中だし、これまでに発見されてきた第十番惑星候補を押しのけてまでわざわざ認定しなきゃならないものかどうか、今の段階での発表はちょっと早計じゃないかと思える。周知のごとく、冥王星ですらその大きさから(月より小さい)惑星と認めるべきではないという意見も多いのだから。
 まあオタク的には惑星の新名称はいったいどうなるのかとか気にはなる。神様の名前、殆ど使い果たしてるからなあ。言っちゃなんだが、小惑星や衛星にポコポコ付けすぎたのだ。せめてジュノー(ヘラ)くらいは取って置けばよかったのに。けれどその昔、世紀の大誤報であった「第一番惑星」(もちろん水星の内側にあるという意味)にいったんは付けられた「バルカン」はまずないところだろう。太陽から遠すぎるのに火の神はちょっとね。あと考えられる手は、今後も惑星が発見されることを想定して、冥王星1、冥王星2と番号を付けてく方法が残ってるけど、何だかこのまま「2003UB313」という名称のまま、定着しちゃうような気もする。こうなるともう味気ないっつーか、どうでもいい気になってくるよなあ。
 惑星認定もまだである現段階では、はしゃぎ過ぎるのも早計だと分かっちゃいるんだが、つい、『セーラームーン』は新作が作られるのかとか、しょーもないことで騒ぎたくなるのは、オタクの性(さが)というよりは、我々の世代がかつて宇宙に限りないロマンを求めてきたロケットボーイズであるからだろう。「無限に広がる大宇宙」とか「Space is the Final Frontier」なんて言葉にたいしたときめきも感じない若い世代にとっては、今回の大発見も「へえ」で終わっちゃうんだろうなあ。そっちのほうがずっと寂しい。


 夜、P.P.Produce次回公演のための第一回打ち合わせ……のはずが、出席者が少ないので急遽花火大会に(笑)。参加者は、鴉丸嬢、其ノ他君、しげ、私と、去年も花火で遊んだぞのメンバー。
 だいたいうちの劇団、役者希望者がただの一人もいないというとんでもない劇団なので、「裏方手伝いならするよ」というメンバーが集まったって、現段階では打ち合わせにも何にもならないのである。とりあえず台本のシノプシスだけは二人に渡したけど、具体的な検討はもちっとあとになりそう。
 最初、去年も花火をした岳城まで登っていったのだが、どういうわけだか、11時も回った深夜だというのにやたら車が停まっている。もちろん、我々同様花火をしに来てるわけでは全然ない。だってどの車も上下に揺れてんだもん(呆)。
 いたたまれないので、目的地を変更、志賀島を目指す。途中、海の中道は何キロにも渡ってずっと右も左も海岸だから、どんなに人が来てたとしても、どこかに必ず花火の出来る場所はあるだろうという目算である。そう思って車を走らせたところ、確かに適当な場所は見つけたのだが、そこに至るまで走りに走った。
 いやもう、驚いたの何のって、右も左も延々と続く車の列。何十台、何百台来てるか分からないってくらいに車がずっと路駐しているのである。これは別に上下運動しているわけではなく、めいめいが花火をしたりバーベキューしたり何かハイテクなビデオビジョンみたいなの持ちこんで踊ってたりしているのである。
 確かに土曜の夜で翌日は休日だ、どこかで飲むよりみんなで集まって海岸でどんちゃんやった方が安上がりではあるかもしれないが、どうしてここまで人間が多いのか。こんな熱帯夜じゃ蚊にだって食われちゃうだろうに、そこまでして遊びたいのか、そういうエネルギー、他に使うことはないのかとか、自分たちも遊びに出かけているにもかかわらず、現代の若者の脳軟化現象を目の当たりにして慨嘆するのであった。
 結局、前々回公演のときに舞台で流した映像を撮影した海岸(鴉丸嬢がドレスで突っ走った海岸である)まで出張る。場所はもう殆ど志賀島の手前だ。そこでも既に遊びに来ている連中が二、三組、花火をぱんぱか海に向かって打ち出している。だからその元気、もっと有効に使うことできないのか。
 早速、しげが買い込んできた花火の袋を空ける。去年はネズミ花火とかスモークとか、夜中にやっても少しも面白くない花火ばかり買いやがったので、そこんとこ今年は「派手なの買え」と厳重注意しといたので、半分は打ち上げ花火。多分、二、三十発くらいはあったと思うが、其ノ他君と二人でどんどこ打ちまくったら、あっという間に終わってしまった。その間、鴉丸嬢はしげと二人で地味に線香花火とかしている。「男どもはどうしてあんなに打ち上げに熱中できるのか」みたいなこと言ってたけど、もちろんそれが男のロマンだからである。かと言って、フロイト的な解釈はしないよーに。

 思い切り喉が渇いたので、飲み水を求めてそのままカラオケになだれ込む。朝の六時くらいまで四人で熱唱。
 相変わらず鴉丸嬢と其ノ他君の歌う曲はオールドタイプの私には全然分からない。「ジムノペディ」って言われたら、私はエリック・サティしか思い浮かばないのだ。つか、こういうバンド名を付ける連中ってアタマ悪いとしか思えない。サティとその音楽性を比較される覚悟があってやってんのか? 度胸があるというよりはただの馬鹿じゃないかとしか思えないのだが。
 其ノ他君が『HI-HO』を歌うというので、てっきりディズニーかと思ったら、これまたhideのである。こういう間違いをやらかしてるオヤジは、全国にかなりいるだろうなあ。オヤジ世代は新しい知識を全然知らないから参っちゃうよね、と若い人たちに馬鹿にされそうだが、私らに言わせれば、何でそんな紛らわしいタイトル付けなきゃならないのかと、そっちの方に文句を付けたいのである。

 前にも日記に書いたことがあるが、そもそもイマドキの歌手やバンドが、旧曲のタイトルをまんまパクることがあまりにも多いのを問題視しないのは音楽家および音楽ファンの意識の低さでしかないと思うのだ。あの曲もこの曲も同じタイトルってんじゃあ思い入れだってしにくい。どうしても「人まね」にしか見えないから、ファンにはなりきれないのである。
 「別にアンタにファンになられても困っちゃうよね」とかからかわれるかもしれないが、仮にこれが著作権に引っかからないとしてても、最低限、守らなければならない「礼儀」はあるはずだし、そもそもこれは作家としての「良心」の問題だと思う。どう言い訳したって、既成曲に同タイトルがあるの知ってて流用すれば、それはただの「恥知らず」なんだよね(それはそれとして、版権にうるさいディズニー、曲のタイトルを流用されてもそれは許しちゃうのかな。まあほかにも『星に願いを』とか歌ばかりでなくやたら本だのマンガだの映画だのに流用されてるからいいのかもしれないが。ああ、でも石野真子の『狼なんかこわくない』は私は許す)。
 若い人にとっては昔の曲なんて知らないだろうし、今聞いた方がオリジナルってことになるんだろうけれど、だったらタイトルもどうしてオリジナルにしないのか、そこがオカシイのだ。だって、これが小説だったら、新人作家が自分の小説のタイトルに『吾輩は猫である』とか『羅生門』とか付けたら、絶対に問題になるのに(実際、『人間失格』ではモメたよね)、歌に関してだけはそのあたりの感覚があまりにルーズだからである。
 これはタイトルだけの問題ではなく、日本の流行歌の場合、ポップスだろうがロックだろうが、全般的に詩の中身も陳腐なのは否定できない事実だと思うのである。別にコムズカシイ詩を書けと言いたいわけではない。日常のちょっとした思いや愛を語る場合でも、みんな似たような言葉、似たようなフレーズばかりを羅列して平気でいられるあの神経は何なのだ。で、何かと言えばサビの部分に英語を入れたがるんだよな。それで何が「オリジナリティ」だ「オンリー・ワン」だ。ウソこきゃあがれ。
 この際、ハッキリ言ってやるが、若手の歌手が書く歌詞の七割五分くらいは「詩」と呼ぶのもおこがましいくらいに幼稚で脳タリンである。具体例を挙げるとテキが百万人くらい増えそうだから避けるけれども(既に遅いか)、これまで私が本気で「これはすごい!」と感じた詩は、中島みゆきなど、数えるほどしかいない。ほかのはね、アレとかは無内容だしアレとかは馬鹿だしアレとかは異性に甘えてるだけの糞である。「あの曲はいいぞ!」と反論したいヤツは具体的に歌を教えてくれ。どこがどう陳腐か全部心理分析して説明してやるぞ。

 今日は特にアニソン縛りをしていなかったので、中島みゆきを歌ってやろうかと思っていたのだが、其ノ他君に先に『地上の星』を歌われてしまった。いや、あと追いで古いのを歌ってもよかったんだけど、なんか気を削がれた。もちろんこれは其ノ他君が悪いわけではない。でも其ノ他君にはその後、『アニメタル』も歌われちゃったんだよな(笑)。なかなかレパートリー広いぞ、其ノ他君。おかげで間隙を縫って選曲するのがなかなか大変だったけどな。
 結局、こないだよしひと嬢とカラオケに行った時と同じように、英語曲ばかり歌うハメになった。
 歌っている最中、私は飲み物を注文してはトイレに行きの繰り返しである。体調よくないってのに、全く何をやってんだか。これではまた心配しいな誰かからお説教を食らいそうである。
 さすがに五時間もぶっ通しで歌っていれば、アタマがフラフラしてくる(こないだもそれくらい歌ってたけど)。鴉丸嬢と其ノ他君を送った後、帰宅したらそのままぶっ倒れて寝た。明日は『仮面ライダー響鬼』も放送がないので、ゆっくり眠れるのである。


 マンガ、島本和彦『新吼えろペン』2巻(島本和彦)。
 炎プロアシスタント募集編。読者投票で一番人気のキャラをレギュラー入りさせようという、いわゆる新キャラ導入ということだけれども、あまり魅力的なキャラがいないのがネック(笑)。連載本誌は読んでないので結果がどうなったかは知らないのだが、女の子キャラに決まるんじゃないかね。男増えてもマンガの画面、華やかにならないし。
 それよりも今巻で面白いのはやっぱり「富士鷹ジュビロ」との対決編なのである。「架空のキャラの取り合い」って、現実には滅多にないだろうと思う人もいるかもしれないが、つい好きなキャラを自分のマンガの隅に描き込んでしまうという例は、80年代にはやたらあった。いやね、いくら好きでもここまでやるのは行きすぎだろうってのもあったのよ。あ○ひろ○の『とっ○も少○探検○』とか、脇キャラが殆どアニメキャラというヒドイ例すらあったのだ。
 そういうシュミが高じていくと、脇キャラばかりでなく、主役か準主役のキャラですら、「このキャラ、あのマンガのパクリやん!」と非難されても仕方がないくらいに「似ている」キャラになってしまうこともよくある。マンガ家さん同志が師匠とアシスタントの関係であるとか、友達同士であるとか、そういう事情があるならそれもたまにはありかなと思うけれど、そうでない場合はやっぱり非難されちゃうわな。そのへん、うまくアレンジできれば、「『D-××××ma×』は決して『×の錬××師』のパクリではない」と言い逃れができるのよ(笑)。アレンジがヘタだと「サンデー」のかつてのアレとか現在のアレとか、困った事態になるんだよねえ。
 島本さん自身、デビュー当時はモロに「石ノ森章太郎絵」と言われていたものだったが、実際に石ノ森さんから「認められる」ようになってからは絵柄がかえってオリジナリティを増すようになり、そういう文句もなくなっていった。今や独立独歩、今巻では自作について「従来の基準にあてはまらんところを目指すゆえ、しかたあるまい!」という自らのオリジナリティを宣言して恥じない域にまで達している(まあ、そういう文脈で出たセリフではないのだが)。
 あと、巻末に特別収録されている尹仁完×梁慶一による『コリアより愛をこめて』は、『新暗行御史』11巻とのコラボになってるので、島本ファンはこちらも必ず買うように(笑)。

2004年07月30日(金) 遺産相続って言うのか、こういうのも。
2003年07月30日(水) マヌケな人々/『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央)/映画『山の音』/『住めば都のコスモス荘』1・2巻(阿智太郎・矢上裕)
2002年07月30日(火) ウチにキンチョールはない。/『ゴーストハンター ラプラスの魔』(安田均・山本弘)ほか
2001年07月30日(月) 八女って全国的にどの程度有名なんだ?/『ロマンアルバム・太陽の王子ホルスの大冒険』ほか


2005年07月29日(金) 久しぶりにトンデモさんの話題/『スケバン刑事』12巻(和田慎二/完結)

 『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを逝く者』についてこないだまで「『Zガンダム 星を継ぐ者』よりずっと面白いじゃないか!」と、私のことを人としてどうかってくらいに貶していた東京のグータロウ君であるが、詳細な批評を日記にアップしたら、急にトーンダウンして「よく考えれば、あれは要らない物語だよなぁ。」とか言い始めた。うーん、今ひとつ根性がないなあ(笑)。何度も書いてる通り、作品ってのは視点を変えればいくらでも評価が変わるものだから、別にグータロウ君の感想が間違ってるなんて思っちゃいないのに。
 もちろん映画の感想書くたびにいちいち「あの、これは私の個人的な感想で、ほかの人はどう考えていても構いませんし、私の意見が絶対だとは思いませんよ」ということを前置きとして書いておくわけにもいかないから、省略しているけれども、当然私の見方だって自分で正しいと思って書いているわけではないのである。人間が、自分が正しいと思ってることしか言わないなんて考えてる人がいたら、その人は大甘ちゃんである(笑)。


 今日は元から仕事休みの日なので、テレビを漫然と見ていたら、以前、『トンデモ本の世界』でも「日本政府打倒を目指す古代帝国軍総統」として取り上げられていた「小島露観(万師露観)」のニュースが飛び込んできた。今更どうして? それとも何か新しい進展でも? という相反する興味で見ていたのだが、格別急展開があったわけでもなさそうである。ワイドショーの類はヘンなときにヘンなものをひょいと放送するものだ。
 報道の仕方はいかにも「第二のオウムになるのではないか」という不安をあおるような、政府転覆集団かセックス教団かって感じであるが、だったらもう十年以上前からニュースで取り上げてしかるべきじゃなかろうか。つか、未だにあの「ザイン」とかいう組織が何をどうしたいのか、実際に何かをしようとしているのかしていないのか、全然分からない。不安を感じる人も実際にいるとは思うが、小島露観の言動が支離滅裂なので、当局だって危険性があるのかないのか判断か付かず、どうにも取り締まりようがないというのが現状だろう。でも、コトバは過激でも基盤が貧弱でこれ以上は広がりようがない気もするし、ほっときゃいいような気もするんだけど。かえってテレビ放送しちゃうほうが宣伝になって信者を増やしてしまうというのは、それこそ「オウム」での教訓だったはずなのだが、懲りてねえよなマスコミ。
 レポーターの「あなたは宗教家なんですか?」の質問に、小島露観、冗談なんぞ一切通じないという表情で「軍人です」と答える様子が映し出されていた。一応気分は「独裁者」らしい。アドルフ・ヒトラーよりはアデノイド・ヒンケルに近い気はするが。両脇にはべらせていた女性を「私の最高傑作です」と紹介するあたり、何だかどこかで見たことあるようなデジャブーを感じたのだが、多分、東宝映画『怪獣大戦争』のX星人統制官&波川女史とか、『マジンガーZ』のあしゅら男爵&ガミアorシュトロハイム&ドナウα1とか、そんなもんのイメージだろう。でも最高傑作と言ってるわりにはご面相がちょっとね。いや、それなりにではあるんだが、もうちょっと凝ってもよかったのではないかと思ったのよ(笑)。
 果たしてこれから先、何らかの「続報」があるのかどうか、騒いだわりにはこのままフェードアウトしてくんじゃないかと思うのだが、昼間ヒマのある人はまあテレビウォッチングしてみてくださいな。


 昨年、「これはいいぞ!」と誉めまくったシルヴァン・ショメ監督の長編アニメ『ベルヴィル・ランデブー』であるが、いよいよジブリCINEMAライブラリーから8月3日にDVDが発売される。広島アニフェスで見た時には果たしてこれが全国公開されるものか、DVD発売は夢のまた夢かと疑っていたのだが、これでテレビ放送の可能性も出てきたと思う。NHKのBS夏休み劇場とかWOWOWで深夜とか、ワクが限定されそうな気はするけれど。日本はアニメ後進国だから(日本のアニメが世界で一番とか傲慢にも思いこんでる連中が多いんだわ)、なかなか他国のアニメをきちんと評価できないし見ようともしないが、少しでも人口に膾炙していってくれると嬉しい。
 発売直前に宣伝係りに借り出されたのが女優の本上まなみ。イベントで 「クールでいて、ギリギリのナンセンスにあふれています。友人と見て『コレ、何?』って顔を何回も見合わすのは他にない」と絶賛したとか。アイドルやタレントを、一見畑違いっぽい作品の広告塔に使うことを昔はちょっとどうかなと考えていたものであったが(かつてウタダがダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を賞賛したのにはアタマを抱えた)、最近はこれも致し方ないかと思うようにはなっている。何しろもう、世間の人たちはこういう「引き」がなけりゃあ、ディズニー以外の外国の長編アニメになんぞ、全く興味を持たないからである。ヒョーロンカとかシキシャとかセンモンカとか、そんな人たちが声をからしても誰も見てくれはしないのだ。
 本上まなみの発言は、『ベルヴィル』の何を見て「クール」と評しているのか、「ギリギリのナンセンス」とはどういう意味なのか、顔を見合わせたからどうだというのか、何も言っていないに等しいというか、『ベルヴィル』以外の作品にだって流用できそうなくらいに陳腐なのだが、それでも私ごときが百万言を費やすよりもよっぽど若い人たちへの求心力は強いだろう。結局、「その作品を見たい」と思わせる最大の要素はいつの時代も「フィーリング」だからである。
 しょうがないから、私も改めて『ベルヴィル』の魅力をこう語ろう。
 「ヘイ、そこのbaby、ファンキーでファニーなBAHchanたちがグローバルにhopしちゃうGOKIGENなムーヴィーを見たくないKAI? それがこれ、『ベルヴィル・ランデブー』さ! 買って損はさせねえゼ、Ah,Hah!」
 ……あほか。


 午後から、しげの通院に付き添い。
 何となく学校の三者面談に向かう親のような心境で、別に苦情を言いに行くわけでも言われに行くわけでもないのに、何となく緊張する。待合で待たされている間も、診察室の中に入れてもらえるのだろうかとか、ありえないことを心配しているのである。私の方が神経症にかかっているみたいだ。
 始めてお会いしたカウンセラーの先生は、朴訥で誠実な好青年という印象。こういう仕事は患者に警戒心を持たれてはまずかろうから、誠実さというか人当たりのよさが一番の武器だというのは了解できるのだが、果たしてそれだけで充分だろうかという疑問もある。しげの心はかなり業が深いというか、ヤミの部分も内側にどんよりと漂っているので、そこまで掬い取りながら治療をして下さっているのかどうか、そこはちょっと掴み取れなかった。
 カウンセラーの先生の前では、しげは緊張しているのかやはり訥々とした喋りになる。自分のことがうまく適切に説明できないので、突然「世界がシュレジンガーの猫なんです」なんて口にする。慌てて私が「つまり世界が自分が知覚しているから存在しているようにしか思えないって言ってるんですよ」と、量子論の説明やらSF小説、マンガなどによく使われる設定であることを説明する。前提となる知識がないと何のことやら分からんことをポンポン口にしてしまうところがしげのコミュニケーション不全なところだ。
 私が「解説役」に回ったせいか、カウンセラーの先生からは「また時々来てください」と頼まれる。やはり本人とだけ対話するだけでなく、「周囲の人間がしげのことをどう見ているか」ということを説明することも大事なのだろう。もしかしたら、しげよりも私のアタマの方がよりイカレていて、私がしげに暗示をかけてしげをイカレポンチのように見せかけているだけかもしれないのだ。
 PPのみなさんで、ためしにしげと一緒に病院に行ってみたいという人、しげに申し込んでみませんか? カウンセラーさんは千客万来大歓迎で遠慮は要らないみたいだから、めったにない経験ができますよ(笑)。

 博多駅のゲイマーズ、紀伊国屋に寄って、本を物色。
 オムライスの店で晩飯、帰宅。
 こないだから片っ端から小説、マンガを読みまくっているのだが、相変わらず日記にアップできているのはその本の一部である。指の痺れさえ治れば、まだもう少しスピードがアップできるのに、歯がゆいことである。数少ない読者の皆さんには更新遅いとかもっと書けというご不満もあろうかと思いますが、もう数年前とは病状が違ってますので、このくらいのペースでカンベンしてくださいな。


 テレビ『ドラえもん』、今日は「ころばし屋」と「きこりの泉」、ナンセンスギャグモノの傑作二本立てである。作画は安定、演出もまあまあ、新シリーズに入って、スタッフもどうやら軌道に乗った感じである。オープニングに未だに歌が付かないのはそろそろ何とかしてほしいと思うが(女子十二楽坊が嫌いなわけではナイ)。
 「ころばし屋」はもちろん『ゴルゴ13』とかのパロディであるが、途中、のび太ところばし屋の対決を西部劇の一騎打ちのイメージで描いて、のび太の特技を見せるあたりの演出が上手い。「きこりの泉」も、スネ夫がわざと新品のおもちゃを泉に捨てたら巨大ロボになって出てくるというオリジナル部分が、決して原作を損なうことなくうまく融合している。オチの「キレイなジャイアン」がどうなったのかという疑問は今回のリメイクでもやっぱり解消されなかったが、まあ、これはいいか。
 総じて出来のいいエピソードが続いているので、この調子なら少なくとも数年は延命できそうではある。ただ、映画シリーズを続けていくのはもうどうかなあという気がしている。マンネリでもオーケーというか、あえてマンネリを楽しむのがテレビであるとすれば、映画は「お祭り」である。どうしても新しい要素、去年よりも何か一つ面白い要素が求められるものだ。いくら新しいファンが付いて新陳代謝が行われていると言っても、旧作をビデオで見返すことが容易である以上、飽きられるサイクルは昔に比べてかなり早くなっているだろう。これ以上新作を作っても、大同小異という印象しか与えないだろうと思うのは、「原典回帰」の名のもとに実はネタ切れを露呈した『のび太の恐竜』のリメイクが新作として予定されているからだ。もうこれで打ち止めにした方が有終の美を飾れるんじゃないか。
 私は「藤子・F・不二雄ファン」ではあっても「『ドラえもん』ファン」では必ずしもないので、ちょっとザンコクなことを言っているかもしれないが、例えば『ルパン三世』のテレビスペシャルシリーズのように、同工異曲の作品が拡大再生産されて、作品評価自体が下落していくのを『ドラえもん』にまで見るのはちょっとツライものがあるのである。


 マンガ、和田慎二『スケバン刑事』12巻(完結/メディアファクトリー)。
 完全版最終巻。なんだかんだで、和田慎二の代表作はこれってことになるんだろうなあ。同時に張ってた伏線が収拾付かなくなって、ご都合主義な展開が続出、連載時無理やりまとめちゃったのを単行本化のときに何とか辻褄を合わせたという、和田慎二のストーリーテリングの雑さを露呈した作品でもある。いきなり出てきた「学生刑事No.1」とか、名前も分かんないままだもんな。
 まあデビュー連載だから仕方ないと見る向きもあろうが、現在だって作劇術がたいして上達しているわけではないから、間違っても和田慎二を「稀代のストーリーテラー」とか呼んじゃいかんよな(和田慎二について書くときは必ずこの件に触れているが、メディアファクトリーに移って見返しにこう書かれるまで、和田慎二をそんなふうに認識していた人間はまずいなかったことを指摘しておきたいからである。これは「歴史の捏造」ですらあるから、明確にしておく必要があるのだ)。
 実際、信楽老の「グランド・スラム作戦」にしたところで、既に政財界のドンとして君臨している彼がわざわざそんな一歩間違えば自滅しかねない作戦を計画しなければならないメリットは殆どないのである。神恭一郎と組織「猫」との関わりについてだって、最終巻でこんな取ってつけたようなページ数で簡単に書かれていいこっちゃないだろう。「説明」や「解説」ばかりでドラマが一向に盛り上がらない。それを誤魔化すために、今巻ではやたらキャラクターが死にまくる。
 ある程度それは仕方がないとしても、第一部では三平を殺し、前巻ではツグミを殺し、美尾が死んで、えーっとあと誰が死んだっけ。もちろん、碧子も信楽老もサキの母も神もサキも死にまくる。ここまで死なせてればもう食傷で、敵はともかく味方も無意味に死なせすぎ、悲しみすら涌いてこない。「オチ付けるために無理やり死なせたな」という印象しかないのだ。これだけの犠牲を払ったのなら、「生きて帰ってこその任務」とサキに言わせたのなら、少なくともサキは、主人公のサキだけは生き残らせなければそれこそドラマとしての「辻褄が合わない」というものだろう。もう完結して何十年も経つというのに、未だにこの最終巻の結末には納得がいかないのである。
 書き下ろしの後書きでも、いろんな人の協力、後押しでマンガ家を続けて来られたと感謝の言を述べているが、だったらもう少しキャラクターの描き方を考えてほしいものである。和田さんの「はみだしもの」意識はなんか自意識過剰だとは思うが、そういういつまでも青臭いところ、実はそう嫌いじゃないのだ。

2004年07月29日(木) やっぱり「じゃないですか」はいやじゃないですか。
2003年07月29日(火) ちょっとだけギャグの話/『キャラクター小説の作り方』(大塚英志)
2002年07月29日(月) 肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか
2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか


2005年07月28日(木) 壊れていく定め/『画図百鬼夜行全画集』(鳥山石燕)

 朝目覚めたら、手先が痺れて動けない。
 仕事を休んで病院へ行ったのだが、調べてもらったら、尿糖も血糖値も冗談じゃねえってくらいに上がっていた。手先も利かなくなるはずである。
 主治医から、「去年は調子よかったんですから、節制すればよくなりますよ」と元気付けられる。薬もとっくに切れていたので、こういう結果が出るのは予測がついていたのだが、実際に言葉で伝えられるとなかなかに辛いものがある。

 けれど、私のことよりも変化が激しかったのは父のほうだった。
 突然、夕方電話がかかってきて「木曽路」でしゃぶしゃぶを一緒に食べることになったのだが、言動がおかしい。
 父と姉との間柄があまりよくない状況はまだ続いている。本来なら姉に継がせる予定だった店を売っぱらうとか、かなり過激なことも何度か口にしていたのだが、この間から、今住んでるマンションを売り払って私やしげと一緒に住む家を探そうと考え始めている。計画に無理があるなあと思いながらも一応は付き合ってやらにゃあと、今度の日曜日にモデルハウスを見に行く約束をしていたのであるが、今日、「日曜は何時に待ち合わせる?」と聞いてみたら、「日曜日は俺、仕事やないか」とキョトンとされてしまった。自分が言い出していながら、そのことをすっかり忘れていたのである。
 記憶障碍はそれだけではない。
 昔話をするうちに、20年前、私が大学院に行かせてもらえなかったことについて話が及んだ。大学院まで行くことになれば当然東京で一生暮らすことになるわけで、それには父も母も反対した。まあ、カネもないということで、私は素直に諦めたわけであるが(当時は福岡に彼女もいたのでそれも帰省する理由になった)、それに関して家族間で大したトラブルはなかったのだ。
 ところが当時、父の友人で「どうして大学院まで行かせて学者さんにしてやらなかったのか」と父に意見した(余計なお世話ではあるが)人がいらっしゃって、父の店の常連客でもあるので、今でもたまにその方は昔を思い返して父を非難するのである。
 父は、「あの人は今でもお前を『何で大学……に行かせてやらなかったか』って俺に文句ば言いようばい」と言う。
 私が「まあ、別にぼくは行けなくても構わなかったけど」と答えたところ、父の態度が急に変わった。
「何ば言いよるか。あのときはお前と『行かせろ、行かせん』で二時間もケンカしたやないか」
 「え? そんなことしてないよ?」
 「何言いよるか。俺はちゃんと覚えとる」
 「だって、そんな喧嘩までして『大学院』に行きたいとか思ってなかったもん」
 「『大学院』やない、『大学』のことや! 」
 目が点になるとはこのことである。確かに私と父は、「大学」に入る前に「大学まで行って何するとや」ということでケンカをしたことがある。最終的には父か折れて、無事入試を受けさせてもらえたのであるが、どうやら父の頭の中では大学入試のときのことと、大学院に進学するときの記憶がごっちゃになっているようなのである。
 しかし、父が私を「大学に行かせなかった」と記憶しているとしたら、私が上京していた四年間は何をしに東京に行っていたというのであろうか。物見遊山か。それとも私が上京していたという記憶自体が父の脳からすっぽり抜け落ちているのだろうか。私が大学を卒業していないのならば、当然、今の職にも就けていないのだが、そのあたりの知識も父からは欠落してしまっているのだろうか。多分、そのあたりの整合性の不備も父には認識できなくなっているのだろう。
 父は、車から降りるときにもドアの開け方が分からなくてモタモタしていた。もう何度もしげの車には乗っているというのに、取っ手の仕組みをすぐに忘れてしまうようになっているのである。
 年を取ってきて、同じ話を何度も繰り返す率はかなり高くなってきていたが、日常的な記憶の混乱もひどくなっている感じで、「それはそうじゃないよ」と言えば、頑固に「俺の方が正しい」と言い張る。追及しても仕方がないので、私は口をつぐむことも多くなった。
 父と姉との軋轢も、必ずしも父の主張を鵜呑みにすることはできない。父が姉に「店を譲る」と言ったのは、母が急死して、父がショックを受けていたころのことである。現在父は、「あのころのオレは自暴自棄になっていてモノを考えられなかった」と過去の自分を否定するのだが、私から見ればそのころの父の方が今よりもよっぽどモノを考えている。今の父は、もしかすると姉に店を継がせることを約束したことすら忘れかけているのかもしれない。
 父と暮らす家を探す前に、父を入れる病院を考えないといけなくなるのだろうか。父はもう四分の一ほどは私の父ではなくなっている。しかし、その喪失率がどの程度になれば「見切り」をつけることになるのか、明確な基準のあることではない。完全に「私の父だったころ」の父は、「俺がボケたら遠慮は要らないから施設に叩きこめ」と言っていたのだが、いざ自己喪失してしまったら泣き出してしまうかもしれない。脳梗塞で倒れた祖父(父の父)が私と会うたびに涙を流していたのを思い出した。
 私の方が先にボケる可能性だってあるし、決断は意外に早く来るかもしれない。


 マンガ、新沢基栄『フラッシュ奇面組』3巻(スクウェア・エニックス)。
 二年ぶりの新刊。作者の腰痛による休載はファンにはもう周知の事実なので、もうわずか10ページだろうと掲載されていれば嬉しいという状況。良くぞ3巻が出てくれた、と感激である。
 だからと言ってマンガの方が面白いかというと、十年一日というか二十年一日で、新しいものは何もない。「先生が生徒にメシをたかりに家庭訪問に行くが、かえってひどい目に合わされる」とか「キャンプで仲間とはぐれてサバイバル」なんてネタ、これまでどれだけあったことか。しかも、そこで展開されるギャグも殆ど破天荒なものがない。前者なら空き巣と勘違いされるとか、後者は熊に襲われるとか、「どうしてこれで面白いと思えるのか」と作者に問いかけたくなるくらいにありふれすぎている。なんかねー、『奇面組』よりも更に十年くらい古い永井豪の『ハレンチ学園』や『キッカイくん』にも家庭訪問ネタやサバイバルネタがあったけど、そっちの方がまだSFが入ってる分、面白かったりするのよ。つまり、かつての『3年奇面組』も『ハイスクール!奇面組』も、『少年ジャンプ』に連載されていた当時ですら、そのギャグはかなり古かったのだ。これが新人マンガ家の持ち込んできた原稿だったら、絶対にボツを食らってるだろう。
 ところがオビには「あるある探検隊のレギュラーも推薦ッ!! 『おもしろすぎて西川くんが気失ってもたぁ〜!』」とか書いてあるんである。何かのギャグを「面白い」と評することは、即ち自分のギャグセンスがその対象と同程度だと言うのを告白するのと同じであるから、レギュラーのギャグはまさに20年、30年昔のそれだってことになる。この推薦、レギュラーにとっては自殺行為じゃないかと思うんだが、でも、レギュラーがこのあと「あるある探検隊」で何年も持つとは誰も考えていないだろうから(別のギャグを考え出してもたいして変わるまい)、これはある意味、実に適切な起用のようにも思える。まあ、レギュラーが『奇面組』の推薦してることに気づく人自体少なかろうから、何の影響もないかもしれないのだが。
 ギャグセンスも変化なしなら、作中で描かれる風俗もあくまでジャンプ連載当時のものだから、零君たちはケイタイも持ってはいない。いや、一番気になってたのは天野邪子率いる御女組だけれども、やっぱり昔と変わらないロングスカートだ。若い人たちが見たら「このひとたちどーゆーひと?」としか思えないのではなかろうか。
 これだけ「変わらない」のであれば、今後この作者に何か新しい境地が生まれるとは思えない。人に勧められるマンガでは決してないのだが、これを「骨董品」的な面白さとして楽しむ向きには貴重であるかもしれない。それで、たとえ単行本刊行に二年の間が空こうと、やっぱり買ってしまうのである。


 鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)。
 『妖怪大戦争』映画化の余波で、こんなものまで文庫化。
 国書刊行会発行のシリーズを大枚はたいて買ってた身にしてみればチト悔しくはあるのだが、若い人がこういう「古典」に廉価で触れることができるようになっていることはうらやましいことである。
 知ってる人は知ってるが、現代の妖怪ブームのルーツは江戸時代にある。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪のスタイルがかなりの率で鳥山石燕のデザインを踏襲したものであることが、この「原典」を見れば一目瞭然であるし、京極夏彦が小説中に登場させている妖怪たちの多くがやはり石燕に拠っている。
 石燕の功績は、それまで、伝説や昔話の中に「言葉」としてしか語られなかった妖怪たちに「姿」を与えたことだという。石燕の絵は実際にあちこちに引用され模写され、現代にまでこうして生き残っている。その絵の魅力を絵の専門家でもない私が語ることは難しいが、簡単に言ってしまえば、人ならず獣ならず、しかし人のようにも獣のようにも見えるそのキメラ的な姿が、人間界と異界との間を繋ぐイメージとして的確に機能したからではないだろうか。西洋画に登場するドラゴンや悪魔たちのような単純なイメージに比べると、石燕の妖怪たちははるかに個性的で親しみ深い。
 例えば、石燕の描く人魂の中には、往々にして人間や鳥獣の顔が描かれる。我々はその姿に恐れを抱くがそれは即ちそこに「心」を見るからである。人間ならざるものに心があることは確かに恐ろしいが、そこには若干の親しみやユーモアもまた生まれるのだ。
 石燕はその絵も面白いが、文章もまた面白い。心霊家が心霊写真を見て「これは何々の霊だ」と根拠もなく断定するいい加減さに似た面白さだ。
 「人面樹」という妖怪は、花が人の首の形をして笑うのであるが、笑い過ぎて地面に落ちてしまうのである。妖怪の中で一番馬鹿なのではなかろうか。「目目連」という妖怪(破れ障子にたくさん目が現れる)などは、「碁打ちの霊だ」とか言ってるのである。それって、「碁打ちは『目』をたくさん読む」ってシャレではないの(笑)。「否哉(いやや)」などは、女の服を来ているのに顔を見たら爺さんだったので「いや〜!」と叫んで付けた名前である。そんな妖怪なら巷にゴロゴロしてると思う(苦笑)。
 こんなふうに面白い妖怪を紹介していったらキリがない。あとの妖怪たちはぜひご自分の目で確かめていただきたい。
 残念ながら原文のままで訳文は付されていないが、たいして難しい古文ではないので、中学生レベルの読解力で読みこなすことができるだろう。

2004年07月28日(水) 会話のナカミがウスくったっていいじゃないの……ねえ。
2003年07月28日(月) ついに出ますよ、アレが/『タク坊の毎日』(中川いさみ)/『最良の日、最悪の日 人生は五十一から�◆戞幣�林信彦)
2002年07月28日(日) 台本書いてると仕事してる気になるなあ/『アベノ橋魔法☆商店街』2巻(完結/出口竜正)ほか
2001年07月28日(土) アイ・ラブ・アッシー。……違うって(-_-;)/『スーパーロボットマガジン』第一号ほか


2005年07月27日(水) あのここな無知蒙昧な糞ったれどもめが(怒)/『空中ブランコ』(奥田英朗)

 吉本新喜劇の元座長で喜劇役者の岡八朗(2003年に「岡八郎」から改名していたそうな)さんが、昨26日、肺炎による呼吸不全のため死去。享年67。
 奇しくも昨日は中島らも氏の一周忌である。同じ兵庫県尼崎出身で、吉本の岡さんの芝居を日常的に見て育ったらもさんが一年先に逝き、そのぴったり一年後に岡さんが逝かれた。この暗合が悲しくて仕方がない。何でこう連日悲しい思いをしなければならないのか、正直、もう何も書きたくはないくらいなのだが、やっぱりこのところの訃報に関する故人の紹介の仕方に違和感を覚えているので、ちょっとだけ書く。
 「笑い」について九州に生まれてよかったな、と思えることは、関東の笑いも関西の笑いも平等に見ることができるからである。関東人はそもそも関西の笑いを全く知らない。東京進出している関西タレントは多いがそれは近年のことで、20年ほど前には松竹新喜劇も吉本新喜劇も全然テレビ放送がされていなかったので、その本質など知りようもなかったのだ。逆に、関西人は関西人で、関東人に対する対抗意識が強いから、関東の芸の面白さにあえて背を向けているところがある。志ん朝や談志のすごさをいっかな理解しようとしない。自分たちの論理で関東の芸を判断しようとするから、しばしばトンチンカンな見方をしてしまうことになる。
 関東対関西の不毛な諍いを見ていると、どっちも面白いじゃないか、と思えるのは九州人の特権かなと思える。
 無知なんだから仕方がないといえば仕方がないのだが、関東人には松竹新喜劇と吉本新喜劇の区別もついていない人が多い。渋谷天外・藤山寛美・小島敬四郎・藤山直美たちと平参平・岡八郎・花紀京・原哲男・船場太郎といった人たちとは芸風も舞台も全く違う(こういう名前を聞いてもピンと来ない関東人は笑いに関しては沈黙するように)。前者がチャップリンなら後者はキートンでありマルクス兄弟でありブルースブラザーズである。私だけがそう言っているのではない、中島らももそう言っていて、らもさんが影響を受けたのは当然後者なのである。
 人情・泣き笑いが松竹新喜劇の芸風なら、吉本新喜劇はドタバタ・スラップスティックであり、差別ギャグのオンパレードである。物語を収束させるために、最後に取って付けたように「人情話」で落ちをつけはするものの、そんなところに吉本の本質はない。ひたすら他人をからかい、欠点をあげつらい、チビ・ハゲ・デブの差別語が飛び交い、ナンセンスでシュールなギャグが舞台を埋め尽くす。まさに既知外沙汰だ。全盛期の平参平の体技はチャップリンやエノケンを凌駕していたし、花紀京のピカロぶりはまさに東洋のグルーチョ・マルクスと呼ぶにふさわしかった。そして岡八郎の「顔技」はジェリー・ルイスである。
 説明しなくたって関西より西の人間にはこんなのは常識なのだ。みなもと太郎が「関東人のギャグセンスが偏っているのは吉本を知らないからだ」という趣旨のことを発言していたのには私も頷くところが大いにある。
 だから、新聞などで岡さんの芸風を「人情味溢れる」などと紹介しているのは全くの見当違いである。若いやつが書いたのか関東人が書いたのか知らないが、これが岡さんに対してどれだけ失礼な発言か分かるまい。
 だいたい岡さんの持ちギャグ、「くっさ〜」「えげつなあ」「スキがあったら、かかってこんかい!」などを紹介しておきながら、これのどこに「人情」があると言えるのか。人情がないからこそギャグが切れるし、差別することで生まれる絆もあるのだ。いや、あえて岡さんの持ち味を「人情」と呼んでも構いはしないのだが、それは「関西人の人情」であって、関東人のそれとは似て非なるものであるのだ。関東人の人情はさっぱりしているが関西人のそれは絡みつく人情である。思いやりも優しさもからかいも罵倒もひっくるめた人情である。なぜなら、人間はみんな不器用だから、ぶつかりあい絡み合わなければ本当に心の底から絆を結ぶことはできない。それを感覚的に体得しているのが関西人なのである。関東人から見れば鬱陶しくて仕方がないだろうが、そういう文化があることも知っておかなければならないのではないか(逆に関西人も単純に関東人には人情がないなんて断言しないことである)。
 だから岡さんは、差別ギャグを飛ばしまくっていても、全然偉そうではない。他人を馬鹿にしても少しも上から見下げた感じがない。みんな庶民だし、貧乏だし、馬鹿(阿呆)だからだ。お互いに馬鹿にし合えるから楽しいのだ。だから一緒に笑えるのだ。えいくそ、書いてて涙が出てきたぞ。どうしてくれる。
 関東人にも、岡・花紀コンビの芸を堪能する機会がないわけではなかった。しかし、二人の主演映画であり、東京にもその芸を認知させようとした『あゝ独身(チョンガー)』は、「関東人にも理解できるように」人情味を混ぜてしまったために、かえってその芸の力を減殺させることになってしまった。思い返すだに、その不運は悲しみて余りある(もっとも関西人は「どうして関東で認められなければならないのか」と憤慨するであろうが)。 
  岡さん(本当は「八ちゃん」と言ったほうが親しみが湧く)の死は、東京で言えば、志ん朝師匠の死に当たるほどの事件なのであるが、殆どの関東人にはまったくピンと来ない出来事であろう。私は一昨日の杉浦日向子さんの死と、同じかそれ以上のショックを受けているのだが、関西の人のプログとかを見ていると必ず岡さんの死に触れているのに、関東系の人は「誰それ」ってなもんだ。同じ日本人だと言うのに、この「文化落差」は何なのだろう。無知は罪悪だとつくづく思うことである。


 昨週の映画興行成績、1位・2位は続映中の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』及び『ポケットモンスター・アドバンスジェネレーション ミュウと波導の勇者ルカリオ』が占めたが、3位に『鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』が初登場でランクインした(4位以下は『宇宙戦争』『アイランド』『星になった少年 Shining Boy &Little Randy』『皇帝ペンギン』『電車男』『姑獲鳥の夏』『フライ、ダディ、フライ』と続く)。
 公開2日間の成績は、動員で約18万人、興収およそ2億2500万円だとか。「eiga.com」では、「これは、今年の『コナン』のおよそ80%の出足となり、最終的には20億円オーバーも狙える好スタートとなった」「もちろん、シリーズ化は既定路線」「松竹としては待望のドル箱シリーズをやっと手にした感がある」などと、既にシリーズ化が決定的であるかのような書き方をしている。
 けれど、オタクの特性を考えた場合、初日、二日目に客が押し寄せるのは当然のことで、本当にヒットしたかどうかは、来週にならないと分からない。アニメの場合、リピーターが現れ、評判が口コミでオタク以外の人間にも伝わらない限り、その後が続かないということもこれまでにままあったことである(前売券が記録的な売り上げを上げながら、前売り以外の客がほとんど来なかった『クラッシャージョウ』という前例がある。あれも松竹配給だったなあ)。
 果たしてそれだけの力が『鋼の錬金術師』にあるものかどうか。いやね、映画を見て確かにこれは「続編のための伏線」を張りまくってるなあとは思ったものの、だからと言って本当に続編が作られるかどうかは、やはり映画がヒットするかどうかにかかっているのである。一説には既にスタッフは次期テレビシリーズの準備に取り掛かっていると言われるが、途中で頓挫する危険性だってある。映画の出来に関しては賛否両論喧しい。松竹はともかく宣伝戦略がへたくそだから、あまり皮算用はしないほうがいいんじゃないかなと思うんだけど。


 ついについについに、マンガ家の中田雅喜(なかた・あき)さん・円尾敏郎さんによる『日本個性派俳優列伝4 テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)が刊行された。7月24日、天津さんの命日にである。
 中田さんのホームページで、この本を刊行するためにひとかたならぬ苦労をされていた様子をずっと見てきていたので、刊行にこぎつけたことはまことに嬉しい。まさに感無量。いや、ホントに中田さんのコメント見ながら私は泣いているのだ。
 私にとってのベスト・ヴァリアントは何度も日記に書いてきた通り天津敏さんなので、実は自分でも資料を集めかけて特集ページを作ろうと考えていた時期があった。けれどその過程で中田さんがやはり熱狂的なファンで、出版も視野に入れて調査をしていると知って、私ごときの出る幕ではないなとやめた。もちろん計画が頓挫したからと言って、私に悔しさは微塵もない。本当のファンなら、対象に対する独占欲は生まれないものだ。赤の他人ながら、私は中田さんにそっと心の中でエールを送っていた。
 天津さんが亡くなられてもう26年になる。天津さんがどれほど素晴らしい役者であったか、私の身の回りにいる若い人たちは殆ど知らない。言葉で説明したって伝わらないし、出演作のDVDを見せようとしてももともと興味のない役者の作品なんて見ようとしてもくれないし、だからと言って強制するのもいやなので、諦めている。けれど、天津さんは、決して歴史の流れの中で忘れられていい役者ではない。断じてない。
 私たちの世代には説明も不要な『隠密剣士』の風魔小太郎、『仮面の忍者赤影』の甲賀幻妖斎が代表作で、映画にも『日本侠客伝』シリーズ、『緋牡丹博徒』シリーズ、『日本女侠伝』シリーズなどで印象的な悪役を演じた。その魅力は私の拙い筆ではとても表現しきれない。勝手ながら中田さんのホームページの文章を引用させていただく。

> 「いまどきの悪役はサイコや訳ありばっかりだ。これでは主役は引き立たない。天津敏の悪役は純粋に私利私欲のために生きる悪役だった。知的で男らしく、責めて恐く、受けて色っぽい、とてもリバーシブルな敵役。」
 43才から亡くなるまで、たった15年間、悪役一筋に賭けたオヤジの星。そういう意味でも天津敏は不世出の悪役である。」

 今度の出版が、若い人たちにとっても格好の「天津敏」入門書になってほしい、そう願っていたのだが、数日前から中田さんの掲示板で、本を読んだ読者の何人から、困った「荒らし」が行われるようになっていた。
 例えばこんなのである。 

>「ほとんどインタビューだけで繋いでいくという構成には
 ややツラいものを感じました。
 やはりどなたかの手による本論(真っ当な俳優天津敏論)が冒頭にあって
 そのコーナーで天津さんの功績の説明がきっちりなされたあと、
 ゆかりの人々のインタビューのパートが据えられるという構成のほうが
 読みやすく、購入対象者にアピールし易かったと思うのですよ。
 また、インタビュー相手がどういうひとかについての説明が
 ないのも不親切かと」

 一見、普通の意見を述べているように見えるが、これ、単に自分の無知、勉強不足、モノシラズ、ついでに性格の悪さを棚に上げて、傲慢に振舞っているだけである。
 「真っ当な天津敏論」って、何をもって「真っ当」と評するのか、だいたいこの演劇後進国の日本で脇役俳優のありようについてまで目を配って役者論を展開した例がどれだけあると言うのか、天津敏に関しては中田さんのこの労作が殆ど嚆矢であることにこの馬鹿は気づいていないのか、インタビュー相手が誰か分からないならそれこそ自分で調べろ、なんでも説明されなきゃお前の頭は回らんのかこの糞が、と怒り心頭に発した。
 こういう甘え腐った若造(かどうかは分からないが、文章から見ても四十代以上とは到底思えない)が蔓延しているから、年寄りの怒りの種は尽きないのである。てめえらは「アジカンって鯵の缶詰?」とか、「モー娘。なんてみんな顔同じじゃん」とか言われたら腹立たないのか。
 こういう馬鹿がウザイので、中田さんは仕方なく次のようなコメントを掲載せざるを得なくなった。

> 「『テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』の読み方が分からない人のためにガイドいたします。
 1:この本は資料本です。その証拠はカバーをとれば一目瞭然です。
 2:インタビュー内容と総目録を熟読すれば天津敏の人と仕事が見えてくる内容になっています。
 3:想像力を巡らせて読んでください。
 4:その上で「天津敏論」を自分の中で組み立てていって下さい。そのための資料本です。
 5:自分の思っていた本ではないと感じた方は、どうぞ宮城と三浦半島と京都に行って自分の足で調べて自分の「天津敏」本を出して下さい。
 それは私と円尾のおおいに望むところです。
 上記の内容をふまえた上で本を読み、それでも理解できない人は残念ながら想像力と読解能力が乏しいと言わざるを得ません。
 賢明なる読者諸君にはこの本の基本方針がおわかり頂けたかと思います。」

 努めて冷静なコメントである。私が付け加えることは何もない。あとは中田さんのこの文章に共感してくださる方に、少しでも天津さんの魅力を知っていただきたく、天津さんの出演作を辿るガイドとして、この本を購入して利用していただきたいのである。発行部数がもともと僅少なので、ぜひネット注文していただきたい。私は今日「セブンアンドワイ」で注文した。
 私は基本的に本の「批評」や「感想」は述べても「宣伝」はしない。だから日記にこういうことを書くのはこれきりにする。あとは実際に本を入手したあとで、批評ではなく「感想」を書こうと思う。資料本に「批評」は要らないやね。


 晩飯は久しぶりの「大河すし」。
 例の一皿でも最低300円はする高級寿司屋である(でも回転)。ウニなんか600円だ。大トロなんてトテモ庶民には手が伸ばせない価格。だもんで、開店そうそうは何度か足を運んでみたものの、近頃はとんとご無沙汰であった。
 ところがしげが最近、昔の私の日記を読み返していて、寿司食った記述を見て「スシスシ!」と騒ぎ出したので、たまにはいいかと覗いてみたのである。
 何しろ値段が値段だから、店に入ったときにはちょっと量を控えようと思っていたのだが、流れてくるネタがみな美味そうなこと。アスパラ巻きですらみずみずしい。で、実際食べてみたらネタばかりでなくシャリの握りも適度で米の甘さもほんのり口中に広がる美味さなので、どうしてもついあれこれ手が伸びてしまうのだ。
 しげもステーキ寿司や煮穴子寿司なんかを注文してバカバカ食っている。私も、ここでしか食べられない馬こうねとか炙りチーズサーモンとか炙りエビマヨとか炙り豚トロを食う。炙りものがここは特に美味いのだ。今年初め、女優の宮崎美子もここで炙りすしを堪能したとかで、その効果もあったのか、バイパス沿いの車が通りすがりには入りにくい位置にあるのに、平日の夕方だというのに結構繁盛していた。油断しているとネタがご近所さんに取られてしまうので、カウンターが取った皿でどんどん一杯になっていく。こうなるともう止められない。
 で、ちょっと「やめときゃよかった」ってくらいお財布が軽くなりました。次に来るのはいつの日になることか。


 奥田英朗『空中ブランコ』(文藝春秋)。
 トンデモ精神科医・伊良部一郎の『活躍』を描くシリーズ第二作。同じ原作を扱いながら、ドラマ版と映画版とではその完成度に天と地ほどの差が生まれていたので、こりゃ原作もちゃんと読んどかないといけないなあと思っていたのだが、ようやく「原作」を購入して読んだ。文春だから慌てなくてもどうせ文庫化されるのにね(でもあそこは文庫化のサイクルが長いものなあ)。
 収録されているのは『空中ブランコ』『ハリネズミ』『義父のヅラ』『ホットコーナー』『女流作家』の五編。それぞれの作品に登場するのは、人間不信のサーカス団員、尖端恐怖症のやくざ、強迫神経症の医者、ノーコン病のプロ野球選手、嘔吐症の女流作家。つまんなくはないけど直木賞受賞ってこの程度? というのが正直な印象。つまり、五編が五編とも基本的には同じ話なんだよね。
 それぞれのエピソードの主人公が、ココロの悩みを伊良部に相談するのだけれど、本当に精神医学を学んだのかどうか怪しい自由奔放な伊良部の奇行に振り回されて、かえって混乱していく。なのに、ひょんなことがきっかけになって各人の悩みはいきなりスッと消え去って、これは果たして伊良部の手腕によるものなのか、それともただの偶然か、ともかく今日も伊良部先生はとつても元気だ、というのが全ての話の基本構造。
 ちゃらんぽらんに見えてもそれはカモフラージュで実は伊良部は名医、という設定になっていないところが面白くはある。ともかくその場の思いつきでと言うか、自分の本能の赴くままにと言うか、殆ど無茶な「逆療法」ばかりやらかしているのだが、それが結果的には功を奏するのだから、「もしかしたら伊良部って名医なのかも」と読者に錯覚させるところが小説として上手いのである。もちろん、患者に意味もなくビタミン注射をするのが趣味なんて変態が名医のはずはないんだけどね。これはミステリーで言えばジョイス・ポーターの『ドーヴァー警部』シリーズで開発されている手だ。病気の治癒、事件の解決、これどちらもあくまでただの「偶然」で「好運」なのね。これでクビにならないんだから、いくら伊良部が総合病院の跡取り息子だからと言っても、すげえラッキーマンだわ。
 「毎回同じ話」だから、そのマンネリを楽しむか、飽きるかで、このシリーズの評価は分かれると思う。直木賞は珍しくもその「マンネリ」の部分を評価したのかも。まとめて読むとやはり飽きる可能性の方が高かろうから、少し間を置きながら各短編を読んでいくのがいいんじゃないかな。
 伊良部一郎のキャラクターはドラマの阿部寛とも映画の松尾スズキとも似ていないけれども(だって原作の伊良部、デブなんだもん)、どちらかと言えば松尾スズキの方がまだ近い。確かに伊良部は変態だけれども、どこか稚気があって憎めないのに、阿部寛はまんま変態みたいな演技(『トリック』と全く同じである)してたもんなあ。再ドラマ化されるなら、伊集院光に演じてほしいな(笑)。

2004年07月27日(火) だけーどボクにゃ前歯がないよ、虫歯の虫〜に食べられた♪
2003年07月27日(日) 揺れて揺れて揺れて/『のだめカンタービレ』1・2巻/『平成よっぱらい研究所 完全版』(二ノ宮知子)ほか
2002年07月27日(土) イナジュンはいいねえ〜♪/DVD『カタクリ家の幸福』/『雨柳堂夢咄』其ノ九(波津彬子)/『ガンダムエース』9月号ほか
2001年07月27日(金) 『クレしん・オトナ帝国同人誌』完成!掲示板も見てね/『怪』11号ほか


2005年07月26日(火) 『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩)

 エンピツのアクセスランキング、5位にまでなっちゃいました(汗)。でも、アクセスランキング表から飛んでくる人はゼロなんだねえ。エンピツに登録してる人、アクセスランキングまではチェックしてないのかな。いや、私も普段は殆ど覗いちゃいないんだけど。
 今日はもう、来てくださってる方が1000人くらいに落ち着いたので、明日にはずっと順位は落ちるだろうけれど、なんかもうちょっと『Zガンダム』について補完して語っておかないといけないような気分にさせられてしまう(笑)。

 ということでもうちょっとだけ付け加え。未だに『Zガンダム 星を継ぐ者』で「旧作画」を使っていることに関して「なんで全編新作画にしないんだ!」と文句を付けている人が後を絶たないけれども、もともと「再編集版」として企画されたものに「再編集はケシカラン」と文句を付けるのは、感情的な難癖にしかなってないからね。そんなことを言い出せば、「『イノセンス』のCG技術は素晴らしいのに、どうしてキャラクターも含めてCGにしなかったのか」とか(カンヌでは、海外のメディアでそれに類する質問を記者が押井監督にしたらしい)、更には「アニメは所詮ただの絵に過ぎないのだから、リアルな物語は描けない。どうしてアニメ作家たちはあんな貧弱な表現方法に拘っているのか」なんて阿呆な主張も認めなければいけなくなってくる。新作画に拘る人間は、間接的にアニメを蔑んでいるのである。
 もちろん、予算と時間が許せば、『Zガンダム』を全編新作画にすることも可能であったとは思う。しかし、富野由悠季が、なぜ「再編集」に拘ったのかということについては、もう少し感情的にならずに分析する必要があるのではないかと思う。
 そもそも『ガンダム』シリーズは、アニメブームを起こした作品ではあっても、数々の批判にもさらされてきた作品である。森やすじや大塚康生からは、「あんな“動かない”ものはアニメではない」とまで言い切られている。東映動画で長編フルアニメーションに携わってきた立場であれば、リミテッドと呼ぶのもおこがましい3コマ作画、バンクだらけのアニメなどアニメと呼んでほしくないという気持ちになるのは当然であろう。更に言えば、富野監督が東映動画を引っ掻き回して徹底的に対立することになった手塚治虫の「虫プロ」(当時)出身であることも批判の背景にはあると思う。「日本のアニメをダメにした」それが手塚治虫批判から富野由悠季批判にまでスライドしているのである。
 しかし、日本のアニメ業界を現実に牽引して来たのはその「アニメではない」無数のテレビアニメであり、そのノウハウは手塚治虫が開発してきたものだ。その事実はアンチ・虫プロ派であっても認めなければならないことだろう。殆ど捨て売りのような価格で『鉄腕アトム』を製作してきたのは弊害ではあったが、東映動画だけに任せておいたら、日本のテレビアニメの歴史は、十年は遅れていたかもしれない(東映動画も結局は「手塚システム」を導入することになる)。
 バンクシステムは、マンガが記号であることを最大限に利用した荒業であると言える。川原泉が『小人たちが騒ぐので』で、「同じ人物のコピー絵でも、背景のトーンを変えれば全部違った顔に見える」ことを実験していたが、即ち「マンガ絵」の持つ情報量は、もともとかなり少ない。どんなに緻密に描かれた絵であっても、ナマの人間ほど微妙な表情を表現することは不可能である。だからこそアニメは基本的に「情報量が少ない」ことを逆手に取り、カリカチュアされたキャラクターと動きで喜怒哀楽を強調し、「微妙な味わい」を無視してきたのだ。ディズニーのフルアニメーションはまさにそうして発展してきたのであって、しかし初期の東映動画がそれに追随し、そして追随している限り、ディズニーを越えることは適わなかった。『鉄腕アトム』の3コマ作画は、バンクシステムは、本当に「弊害」だけをもたらしたものだったのか。同じ絵がシチュエーションを変えればどうにでも見えるということは、アニメの表現を広げもしたのだと肯定的に考えることはできないのか。それを1番最初に実証して見せたのが『鉄腕アトム』だったのであって、「動きもしない」アトムのうなだれた姿に、ロボットの悲しみを見出していたのではなかったか。『エヴァンゲリオン』の止め絵の多用をただの枚数減らしだとは思わなかったのではなかったか。我々はテレビアニメの歴史の中で、「情報量の少ない絵を想像力で補完する見方」を素直に受け入れてきたのだ。
 もちろん、アニメーターの技術が向上し、予算が増えればアニメはバンクや3コマ作画や止め絵は控えるようになる。しかしそれでもアニメの「絵」は最終的に実写ほどの情報量を提供することはできない。レイアウトを考えタイミングを計り、声優が声を当て効果音を付け、更に観客の「想像力」に期待して、やっとこさ作品として認めてもらえるのである。富野由悠季が「絵コンテ千本切り」を行ってきたのは、そういったテレビアニメであり、その中には「元東映動画」の宮崎駿が監督した『未来少年コナン』などもあった。その演出力に感嘆しつつも、富野由悠季は口には出さず、考えていたことだろう。日本のアニメの歴史は虫プロが作ったのだと。
 なのに、今のアニメファンは見た目のよい新作画だけに騙されて、アニメがその「記号性」を駆使する表現方法であることを忘れてしまっている。アニメは「動いても動いていなくてもアニメ」である。世界最高峰と言っていいユーリー・ノルシュテインの『話の話』や『霧につつまれたハリネズミ』などは「切り絵アニメ」であるが、あれがどれほど動いていると言うのか。動かそうが動かすまいが、アニメを作品として昇華させる要素は「演出」なのである。
 「再編集で、たいして動きもせず汚い旧作画で何が悪い。逆に動かず汚い作画だからこそ編集と演出でドラマを成立させることができるのだ。ディズニーと宮崎アニメの信奉者は去れ」
 私には富野監督が内心、『星を継ぐ者』についてそんなことを考えているように思えてならない。まあ、本人に聞いても韜晦して絶対に正直には言わないだろうが、そうでなければ、堂々と旧作画を劇場にかける「過激さ」の理由が説明できないのである。

 恐らく、日本初の「再編集」劇場アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』だ。テレビシリーズの中から『ロボット宇宙艇の巻』〔46話〕『地球防衛隊の巻』〔56話〕『地球最後の日の巻』〔71話〕を中心に、“新作画も加えて”再構成している。今のオタクはすぐに「新作画がどれくらいあるか」ということに注目してしまうが、この時代、当然そんなことは「売り」にはならない(どちらかというと、白黒アニメだったアトムがカラーで見られるというインパクトの方が強かった)。「新作画」は、異なるエピソードを繋ぐために必要であっただけである。
 「再編集映画」になぜ新作画が必要になるのか、“新作画を一切使用しなかった”アニメをいくつか思い浮かべていただければその理由は見当がつくのではないかと思う。例えば、『宇宙戦艦ヤマト』はデスラーとの最終決戦をカットし、『未来少年コナン』はなんと「ギガント」のエピソードをまるまるカットしてしまった。そんなデタラメな事態を引き起こしたのは、新作画がシーンとシーンの間の省略された部分をうまく繋ぐ「ブリッジ」として機能せず、映画の「尺」を調整できなかったためである。即ち、日本の再編集アニメにおいては、新作画はもっぱら物語の省略と繋ぎのために使用されてきたのだ。
 『星を継ぐ者』においても、「新作画」は「ブリッジ=尺の調整」としての役割を果たしてはいる。しかし、わざわざ「新訳」と名乗ったのは、単に1時間半の時間内に映画を収めるためばかりではなかった。旧作の設定や意味を組み変え、21世紀のガンダムファンに送る新作として『Z』を再生させるためには、「旧作画と新作画のコラボレーション」が絶対に必要だったのである。
 例えば、幽閉され監視を付けられ不遇をかこつアムロがカツに罵倒された後、エゥーゴと行動を共にするまでの過程は一気に省略されるのだが、その間を繋ぐブリッジのシーンは、フラウがレツとキッカと共に旅立つ新作画のシーンである。ここでどうして新作画が必要になったか。
 テレビシリーズではこのときフラウはレツとキッカの間にいて、二人を抱き締めている。ところが新作画ではフラウは二人の横にいて、目は彼方を見つめているのだ。この違いは何か。旧作では再び戦場へと向うアムロに対してフラウの心は既に離れてしまっている。彼女は、カツもアムロに奪われ、残されたレツとキッカもまたいずれは戦乱に巻き込まれていくのではないかという不安に襲われており、だからこそ二人を抱き締めずにはおられなかったのだ。このようなフラウの姿を見せられては、視聴者はどうしたってアムロの身勝手さ、カツの幼さを感じないではいられない。あるいは逆にフラウの方が男の陰で過剰に被害者ぶっているように受け取る人もいるかもしれない。どちらにせよ、彼らの心がバラバラになっていることは間違いないのである。
 だが、新作画のフラウは、戦争に対する不安を抱きつつも、アムロを、カツを戦場に送り出す「勇気」を持っている。アムロがなぜ再び立ったのかも、カツがなぜアムロと行動を共にしたのかも理解している。彼女の目は、決して戦争の現実から逸らされてはいないのだ。
 この新作画ゆえに、アムロは旧作のような単純に鬱屈したキャラとは見えなくなった。幽閉されていたときすらずっと脱出の機会を狙っていた人物として描かれ、そして彼の後ろには今でも「ちゃんとフラウがいる」ことが明示されることになったのだ。
 アムロは決して孤独な存在ではない。つまり、『ファーストガンダム』で、アムロが最後に「僕には帰るところがある」と言った言葉、これがまだ生きていることを、20年の時を経て、ようやく富野監督は示してくれたのだ。ここで感動しないのなら、その人はガンダムファンを名乗ることを止めたほうがいい。
 これは、「旧作画と新作画の融合」があったからこそ成立した効果である。富野監督には「新作画」だけで長編アニメを作る意図はもともとなかったし、また、「旧作画」だけで「新訳」が成立するとも考えていなかった。『星を継ぐ者』はそのことを前提として批評しなければ、適切な評価は下せない。「旧作と新作の落差がひどすぎ」とか「新作画だけで作れ」という不満が印象批評の粋を出ないものであり、映画の本質を見ていないのはそのためである。

 一回しか映画を見てないでここまで言い切るのもなんだなあとは思うのだけれど、DVD買ってもう一度見直したら感想変わるかもなあ。でも、万が一、富野監督が将来予算を潤沢に与えられて「完全新作のZガンダム」を作ったとしても、現行の『星を継ぐ者』が否定されたことにはならない。与えられた条件のもとで「最善」の作品を作る。そうして完成したのがこの映画だからだ。どんなに作画が荒れようが、テレビアニメの歴史はそうやって紡ぎあげられてきた。それを忘れて文句を付けているやつらは、テレビアニメに対する愛を忘れているのである。


 麻耶雄嵩『神様ゲーム』(講談社)。
 これもミステリーランド第七回配本作品。箱カバーの惹句は、「まさに神わざ。」これがどういう意味を持っているかは、本書を最後まで読めば「まさに」と首肯することになるだろう。これはそれくらい激賞してもし過ぎないくらいの傑作である。

 主人公は小学四年生の芳雄(江戸川乱歩の『少年探偵』シリーズの小林君と同じ名前だね)。彼の住む神降市で、残虐な猫連続殺害事件が起きる。芳雄は同級生と結成した少年探偵団の仲間と一緒に、事件の犯人を探し始めた。そんなとき、転校してきたばかりのクラスメイト・鈴木太郎君とトイレ掃除をして入る最中に、彼からとんでもない話を聞かされる。
 「ぼくは神様なんだ。だから猫殺しの犯人も知っているよ」。
 彼は大嘘つきなのだろうか。それともこれは「神様ゲーム」なのか。
 数日後、芳雄たちは探偵団の本部として使っていた古い屋敷の古井戸の中に詰められた友人の英樹の死体を発見する。恐怖と悲しみに包まれる芳雄たち。猫殺しとこの殺人事件は何か関係があるのだろうか?
 芳雄は思い余って「神様」鈴木君に「犯人に天誅を下してほしい」と頼んでしまう……。

 これだけ「仕掛け」の多いミステリも珍しい。詳述すればトリックをばらすことになるので、なかなか書き方が難しいのだが、基本的にこの作品にはふた筋の「謎」がある。
 1、猫殺しおよび英樹殺人事件の犯人は誰か。
 2、鈴木君は本当に「神様」なのか。 
 しかし物語が展開されていくにつれ、この二つは複雑に絡み合い、新たな謎をも生み、感嘆には解けなくなっていく。ついには、読む人によっては恐らく「訳が分からない」と頭を抱えることになるだろう空前絶後のラストへと辿り着くのだ。
 自慢ではないが、私はたいていのミステリ作品の犯人やトリックは「慣れ」で当てることができる。当てられない場合は私の想像の方がその作品の出来を上回っているときである(それだけ出来損ないのミステリが横行しているのだ)。
 しかし、本作は九割九分までそのトリックと犯人を見破っていながら、作者が「あのような結末」を用意しているとは思わなかった。ここまで見事に「うっちゃり」を食らわされたのは久しぶりの経験だが、決して悔しくはない。「あのようなラスト」を「用意しなければならなかった」筆者の創作意図に深く共感するからである。
 本作にはいくつもの「怒り」が表れている。それは作中人物の言葉を借りても語られることがあるが、基本的には筆者の麻耶雄嵩本人の怒りであろう。その怒りも大雑把に二つにまとめることが出来る。
 1、世の中はどうしてこんなに不条理にできているのか?
 2、どうしてミステリは「真実」を明かしてやらなければならないのか? 
 作中で、芳雄は「大事な猫を殺されたのに、それがどうしてたいした罪にもならないの?」と嘆く。もちろんこれは読者の少年少女たちに与えられた「きっかけ」に過ぎない。「世の中の不条理」はほかにもいくらでもあるからだ。犯罪が適切に裁かれていない、という思いは大人にもある。なのに、その当の大人たちが犯罪を助長するような世の中を営々と築き上げてきたことに対して何の反省もしていない。こうなったら「神様」にでも頼るしかないのではないか? しかし、世の中にゴロゴロしている「神様」もまたトラブルを解決してくれるどころか、諍いの種にしかなっていないのである……。
 しかし、世の中の一番の不条理とは、そんな現実から少年少女の目を逸らそう逸らそうとしている大人の偽善ではなかろうか。そんなに大人は子供を純粋培養したいのか。
 小学四年生にもなれば、大人がいかに奇麗事ばかりを言っているかには気がついてくる。連日テレビや新聞で報道されている事件の数々を子供が何も知らないと思っているのだろうか? いや、実際に家の近所で殺人事件があったり包丁男が学校に乱入したり、親父が浮気してたりするなんてことを子供たちは経験しているのだ。なのにそんなことは「なかったこと」のように大人は振舞う。そうすれば子供には何も分からないとでも思っているのか? 何という傲慢か! 「汚いものは見えないように」いくら大人が腐心しようと、殆ど徒労であるのに、そんなことにも気がつかない大人たちは、子供の目からは馬鹿か卑劣漢にしか思われまい。
 作者は本作を通じて少年少女たちに訴えている。「君たちの生きている世界はこんなに汚い世界なんだよ。救いなんてない世界なんだよ。でも君たちもいずれそんな世界の中で大人になって生きていくことになるんだ。だからと言って、君たちはそこで『神様』に頼るかい?」と。そして大人たちにも怒りをぶつける。「いつまで奇麗事だけの物語を子供に与え続けるつもりだ?」と。
 ミステリブームの中心をマンガが担っていることは誰も否定できないことだろうが、さらにその中心にある『名探偵コナン』がどれだけ下らないか、指摘する向きが少ないのはなぜか。もちろん、残酷な殺人事件ばかり描いて教育上よくない、と批判する大人もいないではない。しかし、『コナン』が下らないのは、残酷だからではない。そんな批判は的外れもいいところで、あのマンガの一番下らないところは、どんな事件も全て奇麗事で落ちをつけ、解けない謎はない、真実はいつも一つと能天気に主張しているところである。こんな欺瞞がどこにある?
 読者の中にはこの『神様ゲーム』のあのラストを、「そんな馬鹿な」とか「意味不明」とか言うやつもいるだろうが、それはミステリが「全ての謎が論理的に解決されるもの」だと錯覚しているからである。
 現実の社会を考えた場合、全ての「謎」が解明されることなどはありえない。ミステリもまた文芸の一つである限り、その法則から逃れることはできないはずであるし、無理に「たった一つの真実」などがあるように主張すれば、ただの一人よがりで自己満足な駄作にしかならないのだ。『コナン』のおかげでどれだけミステリの読み方を間違える馬鹿が増えたか、あれくらい罪悪なマンガもない。
 ここでハッキリと断言しておくが、ミステリの本質は、「いったん全ての謎が解かれたように思った後にもなお残る人間の謎を提示すること」にあるのだ。「論理的に全ての謎が解かれること」なんて概念はもう百年前の古い定義で、糞でしかない。横溝正史の『獄門島』がしばしば日本ミステリの最高傑作と評価されるのは、事件の謎が全て解明された後、犯人の「動機」そのものが崩壊してしまう「運命の不条理」が描かれているからである。それに対して金田一耕助の「孫」を僭称するバカマンガがくだらないのも、横溝ミステリの本質を理解していないからだ。 
 作者は読者に対して子供だから大人だからと言って一切容赦はしていない。作中には、残酷な犯罪者も変質者も堂々と登場する。さりげなく「ジェノサイド」とか「ネクロフィリア」なんて言葉も全く意味が説明されないままで使われている。再度繰り返すが、そんな現実だって身近にあるというのに、大人は子供に対して情報を抑制しているのだ。この本を読んだ年少の読者が、自分の親に「この言葉どういう意味?」と質問してきたときに、どれだけの親がきちんと「現実」も含めて説明してやれるだろうか。コトナカレな親が増えている現在、それは全く心許ない状況だと思うのである(これは一つの事例に過ぎないんで、作者が言いたいことは、大きく「現実をきちんと子供に理解させ立ち向かわせる勇気と覚悟を親は持っているのか?」ということであることに注意すべきだろう)。
 本作のラストが意味不明だとかアンフェアだとかほざく人は、メールでなら全部解説してあげられるから、質問してきなさい。ミステリはネタバレ厳禁だから、公開日記じゃこの程度の抽象的なことしか書けないんだよなあ。結局、何が言いたいのかわかんねえよという文句もあるだろうが、こっちだって隔靴掻痒なのである。


 中島らもさん一周忌のDVD『超老伝』がG2プロデュースから届く。
 私はちょうど仕事中で、代金はしげが一時的に払ったので、文句を付けることと言ったら。
 先日、雑誌『笑芸人』のバックナンバーで、中島らもさんとモロ師岡さんの最後の対談を収録したDVDも入手していたので、ここんとこずっとらもさん三昧である。
 対談でらもさんは「泣き笑いは好きじゃない」と明言している。一周忌だからと言って、泣いてばかりじゃらもさんファンとしては不適格だろう。
 みんな笑おう。泣くほどの価値もこの世にはありゃしない。

2004年07月26日(月) 何が決まったと言うのよ〜(T∇T)
2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか
2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか


2005年07月25日(月) 杉浦日向子さん死去/『ラインの虜囚』(田中芳樹)

 夕べ、グータロウ君に『鋼の錬金術師』の酷評をメールで送っといたら、今朝になって「今日、見に行くんだよ」との返事。また「しまったあ、やっちゃったあ」である。映画にしろ本にしろ、事前に先入観を与えないようにしようと気をつけているつもりではいたのだが、腐女子風味満載のあの映画までグータロウ君が見に行くとは予想もしていなかったのである。メールの返事は「ウチには腐女史もオタク小僧もいるから」とのことだった。
 何となくお子さん方の将来が心配な発言ではあるが、最初からつまんないだろうと予測していやいやながら見に行くのもよくなかろうと、「『ゴジラ ファイナルウォーズ』を見に行くつもりで行きなよ。キャラだけは一杯出てくるから」と再メール。実際、昨日の日記ではああだこうだと文句をつけはしたが、映画『デビルマン』に比べたら全然許せてしまうレベルなのである(まだ『デビルマン』ショックを引きずってるな、オレ)。
 夜、映画を見たグータロウ君から、「『Zガンダム』より100倍も面白いじゃないか!」と返事が来た。そこまで言うとはさすがは『ゴジラ ファイナルウォーズ』を絶賛しただけのことはある。いつもは「映画は完成度で見よ」とか言ってるくせに、なんで一部の映画に関しては自分の中の基準も取っ払っちまうのかなあ(笑)。エドとアルを見ろよ。あいつら、自分たちのことしか考えてなくて、ノーアもウィンリィもほっぽらかしだぞ? あんな「男のエゴイズム」がプンプン匂う映画を褒めちぎってると、「男性優位主義者」と勘違いされちゃうぞ(笑)。全く、彼のご家庭の平和が心配なことである(あえて表現を「変えて」いるので、気がつかない人は気がつかないと思うが、そういう「要素」に「腐女子」は惹かれているのだね。さぞや同人誌は萌えることであろう)。

 作品評価は、その作品の持っている要素の何に注目するかによって全く変わってしまうものだから、意見に相違が生じたからと言って、それで即、ケンカになったりするものではない。ところが、ネットを散策してると、すぐにトサカに来て罵詈雑言を垂れ流す御仁が目に付く。たいていは人の意見を咀嚼する能力に欠けていて、ちょっとでも自分の好きな作品を批判されると、作品のみならずそれを好きな自分の全人格まで否定されたかのように激怒するのだ。誰もそんなことは言ってないのに。
 『劇場版 鋼の錬金術師』についても、総体としてはちょっとなとは思うけれども、全否定をしているわけではない。演出の見事なシーンはいくらでも挙げることができる。エドとノーアが出会って、お互いの気持ちが通い合うあたりまでの流れなど、なかなかのものだなあと感心していたのだ。ジプシーの歌や踊りのシーンなども、作画と音楽のタイミングが実に見事だった。
 でもだからこそ、せっかくの設定が生かせていない、キャラクターの始末がきちんと付けられていない、人気キャラをともかく出さなきゃならないから人物ばかり右往左往して物語がゴタゴタしてくるなど、「テレビアニメを映画化した場合の弊害」がやたら目立って、総合的に見た場合は「つまんない」としか言いようがないのである。あの本筋の話の流れなら、マスタングとか出てくる必然性ないんだよね(なのに「マスタングの出番がすくなーい!」とか文句付けてる馬鹿がやたらいる)。出さないわけにはいかない「オトナの事情」は分かるんだけど。
 「ジプシーじゃない、ロマよ。人間って意味」とか、そんなセリフまでノーアに言わせておいて、それがドラマを盛り上げることもなく、せいぜいキャラクターにちょっとだけ彩りを加える程度の演出にしかなってない点に気がつけば、原作とかテレビシリーズとかよく見てなくても、「こりゃダメ映画だ」という判断ができると思う。ノーアはもっと物語に絡むべきだった。差別と迫害の中で、仲間からすら裏切られて、異世界へ逃げ出したいという思いが強いなら、もっと自分の能力を「悪用」してでも、エドやアルを犠牲にしてでも扉の向こうに行きたい、そういうドラマを用意するべきだった。テレビシリーズの初期のロゼとキャラがかぶっちゃうけど、劇場版は所詮テレビシリーズの「なぞり」なんだから、そこまで徹底しちゃってもよかったと思うんである。
 「Yahoo」の掲示板とかでは賛否のうち賛の方が多いようではあるけれど、内容を見ると賛も否もほとんど「キャラ萌え」を基調としたもので、一般客の反応はこんなものかと思う。「『ハガレン』ファンのどこが『一般客』?」と言われそうだが、ポルノグラフィティやアジアンカンフージェネレーションやラルク・アン・シェルの主題歌を平然と何の違和感もなく受け入れられている時点で、私には彼ら彼女らが同じオタクだとは思えないのだ。
 いやさ、我々オールドタイプはその昔、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』の劇場版の主題歌を沢田研次とかゴダイゴとかメアリー・マッグレガーとかが歌ってたときにも「心はささきいさお」だったからね。『鋼の錬金術師』はもう、テレビシリーズのころからアニソン歌手の入り込む余地はなくなっていたわけで、コムロが台頭して来た十数年くらい前から一気に露骨になっていた「アニソン歌手撲滅キャンペーン」は、ほぼ完了してしまったのだなあと実感して悲しかったのだ(もうヤケだ。頑張れ影山ヒロノブ&桃井はるこ!)
 もうちょっと「我々の側」のプロの人が『鋼の錬金術師』について語ってくれたらいいのにと思うのだが、原作もアニメもちゃんとチェックしてるって人、あまり見かけないのだよねえ。夏目房之介さんも原作は読んでてもアニメは見てないらしいし。『エヴァ』のころは履いて捨てるくらいいたオタクな批評家が、それ以降、激減してるのである(あるいは発言を控えている)。ミーハーがいけないなんて言うつもりはないけれども、文化的な背景をも分析した上で、もっと突っ込んだ作品論、作家論がなされていかないと、作品が本当に評価され残っていくことにはならないだろう。妄想爆発で騒ぐだけじゃ、『ハガレン』は10年後には忘れられてしまうアニメになってしまうかもしれない。それでいいのか、腐女子の諸君。


 1991年から1992年にかけて、テレビ東京系列で天野祐吉が案内を務める『夜中の学校』という番組があった。杉浦日向子さんはそこで「杉浦日向子の江戸学」と題して4回に渡って講義をされている(一度『ぶらり江戸学』と題して講義録が単行本化されたが絶版。しかしつい先日、小学館文庫から『お江戸風流さんぽ道』と解題され、入手可能になった)。
 「江戸前概論」「江戸前の食文化」「江戸前ファッション考」「江戸前の恋愛学」の四つで、短期間の集中講義形式ではあったが、実に面白くかつ身のある内容の番組だった。私の江戸に関する知識は、実はこの番組で学んだことでほぼ尽きている(笑)。
 しかし、番組を見て、タメイキをついて感心していたのは、その深い内容ばかりでなく、講師の杉浦さんの美しさにであった。
 『夜中の学校』だから、後の『お江戸でござる』のときの無難な話ばかりではない。際どい話も結構出てくるのだが、「親指が反ってる女は床上手って本当ですか?」という質問に対して、「幕末頃に出てきた説ですね」と屈託なく答えてしまう様子が、何とも爽やかで少しもいやらしくない。いやらしくはないが、人間の魅力に溢れている。
 ちょっとだけ眉間に皺が寄るとそこに清楚な色気がふっと生まれる。そういう無意識の色気が杉浦さんの仕草の一つ一つに表れている。「小股の切れ上がった」という慣用句を説明するときに、普通それは「女性の足の美しく伸びた姿」として語られることが多いのだが、「うなじのあたりを指すって説もあるんですよ」と、いきなりご自分の髪を上げてうなじを見せてしまう。まさしく少女のような無防備さ無邪気さであるが、スタジオで真正面にいたお客さんなんかは、一瞬、ドキドキしてしまったのではなかろうか。江戸時代のベルダンディーと例えた方がオタク少年たちには理解が早いかもしれない。エロ話を嬉々として語る下品なコムスメタレントとかとは次元が違うのである。
 「匂うような」という表現が比喩ではないほどで、微笑みながら、あの訥々というわけでもないのだが静かで、しかし軽やかさを感じさせる涼やかな声の、何とも表現のしようのない独特の口調で江戸話を語られる姿は、江戸時代人がそのまま現代にタイムスリップして来たかのような風情すら漂わせていた。
 当時は32、3歳かくらいだったろうか。荒俣宏と結婚して離婚したちょうどそのころだったように思う。離婚の原因が特に公表されることはなかったが、自分の趣味に忙しいあの二人が共同生活するというのはまず無理だろうと納得して、特に詮索する気も起こらなかった。
「女性のマンガ家に美人は少ない」という偏見を最初にぶち破った世代の代表も、杉浦さんである。

 杉浦さんの江戸学の知識は、時代考証家の稲垣史生氏仕込みである(稲垣氏がどれほどのビッグネームであるかは今更もう説明もしたくない)。いや、「仕込み」と言っては失礼かもしれない。杉浦さんが稲垣氏に弟子入りしたときのエピソードであるが、「時代考証家になるには時間がかかる。三年勉強して、そしてまだ情熱が冷めなかったら、弟子入りを許す」と言われて、本当に三年修行して再び門を叩いたというのだから、もともと「江戸」に対する思いは半端じゃなく強かったのだ。「江戸の伝道師」と呼ばれたのも、むべなるかなである。
 その情熱は、杉浦さんの書かれるマンガ、エッセイの隅々に至るまで横溢していた。葛飾北斎をマンガ、あるいは映像化した作品は多いが、私にとって唯一無二の北斎は杉浦さんの『百日紅』に登場する愛すべきガンコジジイである(そしてもちろん娘のお栄のけだるい美しさも!)
 私と同世代の人間なら、杉浦さんの作品にはデビュー当時からずっと魅せられてきているだろう。『合葬』も『とんでもねえ野郎』も『百物語』も『風流江戸雀』も、みな初版で買った。江戸を舞台にしたマンガは数多いが、それはみな江戸の風俗を借りて現代を語っているだけである。江戸人の気質を体現して、しかもなおそれを現代に生きる我々の物語として、歴史と伝統と文化のつながりを描いてみせたのは、杉浦さんをおいて他になく、杉浦さんの登場自体が古今未曾有空前絶後の「事件」だったと言っても過言ではないと思う。
 少女マンガ(あるいは女流マンガ)の歴史を作ったマンガ家を五人挙げろと言われれば、私は、岡田史子、萩尾望都、大島弓子、高野文子と並んで、杉浦さんの名前を挙げるに躊躇しない。

 杉浦さんはもう長い間、闘病生活が続いていたそうである。今、思い返せば、杉浦さんがマンガ家を引退して江戸文化の研究に専念しようとしたのは、自らの命の短さも予感していたからではなかったろうか。失礼な話ではあるが、『お江戸でござる』に出演している杉浦さんを見ていて一番感じていたのは、日を追うごとに顕著になる容色の衰えであった。これは確実に体を悪くしている、と、はっきりと分かったし、番組を降板したのも病気のせいだろうと想像がついた。
 お元気になることを心の底から願っていたのだ。杉浦さんの死は一人のマンガ家の死、江戸の研究家の死に留まらない。ある一つの文化を継承し伝えようとする大きな歴史の流れがここで途絶えてしまった、それほどの事件なのである。


 仕事帰りに「しーじゃく」で寿司、そのあとゲーセンでUFOキャッチャーなど。
 私はゲームでは「取れるものしか取らない」ので、まあ、そんなに損することはないのだけれども、しげはバクチウチの血が騒ぐのか、いつも大物狙いばかりしている。
 今日も「DVDプレイヤーがほしい」と、なんか番号合わせするようなゲーム機にカネをつぎ込んでいるのだが、たかか百円や二百円でひょいひょいとDVDプレイヤーをゲットされちゃ、ゲーセンの方としても困るだろう。こういうのは「目が出ない」ようになっているものなのである。
 私の方は堅実にムシキングのビーチセットをゲット。これでしげがいついきなり「海に行きたい!」と言い出しても大丈夫である。いや、そこまでして海に行きたいわけではないのだが。


 ついこの間、13万ヒットを達成したばかりだと言うのに、ふとカウンターを見ると、14万ヒットにいきなり迫っている。どういうわけだか一日で4000人くらいがアクセスして来ているのだ。アクセスランキングも、これまでは100位から150位くらいをウロチョロしていたのが、いきなり10位である。普段は一日トータルで100人くらいしか覗きに来ない零細サイトだというのに、いったい何が起こったのかと目を白黒。
 これまでにも2チャンネルとかにリンク張られたりして、アクセスが一時的に増えたことはあるけれども、ここまでのことはない。佐世保の小学六年女児殺人事件のときにも何を勘違いしたのかアクセスが増えたことはあったけれども、最近はあまり事件関係とか政治関係の話題について書いた覚えがないので、何に引っかかってお客さんが増えたのか、思い当たることがない。ともかくアクセス解析を調べてみたところ、「電脳遊星D」さんのサイトで、5月28日の日記の『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』の紹介がされていたのだった。一日に軽く20000ヒットを数えるサイトさんなので、そりゃ四千や五千のアクセスがあるのも当然と言えば当然か。
 そこから更に枝葉分かれをして、あちらのサイト、こちらのサイトでも私の文章が引用されたりリンクされたりしていたので、こういう事態になっていたのだった。しかも、どのサイトも好意的に読んでくださっていて、かなり適当に文章を書き殴った身としては、赤面ものである。
 自分で書いといて弁解するのも何なのだが、映画を一回見ただけで書き殴った文章なので、論旨はかなり乱雑である。「動線」のことについて偉そうに述べてはいるが、実際、これを具体的にきちんと説明しようと思ったら、文章では不可能で、絵に書いて示すしかないのだ。毎日更新しなきゃなんない(してないけど)日記でそこまではできません(泣)。なのに、「わが意を得たり」とか「お勧めです」とか書かれたりすると、なんかもー、どこかへ逃げ出したくなります。
 一応、「批評の基本」くらいのことは知ってるつもりでいるので、ただ単に「好き嫌い」「いい悪い」だけを書いて根拠を示さないようないい加減なマネはしたくないと思ってるんだけど、それも適当になってることも多いかも。だって、書く端から忘れてるしねえ。まあ、二、三日すればアクセス量もまた元通り落ち着くと思うけれども、今回初めてお越し頂いた方が、ヘタにほかのページとか覗かれて、気分悪くするような文章に出会わないかどうか、それが一番心配と言えば心配(汗)。


 田中芳樹『ラインの虜囚』(講談社)。
 「ミステリーランド」シリーズの第七回配本。田中芳樹の「ミステリー」というのがちょっと気にかかったのだが(薬師寺涼子シリーズは狭義のミステリーには当てはまらないし)、少年向けとは言え、堂々たる歴史ミステリーに仕上がっている。
 1830年、フランス。父と死別し、はるばるカナダから祖父を訪ねてパリにやってきた少女・コリンヌ。しかし祖父のブリクール伯爵はコリンヌを孫とは認めないばかりか、ライン河の東岸ある「双角獣(ツヴァイホルン)の塔」に幽閉されている人物の正体を探って来いと命令する。父の名誉のために旅立つコリンヌ。そしてひょんなことから彼女をサポートすることになる男たち。
 女たらしでお調子者の若き人気劇作家・自称天才のアレクサンドル・デュマ。弱きを助け強気をくじく悪党の美学を貫くカリブ海の海賊紳士・ジョン・ラフィット。そして豪腕巨漢のよいどれ剣士“モントラシェ”。右耳の半分欠けた彼の正体は、物語の後半で明かされるが、ちょっと歴史に詳しい人ならば「ああ、あの!」と頷く有名人物である。
 しかしコリンヌの旅を快く思わない何者かが、殺し屋集団「暁の四人組(パトロン・ミネット)」を雇ってその行く手を妨害しようとする。果たしてコリンヌたちは無事目的地に辿り着くことができるのか。そしてラインの虜囚・仮面の男“ナポレオン・ボナパルト”の正体は……?
 少年向けというワクに捉われずに良質なミステリーを提供することを目的としてきたこのシリーズだから、田中芳樹もそれに倣ったのだろう、決しておざなりな謎解きに終わっていない点は評価できると思う。もちろん、コアなミステリファンならば、「要するにこれはあの○○○○○と同じ話だよね」と似たような先行作を挙げることができるだろう。物足りないと言われればその通りかもしれないが、そもそもこの物語は冒険小説としての要素の方が高いのである。謎解きの部分はこの程度で押さえておくのがバランスとしてはよいと思う。
 それよりも何よりも、コリンヌを守る“三銃士”たちの、男としての魅力、冒険小説の主人公はかくあるべしと言いたくなるような知謀、勇気、正義感、豪胆さにこそ、この小説の魅力を見るべきであろう。
 「自分で自分の身を守りたい」と、モントラシェに剣を学ぼうとするコリンヌ。しかしモントラシェは、いったんはコリンヌに剣を持たせながら厳然とこう言い放つ。「よし、それでマドモアゼルは、自分を殺す権利を相手に与えたわけだ」と。モントラシェは剣士である。だから武器を取った戦いそのものを否定しているわけではない。しかし、武器を取る必要のない者、自らの立場も実力も弁えぬ者が武器を持つ愚を、「匹夫の勇」の危険さを、静かにコリンヌに諭す。なんかもー、「現実の戦争を見たい」とか言ってイラクに行きたがるあほどもに聞かせてやりたい台詞だ。「戦場に行く」ってこともつまりは「殺されても構わない」といってるのと同じなんだからな。
 少年少女向けだからと言って、いや、少年少女向けだからこそ、ただの奇麗事ではなく「戦うこととは何か」を手を抜かずに語る作者の姿勢は好感が持てる。必ずしもその理屈が「現実の戦い」の全てに援用できるとは言えないが、基本的な概念としては決して間違ってはいないだろう。
 まあ、浅薄なアニメやファンタジーが、やたらヒロインに「私も戦いたい!」と叫ばせて突然超能力を発動させたり、たいした訓練もしてないはずなのに剣を振るわせたりするのに比べたら、本作の底に流れている思潮はずっとずっと気高く美しいのである。

2004年07月25日(日) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」2……3もいつかありそうだ(^_^;)。
2003年07月25日(金) ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓)
2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか
2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか


2005年07月24日(日) いつものことだけど/映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』

 何とかこれだけは見逃さずにいるぞの『仮面ライダー響鬼』第二十五之巻 「走る紺碧」。
 今回はともかく「夏だから水着」。一番目立ってたのはやっぱり香須実(蒲生麻由)で、朝っぱらから黒のビキニかよってなもんだが、ヒロイン陣の中じゃセクシー系はどうしても彼女なんだね。反作用的に日菜佳(神戸みゆき)は可愛い系ってことになるんだけれども、それはひとみ(森絵梨佳)に任しといてもよかったんじゃないかなあ。でも、視聴者の多くが一斉に突っ込み入れてたと思われるのは、多分「あきら(秋山奈々)はなぜ水着にならないんだ!」ということだったと思う(笑)。本筋はどうでもいいや。


 午前中、次回公演の下見に、天神の福岡市文学館(赤煉瓦文化館)へ。
 もともと明治40年代に日本生命保険株式会社の九州支店として建てられたもので、ほんの20年ほど前まで「現役」だったのだが、外観だけでなく、内装もアール・ヌーボー式の姿を復元して、文学資料館として再生されている。ここの会議室、30人ほどが入れるので、その内装を利用して「舞台」にしてしまおうという発想なのである。とは言え、本当に使えるものかどうか、ゲンブツを見てみないことには判断が下せない。細川嬢と待ち合わせをして、実際に中を覗いてみることにしたのである。
 まあ、公演前はある程度情報は秘匿しとかなきゃならないので、詳述は避けるが、いやもう、こんなに「使えそう」だとは思わなかった。アレとかアレとか、まんま使えるし、問題はアレとかアレをどう処理するかってことなのだが、そこんとこはもう細川嬢のセンスにお任せしたい。細川嬢もイメージが沸々と涌いてきたようで、どんなものができあがるか、楽しみである。

 細川嬢、最近はビートたけしに関心があるそうで、出演、監督作を全て見たいとか。テレビ出演作だとソフト化されてないものも多いからなかなか大変だとは思うが、とりあえず私が持っているDVDをお貸しする。もっとも、私もたけしは好きではあるのだが、何しろ作品数が多いから、ビデオテープでエアチェックしてるものが殆どである。探してみたらDVDは『戦場のメリークリスマス』『御法度』『バトルロワイヤル』『座頭市』『明智小五郎VS怪人二十面相』しかなかった。代表作を微妙に外しているところが自分でも笑える。たけしファンでも最後のはカネ出してまであまり買わないよな。


 「博多リバレイン」の「柳川屋」で、三人で昼食。ここに来ると必ず「博多櫃まぶし」を勧めるのは恒例(笑)。ただ、お櫃一杯で二人前ちょっとの量があるので、食の細い人にとっては多少、胃にこたえる。私やしげはペロリなのだが、まあ普通は二人で食べてちょうどよいくらいだろう。
 念のため、細川嬢に「たくさん食べるほうですか?」と尋ねてみたら、「全然大丈夫です!」と元気に返事される。本当かなといささか疑問だったのだが、本当だった(笑)。人は見かけによらないものである。

 そのあと、博多座の「紀伊国屋」で本など物色。藤原竜也&鈴木杏主演・蜷川幸雄演出版の舞台DVD『ロミオとジュリエット』を購入。既にWOWOWで録画しているのだが、特典映像のインタビューが目当てね。写真集まで一緒に買ってしまったが、写真をぱらぱら見返してみても、蜷川さんのような重鎮が未だに先鋭的なのに改めて嘆息。
 若い人と会話しても小劇場系の人の話題が出るばかりで、なかなか蜷川さんの名前が出てくることは少ないが、あまり舞台とか見てないんだろうか。もっとも若い人は演劇関係者ですら「舞台」をあまり見なかったりするのだけれど。こないだの鐘下辰男さんとの懇親会のときも、そういう会話をその場に来てた劇団の人と話した。もうしつこいくらい繰り返してて若い人に悪いんだけど、もっといろんなもの見ようよ。

 予定は全て終わったので、そのまま帰る予定だったのだが、突然しげが「海に行きたい!」と言い出す。厳密に言えば、私はそのとき、車の後部座席で居眠りこいていたので、詳しい経緯は分からない。でも多分、詳しい経緯なんてなかったのだろう。
 「着いたよ!」という声に、てっきり車は自宅に着いたものだと思って、目を開けると潮風が頬を撫でて、目に真っ青な海が飛び込んできた。
 しげは興奮してドーパミン出まくりである。水着とか何も持って来てなかったのに、無理やり私を波打ち際まで連れて行く。たかが海水浴だってのに、何でこいつ、こんなに嬉しいんだ。仕方なくズボンの裾をまくり上げて、足を入れる。水は適度に冷たく、砂は足をさらさらと撫でて、確かに気持ちよくはあった。けれど波は意外に勢いがあって、まくり上げてもあまり意味はなかった。しっかり膝のあたりまで濡れてしまって、えらい目に遭う。細川嬢は打ち寄せる海草が足に当たって、気持ち悪がっている。
 「これ、わかめですか?」
 「そうだよ」
 「これは?」
 「それはミル」
 「えっ! 怖い!」
 「いや、『ミル』って名前の海草」
 「あっ、なーんだ」
 なんかどーぶつの死骸か何かと勘違いしたらしい。海草だと分かってからは安心したのか、ミルの塊をつまんでぶら下げて遊んでいる。
 ふとしげを見ると、足を入れるどころか、全身、ずぶ濡れになっていた。
 「下着じゃん、お前!」
 キャミソールみたいな感じの下着だから、一見、水着に見えなくもないのだが、濡れれば当然、透けてしまうのを防げない。
 細川嬢も「透けてますよ!」と狼狽する。本当にまあ、あれがああなっているのだ。なのにそんなことを気にもせず、しげは「あはは、あはは」と笑っている。もう脳のネジが捻じ切れているのだ。
 海水浴場は結構な人ごみだ。あまり長居はできないと、まだ名残惜しげなしげを追い立てて、車に戻る。
 しげ、下着はもう着ていられないので、全部脱いで上着だけを羽織る。なんかもう、人の目なんてどうでもいいとばかりに、しげ、更衣室にも行かずに、車の陰で下着を脱ぎ始めるのだ。慌てて細川嬢、前に立ちはだかって、タオルをかざして隠そうとするが、どうしたってはみ出て見えるのである。気がついた客もいたんじゃないかなあ。何とか着替えたが、上着を羽織るといっても薄いカーディガンみたいなやつなので、前で結んでムネを隠すのが精一杯だ。半裸と言ったほうが正しいような格好である。下は当然、スカートをはいただけでノーパン。 
 細川嬢を送って、そのあと帰宅するまで、しげはずっとそのままの格好だった。全く、職質でもされたらどうするつもりだったのか。イカレたやつは何をし始めるか予測がつかないのである。
 ふっくたびれて夜まで爆睡。


 夜、AMCキャナルシティ13で、映画『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』。
 なんとAMCで一番大きな劇場での公開である。前売り券がいかに売れていたかが分かるね。公開二日目のレイトショーだが、客席はまあ五十人程度の入り。劇場が広い分、随分閑散とした印象である。一人か二人で来て入る男のオタクは見かけるが、結構「普通っぽい」カップルの方が目立つ。腐女子っぽい女の子たちもそんなにはいない。
 一見、予想外のようであるけれども、前売り券買ってるオタクや腐女子が1000円興行のレイトショーなんか利用するはずがないのだ(リピーターとして来るとしても来週当たりからだろう)。実際には腐女子さんたちは昨日と今日の昼間に大挙して押し寄せていたのだろう。それがどれくらいであったかは、売店でパンフレットはおろか関連グッズが殆ど完売していたことでも見当がつく(エドのコートまで売れてたよ)。パワーあるよな、若い連中は。
 パンフだけは必ず買うようにしているので、カウンターのねーちゃんに「追加はいつごろ入荷しますか」と聞くと、ニベもなく「分かりません」と返事される。多分、同じ質問を嫌になるほどされてるんだろう。ジュース(Lサイズ)を頼むと、いつもは「ストローは2本差しますか?」と聞かれるのが、無言で1本だけ差されて渡された。Lサイズを頼んどきながらストローを「1本でいいです」とサビシク答えてたやつらが多かったのかな(笑)。『電車男』のヒットにも関わらず、オタクのシングル率は未だに高いのかもしれない(推測に留めておきます)。
 私はそういうオタクオタクした客の中でもみくちゃにされながら映画を見るのも大好きなのだが、しげはそうではないので今回は混雑を避けることにした。前売り券を買うのも嫌そうな気配だったので、特典グッズも諦めた。でも座席はど真中に悠々と座れた。パンフは後日、頃合を見計らってまた買いに来よう。

 テレビアニメシリーズは賛否両論喧しくはあったが、私は「うまいところにオチをつけたな」という印象であった。原作との単純比較は何度も繰り返している通り不毛で無意味である。
 ファンタジーが最終的にパラレルワールドSFに強引に捻じ曲げられたという批判もあったようだが、「錬金術」を「等価交換」を基本法則としたありうべき科学の一つとして設定していたことで、この物語は当初から「パラレルワールドSF」として成立していた。それは原作とアニメが共通して持っている基本設定でもあった。
 「SF」というテクニカルタームが、既に物語の魅力を語るものとして機能していない現在、『鋼の錬金術師』が「SF」であることに気付いていなかったファンも多かったのではないかと思う。もしかしたら原作者すら「SF」と意識せずに描いていたのかもしれないが、少なくとも脚本家の會川昇と監督の水島精二の二人はSFであることを強く意識してテレビシリーズを制作していたと思いたい。若いファンには「SF」なんて「死語」に拘る必要ないじゃないかと言われそうだが、「SF」とは既成概念・固定観念に囚われることから脱却するための「手法」である。常識的な展開をひっくり返したり可能性の未来を提示したりすることで、我々の精神がいかに思い込みに支配されているかを鋭くえぐってくれるからこそ、そこに限りない魅力を感じるのだ。
 『鋼の錬金術師』のアニメスタッフは、最終回に至る流れの中で、「等価交換」という原作の根幹をなす設定すら反転させて、人間の生き方に「絶対」はない、という形を示してくれた。だから、たとえエドとアルが二つの世界に分断されようとも、ウィンリィの元にエドが帰らずとも、彼らは空に手を伸ばし、自分の足で歩いていくことをやめはしないから、あれは紛れもなく「ハッピー・エンド」なのである。

 テレビシリーズの最終回には、脚本の會川昇の「思想」が色濃く表れていると思う。
 表面的なハッピー・エンドを好まないのはこれまでの脚本作品からも判読できるし、無理にひねって尻切れトンボに終わることもままあるが、『鋼の錬金術師』の場合は原作の展開から離れてもうまくオチが付けられたな、と思っていたのだ。
 アルは体を取り戻した。しかし、兄との旅の記憶をなくし、兄もまた別の世界にはじきとばされた。何かを得、何かを失う。聖書の昔から人間が宿命的に追わされている「犠牲(サクリファイス)」の物語。それでも人は生きていく。その決して諦めることのない「希望」の道は、既にテレビシリーズで充分に語り尽くされたのではなかったか。
 即ち、あれから先、どんな展開を考えようとも、全てはこれまでの物語の拡大再生産にしかならないということである。「続編」を作ってどうするのだ、それともこちらの浅薄な想像を吹き飛ばすほどの新奇な展開をアニメスタッフは考えついたというのか、というのが、私の映画を見る前の期待と不安であったのだ。

 こういう場合、「期待」はまず叶えられることはなく、「不安」はたいてい当たる。前情報でテレビアニメシリーズの「続編」と謳ってはいたが、「完結編」とはヒトコトも言っていなかったことも不安を弥増していたが、劇場版はあからさまなほどにテレビシリーズの拡大再生産になっており、その精神において新しいものは何一つ加えられてはいなかった。これは明かに「更なる続編」を狙っている。
 細かい設定のミスや矛盾を指摘する声は大きいだろうが、これは“一度完結したものを無理やりシリーズ化した”『宇宙戦艦ヤマト』と同じパターンである(あるいは「人気があるから連載をやめさせてもらえない『ジャンプマンガ』の法則」といった方が分かりやすいか)。ヤマトは、地球が危機に陥るたびに人類唯一の希望を担って「特攻」していった。ディテールは違えども、どのエピソードも基本的には同じ構造である。そして、今回の『鋼の錬金術師』劇場版も、まるでデジャ・ブを見ているかのようにテレビシリーズをなぞるだけの物語がだらだらと続くのだ。
 テレビシリーズは、まず「鋼の錬金術師」として活躍するエドとアルの「水戸黄門漫遊記」を描く「現在」から始まって、途中から彼らの「原点」たる旅の始まりの「過去」に遡った。そしてその過去が現在に辿りつき、二人はホムンクルスたちとの戦いを経て人体錬成の謎を解き明かし、最後の「別れ」に至るという展開を辿っている。
 劇場版はまずエドの口から「錬金術世界」にいたころの「過去」が語られ、「現実世界」で生活する「現在」が描かれ、「錬金術世界」を「シャンバラ」と見なすトゥーレ協会によって、二つの世界がシンクロする。そして協会との戦いを経て、また新たな「別れ」が描かれる。個々の要素は違えど、テレビシリーズと劇場版は、その物語構成が全く同じなのだ。これでは「手抜き」と非難されても仕方がないのではないか?
 いや、物語構造が同じだからと言って、それだけが原因でこの映画がつまらなくなっているわけではない。積み重ねられるディテールがことごとく安易で、かつ連関性がなく、少しもドラマを盛り上げていかないのである。
 冒頭、エドはノーアという接触テレパス(懐かしの筒井康隆『七瀬ふたたび』を連想された方もいらっしゃるか)を助ける。彼女はその特殊能力ゆえにトゥーレ協会に追われていたのだ。となればこの少女が本作のヒロインとして、後半、さぞや重要な役割を果たしてくれるだろうと、普通は考える。ところがこいつが全然活躍しやがらねえんだな。錬金術世界に行きたがっていたのをエドに置いてきぼりを食らうという役回りは演じるが、物語の本筋ではない。いったい何のために登場させたのかわからないのだ。まさか沢井美優に声をアテさせるためだけに出したのか。
 「キング・ブラッドレイ」を発見したエドは、血相を変えて彼を追跡する。しかしパラレルワールドという世界観においては、同じ人物であっても別の役回りを演じることはよくあることである。彼は実は映画監督の「フリッツ・ラング」であった。その正体には驚くが、こいつがまだ出てきただけで、物語にやっぱりたいして絡んでこないのである。まあ、この事件をきっかけに映画『メトロポリス』を作ったのだと暗示したいのかもしれないが、粋な描き方だとは言いがたい。
 粋でないと言えば、マース・ヒューズの復活もそうだ。錬金術世界では死んでいても、現実世界で生きているというのはありえることだが、だからと言って、それはあのヒューズ准将とは全くの別人なのである。こういう形でヒューズが蘇ったからと言って、喜ぶファンがいると思っているのだろうか(いるかもしれないから情けないのだが)。
 もともと「パラレルワールド」という設定は、制作者が節操をなくして援用すれば、どんな展開だって可能になるものだ。『ヤマト』が沖田艦長を蘇えらせるのには言い訳にかなり苦労したが、「パラレルワールド」という設定は実に便利なタームである。マース・ヒューズも、キング・ブラッドレイも、実に簡単に蘇った。いや、映画を最後まで見てみると、スカーもラストもちゃんといるのである。更に言えばパラレルワールドは一つとは限らないから、続編、続々編と作って行く段階で、ラースもエンヴィーもホーエンハイムも簡単に蘇らせることができる。既に、トゥーレ協会の陰謀の挫折を描いていることで、この「現実世界」も、実は我々のこの「現実世界」とは別のパラレルワールドであることが明示されているのだ。となればこれから先、『鋼の錬金術師 中つ国編』とか『鋼の錬金術師 日本編』とか『鋼の錬金術師 地下帝国ヨミ編』とか『鋼の錬金術師 宇宙編』とか『鋼の錬金術師 プロ野球編』とかいくらでも作れるぞ。本当に作るんじゃないのか。
 これが冗談ではすまないんじゃないかと危惧するのは、ラストで、ウィンリィが取り残されてしまったからである。「待たせてくれないんだね」と呟くウィンリィの目には涙一つ浮かんではいない。運命を運命として受け入れたゆえに気丈にも涙を流すことをしなかったのか、それともこれは「まだ先がある」という暗示なのか。
 どちらにしろ、テレビシリーズの最終回も今回の劇場版の終わり方も、あっちの世界からこっちの世界へ、「コマを適当に動かす」ことで締められた。「エド/アル+ウィンリィ」と来て「エド+アル/ウィンリィ」と来たから、次は「エド+ウィンリィ/アル」なんことになるんじゃないのか。いや、會川昇はウィンリィ苛めることに快感を感じてるかもしれないから、「エド+アル+マスタング+アームストロング+リザ+シェスカ/ウィンリィ」くらいなことをしやしないか。
 「アルが自分の力で鎧に魂を定着させることができるようになった」という設定も実に便利である。これでアルは、エドとアルがどのパラレルワールドに飛ばされようとも、自分が今いる世界との「連絡」が取れるようになった。あっちのパラレルワールドで事件解決、次はこっちのパラレルワールドで事件解決、もう、続編がいくらでも作れるぞって設定である。そうなればテレビシリーズであれほど「元の体に戻りたい」と苦悩していたアルとは別人になってしまうと言っていいだろう。いや、既にこの劇場版でアルはアルでなくなってしまっている。だからラストでアルが記憶を取り戻し、ついにエドと生身で再会することになっても、少しも感動できないのである。
 こんな適当な設定を思いついてもいいのなら、そのうちアルは鎧以外のモノにも魂を定着できるようになって、「動物アル」とか「建造物アル」とか「家電製品アル」とか「メカ沢一郎アル」とか、いろんなものになっちゃうんじゃないのか。その可能性も絶対にないとは言えないぞ。「パラレルワールド」は基本的に「ハックルベリーの無限大=何でもあり」なんだから。でも『鋼の錬金術師』を「ギャグもの」として見ている人には、そうなってくれたほうが面白いかもしれない。そこまでつん抜けてくれれば私も逆に「面白い」と拍手する気になるかもな。
 制作スタッフには、語り尽くされた物語を更に続けなきゃなんない「お家の事情」があったのかもしれない。どっちかと言うと、同工異曲でマンネリな話が繰り返されても「キャラ萌え」だけで嬌声を上げる痛いオタクの責任の方が重いかもしれない。けれど『鋼の錬金術師』は、『ドラゴンボール』とか『キン肉マン』とか『美少女戦士セーラームーン』とかよりはもちっと「深い」作品じゃないかと思っていたのである。スカーにニーナが殺された後、滂沱の涙を流したエドの姿を私たちは忘れてはいない。アニメスタッフも、あのときのエドに出会ったからアニメ化を決意したはずだ。正義の名の元に殺戮が繰り返される現実に対して打ちのめされた無力な子供たちが、自分を取り戻して行く。そんな物語になっていくことを期待していたファンは多いと思う。
 なのにアニメ版『鋼の錬金術師』はどこに行こうとしているのか。


 映画を見た後、あまりに憤慨してしまったので、思わず東京のグータロウ君に「蛇足だぞアレ」とメールを送る。ところが外出していたので気がつかなかったのだが、東京では震度5弱の地震が起きていたのである。大変なときに能天気なメール送っちゃって、全く何ともはやである。

2004年07月24日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」
2003年07月24日(木) 他に売れてるものがあるからいいじゃないか/『コータローまかりとおる!L』6巻(蛭田達也)/『灰色の乙女たち』1巻(加藤理絵)ほか
2002年07月24日(水) ウソから出たアホウ/『追悼の達人』(嵐山光三郎)ほか
2001年07月24日(火) 目標達成!……って何が/『腐っても「文学」!?』(大月隆寛編)ほか


2005年07月23日(土) 映画とマンガの感想だけで手一杯/映画『50回目のファースト・キス』

早起きできずに、『ウルトラマンマックス』を見逃す。
 もっとも何話か見てそんなに入れ込むほどじゃないなあと思っちゃったんで、特に惜しいとは思わないが。

 九時にはしげを叩き起こして、天神、ソラリア・プラザへ。目的は映画『50回目のファースト・キス』。
なんたって、久方ぶりのダン・エイクロイド出演作である。熱烈なファンのしげが初日の一番に来ようと、絶対に寝過ごすまいぞと、いつもなら金曜の夜は映画を見に行く習慣になっているのに、夕べばかりは誘いを断って帰宅、10時には寝床に入っていた。けれど早寝したらしたで10時間は寝こくのがしげというやつである。結局は私に起こされることになるのだから、全く当てにならない。
 ソラリアプラザは、デカいビルの中にあるわりには三館共通のロビーは狭く、スクリーンはどの館も小ぶり、以前、何度か来たときには上映事故がやたら起きて、私とは相性が悪い映画館である(『美女と野獣』を見に来たときと、『押絵と旅する男』を見に来たとき。後者のときは仕事があったので途中で退席しなけりゃならなくなった。故・浜村純さんも来られていたのだが、この事故のおかげでサインを貰い損ねたのが痛恨である)。
 けれど福岡でこの映画を上映するのはここだけだから、選択の余地はない。しげが「先頭で見る!」と言い張るので、アゴをしゃくって見上げながら一時間半の映画に見入る。
 ストーリーはもう最近は「流行」としか言いようのない「短期記憶喪失障碍」がモチーフ。舞台はハワイ・オアフ島。交通事故で一日だけの記憶しか保てなくなったルーシー・ホイットモア(ドリュー・バリモア)。彼女に恋をしたのは水族館で働くナンパ男のヘンリー・ロス(アダム・サンドラー)。手練手管で女たちをコロリと騙し、次から次へ女から女へと渡り歩くのは、ヘンリーが基本的に女性不信だから。しかし、ルーシーに出会って、恋をして、けれど次の日には自分が忘れられてしまうことを知って、何とかして自分のことを覚えていてもらいたいとあの手この手を使って、彼女の記憶を蘇らせようと試みる。その結末は……。
 ヘンリーの紹介をする冒頭シーンの演出がまずは実に上手い。オアフ島でバカンスを過ごしてきた女たちが、それぞれ帰国して友人たちに旅で出会った彼がいかに素敵だったかを口々に語る。でも、それは全てひと夏だけの恋。彼とは旅の終わりと同時に別れた。彼の名前は「ヘンリー・ロス」。女たちがその名前を次々に口にして、そしてアダム・サンドラーのアップにつなぐのだ。観客のアダムファンの女たちはきゃーと嬌声を挙げ、フェミニストの男たちは女の敵めと憎しみの目を向けるところだろう。
 けれど、演出自体はうまいけれど、どうもサンドラーがこういう心に傷を持っているナンパ男のイメージを体現しきれていない。これがもう少し若いころのジム・キャリーか、ブレンダン・フレイザーとかユアン・マクレガーだったらもっと飄々と、けれどちょっとアクな魅力も漂わせて、「らしく」見せてくれそうだって気がするのに、サンドラーはどうにもヌーボーとしているのである。
 サンドラーが毎日のナンパに成功したり失敗したり、その過程も面白くないわけではない。一度成功したナンパ法も、タイミングを間違えると次の日にはもう成功しないのである。けれど、サンドラーが中心となるシーンよりも、脇のキャラクターたちが活躍しているシーンの方がずっと面白いのが問題なのである。
 ルーシーの父親・マーリン(ブレイク・クラーク)と弟・ダグ(『ロード・オブ・ザ・リング』のショーン・アスティン!)は、ルーシーに記憶障碍であることを気づかせないために、同じ日を毎日繰り返して演じているのだが、おかげで彼らは毎日同じ会話をし、毎日父親の誕生日を祝い、毎晩『シックス・センス』のDVDを見る生活を一年も続けているのである。ああ、何という家族愛。
 ヘンリーは友人のウーラ(ロブ・シュナイダー)に暴漢の役を演じさせて、ルーシーの気を引こうとするのだが、意外にも「強かった」ルーシーにウーラがコテンパンにされてしまう展開は、ベタではあるけれども充分おかしい。
 でも、そういったディテールが面白ければ面白いほど、「ああ、主役がアダム・サンドラーじゃなければなあ」という思いが弥増していくことになるのだ。
 この「毎日リセット恋愛」の結末がどうなるか、ネタバレは控えるが、現実に記憶障碍に悩む人々がいることを考えると、ああいう「ありえねー」形でオチをつけたことには疑問が残る。かといって、リアルに描くことが正しいってわけでもないしなあ。面白くないわけじゃないけど、どうもあちこちに引っかかるものを感じた映画だった。
  あ、しげ待望のダン・エイクロイドの出演は2シーンのみ。ルーシーの主治医の役ね。特に感想述べるほどのことはなし。


 帰宅して、昼寝。
 夕方、しばらく中断していたウォーキングを再会。頻尿がおさまるくらいにならないと、医者にも顔を出せないのである。


 マンガ、荒川弘『鋼の錬金術師』11巻(スクウェア・エニックス)。
 未だに原作派とアニメ派との間で不毛な争いが続いているらしいねえ。こういう騒動が起こるたびに「メディアが違うものを単純比較することなどできない」という批評の基本を提言する人もいないわけではないんだけどね。でも、感情的にしかモノを見られないオタクや腐女子は自分たちがいかに無知蒙昧かつ厚顔無恥な存在であるかを自覚もせずに互いを敵と見なし罵り合うことにのみ汲々としているのである。
 マンガはマンガで面白い部分もあるし、つまらない部分もある。アニメもまた同様である。原作を映像化するとはそもそもどういうことかってことについては本気で語り出せば表現方法を精密に比較しなければならないので単行本一冊くらいの分量が必要になる。そもそも通り一遍に流し見したくらいでは簡単に言えることではないのだ。評論家でもないシロウトにはそれぞれの作品を別物として見る以外に鑑賞のしようがないのであるが、評論家モドキの傲慢な人間がいかに増えたかということである。
 だから、私の場合、『ハガレン』についてはアニメから先に入ったのでアニメ派だと思われがちではあるのだが、厳密に言えばどっち派でもない。シロウトの節度を守って、それぞれを別物として面白い面白くないを語っているのである。
 前置きが長くなったが、「シン国」キャラの登場以降、アニメとは全く別の流れに入って久しい原作であるが、先の10巻でラストが死亡、「七つの大罪」のホムンクルスは一応全てが登場、ホーエンハイムもついに姿を現しと、いよいよ佳境に入るかと思われたのだが、今巻でちょいと流れが停滞してしまった。佳境に入る前だからこそ、人物や設定をもう一度確認し直す必要があったのだということは分かるのだけれど、「アルは本当に人間の体に戻れるのか?」ってのを今更再確認しなくてもよかったんじゃないのかなあ。話を進展させようとして余計なことをするとかえっていびつなものになってしまいがちだけれども、エドやアルの心理描写にどうにも納得のいかないものを感じてしまうのである。
 エドとアルが人体錬成したのは、母親・トリシャではなかったという衝撃の事実。普通なら、そこで自らの愚かしさにもっと打ちのめされてもいいんじゃないか? 「死者は蘇らない」「禁忌を犯した者には罰が下る」こんな当然のことにも気づかなかった大馬鹿者は、もっと罪の意識に苛まれても当然じゃないかと思えるのに、それがなんであんなに簡単に「アルは元に戻れる!」と希望に転換させられるのか。いくら口でアルに対して謝ってみせても、エドには贖罪の意識があまりないんじゃないかという感じがして仕方がないのである。
 『ハガレン』が二人の「罪」から始まった「贖罪」の物語であり、自らの欠損を取り戻す中で、「誰も傷つけず失わず」の理想を追い求め、ハッピーエンドを目指すものであるのならば、まだ「悩み方が浅い」と思うのである。二人が錬成したのがトリシャでないなら。あれは何だったのか? そこでもまた「誰か」が「犠牲」になっているのではないか? どうも作者がそういうところまで考えてストーリーを作ってるとは思いにくいんで、引っかかって仕方がないのである。


 マンガ、今市子『百鬼夜行抄』13巻(朝日ソノラマ)。
 映画『シックス・センス』よりもずっと早く、ホラーとミステリーをずっと洗練された形で(しかもユーモアすら交えながら)描いてきたシリーズの最新巻。
 要するに主人公の飯嶋律がオスメント少年に当たるわけだが、相変わらずイマイチ頼りにならない。もしかしたら読者の人気は26年ぶりに異界から帰ってきた律のおじ・開の方が高いのかも知れない。多分、律よりも「力」は強いだろうと思われるのだが、律の危難に対して、あまり協力的でないどころか、状況が悪化するのを面白がって見ている気配すらある。
 もともとこの物語の設定自体が必ずしも人間中心主義・勧善懲悪主義では描かれておらず、何の罪とがのない人間だって、禁忌に触れて死ぬこともあるし、魅力的なキャラクターやかよわい女子供があっさりというか時には残酷に退場させられることもままある。共通点も多い『蟲師』と比べても、かなり作者の現実を見る目が冷徹であることが垣間見えるのである。
 そんな中で右往左往する律や、霊感あるのに自覚症状のない天然娘の従姉・司、律の祖父・蝸牛の使い魔だった妖魔・青嵐や、飯嶋家の庭の桜に宿っている律の家来の妖魔・尾白と尾黒なんて「お笑い」キャラたちが中心になっているから暗いムードにならずにすんでいるものの、そうでなけりゃ、このシリーズ、結構陰惨な山岸凉子的世界になっていたかもしれない。まさに恐怖と笑いは紙一重か。
 今巻は、先述した開の見合い相手の家・白川家に巣食う妖魔たちの攻防を描く『夜半の客』、晴れ着に取り憑いた妖魔の除霊と青嵐の「分裂」というショッキングな事件が起こる『晴れ着』、「生きた細工物」を作る青年・三郎と、律のもう一人の従姉・晶との恋の行方を追う『月影の庭』『餓鬼田の守り神』を収める。
 時間経過こそあるものの、まったりまったりとたいした状況の変化もなく進んでいくかと思われていたのに、初めて見つかった青嵐の「本体」(鏡の精だったんだねえ)がいきなり割れちまうわ(だから律は妖魔から身を守る術を一時的にせよ失っているのだが、あまりに狼狽するものだから、まるで悲惨な雰囲気にならない)、三郎はどうやら次巻あたりで完全に「あっち」の世界に行っちゃいそうだわ、作者はシリーズの完結も視野に入れつつあるような感じである。
 ホラーミステリーの教科書と言ってよいようなハイレベルの作品も多いから、もっと続いてほしい気もするのだが、15、6巻くらいが限度かなあ。

2004年07月23日(金) 『キャンディ・キャンディ』が“今のところ”リメイクされない理由
2003年07月23日(水) 神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』
2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか
2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか


2005年07月22日(金) カウンセリングもプラシーボ/『ニッポン硬貨の謎 ―エラリー・クイーン最後の事件―』(北村薫)

 金曜日はしげの通院の日。 
 以前は朝早く、診療時間が始まると同時くらいに出向いていたのだが、最近はカウンセラーさんの都合だとかで、午後の診療に変わっている。
 しげはカウンセリング用に毎日日記を書かされていて、これはウェブ上にもアップしていないヒミツ日記なのだが、私は一応読ませてもらっている。ウェブ上のそっけない日記と違って、本音を素直に書いているせいか、文体が妙にかわいらしいのだが、書いてある内容は映画や演劇に関することが殆どである。カウンセラーさんからも「旦那さんのこととか殆ど書かれないんですね」と言われてしまったそうだが、家庭的なことはしげにとって「日常」ではないのかもしれない。
 しげの話によれば、カウンセラーさんは映画好きで、30分間のカウンセリングタイムも殆ど映画の話ばかりになるそうである。引っ込み思案のしげも、芝居や映画の話ならば楽しそうに話す。今日も心理劇の話などをして楽しかったそうなのだが、突然、「通院はこれから二週間に一回にしましょうか?」と相談されたのだそうだ。
 しげは「それってつまり、病気が治ってきたってことなのかなあ?」と訝んでいる。確かに、薬のおかげで睡眠時間も調節できるようになったし、ヒステリーを起こす回数も随分減っている。この四月からは昼の弁当も作ってくれるようになったし、晩飯もまあちょっと乱暴なメニューではあるが(今晩は鶏もも肉の丸ごと煮なのだが、実はこれがもう一ヶ月以上続いているのである)、作ってくれはするようになった。
 しかし、洗濯などのほかの家事にまではまだまだ気が回らないし、それよりもパートの仕事などは全く続かなくなってしまっているのである。仕事自体が嫌いなわけではないのだが、ともかく「仕事に出かけて行く」行為自体ができなくなっている。社会人としては当然喜ばしい状態ではない。トータルで見ると、進歩しているのか退歩しているのか、本人にもよく判断ができないでいるのだ。
 「治ったって思うほうが治るのかなあ。カウンセラーの兄ちゃんには『自分で決めてください』って言われてるんだけど」
 カウンセラーさんにそう言われているのなら、私も「自分で決めろよ」としか言えない。どういう意図で診察回数を減らそうと言われたのか、もう少し事情を知りたいのだが、そういう肝心なところをしげは聞き損なっている。やっぱりまだそれほど治ってはいないのにあえて回数を減らすことで自立の道を図ろうというのか、それとももともと完璧に治るものでもないのだからこのくらいでまあいいかと気楽に考えようよってことなのか、プラシーボ効果を狙っているのか、ただ単に治療を諦めちゃってるのか、よく分からないのである。どうなっていくんでしょうね(って他人事じゃないだろ)。


 FBSで、金曜ロードショー夏恒例の『ルパン三世 天使の策略(タクティクス)〜夢のカケラは殺しの香り〜』を見る。
 TVスペシャルシリーズもついに17作、故・山田康雄がルパン三世の声をアテていたのは第6作の『燃えよ斬鉄剣』までだから、10代のファンにとっては、栗田貫一の方がもうルパンの声として定着してしまっている。つか、「山田康雄って誰?」って発言を実際に10代のやつから聞いたこともあるのだ。
 いや、栗田さん以外のレギュラー陣の声、とてもじゃないがすっかり衰えてしまっていて、聞けたものではない。数年前までは納谷悟朗さんが一番滑舌が悪くて、よく聞き取れない台詞も多かったのだが、もう本作では小林清志、井上真樹夫、増山江威子、どう贔屓目で聞いてもみな年寄りの声にしか聞こえない。もしもシリーズを本気で続けて行くつもりならば(世代的にはもうルパン五世でもおかしくはないのだが)、『ドラえもん』よろしく、完全リニューアルを考えてもいいのではないかという気さえしてくる。いや、もう潔く一度「完結」を考えてもいいのではないか。
 というのも、最近ファンになった若い人はともかく、それこそアニメ旧シリーズ第1作(1971年!)をリアルタイムで見てきた世代から見れば、もう語られるべき物語のアイデアは底を尽いているとしか思えないのである。
 今回のルパンが狙う獲物が、アメリカ・ネバダ州の空軍基地「エリア51」に保管されているUFOの破片「オリジナルメタル」だ、と聞けば、もうそれだけで「そんな使い古されたネタを」と気分は萎えてしまう。オープニングで反米テロリスト集団「ブラッディエンジェルス」(これも映画やマンガで何度も使われてきた陳腐なネーミングだ)によってルパンのニセモノたちが倒されるシーンは、またもや『OO7/ロシアより愛をこめて』のオープニングの拙劣な模倣だ。いや、そもそも「女アマゾネス」という設定自体、ルパンシリーズでは「女シンドバット」を初めとして何度となく使われてきたネタで、目新しくも何ともない。
 事件の「真犯人」も全く意外でないどころか、登場した瞬間に「こいつか」とすぐ分かるヘボな演出で、脚本、監督が視聴者をナメているのが一目瞭然である。でも、映画やミステリーに慣れてない視聴者はこんなショボい脚本でも簡単に騙されちゃうんだろうなあ。作画だって、一見、ふたコマ作画を多用してよく動かしているように見えはするが、動きの間や質感、重量感ともにデタラメである。枚数使えばいいってもんじゃないんだってば。会話のタイミングもかなり悪く、聞いていて少しも人間的な感情が伝わってこない。ナビゲーターの坂上みきが「シリーズ最高傑作」とかナレーションしてたが、いったいどこをどう取り上げればそんなことが言えるのか。
 もう次回あたりで未だアニメ化されていない「シャードック編」か「ヤップランド編」をアニメ化して、完結してほしいんだけど、これも若いファンたちには分かんない感覚なんだろうなあ。けれど頼むから旧シリーズの『魔術師と呼ばれた男』『脱獄のチャンスは一度』とか新シリーズの『死の翼アルバトロス』『さらぱ愛しきルパン』とか見たこともないのに、今のテレビスペシャルシリーズが面白いとか、そんな恥知らずなことは言わないでほしいのである。


 北村薫『ニッポン硬貨の謎 ―エラリー・クイーン最後の事件―』(東京創元社)。
 文庫になるのを待ちゃいいのに、ハードカバーで買っちまったよ。『ミステリーズ!』の連載でもう読んじゃってるのになあ。
 エラリー・クイーンの未発表原稿を北村薫が翻訳、という体裁でのパスティーシュ(模倣昨)であるが、これもファンの間で賛否両論を巻き起こしそうな作品である。本物のクイーンがいかに親日家だったからと言って、その「最後の事件」として一度捨て去った「国名シリーズ」を再開するとは思えない、そういう基本的なところから反発するファンもいておかしくはないからだ。
 そもそも本物のクイーンの手になる『日本庭園の秘密(ニッポン樫鳥の謎)』ですら、国名シリーズには入れられなかった(原題は“The Door Between”〔間の扉〕。これまで60年以上、雑誌連載時に“The Japanese Fan Mystery”〔日本扇の謎〕というタイトルが付けられていたという説は、近年の調査で誤りであることが判明した。どうやら江戸川乱歩がガセネタを掴まされたことが原因らしい。嗚呼!)。内容も細かく見て行けば、クイーン警視はまだ警視なのかとか、突っ込みどころは満載である。
 しかしどんなマニアやプロの作家でも、ファンの全てを納得させるパスティーシュを書くことは難しい。ある意味、パスティーシュは「お祭り」なのだから、あまりディテールには拘らずに「オアソビ」を大らかに楽しむくらいの姿勢で読んだほうがいいように思う。特に、これまでクイーンの作品を読んだことがない読者にとっては、純粋にミステリーとして面白いかどうか、そこが主眼となるところだろう。
 ところが残念なことに本作は、ミステリーとしてはかなりお寒いのである。北村さん、サインまで頂いたのに貶すのは心苦しいのだが、事実だから仕方がない。

 1977年、来日したミステリ作家兼「名探偵」のエラリー・クイーンは、東京に発生していた幼児連続殺害事件に興味を持つ。殺された幼児たちは、毎週日曜、一様に女性のキモノ(フリソデ)に包まれて発見されていた。そこには何かの寓意があるのかそれとも犯人の仕掛けた心理的な罠か。
 同じころ、大学のミステリ研究会に所属する小町奈々子(モデルはもちろん現ミステリ作家の若竹七海女史である)は、アルバイト先の書店で、毎週土曜日に謎の男から「50円玉20枚を千円札に両替してくれ」と頼まれていた。
 二つの出来事は何か関連があるのか。ファンの集いに参加したことからエラリーの知遇を得て東京観光案内を引き受けることになった奈々子は、上野動物園でまさにその幼児誘拐の現場に出くわすことになる……。

 クイーンファンよりもむしろ、若竹七海のファンの方が喜びそうな展開であるが、実際、作中に登場する「小町奈々子」は、実に可愛らしい。ストレートなミステリファンで、ゆえに情熱的なのだが、決して出しゃばりやお転婆といった印象ではなく、ミステリへのひたむきさが自然に彼女を、一途に恋をする乙女のように可憐に見せているのである。
 この、若竹……もとい、小町奈々子嬢が、エラリーに「国名シリーズ」についての疑問を投げかける「ミステリ問答」の部分、これは文句なしに面白い。「国名シリーズ」のトリックに関わってくるので詳述はできないのだが、クイーンのファンならばいちいち膝を打つことも多かろう。逆に言えば、クイーンの諸作品を読んでいないと、いったい何のことやら分からずに置いてきぼりを食らうことになる。
 私も鈍感でよくなかったのだが、本作を読んで、通常の翻訳としては悪訳としか言えない出来栄えの「井上勇訳・創元推理文庫」のクイーンの諸作が、ある作品に限っては「青田勝訳・ハヤカワミステリ文庫」よりも優れていることを知った。これでは、未読の方にどちらの版で読め、と勧められない。全く困ったことである。もはや国名シリーズは、「創元文庫版とハヤカワ文庫版を両方とも、作品発表順に読んでください」と言うしかない。その上でこの『ニッポン硬貨の謎』を読んで頂ければ、私の言わんとすることはご理解いだけるだろう。
 しかし、この小説が面白いのはまさにその部分だけであった。小説中でこういう「クイーン論」を展開させたなら、当然それが本筋にだって関わってこなきゃ辻褄が合わないのだが、それが何にもない。ただ単に、エラリーと奈々子との信頼関係を結ぶ役割しか果たしていないのである。
 私はてっきり、わざわざ「あんなこと」を持ち出したのだから、これとこれはあれやそれという感じで殺人事件の「ヒント」になるのだろうと思っていたのだが、予測は見事に外れた。「クイーン論」と事件は何の関係もなく、それどころかこれにかなりなページを食われたことで皺寄せが来たのか、本筋の事件はあまりにも単純であった。つか、「あれはないよな」である。「50円玉20枚の謎」は、若竹七海女史が実際に体験した出来事で、真相は藪の中なのだが、だからと言ってクイーンが興味を持つほどの事件とは言えまい。だからこそ、無理やり「幼児連続殺人」と結びつけたわけだが、余計な設定を増やしたおかげで、その解答は殆どコジツケにしかならなかった。『名探偵コナン』並、ミステリファンだったら「ふざけるな」と灰皿を投げつけたくなるくらいにテキトーだったのである。
 いや、そこで私は私で、読みながらあるトリックを思いついたのだが、そっちの方がよっぽど面白いと思う。小説を書くアイデアのヒントにはなったので、買って損したとは思わないけれど、パスティーシュを書く場合、書き手はオリジナル作品の作者よりも実力が上じゃなきゃならないんだなあと痛感したことである。

2004年07月22日(木) 風呂の夢を見る女
2003年07月22日(火) オタクの末路?/『吼えろペン』8巻(島本和彦)/『フロイト先生のウソ』(R・デーゲン)/DVD『マジンカイザー死闘!暗黒大将軍』
2002年07月22日(月) 角川+大映=…?/『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2(伊藤伸平)/『スレイヤーズすぺしゃる�魁,襪覆討�・へすてばる』(神坂一)ほか
2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか


2005年07月21日(木) 「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」/『クロザクロ』4巻(夏目義徳)

 仕事が終わって、しげと細川嬢とアクロス福岡で待ち合わせ。
円形ホールで「NPOこども文化コミュニティ」の主催になる「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」に参加するためである。
開始時刻は7時からだが、1時間ほど早く着く。けれどせっかちなしげは、更にその30分前に来ていて、私はまだ博多駅にも着いていないというのに「地下のロッテリアで待ってるよ」というメールが届いた。こちらも遅れたわけでもないのにあわてて現地に向かうのも癪だったので、「福家書店」に回って新刊マンガをいくつか買っていく。
6時10分にロッテリアに着くと、細川嬢も来ていた。ようやく書き始めた次の芝居の脚本の冒頭を「読みたい」と仰るので、数ページを見せたが、私の字を見て、いかにも困惑されたような顔で「読めない」と言われてしまう。つっても、私ゃもう字を書こうとすると指先が震えるようになっているので、キレイな字はかなりゆっくりと丁寧にしないと書けないのである。まあ、どうせパソコンで清書しますんで、そのときまでお待ちください。

 30分前に会場の円形ホールに上がって、ざっと見渡して見るとお客さんは六、七十人と言ったところ。あまり多くはない、というよりは「どうしてこんなに少ないんだ!?」という憤慨が沸々と涌いてくる。
 最近は地元劇団の人たちの顔も少しずつ覚えてきているので、見知った顔がいるかどうか探してみたのだが、意外なくらいに少ない。あの「鐘下さん」が来てるのに? 地方劇団というものは往々にして自己充足してしまって、中央の芝居を見ようとしない、海外演劇事情も全然知らない、演劇の歴史も現状も何も知らない、ともかく勉強を怠りがちなものであるが、福岡の演劇人もそういう連中が多いのだろうか。
 ふと客席で目が合った方が、なんと本職の方での知り合い。この方も演劇に関わりのある方で見識も深く(あまり詳しく書くと本職がバレるので省くが)、さすがこういうイベントはちゃんとチェックしているのだなあと心の中でウンウンと頷く。実はこの方、例のホモオタさんの大学の先輩で、さらにトンガリさんとも関係の深い方である。あんなイカレた連中と付き合っていれば、ゴタゴタにいろいろ巻き込まれるのも自然の流れなのだが、それでも全く意に介した風もなく、いつも泰然自若としていらっしゃるのだからものすごい。私んとこの業界、人間がウンカのようにいるってのにやたら横の繋がりはあって、狭いのである。
 
 第1部は「演劇を語る」。
 FPAP(NPO法人福岡パフォーミングアーツプロジェクト)の高崎大志さんを聞き手に、かなりの本音トーク。固有名詞がかなり出てくるので、そのあたりは「ネットに書かないで下さいね」とクギを刺されているので省こう(笑)。それ以外でも、印象に残るお話はたくさんあったのだ。
 「100人演出家がいれば100通りの演出がある」と前置きをして、「自分はうまい役者が見たいわけではない。すごい役者が見たいんだ」と仰る。昔、ワークショップでも言われていたことであるが、鐘下さんは役者にあまり細かい「演技指導」はしない。それがすなわち役者の「上手さ」よりも「すごさ」を喜ぶということに繋がるのだろうが、「すごさ」を役者の「持ち味」とか「個性」と言い換えれば、そういうものは演技指導などから生まれるものではなく、役者を自由に開放することから生まれるのだと言えるだろう。「俳優は、公演中は演出家と飲むな。俳優同士で飲め」とユーモラスに仰るのも、演技プランを演出家に求めるな、自分で考えろ」ということなのだろう。
 昔、溝口健二が田中絹代から演技について問われたときに、「演技について考えるのが役者の仕事でしょう?」と言って突っぱねた、というエピソードを思い出す。もっとも鐘下さんは、溝口健二が田中絹代に参考資料を何十冊も与えたようなやり方はあまり好みではないらしい。「役の履歴書を作ると、それで終わりになっちゃうことが多いからね。そこから考えるための履歴書じゃないと」いう意見には全く同感である。
 ただねえ、イマドキの若い役者って、ホントに考える力をなくしてるから、いちいち具体的にここはこれこれこういうことでね、と解説してやらなきゃ台本も読めねえことも多いのである。更に言えば、説明したらしたで「難しくてわかんない」とか言われたりするのだ。
 会場に高校生の姿もあったので、高校演劇についても語られた。「高校演劇のスターって、プロになったら使えないんだよね」といきなりのカウンターパンチであるが、私も知り合いに高校生がいたりして、たまに高校演劇大会などを覗くことがあるので分かるのだが、これも全くの事実であると言っていい。「クセが付いてるんだよね」と仰って、それが具体的にどういうクセなのかは言葉を濁しておられたが、私なりにそれを補足すれば、思想的にはサヨク、表現としてはアジテート、これが高校演劇出身者の「クセ」だと思う。
 「自分が一番楽しかったのは高校の演劇部にいたころ。高校演劇には顧問主導型と生徒主導型の2パターンがあって、自分の高校は生徒主導型だった。あのころ演劇について先輩たちと自由に語り合えたことが人生の中で一番楽しくて、その経験が今の自分を創っている」
 ここで言われている前者の「顧問主導型」の演劇部にいる連中が特に「クセ」が強いのだ。しかも厄介なことに、センセイ方のオボエがよくって入賞しやすいのがまさしくこういう学校の生徒だったりするので、生徒主導型の学校の生徒もあえてこの「クセ」を研究して(せんでいいのに)マネをしてしまったりする。おかげで、どの学校も同じ色、という非常につまんない現象が起きるのだ。
 カッコつけたことを言わせていただければ、演劇とはまさに既成概念への挑戦であり、権威への反逆であり、自由への飛翔である。それゆえに歴史上、ともすれば左翼に傾く嫌いもありはしたが、本質的に全ての思想から演劇は「自由」なのである。顧問主導型の演劇部なんて、そもそも演劇部とは言えないのではないか。私の高校時代の部活も生徒は完全に自由に芝居を作ることができて、顧問が誰だったか全く記憶にないくらいだが、そうでない演劇部は不幸だとしか言えない。顧問の言うなりになっている限り、たとえ生徒たち自身がそのことを納得していようとそれは「洗脳」されているだけだからである。

 第2部は、ついに初来福する(本当にそうなのである!)鐘下さんの新作について。「『弟の戦争』をテーマに語る」。
原作はロバート・ウェストールの児童文学だが、戯曲化に至った経緯は、上演劇団の「劇団うりんこ」からの依頼を受けてとのこと。「戦争もの」はこれまでにも鐘下さんの作品の中で重要な位置を占めているが、児童劇団である「うりんこ」の依頼をなぜ受けたかについては、「現実に日本が戦争に加担している現在、逆に戦争について見えなくなっている部分があるのではないか。それをこの小説は描いているのではないか」ということであった。
この点については、本公演に関しての鐘下さん自身の文章を引用しておきたい。

〉 『知恵と経験−弟の戦争から』 脚本・演出=鐘下 辰男
〉 なぜ戦争は人間を残虐に変えてしまうのか?そもそもいかなる人間も残虐行為に走らせてしまうというところに戦争の真の恐ろしさはあるわけです。今こうして、日々のニュースなどで戦争の悲惨さに胸を痛めている私たちでも、その場にいってしまえばしっかり残虐行為を起こしかねない、そこにこそ本当の意味での戦争の悲惨があるのではないでしょうか。そもそもの悲惨は決して物の善悪を語っただけでは知ることはできないものだと私は思います。
〉 この「弟の戦争」という作品がすぐれているのは、そうしたところをうまくドラマ化している点にあります。私たちは今でもどこかで戦争が行われていることを日々のニュースで知っています。そこでどういう悲惨なことが行われているのかということも知っています。そして心を痛めたりはしています。しかし、これはあくまで知識として有しているというだけで決して戦争を「経験」しているだけではありません。経験なき知識がいかに脆弱なものであるか、私たちは日々の暮らしでそれを実感することが多々あるわけですが、それは戦争も同じ事です。
〉 この作品の主人公は、戦争のない平和な国で暮らしているにもかかわらず、日々変貌していく弟と接しながら、直に戦争を経験していく物語です。知識としての戦争を理解するドラマでではなく、経験として戦争を実感していくドラマです。
〉 こうしたドラマ性を実現できるのは演劇でしかできません。映像は結局知識でしかないからです。自分たちが普段生活している空間に、突然変貌していく人間を目の当たりにすることができる演劇だからこそ、観客は戦争を経験し、実感できるわけです。この作品の主人公が、日常生活の中で変貌していく弟を目の当たりにしながら戦争を経験し、実感したように・・・。

 「児童文学」を戯曲化するときには、「手加減」をする作家も多いと思う。「子供向けだからできるだけわかりやすく簡単に」とか、いろいろ言い訳をする作家も多いが、悪く言えばそれはただ子供を馬鹿にしているだけで、「手抜き」でしかない。
 しかし鐘下さんは、「子供はウソをすぐに見抜く」と断言されていた。「自分も高校時代、一番多感な時期には大人のウソにはすぐに気づいた。だから、『ウソをつかない』ことには一番気を遣って書いた」と。要するに「奇麗事は書かない」ということだろう。私自身。児童文学を専攻していた経験から鑑みて言えることなのだが、こういう基本的な創作の姿勢について「分かっていない」作家って、名前は挙げないがやたら多いのだ。児童文学が、あるいは児童演劇が、「普通の」文学や演劇に比べて一等低いもののように蔑まれてしまう原因は、一般人の無理解ばかりに原因があるのではない。創作する人間のこうした「意識の低さ」にも起因していることなのである。
 鐘下さんが「信頼できる作家」である一番の理由は、まさに「子供向けだからって手を抜かない」点にあると私は感じている。 

 会場からの「もっとエンタテインメントな、商業演劇を作られる気はないのか?」の質問に対して、「自分はこれまでの人生で苦労をしたことがないし、これまで楽しく生きてきた。だからあえてエンタテインメントを作る必要はない」と答えておられたのが実にカッコよかった。苦労をウリモノにしたり、不幸を語ることで同情を乞おうとするヤカラは多いが、こういうところを見習ってほしいものである。私の見る限り、鐘下さんの作品は充分「エンタテインメント」なんだけどね。理屈抜きで面白いって意味で。

 そのあと懇親会が設けられているというので、続けて参加。
 相変わらずミーハーなことで恥ずかしい限りだが、『テアトロ』の最新号に掲載されている鐘下さんの新作、島尾敏雄原作の戯曲『死の棘』にサインをしていただく。
 不躾にも(いつものことだ)いくつか質問をしたのだが、『死の棘』執筆の動機について、島尾敏雄がなぜこの小説を書いたのか、そのこと自体に興味があり、長年暖められていた企画であったとのこと。別に最近のサイコな風潮に合わせたわけではないということである。水の中に舞台が浮かんでいるような不思議な美術については、やはり能舞台を意識したとのこと。
 「表現の自主規制」の問題についても、やや失礼な質問をしてしまったが、これにも明快に答えていただいた。「テレビで放送されることがあっても、自分で自分の脚本に規制をかけることは一切ありません」と。この発言が、いかに「創作する者」にとって強みになることか。分かる人には分かることであろう。
 参加数は少なかったが、地元の劇団の方々とも歓談できて、なんかもう、これだけ有意義な集まりにどうしてもっと演劇人が集まらなかったかと腹立たしくなるほどであった。


 11時を回ってなお、会がお開きになる様子もないので、名残惜しくはあったが先に引ける。遠慮する細川嬢を「バス停までは」と無理やり付いていって見送ったが、それは彼女から「最近、道端でAV嬢にならないかって誘われちゃったんですよ」と聞いたからだ。
 いやもう、言葉を選ぶのに苦労するのだが、細川嬢はともかく魅力的な方なので、目を付けられるのも仕方がないというか、そりゃご本人にとってはメイワクなことだろうからあまり何がどうとは言いにくいのだが、世の男ども、それだけに注目してんじゃねえよと腹立たしくなるというか、まあ、そういうことなのである。いや、私はと言えばもちろん細川嬢はもう素晴らしい女性であって、どこがどうと問われればそれはもちろん心身両面にわたってであって、誓ってそれだけに注目してしているわけではないのだが、それにも注目してるのかと問い詰められたならば、注目してると言うのもしてないと言うのもどちらであっても失礼な気がしてうまく答えられないのである(何のことやら分からん人は無視してください)。


 マンガ、夏目義徳『クロザクロ』4巻(小学館)。
 スグリとの戦いで、ついにザクロが実体化。これでやや停滞気味だった展開がよい方向に展開していくのかなあと期待していたのだが、またもやハンター同志の内輪もめで、主人公の幹人君は置いてきぼりになってしまった。
 なんだかねえ、幹人の「人間に戻りたい」って意志があまり強く感じられなくなってるって言うか、もうこのまま傀牙(オーガ)になったって別に構わないんじゃない? みたいなどうでもいい感じになってるからねえ。それくらいすっかり影が薄くなっちゃってるんである。
 脇キャラをたくさん出して人気を取ろうってことなんだろうけれど、あまり魅力のないキャラをポンポン出したって、話が散漫になるばかりである。ゴスロリキャラを二人も出してどうするかね。物語の展開上は御行と萩が入れば充分なのである。
そもそも夏目さんは絵に華があるほうではない。つか、ハッキリと「地味」なのである。同じように絵に華のないマンガ家と言えば、『寄生獣』の岩明均が思い浮かぶが、岩明さんみたいに、絵はまあアレでも、ドラマの面白さがあれば読者を引っ張っていくことは可能なだ。つか、そうしていかないと、お客さんはすぐに飽きてしまうだろう。
 そのことは多分作者自身、痛感してることだと思うのだけれど、3巻、4巻の迷走ぶりは、作者がどんどんドツボにはまっていきつつあるように見えて、不安なのである。
 ハンターたちの「白爪」グループと「黒棘」グループのネーミングが、それぞれ春の七草と秋の七草になってるので、今の「ハンター内輪もめ編」ではキャラがいきなり14人も出て来る計算になるのだが(黒棘は今巻ではまだ三人)、いくらなんでもこんな短期間にそれだけキャラを出すのはちょっとやりすぎである。本当は、霞谷七人衆とか八犬士とか009とか、そのへんの数がいいとこだろう。本筋の話じゃないんだから。
一巻目のころの面白さが急速に落ちてってるのはちょっと残念。

2004年07月21日(水) 座敷わらしの末裔
2003年07月21日(月) うらんでやるわああああっ(^o^)/映画『星空のマリオネット』/『花の高2トリオ 初恋時代』
2002年07月21日(日) アニソンしか歌えないわけじゃないけど/DVD『千と千尋の神隠し』/『吼えろペン』5巻(島本和彦)ほか
2001年07月21日(土) やたら長長文になっちゃいました。すみません/『裏モノ見聞録』(唐沢俊一)ほか


2005年07月20日(水) 人生ホリエモン/『MORNING GIRL』(鯨統一郎)

 定時に退社、電車に乗ると、車内がずいぶん空いている。
 どうしてかなあ、と首をひねっていたが、「学生の数が少ないのだ」ということに気づいた。小・中・高校生は今日が終業式で、午前中で帰ってしまっているのである。
 今年が初めての電車通勤であるから、こういう「変化」にも当然初めて気づいたわけで、他愛無いことではあるが何だか新鮮である。
 それでも何人かは高校生は乗っていて、その会話が何となく聞こえてきた。
 「お前、『アベノ商店街』って知ってる?」
 「聞いたことあるような気はするけど」
 「ダメだな、そこで『ガイナックスの?』って答えなきゃ」
 もちろんそこで「『アベノ商店街』じゃなくて『アベノ橋魔法商店街』だよ」なんて野暮なツッコミはしないのである。オトナになったなあ(←コドモでも見ず知らずの人にそんな突っ込み入れたらアレだと思われます)。

 車内広告で、『仮面ライダー響鬼』の細川茂樹&渋江譲二さんが三井グリーンランドまでトーク・ショーに来られることを知る。期日が8月14日で、盆のど真ん中なのだが、入場無料だし、ちょっと行ってみたい。ただ、PPPのメンバーを誘っても興味を示してくれそうなのがカトウ君とよしひと嬢くらいしかいないのである。いまいち盛り上がらないかもしれない(笑)。
 最近カトウ君は鬱が続いてるし、こういうのを気晴らしにしてくれたらいいんだが、スケジュールはどうかね? メール読むのも苦しそうだからこうして日記に書いてるけど、更新が長いことなかったし、まだ読んでくれてるかなあ。


 しげは夕方から映画『アイランド』の試写会で、中洲の明治安田生命ホールへ。しげが試写会に行くとは珍しいことだが、別に自分からハガキを送ったわけではない。私の同僚が三枚当たったので、そのうち一枚を分けてもらったのである。しげはユアン・マクレガーが結構好きなので、渡りに船であった。
 映画が終わったころに待ち合わせの約束をしたので、その間、私は時間つぶしに博多駅・天神をウロウロする。っつても寄ってるとこは全部本屋だ。色気がないこと極まりないが、あっても困るな。
 博多駅の「GAMERS」「紀伊国屋」、地下鉄で天神に移動して「福家書店」「紀伊国屋」「ジュンク堂」。これだけ回れば、買い控えしているつもりでもついついあの本この本と手が伸びて、自然、鞄の中は本でギュウ詰めになる。
 今回は、マンガも買ったが、主に活字本を10冊くらい買いこんだ。これだけ買っても、読むスピードだけは昔と変わらず早いので、一週間くらいで読みきれる。若いときに速読の修行はしておくものだと内心自画自賛。これで、日記に読んだ本の感想を全部書ければいいのだが、そこまでの時間は捻出できない。この日記はマンガと映画を優先してるので、そこはどうにもしょうがないのである。

 ホールには9時に到着。外見は普通のビルなので、劇場入り口っぽいところはない。狭いロビーには階段とエレベーターしかなくて、そこからバラバラとお客さんが出てくるが、しげの姿は見えない。最初に出て来る客はエンド・クレジットが始まると同時に椅子を立った連中だ。しげも私も字幕は最後まで見るので、おおむね3分はタイムラグが生じる。案の定、しげはほぼ最後に出てきた。しかし会うなり、「はい」と手渡されたのはヤクルトの「タフマン」。
 「なんだこれ?」
 「主催がヤクルトだったんだよ。ほら、書いてあるっしょ? 『いい男キャンペーン』って。だからあげる」
 上映の前に前説があって、そこで全員に配られたとか。軽く三百人くらいはいたと思うが、その殆どは女性である。なんか主催者と観客の感覚の間にズレがあるよ
うに思うが、まあ、貰えるものは何でも貰うのである。

 晩飯は近所の「カレーハウスCoCo壱番屋」で。夏カレーということで、「ニラもやしと挽肉の旨辛カレー」を注文。あまりココイチのカレーは好みではないのだが、これはモヤシがシャキシャキしていて、適度にあまりコクのないルーが滲みていて、なかなか美味かった。



 実は私は、一時期、毎年リニューアルされるタカラの「人生ゲーム」を追っかけて、十作くらい買い続けていた時期があった。
 「人生ゲーム」についての解説は要らないと思うが、バージョンアレンジで様々な「人生ゲーム」が発売されていることを知らない人は意外に多い。イラストレーターを変え、設定を変え、人生の目標も単に大金持ちになるだけじゃなくて暗黒街に君臨したりスーパーヒーローになったり千変万化、驚きかつ大笑いの、老若男女が楽しめる趣向で次から次へ、時には一年間に数作のハイペースで発売されていたのである。それが面白くて十年くらい前になるが新作が出るたびに購入していたのである。けれど、あまりに種類が多いので、トテモ追いかけきれずに止めてしまった。
 だいたいアレを買って一緒にゲームをするったって、相手はしげしかいないのである。アレは四、五人いないとなかなか楽しめないもので、しげと二人だけでやっててもだんだん寂しい気持ちにとらわれていくのだ。なんたってしげの性格は基本的にバクチウチで、ハイリスク・ハイリターンが好み、おかげでしょっちゅう破産して貧乏農場に送られるハメになるのである。そのあとイライラするしげをなだめなきゃならないんだから遊びが遊びにならない。島本和彦のマンガそのまんまである。かと言って、「人生ゲームやろうよ」って、んなことで友達や知り合いは誘えないしなあ。
 ところが、今度九月に発売される予定の「人生ゲーム M&A」(なんとシリーズ37作目)、監修にあのホリエモンが参加するんだって(すまねえ、本名、何て言ったか忘れた)。内容は会社を興し、経営者となったプレーヤーが合併や買収などを経て、企業価値を高めていくというイカニモなものなのだが、その金額の単位が桁外れなのである。
十億、百億冊どころか、一兆円札まである。そんなんで遊んでも、所詮はフィクションなんだから、ちとやり過ぎって気はしないでもない。「成功して億稼ぐなんて簡単ですよ」なんてサラリと言っちゃってるホリエモンの顔を思い浮かべると、なんかハラが立ってくるし、現実に立ち返ったときに、かえって空しい気分に苛まれちゃうヒトもいるんじゃないかという危惧もありはする。けれど、話題性はもうこれまでのシリーズ中でも抜群なのは間違いないのだ。
 少なくともこれが子供をターゲットにしてはいないということは明白で(つか、もう何十年も前から「人生ゲーム」シリーズは子供を置いてけぼりにしているんですよ、そこの奥さん旦那さん)、だからこそ私はこれが究極の人生ゲームになるかもしれないという期待もしてしまうのである。久しぶりに購買欲をそそられる作品に出会えたのだ。これは仮に「買ったままやらないで置いとく」ことになっても、記念に買っとかなきゃならんのじゃないかという強迫観念に捉われかけているのだ。
 しかもイラストは『新しい単位』『毛髪川柳』の五月女ケイコさんである(東京まで、シティボーイズの舞台に客演してるのを見に行きまでしたってのに、今の今まで読み方を勘違いしてました。「サツキメ」じゃなくて「ソオトメ」さんとお読みするのですね。すみません)。こりゃもう買わいでかってなものなのだが、先述した通り、買ってもうちには一緒に遊ぶ相手がいないのである。誰かうちに遊びに来ませんか。狭いけど。


 グータロウ君の日記で、私の昨日の日記について「差し障りがある」と書かれてしまったので一言。
多分、これから先、何か困っちゃうような事態に発展はしないので、そんなに心配はいらないよ。アレに関しては「厳しく批判してくれ」って頼まれたからやったんで、あえて敵を作るためじゃないのだ。別に私が縁を切ったわけじゃないし、多分いろんな会合でこれからもドッグさんとは会うし。批評は批評。ドッグさんはそのあたりのリクツが分からない人ではないよ。妙な憶測はドッグさんに対して失礼だ。
 あの書き方じゃ、私が誰彼なしに喧嘩売ってるように見えちゃうが、温厚で人当たりがよくって人の悪口なんか滅多に言わないというのが、普段の私に対する職場での上司・同僚の評価なのである。職場にいるときゃ、映画や芝居に関する感想ですら、辛辣な表現は避けてるんだからねえ。猫かぶるときはかぶってバレないように生活してるんだから、破滅の道を歩んでるような誤解はしないようにね。
 私信だな、こりゃ。


 マンガも読んだが、最近はその感想は書いても小説の感想はなかなか書けなくなっているので、前述したことと矛盾はしてるが、今日はたまには小説もということで。
 いやね、もう一つ小説の感想が書きにくい理由を挙げるとね、読む本がミステリーやSFに偏ってるんで、ネタバレしないように書くのってムツカシイのよ。

 鯨統一郎『MORNING GIRL』(原書房)。
 タイトルは多分、ショーン・キャシディ(『刑事コロンボ』ファンの私には俳優ジャック・キャシディの息子としての印象の方が強い)のデビュー曲『素敵なモーニング・ガール』から取られているのだろう。「モーニング娘。」の方ではないと思う。ウンチク好きのこの作者にしては、そのあたりの説明が作中にないのが首をひねるところである。
 どうしようもない駄作も多いこの作者の新作をどうしても追いかけてしまうのは、やはりデビュー作『邪馬台国はどこですか?』の印象が鮮烈だったからである。荒唐無稽に聞こえる論理のアクロバットの向こうに、「もしかしたら一抹の真実が含まれているかも」と感じさせるものがあって、それがあの連作ミステリの魅力になっていた。
 だから、「人はどうして眠るのか?」という、生命の根源について問いかけていると言ってもいいこの謎に、いったいどんな解答を出してくれるのか、ワクワクしながら読み進めていったのだ。
 ところが本作はミステリではなかった。未来宇宙を舞台にしたSFとして書かれていた。SFとミステリは本来別の手法によって成り立っているものだが、この背反するように見える二者を見事に融合させている作品は決して少なくはない。鼻祖アシモフの『鋼鉄都市』は言うまでもなく、本邦の『キッズ・ピストルズ』シリーズや『バルーン・タウン』シリーズは充分成功例と言えるだろう。
 ある一定のSF設定・法則が仮構され、そのワク内においてのみトリックが成立するときにSFとミステリは美しいランデブーを果たす。では『MORNING GIRL』はどうであったか。いきなり決め付けてしまうが、残念ながら、本作もまた鯨作品の駄作群にまた一つ名を連ねる結果になってしまっている。
 本作がSFとして描かれたのは、リアルなミステリとしては結局「眠り」の謎を解明することが不可能だったためなのだな、と断定せざるをえない。すなわち、「SFなら何でもアリだな」という「逃げ」を売っているのである。実際、1/3も読み進めないうちにネタはすぐに割れる。かなり鈍感な人でも、主役の二人、スティーヴとダイアンの間に生まれた子供の「名前」を聞いた時点で、「ああ、これもアレネタだったんだな」と気づくだろう。
……なんかもうね、「もう止めて」って言いたいくらい、使い古されたネタなのね。客ナメてるだろ、鯨! 鯨さんがこの場にいたら、そう罵倒して、スリッパでアタマをパシーン! とひっぱたいてやりたくなるくらい、陳腐なのである。
 「小説は文庫で買う」がモットーな私だが、およそ「原書房」という、有名とまでは言えない出版社から発行されている本作、どこかの出版社に買い取られて文庫になるまでには時間がかかるだろうなと、思い切ってハードカバーで買ってしまったが、1600円をドブに捨てた気分である。もう、ここいらでやっつけ仕事はやめて、鯨さんにはもちっとマシなミステリを書いてほしいんだけど、もう才能が枯渇しちゃったのかなあ。いくらなんでもちょっと早すぎるよなあ。
 しかし、「人類がどんどん眠らなくなっていく」って言っても、身体的影響がなけりゃ特に問題にしなかったり、喜ぶ人もある程度の割合でいそうな気はするけどなあ。少なくとも私は本が読めるようになるから絶対喜ぶ。
 政府は民衆がパニックにならないように、ウソでも「睡眠時間がゼロになっても問題はありません」と情報操作しようとすると思う。政府に委嘱された研究チームがやたら「眠りがゼロになれば人間は死に至る」という決めつけを繰り返しているところがまず、設定にリアリティを感じられないのである。

2004年07月20日(火) 湯浅憲明監督、死去
2003年07月20日(日) もう今更ロリコン犯罪にも驚かないし/『バジリスク 甲賀忍法帖』1巻(山田風太郎・せがわまさき)ほか
2002年07月20日(土) 漫画映画復活!/映画『猫の恩返し』/『ああ探偵事務所』1巻(関崎俊三)/『美女で野獣』1巻(イダタツヒコ)ほか
2001年07月20日(金) 一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』


2005年07月19日(火) 明日更新できるかどうかは分からない/『サーティーガール』1・2巻(岩崎つばさ・カワイシンゴ)

 さてまた、1ヶ月ほど間が空いてしまったが、まあ、いろいろ忙しかったりバテテたりしていたのである。その間の事情については、更新できたらします。
 でも、映画や演劇やマンガの感想書いてたらキリがなさそうだな(笑)。
 洋画の話題作では『バットマン・ビギンズ』がドンデン返しが利いててまあまあだったくらいで、『宇宙戦争』は原作の精神壊しちゃってて骨がねえし、『スター・ウォーズ シスの復讐』は「所詮は痴話喧嘩かよっ!」てな感じで卑俗だし、予測通りではあったけれども今のハリウッド映画じゃ金掛けたってこの程度のウス味のものしか作れない。だったら『さよならさよならハリウッド』のウッディ・アレンみたいに小粒の秀作を量産してほしいもんだ。
 逆に日本映画は一般の評価は低かろうと、『逆境ナイン』『姑獲鳥の夏』、ともに面白かった。『逆境』はマンガの面白さを実写に移すことには決して成功はしていないけれども、単体としてよくまとまってるし、なにより藤岡弘、がいい(笑)。『姑獲鳥』は、映像化不可能なトリックをある趣向で一応はクリアしている。ただ、それに気づかない一般客の方が多いんじゃないかとは思うが(笑)。一番ツボにハマッたのは『イン・ザ・プール』。伊良部一郎の胡散臭さは、テレビ版の阿部寛よりより松尾スズキの方がずっといい。もっとも出番が主役って言ってるワリにすごく少なかったけど。『電車男』は部分的に映像の面白さが目立つくらいで、話自体は他愛無い。でもだから「総オタク化」が進みつつある現代人には受けてんだろうな。
 あ、でも『戦国自衛隊1549』はやっぱりSFファンには薦めません。福井晴敏の原作は読んでないけど、映画はお話そのものがもう矛盾ありまくりで正視に耐えない。役者もいい役者さんすらヘタクソに見えるのはどうしてくれるってなくらいで。
 芝居は寺山修司の『奴婢訓』の再演がやっぱりショッキングだった。これだけのものが20年前に作られてるんだから、現代の演劇人はもっと自己反省して頑張らないとね。テレビで見た演劇ではラーメンズの『アリス』が意欲的でしかも面白かった。見てない人には何のことだかわかんないだろうが、「風が吹いたら桶屋がボーカル」ってギャグがもうツボにハマッてよう(笑)。
 えーっと、語り忘れはないかどうか。
マンガと小説に関してはもう読んだのが半端な量じゃないんでパス(涙)。『蟲師』や『デスノート』の新刊についても書いときたかったんだけどね。


 このところしげはずっと、「エコロジーな缶詰ワールド」(ラクーンドッグさん主宰の劇団である)関係でモメていて、一緒に続けるか辞めるかとか、ゴタゴタしたあげく、ついに昨日、ケンカ別れのような形で正式に辞めてしまった。
 その間の事情については、私は殆どしげからしか聞いていない。一方的な主張だけを聞かされているわけだから、どうしたってドッグさんの方がワルモノになってしまう。聞いてるだけだとあまりにドッグさんが理不尽な行動を取っているようにしか聞こえない(つか、社会生活が営めているとはとても思えない)ので、逆にしげの言葉の信憑性が疑われてしまうのだ。これではとてもどちらがいいの悪いのって客観的な判断はしかねる。
 演劇関係者なんてものは根拠のないプライドだけは高いものだから、所詮はどっちもどっちってとこなのだろう。少なくともしげにトラブルを回避しようとする意志と判断力が欠けていたことは事実だ。本人は冷静なつもりでも、感情を優先させた言動を繰り返していたことは話を聞いただけで分かる。しげはすぐに「言葉が通じない相手」とドッグさんを非難するが、だいたい、「コトバは相手に通じるものだ」という幻想に囚われている時点で、演劇人としては失格ではないか。
 結局はお互いのコトバがすれ違いまくったのが原因なのだなということがしげのこの発言から理解ができる。

 言葉とは自分の意志を伝える手段ではなく、相手の意識をある方向に誘導するための手段である。あるいは、自分の言葉が相手にどう受け取られるかを見て取ることで、お互いの「文化」としての「言語フィールド」を確認するための手段である。間違っても、「話しあえばいつかは理解しあえる」なんて考えちゃいけない。
 その人の言葉はその人のこれまでの生活環境、経験によって培われた独自のものであるから、実は自分以外の人間には全く通じない。それが「通じている」ように錯覚するのは、表現上、「コトバのカタチ」が共通しているからにすぎない。自分の使う言葉の概念が相手のそれと一致しているわけではないということを常に自覚し、相手の言語フィールドがいかようなものであるかを類推し、自らのフィールドも相手に類推させるようにして喋らないと、そもそも会話というものは成立しないのだが、その自覚のない人間がいかに増えていることか(最近の「言葉の乱れ」の原因はこの点にある)。一つの言葉が、相手によっては「傲慢」と「謙虚」、全く逆に受け取られることだってあるのだが、イマドキの若い人は、“そんなことも知らない”。

 ドッグさんの芝居を見てみると、ひとりよがりで自家撞着な表現が続出していて、「ああ、この人も言葉に対する自覚がないのだなあ」ということが見て取れるのだが、こういう人がコミュニケーション不全のしげと会話を成立させることは至難なわざだろう。自分の方にも表現の不手際がどれほどあるか、具体的には理解できていないに違いない。逆にしげとの会話の中で「自分の言葉がいかに無力であるか」ということに気づければ、もちょっとマシな芝居が書けるようになるんじゃないかと期待してたんだけど。
 福岡の演劇ウェブサイとなどをいくつか見てみると、ドッグさんの芝居、とんでもなく酷評を食らっている。ウチの劇団への批判などかわいいくらいのものなのだが、その原因がどこにあるか、表面的な演技力不足に起因する程度にしかドッグさんは考えていないのではないか。それどころか「演劇の基本が理解できていない」ほどのテイタラクなのだが、自らの謙虚さが高慢に受け取られる可能性だってあることに理解が至らない状態が続くのであれば、今後もマトモな芝居は書けまい。残念ながらそこまでのスキルをドッグさんに求めるのはムリだったようである。別に演劇人でなければそこまでのスキルは必要ないんだけどね。
 こういう言葉についての「常識」も、昔はいちいち口にする必要がなかったんだけどなあ。


 連休前に仕事がひと段落着いたので、出勤してても精神的には結構ラク。
 仕事の合間に時間もできたので、東京のグータロウ君ともメールのやりとり。私の携帯はもちろん私の私物ではあるのだが、しげには全て内容をチェックされている。そのことを書いて送ったら、グータロウ君は驚いていた。あちらのご家庭では、奥さんはいちいちそんなことはされないらしい(つか、それが普通だよな)。
 だいたい、メールの内容をいちいち心配するというのは「浮気性な男」を夫に持った妻だけだと思うのだが、私のどこをどう見たらそれに該当するというのか。それに私が本当に浮気をするのであれば、もう一つ携帯を使って、しげに見つからないところに隠しておく。けれど、そんなめんどくさいことまでして浮気したがる性格かどうか、私を見ていれば分かりそうなものだ。
 つかよー、お前とつきあってるだけで精神的にも肉体的にも疲労しまくりだってのに、なんでさらに疲れるような人間関係をさらに構築せにゃあならんのか。俺は「浮気で癒される」なんて幻想を信じられるほど落ちちゃいねーぞ。
 そのへん、納得できないあたりもしげのココロが壊れている証拠なのである。


 マンガ、岩崎つばさ・カワイシンゴ『サーティーガール』1・2巻(白泉社)。
 日立のオール電化キャラクターが人気を呼んでのコミック化。ちょっとは広告マンガも入ってるが、殆どは“突撃爆走主婦”湯神リリコ(30歳)と、人語を喋れてパソコンも自由自在のスーパーキャット・ジョーズ、そして湯神家のゆかいな人々およびご町内のみなさんのドタバタを描いたギャグマンガだ。
 登場人物がやたら多くて、思いっきり丸っこいアニメ絵なもので、パッと見、キャラクターの区別がつきにくいのだが、何度か読み返していくと、猪突猛進でオトコマエな湯神家のヨメ・リリコに、猛烈にお喋りで家事能力ナシの長女・加奈子、しっかりものだけれど食い気爆発の次女・奈緒子など、個々のキャラクターの区別がついて面白くなってくる。
 ジョーズが喋れることはリリコだけのヒミツなのだが、実はパソコンを介して奈緒子とジョーズがマブダチになっているのが笑える。リリコは小学校の教師だったのだが、教頭とトラブって辞職、今は専業主婦の生活。家計を助けようとネットでイラスト販売をしようとしたジョーズとリリコが大喧嘩したことなどもジョーズは奈緒子に愚痴るのだが、まさかそれが自分ちの飼いネコと義理の姉のことだとは想像もつかないのだね(当たり前だ)。同棲中のカップルだと思っているのである。ついに家出したジョーズの告白に、奈緒子は「そんな女とは別れろよ!」と頭をかきむしるのだが、だからそれはキミの義姉なんだったば(笑)。
 このあたりのエピソードが面白いのは、ちょっとSFっぽくなってることもある。家出して、野良ネコの群れに取り囲まれたジョーズを助けるために飛び込んでいったリリコに、じょーずを触媒にして、突然、猫語が理解できるようになるのだ。この設定がさらに展開していったら、広告マンガ初のSF大河ドラマになりゃしないかとちょっと期待したのだが、すぐに普通のご近所ドタバタマンガに戻りました。ま、そりゃそうだわな。
 でも、まっすぐで凛々しくて、、天に代わりて不義を打つ(笑)リリコさんの活躍を読んでるだけでも清々しい。こういうマンガならまさにテレビアニメに向いてると思うんだが、日立以外のスポンサー、付けようがないからかえって難しいかもなあ。

2004年07月19日(月) 脳髄のとろけた女
2003年07月19日(土) 水害という名の人災/DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX/笑い男編』
2002年07月19日(金) 踊る大脂肪/映画『MIB�供戞拭悒錺ぅ蛭如”�雲児たち』3・4・5巻(みなもと太郎)ほか
2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)