無責任賛歌
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| 2006年11月30日(木) |
実相寺昭雄氏、死去/映画『ヅラ刑事(ヅラデカ)』 |
まずは訃報から。 以下の二つの記事を比較してみたいと思う。
【讀賣新聞】 > 「ウルトラマン」演出、実相寺昭雄さん死去 > テレビ番組「ウルトラマン」シリーズや映画「帝都物語」で知られる映画監督で演出家の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが、29日午後11時45分、胃がんのため死去した。69歳。 > 告別式は12月2日午前10時30分から、東京都文京区湯島4の1の8麟祥院で。喪主は妻で女優の原知佐子(はら・ちさこ)さん。 > 東京都生まれ。早稲田大学卒業後、1959年、東京放送(TBS)に入社。66年の「ウルトラマン」をはじめ、「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などの特撮ドラマを演出し、69年の短編「宵闇せまれば」で映画を初監督。翌年同社を退社後、長編第1作の「無常」を手がけ、映画「曼陀羅(まんだら)」「あさき夢みし」などで、日本的な精神風土に迫る作品を撮った。 - 11月30日13時31分更新
【毎日新聞】 > <訃報>実相寺昭雄さん69歳=映画監督 ( - 11月30日 10:40) > 「ウルトラマン」「帝都物語」などで知られる映画監督の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが29日午後11時45分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。69歳。葬儀は12月2日午前10時半、文京区湯島4の1の8の麟祥院。自宅は非公表。喪主は妻で女優の原知佐子(はら・ちさこ=本名・実相寺知佐子)さん。 > 早稲田大卒業後、1959年、ラジオ東京(現TBS)に入社し、ドラマの演出をへて映画部に転属。「ウルトラマン」「ウルトラセブン」などの演出を手がけ、69年「宵闇せまれば」で映画監督デビュー。TBS退社後、「無常」「あさき夢みし」など、実験的作品を発表した。陰影を強調した奇抜な構図や、エロチシズムを追求した作品で、根強い人気を獲得した。 > 88年「帝都物語」、98年「D坂の殺人事件」、05年「姑獲鳥(うぶめ)の夏」などの小説の映画化や、「アリエッタ」「ラ・ヴァルス」などエロチシズムを描いた作品を精力的に監督。夏目漱石の小説が原作のオムニバス映画「ユメ十夜」の一編、自身が演出したテレビ番組を映画化した「シルバー假面(かめん)」を監督し、公開予定だった。 > 舞台やオペラの演出、「ウルトラマンのできるまで」などの著作も多数。東京芸術大学名誉教授。
一見して、毎日新聞の方が実相寺監督の業績を簡にして疎なく、まとめている。 毎日は、舞台やオペラの演出をされていたことにまで触れているが、近年、映画以上に実相寺さんが舞台に傾注していたことを思えば、愛に溢れた記述と言ってもよい。 それに比べて、「讀賣」の味気なさは何なのか。 いったい、「記事の書き手は実相寺さんの何を見ているのか」と怒りを覚えるほどだ。 「日本的な精神風土に迫る作品を撮った」というのは、ありふれた表現で、しかも的確とは言いがたい。批評の言葉としては、浅薄過ぎると言ってもいいだろう。 『歌』や『曼荼羅』、『あさき夢見し』と言ったATGでの一連の作品、果たしてそれらをそういう大雑把なくくりで捉えていいものかどうか、という疑問が湧いてくる。
「大雑把」と言うなら、「毎日」も同様ではあるが、「陰影を強調した奇抜な構図や、エロチシズムを追求した作品で、根強い人気を獲得した」の方が、まだ具体的に映像の特徴を捉えていると言えるだろう。 映像の意味・解釈などは、観客が勝手に想像すればいいことで、最初から「説明」してしまっている「讀賣」の記事は、ほとんど記事とは言えない言葉の羅列に過ぎなくなっているのだ。
讀賣から毎日に乗り換えようか(苦笑)。
「実相寺昭雄」の名前をいつごろから意識し始めたのかはよく分からない。 『ウルトラマン』本放送時の私は3歳。とてもじゃないが、各輪演出のスタッフの名前までは知りようもない。「円谷英二」だって、「エンタニエイジ」と読んでいたのだ(私は早熟だったので、3歳でも漢字は読めていた)。 多分、『ウルトラシリーズ』でも、いささか毛色の変わった作品ばかりを集めた総集編版ウルトラマン、『故郷は地球』(ジャミラ)や『空の贈り物』(スカイドン)、『怪獣墓場』(シーボーズ)などの回が、同じ監督の手になるものだと知ったころだから、10代の半ばくらいだろう。
正直、それらのエピソードは通常のイメージの怪獣ものとはあまりにイメージがかけ離れていて、当時の私にはつまらないとすら感じられていた。 もちろん、今見返せば、怪獣ものの衣装を借りた優れた風刺SFとして評価できるのだが、私は円谷一監督作品に代表される、もっぱら正統的な怪獣対決ものにのみ狂喜していたのである。 ただ重いだけでぶかこっうなスカイドンや、寂しくて地面を蹴ってすっころげるシーボーズなどは、怪獣の風上にも置けない失敗作としか思えなかった。 当時の実相寺作品で私が唯一好きだったと言えるのは、『ウルトラセブン』の『狙われた街』(メトロン星人)のみだろう。これは、ウルトラマンの生みの親、金城哲夫と実相寺昭雄が唯一組んだ作品である。 昨年の『ウルトラマンマックス』の「狙われない街」で、メトロン星人を再登場させたのは、実相寺さんの金城さんへのオマージュもあったのかもしれない。
結局、私が実相寺昭雄作品に目を開かされるのは、『怪奇大作戦』の再放送(本放送時は、やはり子どもだったのでコワくてマトモに見られなかった)を待つことになる。 『恐怖の電話』では初めて桜井浩子女史の美しさにクラクラし、『京都買います』では岸田森のペシミズムに酔い痴れた。
岸田森演じる牧史郎の持っているあの暗い影の正体は何なのだろう。 紫煙をくゆらせ、京都の街を彷徨する彼はその煙よりも実態がないように見える。 謎を追い、解き明かし、真実を追い求めながら、かの「探偵」は、まるで浮き草か幽霊のように街に翻弄されて、女の変貌した仏像に恐怖し、遁走する。 そうだ。彼は「遁走者」としてあの街の中にいたのだ。 牧史郎ばかりではない。 実相寺作品の登場人物たちは、誰も彼もが真実に向き合おうとしながら、どこか逃げ腰だ。『姑獲鳥の夏』の探偵たちは、京極堂も榎木津も関口も、恐らくは真相にとうに気付いていながら、その解決を導き出すのに不必要な手間ばかりをかける。 原作がもとからそうなのだとも言えるが、霞の中に漂うように屹立する久遠寺家の描写は、現実を映し出そうとする監督のそれではない。当然、徘徊する登場人物たちも、現実・真実に相対する存在としてそこにいるのだ。
ヘビースモーカーである実相寺監督は、その紫煙で我々を煙に巻くように、非現実で不条理な世界を描き続けていく。にもかかわらず、その世界で浮遊する人間たちは、非現実的でありながら極めて性的で生々しいのだ。 彼らはみな、自分の血が赤く熱いことを知っている。そしてその血の呪縛から逃れられないがゆえに、重苦しい「影」を背負わざるを得ない。
彼らの背負っている「影」は、彼らが生きている「街」に縛られ、その「街」から逃れようとし、逃れ切れずにもがいているがゆえにうまれてくるものなのだ。 後に実相寺作品が江戸川乱歩の世界に傾倒していくことになるのはごく自然な流れであったのかもしれない。探偵明智小五郎も、対峙する犯人たちも、さながら曼荼羅のように秩序と混沌を内包した「街」に精神を支配され翻弄された遁走者であったからである。 「犯罪」とは、『罪と罰』の例を挙げるまでもなく、この世界の不条理を、個人が咀嚼し超越することのできる唯一の手段だからだ。
そして、実相寺さんが常に仮装敵国として認識していたその「世界」は、その「街」とは、紛れもなく実相寺さんの生まれ故郷である「東京」であった。 その通り、実相寺作品は全て彼自身の『東京物語』なのである。 『京都買います』が京都を舞台にしていたのは、後の『帝都物語』へ至る伏線であったと言えよう。
東京はなぜ破壊されなければならなかったか。 東京が曼荼羅だからである。曼荼羅の持つ広大なエネルギーから、その呪縛から、開放されなければならなかったからである。
実相寺演出において、映像の中にしばしば夾雑物が置かれるのはなぜか。 伴奏曲としてクラシックが多用されるのはなぜか。 仙人然とした実相寺監督は、「カメラの切り返しがラクだ」とか「単に好きだから」と、観客の疑問をはぐらかすようなことを口にするが、そうではあるまい。 これはコントラプンクト(対位法)による世界の破壊と再生なのである。
そのようにして実相寺作品を観る時、それらはは「日本的な精神風土に迫る作品」程度のものではないことが見えてくる。 一連の実相寺作品は「ノアの箱舟」の物語であり、人間の再生神話なのだ。
20代を過ぎて、私はようやく大島渚らと組んだATGの一連の作品に出会った。 再び映画監督として脚光を浴びることになる『帝都物語』や『悪徳の栄え』にも魅せられた。まあ失敗作としか言えない『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』もまた、神話の物語であると微笑ましく見ることはできた。 『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』『姑獲鳥の夏』など一連のミステリーの最も斬新かつ上質な演出の手際に、この監督はいつまで経っても先鋭的なのだと感服した。
しかしそんな傑作群の中でも、一本を選ぶとしたら――。 私はやはり、『京都買います』を選ぶだろう。 実相寺昭雄の分身は、現実世界でも胡蝶を追い求め、幽冥の境に生きた岸田森しかいないのだから。
シネ・リーブル博多駅で、『ヅラ刑事(ヅラデカ)』を見る。 監督はご存知河崎実だが、監修は『日本以外全部沈没』に続いて実相寺昭雄。 偶然、追悼の意味を込めての映画鑑賞となった。
『ヅラ刑事(ヅラデカ)』 (2006年/提供:バップ/クロックワークス/エースデュースエンタテインメント/ツイン/ローソンチケット/オー・エル・エム/スカパー・ウェルシンク/リバートップ/トルネード・フィルム)
【スタッフ】 プロデューサー・脚本・監督 河崎実 監修 実相寺昭雄
【キャスト】 ヅラ刑事:モト冬樹/オヤジ刑事:加納良治/デカチン刑事:イジリー岡田/デブ刑事:ウガンダ・トラ/イケメン刑事:桐島優介/チビ刑事:なべやかん/トンコ:橋本まい/面堂啓介<ボス>:中野英雄/仁多博士:ドクター中松/友情出演:飯島愛/特別出演:さとう珠緒
【ストーリー】 明らかにヅラのため、犯人を不安な気にさせる。 そして必殺技はヅラを投げつける「モト・ヅラッガー」! 東京でもっとも猥雑な街・新宿の花曲署の刑事たちは、独特のキャラクター揃い。 ヅラを投げる必殺技を持つヅラ刑事(モト・冬樹)、並外れたチンチンを持つデカチン刑事(イジリー岡田)。さらにデブ・チビ・オヤジ・イケメンと、様々な個性の刑事たちがいる。 一見マイナス要素の男たちだが、彼らは捜査になると素晴らしい力を発揮するのだ。 彼らを統率するのは沈着冷静な捜査一係長・面堂(中野英雄)。これから一癖も二癖もあるどころか、全身癖のクレイジーな刑事たちの大活躍が始まる!!
もちろん南郷勇一も登場(笑)。 全編馬鹿映画なのは言うまでもないが、モトさんが決しておちゃらけた芝居をせずに、ヅラを投げるにしろ真剣に演じているのが素晴らしい。馬鹿馬鹿しいと言うのなら、没羽箭張清も銭形平次も荒唐無稽なのだ。 ハゲをからかうギャグはベタで、使い古されていると批判する向きもあるかもしれない。けれども、ちょっと考えていただきたい。人類がハゲを気にするようになったのは、いったいいつのころからなのか。
エジプトのミイラの中には、かつらをかぶっているものも発見されているということである。本邦においても、九世紀ごろ、延喜の治、醍醐天皇の御代に既にかつらの記録があると言う。 人間の美醜の感覚が国や時代によって変化するのは当然だが、「ハゲを気にする」感覚は、国家間、世代間を越えて、かなり人類に普遍的な悩みであると言えるのだ。
「はげちゃびんだけはイヤ!」と恋人に拒絶される若き日のヅラ刑事。 笑ってしまうが、そんな馬鹿げた理由で彼氏を振ったり、そもそも告られても相手にしない女性は、結構大多数なのではなかろうか。 となれば、ヅラ刑事の苦悩は、我々みんなの苦悩なのである。ハゲをおちょくるギャグが古くなることはない、と断定していいだろう。 自分が老人になるとは想像もしていない若い観客、A級映画しか見ないと称するヒョーロンカ、笑わば笑え。この「何でもあり」な精神こそが映画を作る原動力になるのである。
2002年11月30日(土) 大掃除Part2/CD『檸檬』(遊佐未森)/DVD『サイボーグ009 バトルアライブ9 〜審判〜』 2001年11月30日(金) 心臓止まってもDVD……バカ?/ドラマ『五辨の椿』第1回/DVD『ハレのちグゥ』3・4巻ほか 2000年11月30日(木) チラシ完成!/『未明の家』(篠田真由美)
| 2006年11月29日(水) |
オリジナルタイトルが意味ありげだけど/映画『トゥモロー・ワールド』 |
トゥモロー・ワールド Children of Men (2006年|イギリス、アメリカ|カラー|109分)
【スタッフ】 監督:アルフォンソ・キュアロン 製作:マーク・エイブラハム、エリック・ニューマン、ヒラリー・ショー、トニー・スミス 脚本:アルフォンソ・キュアロン、トーマス・A・ブリス 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 撮影:エマニュエル・ルベツキ 音楽:ジョン・タヴナー 【キャスト】 クライヴ・オーウェン ジュリアン・ムーア マイケル・ケイン キウェテル・イジョフォー チャーリー・ハナム クレア=ホープ・アシティー?
“ダルグリッシュ警視シリーズ”などで知られる英国を代表する女流ミステリ作家P・D・ジェイムズの『人類の子供たち』を「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロン監督が映画化した近未来SFサスペンス。子供が誕生しなくなった近未来の地球を舞台に、人類の未来を左右する一人の少女を巡る攻防に巻き込まれた主人公の運命をスリリングに描く。クライマックスの戦闘シーンでの長回しをはじめ技巧を駆使した臨場感あふれる映像表現が高く評価され、ヴェネチア国際映画祭ではオゼッラ賞(技術貢献賞)を獲得した。 西暦2027年、人類はすでに18年間も子供が誕生していなかった。原因は分からず、人類滅亡の時が刻一刻と迫っていた。希望を失った世界には暴力と無秩序が拡まっていた。こうした中、英国政府は国境を封鎖し不法入国者の徹底した取締りで辛うじて治安を維持していた。そんなある日、エネルギー省の官僚セオは、彼の元妻ジュリアン率いる反政府組織“FISH”に拉致される。ジュリアンの目的は、ある移民の少女を“ヒューマン・プロジェクト”という組織に引き渡すために必要な“通行証”を手に入れることだった。最初は拒否したものの、結局はジュリアンに協力するセオだったが…。
一見、SFである。 子どもが生まれなくなった近未来の世界、という設定は確かにSFでしかありえないが、その現象に理由が与えられない時点で、ドラマはSFではなく寓話としてしか機能しなくなる。 もちろん、SFが一種の寓話性を持っていることは事実であるが、未知の現象に対して科学的かつ具体的な理由が与えられず、そこから派生すべき事態の解決方法や未来への何らかの展望が示されない時点で、SFとしての面白さは消滅してしまう。 あとはこれ、宗教に逃げるしかないなあと思って見ていたら、案の定、そうなってしまった。 別にドラマ作りの面でそれがいけないというわけでもないが、だったらSF的な設定をわざわざ導入する必要もない。結局、ドラマ的な意匠としては『隠し砦の三悪人』やら『戦国野郎』の近未来版にしかなっさてはおらず、しかも地味だ。宗教的な色彩は、文化的な違いもあって、日本人である私にしてみれば、勝手に殉教者ごっこしてれば? でしかない。 原作のP.D.ジェイムズの小説とは全く違ったものになっているということであるが、SFが何なのかよく分かっていない連中に作らせると、こんな腑抜けた映画ができてしまうのである。『2001年宇宙の旅』の宗教性が、悪い方向に進んじゃったような映画であった。
こういう映画なら、日本人が脚色した方が、絶対面白いものになったろうなあ。
2002年11月29日(金) 再爆走�ァ織織ぅ爛好螢奪廝横粥殖達帖慍�かしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集』/『桃色サバス』4〜6巻(中津賢也)ほか 2001年11月29日(木) おトイレの音入れ。つまんないシャレですみません/『ほんの本棚』(いしいひさいち)/DVD『ゴジラの逆襲』ほか 2000年11月29日(水) オタクとは知性のことなり/アニメ『サウスパーク』5巻ほか
| 2006年11月28日(火) |
10分で書けるのはこの程度/舞台『黄昏〜On Golden Pond』 |
舞台『黄昏〜On Golden Pond』 メルパルクホール福岡(福岡市中央区薬院4-14-52)
【出演】八千草薫/賀来千香子、中村友也、飯田邦博、三浦浩一/長塚京三
【あらすじ】 ノーマン・セイアー・ジュニアは80歳を迎えようとしている。そして彼より10歳若い妻のエセル。今年もあのゴールデン・ポンドでひと夏を過ごすために訪れた。 ふたりにとって48回目の夏。しかし今年のゴールデン・ポンドはいつもと違っていた。 老いを意識したノーマンにとって・・・・・ たまに二人を訪れるのは、平穏な湖を守る郵便配達のチャーリー。彼はセイアー夫妻の娘チェルシーとの思い出を語るやさしい隣人でもある。 そこにノーマンと反発しあっていた娘のチェルシー・セイヤー・ウェインが訪れた。彼女のパートナー、ビル・レイと彼の子供ビリー・レイとともに。お互いに素直になれないノーマンとチェルシー。ふたりを温かく見守るエセル。チェルシーに淡き思いをつのるチャーリー。そして新しい家族のビル・レイ。 傷つけあい、いたわりあいながらも、家族の絆を探すひと夏。 ゴ−ルデン・ポンドの夕日は、老齢なふたりの人生をさらに輝かせる。
八千草薫という人は不思議な人だと思う。 ナマの姿を見ていても、どこか現実感がない。そこにナマの人間として存在しているような印象が希薄だ。 時折、八千草さんが口ずさむ「ゴールデン・ポンド」の歌。 これがその「希薄感」を弥増す。
体調不良で降板した杉浦直樹の代役となった長塚京三。 この人もどこかリアリティのある演技とは離れた芝居をされる人だ。 基本的に無表情で、声には抑揚がなく、それがやや記憶力の薄れた老人を演じるものだから、やはり何となく現実離れしている。 妖怪ぬらりひょんと言った風情だ。
この二人が組んでいるものだから、何となく舞台は不条理劇のムードすら漂う。 この二人、永遠に死なないんじゃないか(笑)。
現実的に考えれば、老境を描いたこの舞台、死を見据えた老人二人の悲壮感が伝わってきてもいいような気がするのだが、それが殆ど感じられない。 だとすれば失敗作と判断することもできるはずなのだが、不思議とつまらない芝居を見たという気がしない。 この二人は、黄金の湖のほとりで、永遠により沿って佇んでいるのだ。そんな理想郷を見せられているような気分になるのである。 これは杉浦直樹には出せなかった「長塚効果」なのかもしれない。
SGcafeでの映画は『69』。 遅れての参加だったが、その前は『猫目小僧』を見ていたのだそうな。 B級映画研究会らしくなってきたことである。
2005年11月28日(月) ミクシィの穴/映画『奇談(キダン)』 2004年11月28日(日) 「地雷」がいっぱい(^_^;) 2002年11月28日(木) 再爆走�ぁ新�をとっては/『恋愛出世絵巻 えん×むす』1巻(瀬口たかひろ)/『ウルトラマン画報』上巻 2001年11月28日(水) ひと月早いぞ誕生日/DVD『キカイダー01』第1巻/『マジンカイザー』2巻ほか 2000年11月28日(火) 〆切はゴムのように延びる(^o^)/『蟲師』1巻(漆原友紀)ほか
| 2006年11月27日(月) |
短編日記。普通はこれくらいの長さだよな(笑) |
終日雨。
SGdaigo氏より、忘年会のお誘いあり。 また、草莽の志士氏より、ワークショップ仲間で集って、公演をぶとうとの提案あり。
どちらも、予定は12月16日(土)。 しかも、その日は昼間、風間杜夫の落語独演会に行く予定。
どう調整をしたものか迷う。
時間がないので今日はこのへんで。
2005年11月27日(日) さりげなく復活。 2004年11月27日(土) お客が来ても樽の中。 2002年11月27日(水) 再爆走��/鬼が笑っちゃってひきつけ起こして寝る話/『燃えよペン』(島本和彦)ほか 2001年11月27日(火) 癒されたいの?(-_-;)/DVD『ウルトラQ』6・7巻/『ギャラクシー・クエスト』 2000年11月27日(月) 活字の本が読み進まない/『カスミ伝△(さんかく)』1巻(唐沢なをき)ほか
| 2006年11月26日(日) |
九州国立博物館開館一周年「『海の神々』 〜捧げられた宝物〜」展 |
昨日、久しぶりに亀の水槽を洗った。 水槽というよりは泥槽になってはいたが、もちろん泥の正体はこいつらの糞である。
掌サイズだったころの可愛らしさはどこへやら、今やこいつらは10センチを越えたデカガメに変貌してしまった。玄武と龍宮という名前を付けていたが、初めは大きさに差があって区別がつきやすかったのだが、今はどっちもどっちのでかさで、顔をよく見比べないと分かりにくくなっている。
こいつらが、エサを与えりゃ、あっという間に食い尽くし、小便と糞を怒涛のごとく垂れ流すのだ。 おかげで、水槽を洗って、小一時間も経たないうちに、水槽はもう白濁してしまっている。循環ポンプも屁の役にも立ちゃしない。つか、こいつら二匹で寄ってたかってポンプぶっ壊してくれるしよ、もっと上等で頑丈なやつを買わなきゃいけないじゃないか。
そんな状態だったので、一週間ごとに水槽を洗うのが面倒くさくなり、かなり長い間放置していたのだが、水がこれだけ汚くなっても、エサをしばらくやらずにおいても、こいつらはまるで平気の平左なのである。 元気が有り余っているかのように、何とか水槽から脱出しようと、敷き詰めた小石を掘ったり、立ち上がって壁をよじ登ろうと、バタバタ暴れまくっているのだ。生命力が強いドーブツに例えられるのも無理もないと思われる。こりゃ、川とかに捨てられた亀が生態系を壊すのも当然だろう。 人間よりずっと図太いわ、亀(笑)。
私が亀より先に死んだら、しげ。は躊躇なく亀を捨てるんだろうなあ。 しげ。の代わりに、いざというときは亀をもらってやってもいいよって方、いませんか?
> <核>「保有ノーだが議論は容認」が最多6割 毎日世論調査 > http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061127-00000006-mai-pol
> 毎日新聞は25、26日の世論調査で、自民党の中川昭一政調会長や麻生太郎外相らが提起した「核保有」議論についても尋ねた。その結果、核保有自体には約8割が反対する一方、議論に対しては「核保有すべきでないが、議論はしてもよい」との回答が最多の61%にのぼり、容認派が多数を占めた。 > (毎日新聞) - 11月27日3時5分更新
「世論」が知性と無関係であることは歴史が証明しているところであるが、その最大の特徴は、「先読みができない」点にある。 「世論」は常に近視眼的で目先の欲求しか見据えてはいず、10年のスパンでものを見ることすら不可能である。せいぜい半年か1年、先を見通すのが関の山で、実質、論というよりは直感に近い。 個人個人では深謀遠慮な人々も散見するというのに、総体としてはあまりものを考えているふうでもない烏合の衆となりはてるのは社会学的な研究対象の現象としては面白いかもしれないが、その中に身を置いている一員としては、いささか居心地が悪くなるのである。
このように書いているからと言って、私が核保有に賛成だとか、議論することに反対なのだとか、短絡的に判断しないで頂きたい。私は「世論は必ずしも論理的な思考に基づいてはいない」ことを指摘しているまでのことで、その内容の是非を判断することとはいったん、次元を異にして考えなければならないのである。
端的に言うと、まずもって大衆は「核保有」になぜ反対なのか、その理由について綿密に考えているわけではない。下手をすると、「かくをもっているといつかはばくはつしてきけんです」とか「かくみさいるはせんそうにつながってひとがしぬからもっちゃだめです」とか、甚だ幼稚な認識しか持っていない場合も多かろう。 第二点。「議論はしてもいい」と言うが前記のような殆ど直感でしかない認識力で、いったいどんな議論をしようというのか、具体的な内容を想定しているのだろうか。 議論というのは、自らの拠って立つ理論を明確にした上で、相手の反証も予め想定し、更にその反証も用意して、自説を主張するのでなければ成り立たない。「議論してもいい」と仰る方々がみな、その筋道を具体的かつ建設的に想定しているとは私にはとても見えないんだけど。 「話し合いは必要だ」という戦後民主主義的イデオロギーに盲目的かつ脊髄反射的に従っただけの、思考停止状態に陥った状態での発言ではないのか。
日本人の議論下手が始末に悪いのは、「やってみなけりゃ分からないじゃないか」と、往々にして議論をすっ飛ばして出たとこ勝負に走ってしまう傾向にあることで、結果として「やってみる前に分かりきっている結末」に陥ってしまう。 先の戦争が侵略戦争だったか自衛戦争だったか、そんなイデオロギーはどうでもいいが、戦略的に考えれば真珠湾攻撃の時点からミスだらけだったことは今や明白な事実である。幕末以来、薩摩と長州の単細胞に支配され続けてきた弊害が先の戦争でも如実に現れてしまったと見るのはあながち的外れではなかろう。
前置きが長くなったが、「核保有には反対だが議論はしてもいい」という、一見理性的に見える主張は、実態としては殆ど「何も考えていない」人たちによって口にされている、ということである。 もちろん熟慮の上でそう主張している人たちもいるだろうが、困ったことに両者の違いは結論だけは一致しているので、表面的には区別が付かないのである。 「ただ話し合えばいい」と口にするだけで、中身を考える力もない連中に「核」を持たせたら何を仕出かすか。それが怖いから、簡単に「核を持つことも想定して」とか「議論だけならしてもいいんじゃない?」とか、軽く口にはしたくないのである。
要するに「議論をすることに反対じゃないけど、その相手が馬鹿ばっかだったらどうするのよ」ということなのだ。「世論」は基本的に正邪の判断とは無関係だと認識する必要があるんだけれど、困ったことにある一定の「力」だけは持ってるんだよねえ。 「政治家」と呼ばれる人たちが本当にしなければならないことは、「世論」をある一定のレベルで尊重しつつ、自らは100年先の未来を見据えて、我ら愚民を意識誘導してとりあえずの平和と満足を与えてくれることなんだけれども、そんな技術を持ってないやつらばかりだからなあ。
先日の福岡市長選挙で落選した前市長・山崎広太郎が敗戦の弁をこう語っていた。 「私個人への反感を跳ね返せなかった」 個人的に嫌われてるって分かってるんだったら、選挙に出て無駄金使うなよ。それだって公費じゃねえか、と、やっぱり「やってみなけりゃ分からないじゃないか」で人工島だのオリンピックだのとぶち上げてきた単細胞はようやく退陣したのであった。 大衆レベルの政治家ばかりの国で、「議論」が果たして成立するのかってところから始めないといけなくなってるんじゃないかね。「世論調査」ってのは社会学的には意義のあることだけれど、一般人の政治論の判断材料として考慮するのは控えた方がいいのである。
今日は朝からかなり強い雨。 本当はしげ。と太宰府の九州国立博物館まで「開館一周年記念特別展 『海の神々』 〜捧げられた宝物〜」を見に行く予定だったのだが、例によって例のごとく、またしげ。が渋りだした。 しげ。はもともと、博物館や美術館の類にはたいして興味を持っていないので、自主映画撮影のロケをダシにして、むりやり連れ出すつもりだったのだが、それも雨天のせいでオシャカになった。 いったん、出かけるのを中止しようかとも思ったが、今回は“海の正倉院”沖ノ島の遺物が展示されるということで、ひとりで見に行くことにする。 それでも雨が上がる昼まで待ったんだけどねー。しげ。結局、てこでも動かないのであった。 「大橋までは送ってあげるよ」というありがたいお言葉を頂いて、西鉄大橋駅へ。途中、雨に降られることもなく、無事、太宰府に到着する。
以下、簡単に展覧会の内容と、感想などを。
「1章 海から生まれた神」 > 海人(アマ)あるいは海部(アマベ)と呼ばれた古代の海の民は、海に住む神霊を祭っていました。『古事記』・『日本書紀』(記紀)では、黄泉の国からもどったイザナギがミソギをした時にワタツミ(綿津見)神とツツノヲノ命が海から出現したといいます。ワタツミノ神は海人族の阿曇氏の氏神であり、ツツノヲノ命は住吉神とも呼ばれ、航海の守護神でもありました。
住吉神社の総本山は大阪だけれども、歴史は福岡の方が古い。 博多古地図が展示してあって、住吉神社が昔は海に面していたことが分かる。住吉神は記紀における「ツツノヲ三神」のことだが、この「ツツ」は「津々」のことではないかという説がある。 本来は「筒」の字を当てているから、これは「舟」の暗喩であり、海を女性に見立てれば当然これは「男性器」の象徴でもあろう。 沖の宗像三神が女性なら、港の住吉三神は男性だと考えるのが自然で、ここにも古代人の性の大らかさが表れていると思うのである。
「2章 海上の守り神」 > 海の民の中からは航海を生業とする人々も現れました。記紀では宗像三女神が航海の守護神として生まれました。海上交通の要衝にある沖ノ島や厳島は、島そのものを航海の神として祀られています。また灯台のように目印となる山も信仰の対象になりました。金比羅神はその代表でしょう。また、近世には宝船の絵とともに七福神が流行ります。恵比寿は鯛を抱えた姿で親しまれる漁業の神、弁財天も水辺に祀られ、ともに福運の神と崇められています。
「エビス」はもともと「異界の神」で、それが福をもたらすというのは、まさに「カーゴ・カルト(積荷信仰)」だ。 「海から来た神々」にはやっぱり渡来人のイメージがあったんだろう。というか、日本人のルーツはやはり海の彼方にあって、いわばかつての故郷を神格化し、憧憬を表したたものが全国の恵比寿信仰になったんだと思う。
「3章 海神の伝説」 > 伝説でよく知られているお話しが、浦島太郎と海幸彦・山幸彦の物語でしょう。記紀によれば、ヒコホホデミノ命(山幸彦)がシオヅツノ翁の助けによって海神の宮へ赴き、海神の娘トヨタマ姫と結婚します。そこで釣針と糸や塩満瓊と塩涸瓊を手に入れて、兄のホスソリノ命(海幸彦)を降伏させたのです。シオツツノ翁はツツノヲノ命と同じ神と考えられ、神功皇后の伝説でもツツノヲノ命が助力しています。
浦島太郎の本名は「住吉浦嶋子(スミノエノウラシマノコ)」。住吉神と同じものと考えてよい。 彼を龍宮に案内するのは亀だが、もともとの伝説では亀は乙姫そのものだった。 山幸彦を発見するのは海神の宮の乙女たち、神功皇后を朝鮮に誘うのは、妹のソラツノヒメノミコト。 「ソラツヒメ」は「虚空津比売」と書き、天空と海を繋ぐ壮大な名前を持っている。しかもその姿は裸形。「女」の原型的イメージがここにあると考えるのは穿ちすぎだろうか。 そもそも、渡海に「女性」が必要だったのはなぜなのだろう? 天孫ニニギノミコトの道案内はサルタヒコだが、彼に渡りをつけたのは日本最古のストリッパー、アメノウズメだ。ヤマトタケルノミコトは、海を渡る際に、妻のオトタチバナヒメを犠牲にしてしまっている。 海は全ての生命の源であり、女の腹から生まれない命はない。そういう思想が、女性を海女とし巫女とした進行に結びついていったのか……と想像する。
「4章 外来の神」 > 媽祖(まそ)とは、中国の沿海民から絶大な信仰を集める航海の女神です。航海中はその神像を必ず同伴して供養し、航海安全を祈りました。九州でもかつて中国人貿易商たちの活動が活発だった地域に媽祖像が伝来し、今も篤く信仰されています。
媽祖は時代的には十世紀ごろに実在した女性ということだが、海難を予言したというから、やはり巫女的な存在だったのだろう。「媽祖」という漢字にも「母なる女」のイメージがある。 人間はすべからく、最後は母に帰るものなのだろう。魂のルフラン♪(笑)
「5章 海の彼方のユートピア」 > 沖縄をはじめ南島では、海の彼方にやすらぎに満ちた楽土(ニライカナイ)があり、そこは祖先の原郷という信仰があります。沖縄ではこのニライカナイの神が、海を渡ってやってきて豊穣をもたらすと考えられています。この信仰は太平洋の島々に広がってもいます。
海神信仰の原点は沖縄に残っている。 ニライカナイは日本人の原風景でもあるんだろう。いつかはそこに帰ることを夢見る、日本人の「約束の地」なのである。
帰宅して、ドラマ『氷点』を見るが、石原さとみの大根役者ぶりに呆れる。 この人、今のうちに鍛えておかないと、使いものにならないぞ。
2004年11月26日(金) みんなみうらじゅんが大好き/DVD『マダムと泥棒』/『トップをねらえ2!』1巻 2002年11月26日(火) 再爆走�◆森�げなくても広がるリング/『低俗霊DAYDREAM』4巻(奥瀬サキ・目黒三吉) 2001年11月26日(月) そろそろこの日記タイトルにも飽きてきてるんだけど/『社会派くんがゆく!』(唐沢俊一・村崎百郎)ほか 2000年11月26日(日) オタアミが出て来た日/第3回オタクアミーゴス・IN・九州
| 2006年11月25日(土) |
いじめを楽しむ人々/映画『アジアンタムブルー』 |
> いじめた生徒は出席停止に…教育再生会議が緊急提言へ > http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061125-00000006-yom-pol
> 学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固めた。 > 都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。(後略)
> (読売新聞) - 11月25日14時41分更新
記事の見出しだけ見てるとねー、いかにもちゃんといじめ対策を取ってますよ、と言いたげなんだけれども、ウラを返せば、これまで、いじめた子どもを出席停止にもせずに放置してたってことなんだよねー。
一応、説教くらいはしたと思うよ? あるいは担任教師がクラス全体に向かって「いじめられた子どもの気持ちを考えよう」とか演説ぶったりとか、学年集会や全校集会を開いて「命の大切さ」を訴えたりとか。 でも、そんなことをこれまでいくらやっても効果がなかったんじゃないの? どうしてこれまで、いろんな対策を取ってきて、お偉いさんや識者のみなさんも様々な提言を繰り返してきたのに、いじめがなくならないどころか陰湿化・深刻化してしまったのかって、根幹的な部分を考えないと、どんな対策だって所詮は管理する人間側の「気休め」にしかならないんだけどねー。
私も、小学生のころ、クラスの不良にかなりいじめられてさ、そのことをセンセイに訴えて、「いじめはやめよう」ってクラスで言ってもらいはしたんだけれど、その直後から「てめえ、チクんなよ」っていじめられたよ。 いじめる人間ってのはそれが悪いことだって認識自体が欠落してるんだから、説教で何とかなるんだったら、最初からそんなのやってないっつーの。
通り一遍の答申や機能するかどうかも分からない委員会を発足させたって、所詮それはただの世間サマに対するタテマエで、文科省とか政府が、いじめ問題に本気で取り組むつもりなんてないことは、先からハッキリしている。 それは、いじめ自殺を助長したのが、当の文科大臣だってことに全く言及していない、責任を追及してないってことからもよく分かるのだ。
ほら、あの例の「いじめられてるので何月何日に自殺します」って投書を公開して、呼びかけたやつね。 文科省は「信憑性が高い」とか何とか言ってたけど、結局当日は何にも起こらず、その予告日の翌日から自殺が流行し始めたんだよねえ。 んな、イタズラだって一発で分かるものに引っかかっちゃったんだよねえ、一国の大臣ともあろうものが……。 誰か、「うかうかとこんな愉快犯に乗せられちゃいけません」って止めるやつぁ、文科省にはいなかったのか。
「でも、万が一、本当に自殺を考えている子供がいたら」 そう心配する心理は確かに理解できるんだよね。 もしもこの件を放置しておいて、実際に生徒が自殺するようなことがあったら、取替えしがつかない。だから何か対策を取らなければ、と考える。 確かに、ここまではいいのだ。 けれど、だからって、焦ってあんな「全国の子どもたちへのメッセージ」なんてことやらかして、問題を拡大させちゃダメなんだよ。
文科大臣は、あの時、取ってはいけない最悪の手段を取った。 あれは決してテレビで公開するなんてことはせずに、秘密裏に調査を続けるべきだったのだ。 本当にいじめで苦しんでいる子供がいたとしても、文科大臣に投書するくらいだ。状況は最悪だと想定すべきである。もう、親も教師も友達も当てにならない、そこまで追いつめられていると。 それを短絡的に「死ぬな」とか「周りの大人に相談して」とか言ったって、いじめられた子どもにしてみれば、「それができりゃとっくにそうしてる!」と叫ぶしかないんじゃないか。 センセイの管理能力なんて、たかが知れている。 目の届かないところで陰湿ないじめが繰り返されることは間違いない。
あの会見は、いくつもの間違いを犯したが、主だったものは次の三つだ。
1.いじめる子どもに対して、「大人はこの程度の対策しか取れない」と判断させてしまったこと。 「隠れていくらでもいじめはできるよ」と教えてしまったことになる。
2.イタズラ好きな連中に、世間を騒がせる手段を教えてしまったこと。 実際に、イタズラを行ったやつが逮捕されている。多分、小規模で報道されていないイタズラはかなりな数に上るだろう。愉快犯を増大させる危険を、あの大臣は考えていなかったのか?
3.実際にいじめられている子供たちに、絶望感を与えてしまったこと。 1.の裏返しだね。「大人には自分を助けてくれる能力がないのだ。文科大臣ですらも」ということを全国的に表明してしまった。これで自殺者が出ないはずがない。
文科大臣は、自分が「いいこと」をしたつもりか分からないが、いじめ事件はそれこそケース・バイ・ケースなので、対処するには細心の注意が必要だ。 それなのに、あんな大雑把なことをやられてしまっては、状況が悪化するのは目に見えているし、実際に悪化してしまった。 この責任は誰が取る? けれども、大臣や文科省に対して、「あんたらが余計なお世話を焼いたせいだ」と追及する人間は誰もいない。 あの「責任追及大好き」なマスコミですら、だんまりを決め込んでいるのである。
表面的には「イイコト」をしているように見える連中に対しては、その矛盾を突くということを日本のマスコミは歴史上を殆どやってこなかった。 マスコミもまた、日本の教育を本気で憂えているのなら、あんな鈍感でデリカシーのない馬鹿大臣を叩いたってよかったはずだ。 それを一切しようとしなかったのは、なぜなのか。
理由は語るまでもないよねえ。 マスコミの誰も、本気で「いじめがなくなる」なんて考えてもいないからだ。 それどころか「いじめがなくなっちゃ記事が書けなくなるから困る」と本音じゃ思っているフシすらある。
いじめ対策なんて本当は取りようがない、そのことはもう一般人もみんな熟知している。 いじめた子どもを出席停止にする、あるいはそんなのは生ぬるいから退学処分にする、それで本当に歯止めができるのか疑問だ。 いじめの構造がそのクラスにまだ残っていた場合、今度はまた別の誰かがいじめる側に回る、それが「社会」の構造だということを、我々は本当は知っているのだ。 そのことからどうして目を背けて、みんな、キレイゴトだけを並べるのか?
「社会」というものは基本的に「タテ」の関係を作ることによってのみ維持される。 「平等社会」と言っても、それはスタートラインの立場が平等であるべきだと謳っているだけで、現実としては上下関係のない社会はありえない。 その「上下関係」は、必然的に「いじめ」を生むようになっているのだ。 仕事の命令を上司が部下に命じるのはいじめじゃないじゃないか、と仰る向きもあろう。しかしそれは社会がそれをいじめと認定していないだけで、構造的にはいじめ関係と何ら変わりはないのである。 もしも上司が「無理難題」を部下に押し付け、それを部下が「苦痛」に感じれば、これは立派ないじめになる。 要するにいじめは、加害者と被害者の心理的な問題だということだ。
ある集団が組織的に行動しようとする時、そこには自然発生的に上下関係が生まれる。 誰がリーダーとなり、誰が下っ端になるか、そこには様々な要因が存在するが、上に立つものと下に位置するものとの間で心理的な葛藤が存在しなければ、この関係はうまく行く。 しかし、ここに少しでもズレが生じれば、この関係は全て「いじめ関係」に転換されるのだ。
ちょっと考えればすぐに分かる。 ズレが生じない人間関係なんてありえない。 だから、程度の差はあれ、いじめがなくなることだって決してない。
ほんの些細な軽口が人を傷つけ、死に追いやることだってある。 「がんばれ」という激励の言葉だって苦痛に感じる人間がいる。 「言葉遣いに気をつけよう」なんてスローガンを平気で口にできる人間はかえって言葉の恐ろしさを少しも知ってはいない。 私のこの文章を読んで自殺をする人間がいるかもしれない。それくらい、言葉というものは凶器なのだ。 人を殺す可能性があることを知ってもなお、発言しなければならないという覚悟がなければ、本来言葉などというものは一言も発せられるものではないのだ。
あの文科大臣に果たしてそこまでの覚悟があったと言えるだろうか。 私が伊吹文明を史上最低の文科大臣と判断するのは、その一点があるからである。
「死ぬやつぁ勝手に死なせとけ」という言葉を乱暴だと感じる人間もいるだろう。 けれども、言葉が凶器であるという前提に立つなら、相手が凶器を持っているのに全く無防備でいるというのは、防御を講じようとしない側にも責任があるということにはならないだろうか?(だから「いじめられる側にも問題がある」という主張を、単純に「いじめる側に立った立場の発言だ」と一蹴してはならないのである)
実際には前述したようにいじめ事件はケース・バイ・ケースで、全てを一律に語ることはできない。 だから、全てを一律に済まそうとする「会見」とか「委員会の発足」とかが、ことなかれ主義の表面的な対処に過ぎず、実効力を全く伴っていないことは明白なのである。
いじめ事件の問題点は、例えてみれば、「電車の中でヤクザに絡まれている人を見たらどうするか」という問題と深く関わっている。 そもそもヤクザがいなけりゃいい、という考え方は無駄である。 実際にヤクザはそこにいるし、被害者もそこにいるのだから。
そんなとき、周囲の人間はどうするか? 一人で対処するのが困難だとしても、何人かがその場にいたら、みんなで相談して何とかする、という手も使えるだろう。 けれども、その場に出くわしたのがあなた一人だったら?
居眠りを決め込むか、それとも、勇気を奮い起こしてヤクザに向かって「やめろ」と言うか。 私は別にあなたを責めはしない。あなたと同じく、私もだんまりを決め込むだろうから。
いじめが放置されやすい点はここにある。 みんな、「いざと言う時が来ても、誰も自分を助けてくれない」ことを知っている。大半の人間は卑劣なのだ。 「誰かに助けを求めなさい」とアドバイスしても、助けが来なければ絶望は弥増すだけのことで、現実として、助けは本当に来ない場合の方が多い。 ならば、「誰かに助けを求めて」という優しげだけれども実効力の少ない形だけのスローガンよりも、「自分の身は自分で守れ」という非情な言葉の方が、まだ突発的な事態に対処する準備を予め与えることにならないか。
いや、かつてはそういう厳しい言葉の方が多かったからこそ、いじめる人間だって、相手には対抗する力があることを知っていたのだ。罵倒語は、いじめや暴力の抑止力としての効果もあったのだ。 それを単純に「人を傷つける言葉を規制すれば差別やいじめはなくなる」と判断したことがいかに愚かであったか。それは机上の空論であって、ストレートな暴力を呼び込みやすくするという、全く逆の効果を生んでしまっている。
「死ぬやつぁ死なせろ」も、いざというときに自分を助けてくれる人間はいないという覚悟をしていなければならないという戒めとしての効果があったのではないか。
優しげな言葉の氾濫は、かえっていじめの陰湿化を助長し、いじめられる人間の免疫力を低下させた。 そのことを指摘する識者も数多いのに、誰も言葉の規制に歯止めをかけようとはしない。 だからこう結論付けるしかなくなるのである。
社会の自然発生的な要求として、現在のいじめ自殺は容認されていると。
「バカ」だの「ブス」だの、「そんな人を傷つける言葉は使っちゃいけません」という教育はすっかり浸透してしまっている。 そのために、かつてはたいした罵倒語でもなかったそれらの言葉は、かえって凶器としての鋭さを増してしまった。そしてそれらの言葉が、人を死に追いやっている。
その責任の所在はどこにあるか。 それは「人を傷つけてはならない」と考えている「優しい人々」全てであるという、逆説的な真実なのである。 もちろん、私も日常生活の中では、その一人だ。だって、普段からこんな「無責任賛歌」みたいなことを口にしてたら、「いじめられる側」に回されちゃうじゃないですか(笑)。
私はこの日記のほかにもいくつかのSNSに入っているが、そこではかなり気をつけて言葉を選んでいる。リアルで会う人も多いから。 でも油断はできない。先日、「それはあなたの被害妄想だ」と書いたら、「そんなひどいことを言うなんて!」と、そこに集ってた人みんなから総スカンを食らってしまった。
わあ、「被害妄想」なんて日常語ももうダメか。 で、次は「思い込み」と言い変えたら、やっぱり逆ギレされた。 言葉はもう、今はこれくらい先鋭化されてしまっているし、人間はここまで脆弱になってしまっているのである。 その脆弱さを逆に武器にして「弱い者いじめをするな」と徒党を組んで主張するのは、本来は異常なの事態なのではないか。 いじめに負けない強い心を持つ方が先決であると思わないのだろうか?
もう、「傷つくやつぁ、勝手に傷つけ」としか言いようがない。
罵詈雑言を屈託なく言い合える間柄の方が、本当は言葉で傷つけられることもなく、幸せなのだが、そんな人間関係を、「優しい人々」はみんなでよってたかって崩壊させてしまったのである。 ここまで全国規模で、「悪口文化」が破壊されてしまったあとでは、これを元に戻すことはもう不可能だろう。
だからいじめはもうなくならない。
まだ放置しておいた方が、いじめる方もそのうち飽きるかもしれないし、卒業するまでのガマンだから諦める、という状況にまで悪化してしまっている。 ヤクザに絡まれても誰も助けてくれないことを、覚悟しておくしかないのである。
昼から、阿部寛の舞台挨拶があると言うので、キャナルシティまで映画『アジアンタムブルーを見に行く。
『アジアンタムブルー』 > (2006角川ヘラルド映画)110分 > 監督 藤田明二/脚本 神山由美子/原作 大崎善生 > 出演 阿部寛 松下奈緒 小島聖 佐々木蔵之介 村田雄浩 小日向文世 高島礼子
> 成人男性向け雑誌の編集者・山崎隆二は、水たまりばかり撮影しているカメラマン志望の葉子と出会う。 > 風俗の世界に身を置き、友人の妻と浮気を繰り返す自分に絶望しきっていた隆二は、不遇にあっても汚れを知らない葉子に惹かれていく。 > 間もなく2人は同棲を始めるが、幸せな日々は長く続かなかった。 > 葉子の身体を、病魔が蝕んでいた。 > 余命1ヶ月…。 > 隆二はすべてを捨て、葉子が憧れる地、仏・ニースへと2人で旅立つ決意をする。
> 大崎善生の同名小説を映画化。“アジアンタム”とは、シダ科の観葉植物。 > ハート型の葉が特徴。一度その葉が茶色くなり始めると手の施しようがなく、ただ枯れていくのを見守るしかない。 > その心境を“アジアンタムブルー”と言い、ごくまれに再び青い葉を茂らせることがあるという。 > 自分が汚れた人間だと悟っている主人公、薄幸な人生を送ってきたため満ち足りることを知っているヒロイン、美しいニースの海と街並みの静謐と、すべてがオトナ向けの味付け。 > 乾いた土が水を吸い込むように、透明だけど耽美なだけじゃない、ビターな世界観が心にしみわたる。 > 昨今ブームの甘口な“純愛難病モノ”とは一線を画す作品である。
別にたいして一線は画してないと思うが。 甘口じゃないってことは辛口ドラマだとでも言いたいのだろうか。どのへんが辛口? 主人公の隆二(阿部寛)がSMエロ雑誌の編集者だってこと? 親友の奥さんと不倫してるから? でも、それは全てヒロイン葉子(松下奈緒)の純情さ、無垢さを反作用的に強調する装置として働いているから、結果的に隆二は傷ついた心を葉子に癒されることになる(ぷぷぷ)という甘ったるい展開になっちゅうんだよねー。
なんたって、隆二は、ガンに侵された葉子と最後の思い出を作るために、彼女がポスターで見たことがあっただけのニースに行っちゃうんだから! 退職金はたいて! で、そこでお姫様抱っこなんかしちゃうんだから! 彼女は彼女で、「私が死んでも、次のひとに私にしてくれたみたいに優しくしてあげてね」なんて言っちゃうんだから! ちょっと想像してほしいんだけれど、これが阿部寛と松下奈緒じゃなくて、角野卓三と泉ピン子のカップルで、「死ぬ前に別府温泉に行きたいわ」とピン子が言ってたとしたら、ドラマになるか?(別の意味で面白いドラマにはなろうが) 私も仮に女房から「死ぬ前にエーゲ海が見たいわ」とか言われたら実際に連れて行くかもしれないが、世界で一番エーゲ海が似合わないカップルがそこに現れることは論を俟たないであろうと思う。
キャスティングの時点で、従来の甘口“純愛難病モノ”と何の差別化も図れないと分かりそうなものだろうけれど、宣伝マンもつらいとこなんだろうねえ、売りのない映画をアピールするのは。
そもそも、「アジアンタム」という「味付け」自体が甘いと言うか、死を何かに例える作業自体が浪漫主義以外のナニモノてもないというのがフツーの感覚だと思うんだけれども、これまでに『セカチュー』だの『1リットルの涙』だの『タイヨウのうた』だの、余りにも砂糖とシロップ漬けの映画ばかり見せられてきているから、この程度でも辛口に見えてしまう人もいるのかもしれない。
ドラマ自体はまあちょっと、涙を流すには困ったもんだって部分が多々あるんだけれども、カメラマンという設定の葉子が撮った写真、これがみな素晴らしかった。 水溜りをモチーフにした写真の数々、実際に撮影したのは矢部志保さんという方のようだが、いったん、水面に反射して揺らぎを持った映像の数々は、さながら万華鏡にも似て、現実の多様さ、美しさと醜さ、静謐さと躍動、条理と不条理の両面を映し出しているように見える。 これを劇中で、「どうして水溜りの写真ばかり撮るのか」と隆二に問われて、葉子が「水を通して見た方がきれいでしょ」と短絡的に「説明」してしまうのは、まるで興醒めである。 ここは「分からない」と言わせた方がまだマシだ。あるいは「どう見えますか?」と再度、聞き返させるとか。 監督も脚本家もテレビ畑の人だけれども、こう言っちゃ偏見かもしれないが、やっぱり映画のセリフが分かってなくて、賭けない人たちなんだよね。
舞台挨拶では、阿部さんは、久しぶりの普通の恋愛もので、今を逃したらチャンスはないかもと乗り気だったことを明かしていた。 何だ、役者さんの方はちゃんと普通の恋愛ものって認識でいたんじゃん。 撮影現場での阿部さんは、日頃は無口なのだそうだけれど、ニースは本当に静かで美しい街で、オフの時も楽しく会話をしていたそうだ。 夜の10時くらいになると、本当に真っ暗になるので、一人で街中を散歩したそうである。夜の散歩はいいよねえ。 ともかく、阿部さんの心の底から楽しそうなムードが観客席にも伝わってくる。 阿部さん、身長189センチに対して、松下さんは174センチ。これだけ背の高い女優さんと組んだことも初めてだそうで、そのことも嬉しかったようだ。
他愛無いことばかりで楽しくなるようで、阿部さん、声は低くて渋いけれども、案外、「かわいい」人なんだなあと微笑ましく感じた。
次は『トリック3』(作られるのか?)の時にまた、来福してもらいたいものである。
2004年11月25日(木) ヤクザと一緒の二日間/DVD『CASSHERN』 2002年11月25日(月) 再爆走� 真深造録燭鹵罅拭悒優海硫Α截慨�(小野敏洋)/『獣星記ギルステイン』4巻(完結/酒井直行・田巻久雄)ほか 2001年11月25日(日) オタアミ承前/『すごいけど変な人×13』(唐沢俊一・ソルボンヌK子)/DVD『金田一耕助の冒険』ほか 2000年11月25日(土) 希ウィッチィズ/安藤希トーク&サイン会
| 2006年11月24日(金) |
新東京タワーに期待(何のだ)/映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』 |
> 新東京タワーのデザイン決定
> 2011年の開業を目指して東京・墨田区に建設される新東京タワーのデザインが決まった。3本足で支えられ、日本刀のような曲線を意識したという高さ約610メートルのタワーになる。
> デザインは建築家の安藤忠雄氏と彫刻家の澄川喜一氏が監修。基底部は3本足で、平面形状は三角形だが、上にのぼるにつれて円形になっていく。日本刀や伝統的な日本建築などにみられる「そり」や「むくみ」を意識し、連続的に変化する曲線を使って日本の伝統美と近未来的デザインを融合した、という。
> 足元には3本足が開かれた形で3つのゲートが開かれ、地上350メートルと450メートルの2カ所に展望台を設けた。
> 新東京タワーは、2011年に予定しているテレビ地上波の完全デジタル化に合わせて建設され、首都圏の地上デジタル放送波を送出する役割を担う。東武鉄道が全額出資する「新東京タワー」が事業主体となり、2008年に着工予定。総事業費は約500億円。
> http://www.itmedia.co.jp/news/ > (ITmediaニュース) - 11月24日22時22分更新
さあ、誰が最初に飛び降りるかなー、とまた不謹慎なことを考えちゃうけど(笑)。 正直、「電波塔が一本立つだけじゃん」という軽い感想しかないんだよねー。そのころにはまたゴジラ映画が復活していて、『ゴジラ対ガメラ』の舞台になっているかもしれないけれど(次の復活のアイデアはもうこれしかないと思うぞ)。
逆に、どうして全然関心が湧かないのかなあ、と思う。だって、規模的には「旧」東京タワーを軽く凌駕してるんだから。 「東京タワー」が東京の象徴であり、観光名所として認知されるようになったってのも、時代との関係が深かったってのがあると思うんだよね。 私の子供のころのマンガ雑誌や学習図鑑には、しょっちゅう東京タワーが「高さ」をアピールする形で載っていた。高度経済成長の夢と未来が、その「高さ」に集約されていたんだね。
ともかく、昭和40年代ごろは、地方から上京した人間は、まず、東京タワーを見上げて初めて東京に来たという実感を持てたものだったと思う。 私も、高校のころ、初めて上京した時には東京タワーに登ったものだった。典型的な「おのぼりさん」だね(笑)。 余談だれけれども、私はこの時、デビューしたばかりの17歳の石野真子とすれ違っている。
小林信彦のエッセイ『本音を申せば』の中に、「建設中の東京タワーにはそんなにみんな注目していたわけではなかった」という意味の記述があった。つまり、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』での東京タワーの描写は、やはり現代の視点からのノスタルジーが強調された結果だと言える。 となると、東京タワーが「東京の」タワーだという憧れを含んだ認識で見られていた時期というのは、案外、短かったのではないかという気がしてくる。
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!』オトナ帝国の逆襲』で、ラスト、しんちゃんは東京タワーを模した20世紀博タワーの非常階段を疾走する。それはほかのどんなタワーであっても成り立つものではなく(万博の「太陽の塔」があるじゃないかというご意見もあるだろうが、それはパロディ化された形で既に『ヘンダーランドの冒険』で使用済みだった)まさに「時代を疾走していく子ども」の姿を描いていた。
今度の新東京タワー。 誰かが疾走する映画が作られるだろうか。
映画『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』。 (2006年製作/カラー/132min./35mm/日本語 配給:アスミック・エース) > スタッフ > 監督:金子文紀/プロデューサー:磯山 晶/脚本:宮藤官九郎/音楽:仲西 匡/撮影:山中敏康/美術プロデューサー:中嶋美津夫/編集:新井孝夫 > 出演 > 岡田准一/櫻井 翔/岡田義徳/佐藤隆太/塚本高史/酒井若菜/阿部サダヲ/山口智充/ユンソナ/栗山千明/古田新太/森下愛子/小日向文世/薬師丸ひろ子
> 涙が止まらねぇぇぇぇぇ!ついに完結、さよならキャッツ!! > お待たせしました! いよいよキャッツが帰ってきます! たくさんのファンに愛されてきた「木更津キャッツアイ」は本作でついに完結。 > 余命半年と宣告されたぶっさんを中心とした、仲間5人。地元木更津で巻き起こしたドタバタ騒ぎの日々、そしてついに迎えるぶっさんの死。その3年後……。 > バラバラになったキャッツたちはぶっさんに、そして大人になりきれない自分自身に、最初で最後の“ばいばい”を言えるのか!? 怒涛の笑いとテンション。予測不可能な驚愕の展開はシリーズ最大級! お馴染みのキャスト大集結&驚きの新キャストも登場。 > ちょっぴり成長したキャッツの、可笑しく切ない青春映画。ラストにはシリーズ完結にふさわしい涙の結末が待ち受ける。
大ヒットスタートしたにもかかわらず、翌週には『デスノート』に客を取られ、3週で興行収入が6位にダウンしてしまったのは間が悪かったとしか言いようがない。30億円を狙えたはずの映画が20億円程度に落ち着きそう……と言ってもそれだけでも立派な成績ではあるのだが。 やっと見に行ったシネ・リーブル博多駅、金曜の1000円興行にもかかわらず、既に客は私らを含めて六人。ヒット映画の観客数じゃないね。
テレビシリーズはろくろく見てはいなかったし、前作の映画は見たはずなのに全く記憶がない。 大塚英志がオタクドラマとして最大級の賛辞を送ってはいたが、ちりばめられたネタは確かにオタクの琴線に触れるものではあっても、さほど濃いものとは思えず(真性のオタクなら、自分たちの怪盗団に「キャッツアイ」と名づけることの「薄さ」に気恥ずかしさを覚えるだろう)、このドラマの面白さの本質はそういうところにはないと思っていたからである。
実際、この完結編となると、これまでのオタク的要素は殆ど排除されていると言ってもいい。いや、あるにはあるのだが、前面に出ることを抑制されていると言った方がよいか。 例えば、今回の映画の下敷きとなっているのは、ケヴィン・コスナー主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』であり、作中で言及もされ、まんまそれじゃん、というシーンも随所に登場するのであるが、登場人物の殆どが、なぜかぶっさん(岡田准一)復活のキーワードとなるはずのこの映画を見ようともしないのである(唯一見ているモー子(酒井若菜)は内容を忘れてしまっている)。 また、今回のゲストヒロイン・杉本文子(栗山千明)は「杉本彩」似の名前のことでからかわれかけるが、「散々言われたからやめて」とピシャリと抑える。キャラクター的にはサディスティックでゴーゴー夕張を踏襲しているが、殺し屋ではなく「自衛官」という肩書きを与えているのは大いなるアイロニーだ。
このように、過去の映画などに関わるネタ自体はあちこちに散りばめられているのだが、それらは浅薄に表層をなぞるものではなく、物語の設定やキャラクター造形に深く関わっていながら、そのことを表だって強調し過ぎないように、常にバランスを取る細心の注意が払われているのだ。 もちろんそういう見方をすることができることが、脚本家が意図した「隠し味」なのか、それともただの偶然なのか、判然とはしない。 しかし、判然とさせてしまうとこれは絶対につまらなくなる。そのことに気付かないオタクが、どうしてもっとネタを増やさないのかと、トンチンカンな批判をすることになるのである。
宮藤官九郎自身はオタクであるかもしれないが、オタクの「キモさ」には間違いなく気付いている。他の戯曲や映画脚本を見てみても、「これ見よがし」なネタの投入には否定的だと判断していいだろう。 あからさまなネタに狂喜して、「あのネタの意味はね」と吹聴したがるオタクは、『天国と地獄』だの『砂の器』だののルール違反のネタバラシをして喜んでいる『踊る大捜査線』でも見ていればよいのだ(改めて注意しておくが、『天国と地獄』と『砂の器』を見ていない人は、絶対に『踊る』映画二作を見てはならない)。 本作における『フィールド・オブ・ドリームス』の引用は、根幹的なネタバレに関わるものではないから(と言うか、『フィールド』はそもそもミステリーじゃないし)、決して元ネタの価値を損ねるような馬鹿なマネはしていないのである。
それでは宮藤官九郎脚本のどこが魅力かと言えば、またそれかよ、と言われるかもしれないが、これが純然たる「ミステリー」だからである(だからこそ、過去の作品のネタバラシに関してはルールを守って抑制的であるのだろう)。
ぶっさん(岡田准一)の死と再生は、冒頭で示される。 『木更津キャッツアイ』そっくりの韓流ドラマ『釜山港死ぬ死ぬ団』を実家の床屋で見ているぶっさん。ドラマの中でガンであることを告白する「プサン」に、「死ぬってことはそんな簡単なもんじゃないんだよ!」と悪態をつく。それを聞いて、妻のユッケ(ユンソナ)は「ぶっさん、なんで生きてるか、結婚詐欺よ」と突っ込む。 観客は予告編などで、ぶっさんが復活することはとうに知っているだろう。だからこの冒頭シーンが、「再生後のぶっさんのワンシーンであろう」と当然のように予測する。テレビシリーズでも何度となく「ぶっさんはいつか死ぬ」と喧伝されていたのだ。だから、この予測が裏切られることはないのだが、予測が正しいがために、ここに既に別の「伏線」が仕込まれていることに気がつかなくなる。 映画を見終わった時に初めて、ここに「二段構えのトリック」が仕掛られていたことに気がつくのだ。 このシーンが、本編が始まってどこに挿入されることになるのか、それがまた一つのトリックとして機能している。更にそれまでにどれだけの「謎」が伏線として挿入されているか。全ての謎が一点に収束され、解明されていくラストの野球シーンでの怒涛の展開。この時に感じる観客の快感こそが、ミステリーの醍醐味なのである。
この野球のシーンでようやく私は、「これって、ミステリーじゃん!」という事実に気が付いたのだが、その時には既に遅かった。「謎」が提示されていた事実にすら気付いていない間抜けな自分自身を、私は客席に発見することになったのだ。 私の驚愕を想像していただきたい。私は、それなりにミステリー映画には通暁しているつもりでいて、たいていの映画で騙されることは滅多にない。ものによっては、殺人事件も起こっていない冒頭シーンでトリックを見破ることもある。しかし今回は見事に騙された。その理由は簡単である。この映画の最大のトリックが、「これがミステリー映画であることに最後まで気がつかせない」点にあるからだ。 つまり、『シックス・センス』がホラーに見せかけることでミステリーであることを最後まで隠したように、『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』もまた、青春もの、怪盗もの、野球もの、感動もの、コメディなどの様々な衣装を身につけることによって、ミステリーであることを巧妙に隠していたのである。
この傾向はどうやらテレビシリーズのころから試みられていたらしいが、こんなことなら、テレビ版もしっかり見ておけばよかったと後悔することしきりである。 テレビ時代からのファンであったならば、どこに「謎」が仕込まれているかくらいは気が付いていたと思うからである。
ミステリーのネタバラシはしないことをモットーにしていながら、今回、あえて「この映画はミステリーですよ」とバラしたというのは、今の若い人はマトモにミステリーを見た経験なんてないから、この映画を見たあとで、私のこの文章を読んでも、やっぱり何がどうミステリーなのか、分からないだろうと思うからである(ミステリーの素養がない事実を指摘してるだけで、馬鹿にしてるわけじゃないからね)。 しかし、今年の日本映画は『デスノート』と本作と、ミステリーの秀作を二作、得ることができたが、よりレベルが高いのはこの『木更津キャッツアイ』の方だろう。 しかもこの映画の「最後のトリック」の解明は、説明過多に陥ることもなく、静かに、感動すら我々に与えてくれるのである。これ以上は、本当にネタバレになっちゃうので書けないが、少なくとも『名探偵コナン』や『踊る大捜査線』のようなクズ映画をミステリーだと勘違いしている御仁には、「こういうのを見なさい」と推奨できるレベルの映画だということは保証しておこう。
もちろん、ミステリファンでなくたって、この映画は充分楽しめるのだが、ミステリファンでなければ分からない面白さもあることを強調したいので、ミステリとして見ろ、と強制したいわけではない。そこんとこ、勘違いしないようにね。
しかしクドカン、果たしてこれだけ精緻なトリックを自覚的にやったものか、無意識で身に付いた技術なのか。もし後者なら、坂口安吾以上の天才だなあと思う。
そこまでのことはないか(笑)。
2004年11月24日(水) 一億聡婦女子化 2002年11月24日(日) サベツとの長き闘い……はまだまだ続くよ(-_-;)/DVD『アクション仮面VSハイグレ魔王』/DVD『あずまんが大王【2年生】ほか 2001年11月24日(土) オタクアミーゴス in 九州 2001 2000年11月24日(金) ハートブレイク/舞台『人間風車』
| 2006年11月23日(木) |
灰谷健次郎氏死去/舞台『ゴルフ・ザ・ミュージカル 〜ゴルフなんて大嫌い!』 |
勤労感謝の日。 これも誰が誰に感謝するのか、よく分からん日やね。一人暮らしの家とかは自分で自分に感謝するのか。それって「一人上手」って言わんか。
> 児童文学作家の灰谷健次郎氏死去=代表作に「兎の眼」「太陽の子」
> 「兎(うさぎ)の眼(め)」などの作品で知られる児童文学作家の灰谷健次郎(はいたに・けんじろう)氏が23日午前4時30分、食道がんのため静岡県長泉町の病院で死去した。72歳だった。神戸市出身。自宅住所は非公表。葬儀は故人の遺志により行わない。 > 大阪学芸大(現大阪教育大)卒。小学校教諭を経て1974年に発表した「兎の眼」は、下町の小学校を舞台に子供たちの成長を描き、ベストセラーとなった。ほかの作品に、沖縄と戦争をテーマにした「太陽の子」などがある。 > デビュー後は兵庫県の淡路島や沖縄県の渡嘉敷島で生活。創作活動の傍ら農作業や漁を行い、教育に関する講演活動にも積極的だった。 > 97年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件では、逮捕された少年の顔写真を新潮社の写真週刊誌が掲載したことに抗議し、同社から全作品の版権を引き揚げた。 > (時事通信) - 11月23日19時1分更新
教師から転身した作家というのも決して珍しくはないが、この人くらい「教師的観点」に基づいて作品を書いていた人もなく、いかにも元教師です、という印象の強い人であった。戦後の児童文学者としては最も売れた作家であり、子ども以外の一般読者を取り込めたのも、その「教育者」としての側面があったことは間違いのないことである。 ただ、それが毀誉褒貶に繋がっていたこともまた事実であって、『せんせいけらいになれ』などは、増上慢な子どもを育てるだけではないかとかなり強い批判も受けている。要するに灰谷氏の手法は「子供は誉めて伸ばせ」ということなのだが、誉めるにしたって誉め殺しになるほどじゃ逆効果だろう、ということになるのである。 だ が、本来は教育にセオリーなんてものがあるはずもなく、灰谷氏の方法も全てが間違っていたとは言えない。観念論に陥りやすい教育論を、実践で培った経験をベースにして具体論として小説化し得たということはやはり正当に評価しなければならないと思うのである。 ま、小説はつまんなかったんだけど。
舞台「ゴルフ・ザ・ミュージカル 〜ゴルフなんて大嫌い! GOLF:THE MUSICAL〜JAPAN ROUND」
脚本・作詞・作曲 マイケル・ロバーツ 日本語版台本・演出 福島三郎 出演 川平慈英 高橋由美子 池田成志 堀内敬子 相島一之
ゴルフなんて全く興味のないすべての人と、 ホントは気になって仕方がないすべての人へ。 1ラウンド18ホール、18のナンバーを歌い上げる「ゴルフ」のミュージカルが登場!! ゴルフ場のコースは、ありとあらゆる障害があって、そこはまさに人生の縮図。 人生の様々なドラマを、ゴルフのエピソードに絡め、18曲のご機嫌なナンバーに乗せて描くちょっと新しいミュージカル!! オフ・ブロードウェイでスマッシュ・ヒットしたレビュー・ショウを、日本版ミュージカル・コメディにブラッシュ・アップ!! 新しいミュージカルを待ち望んでいるすべての人へお届けします。
という芝居を大野城まどかぴあで見てきたのですが。 客が入ってねー! 何しろホールの半分も席が埋まってない。東京からの巡業公演でこれくらい客が来ていないというのも珍しいくらいで、題材、内容、役者、どれも集客するだけの魅力にイマイチ欠けていたってことなんだろうなと思う。 オフ・ブロードウェイの芝居ってのは、この程度のレベルのものも多いので、日本まで持ってくるのには慎重な検討が必要だと思うよ。
ゴルフを舞台にかけるったって、スポーツものを舞台化すること自体、かなり困難なことだというのに、それをどう見せるのかって工夫がないと言うか、脚本・演出にそういうアタマがないのだなというのが見ていて退屈する第一の理由。 当然、ボールを実際に打つわけにはいかないから、音とセリフで「説明」しなけりゃならなくなるわけね。「ナイスショット!」とか「バンカーかよ」とか。だからそれは「説明」であって、「セリフ」ではないっ!
せっかくのミュージカルナンバーも、歌詞がやっぱり説明的で、あまり面白くない。いや、歌詞なんてのはあまりちゃんと聞くものではないから、メロディーがよけりゃ乗れるんだけど、音域が狭くて抑揚のメリハリのない歌ばかりズラズラ18曲も並べられたって、たいくつするだけなんだよお。 これ、ずっと全国巡業してるんだけれど、ネットとかで「あれ、つまんないよ」とか情報が行き渡ってるんじゃないかね。
池田成志君、劇中で「大野城に帰ってまいりました!」とか、ボールと間違えて「銘菓鶴の子」を手に取るなどの「ご当地ギャグ」を飛ばすんだけれど、最後は乗り切れなかったのか、踊りも上の空みたいな感じになって、挨拶で「今日は2000人も集まってくれて」とへたな自虐ギャグに逃げてしまった。 それをやっちゃおしまいよってな。 映画『THE 有頂天ホテル』や舞台『十二人の優しい日本人』では純情な役が多かった堀内敬子さん、今回はちょっとセクシーな演技を披露。役の幅がある人なんだねえ。これが今回の唯一の拾い物だったかな。
帰りに、ウエストの焼肉屋でペアペアセットとやらを注文。 もちろん、肉は殆どしげ。が食すのであるが、食べたあとで「気分が悪い」と言い出す。 そりゃ、私は10枚も食べてなくて、あちらは30枚以上は食ってるんだから、気分が悪くなるのも当然だろうよ。
帰宅してDVD『猫目小僧』『鈴宮ハルヒの憂鬱』4・5巻、舞台『十二人の優しい日本人』などを見る。 感想は書いてる時間がないので省略。ナマ舞台を見るより、テレビ画面で見るアニメや映画の方が面白かったというのは、ちょっとサビシイのであった。
2004年11月23日(火) ヒミツのハカセちゃん/映画『父、帰る』 2002年11月23日(土) 江川卓>○○○/CD『ちょんまげ天国』/DVD『ハレのちグゥ』4巻/『ほしのこえ』/『オトナ帝国の逆襲』 2001年11月23日(金) 純情エロさん/オタクアミーゴス前夜祭 2000年11月23日(木) 勤労感謝の日スペシャル/『超オタク』(岡田斗司夫)ほか
| 2006年11月22日(水) |
蠣・蠣・蠣!/DVD『ウエスト・サイド物語』 |
11.22.で「いい夫婦の日」なんだって。 ネコの日とかイヌの日とか、語呂合わせかなんかで勝手に記念日が作られる「流行」がいつから始まったのかはよく分からないけれども、私には何が面白いのかも実はよく分からない。 語呂合わせとか言うとまだ聞こえはいいけれど、要するに駄洒落であって、つまりはオヤジギャグじゃんねー。 「日常にユーモアを」というスローガンなのかもしれないけれども、笑いを強制されたって、別にたのしかねーや、と言うか、家庭崩壊してる夫婦だったりすると、「何がいい夫婦の日だ。けっ」と舌打ちするだろうね。 ま、夫婦崩壊してる家庭のことを別に慮ってやる必要もないんだけれど。いったいこんなの、誰が決めてるんだ、と思って調べてみたら、財団法人余暇開発センター〈現(財)社会経済生産性本部〉というところだそうな。 で、どういう組織よ。胡散臭いところにうまいこと乗せられてるんとちゃうかねー。
仕事を引けて、博多駅の「GAMERS」と「紀伊国屋」で、本やDVDを買い込む。 DVDは『涼宮ハルヒの憂鬱』4、5巻と、『ウェスト・サイド物語』、『機動戦士Zガンダム�掘\韻慮歹阿楼Α戞� ほかにも『トップをねらえ2』や『蟲師』、『幽霊男』(金田一耕助役は河津清三郎!)や『吸血蛾』(金田一耕助は池部良!)など、取り起きのDVDは多いのだが、いっぺんに全部買う財力はない。 ボーナス出るまで、ガマン、ガマン。
午後8時から、呉服町のSGcafeで、突発蠣パーティー。 経緯は詳しくは知らないのだけれども、VARRYのおシゲさんが、北九州だったか行橋だったかから、蠣を5キロばかり届けてくれたとかで、大パーティーを開くことになったのである。 最初は数人、とかいう話であったはずなのに、当日になったらどこからウワサを聞きつけてきたものか、20人からの人間が、狭い店内にひしめいた。 席が足りずに、立ち食いする人が続出、実質、立食パーティーになったが、それで2時間以上も平気な人もいるのだから、食い気たっぷりな人間というものは恐ろしい。 蠣を見ながら「いい景色だ」とでも呟いてみたい衝動に駆られたが、どうせ誰にも何のことだか分からないから言わない(笑)。 初めは牡蠣フライ。蠣を嫌いな人はあの生臭さがイヤだと仰るが、それは全くない。程よく揚がってサクサクしたコロモの中から、ぷりっとした食感の蠣がとろりと舌の上に乗ってくる。これは美味い。 続いて出される焼き蠣、網の上で蠣がしょっちゅう爆発するして、女の子たちが「キャッ」と悲鳴を上げるのも楽しい。材料提供者のおシゲさんは「欲を言えば炭火で焼ければねえ」と仰るが、ガスコンロでも充分。ついつい、七つ、八つと食べてしまう。それだけ食べても、まだ余るくらい蠣は大量にあるのだ。 蠣鍋と鍋雑炊はもう、欠食児童が群がるようで、あっという間になくなってしまった。これだけたらふく食べたら、いかにカロリーの低い蠣とは言え、食いすぎであるのは間違いない。 まあ、明日から節制すれば何とかならあな。……って。忘年会シーズンにそんなこと言って大丈夫なのかね。
帰りに「ドン・キホーテ福岡空港南店」で、安売りDVDがあったので、『オペレッタ狸御殿』と『69』を買う。2枚で3000円。元値が10000円近いから、バカ安である。なんかインチキやってないかドン・キホーテ。
DVD『ウェストサイド物語 スペシャル・エディション』。
特典ディスク二枚組のスベシャル・エディションDVDがわずか2000円というのは安い。 日本映画やアニメもこれくらい太っ腹になってくれると嬉しいんだけど、購買力が違うから仕方ないかもね。 映画については今更くだくだしく説明するまでもない。 けれども、「スタジオミュージカル映画を屋外に開放した」との惹句が必ずしも正しくはないことは、結構セットシーンも多用されていることで分かる。そういう評判が立つのも、やはりポスターにも描かれたあのジョージ・チャキリスの片足上げバンザイポーズのイメージが強烈だからだろう(余談だけれども、マンガ『サイボーグ009』で、002・ジェット・リンクが初登場するコマでも、彼はこのチャキリスポーズを取っている)。 戦争映画やSF、サスペンスやホラーなど、実際にはあらゆるジャンルの映画を製作してきたロバート・ワイズ監督だが、代表作はと言われると、どうしても『サウンド・オブ・ミュージック』とこの『ウェスト・サイド物語』ということになってしまう(SFファンとしては『地球が静止する日』を挙げたいところだが。『スター・トレック』? 何それ?)。 しかし、『ロミオとジュリエット』を下敷きとしたこの物語、ドラマとしては他愛なく、正直、大人の鑑賞に耐えるほどのものではない。 やはり見所はレナード・バーンスタイン作曲のミュージカル・ナンバーにあるので、映画としての躍動感は、テーマソングと言える『トゥナイト』よりも、群舞の魅力に溢れる『アメリカ』や『クール』の方が勝っている。クローズ・アップが映画の魅力の本質であるとすれば、ナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーのカップル二人の見詰め合いよりも群舞の方に軍配が上がっているということは、映画の敗北を意味しているとは言えまいか。 つまり、『ウェスト・サイド』は、舞台で見たほうが面白い、ということになるのだ。 もちろん、これは本場のブロードウェイ・ミュージカルで、という意味であって、間違っても短足胴長な日本人拝優によるエセ・ミュージカルなどではない。
しかし、名作の誉れが高いにも関わらず、この映画に出演した俳優たちは、リタ・モレノを除いて、殆どが不遇の人生を送っている。 ジョージ・チャキリス、ラス・タンブリン、リチャード・ベイマーらは泣かず飛ばずだし(タンブリンが『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』に、チャキリスが『日本の面影』にと、日本に関わっているのが面白い)、ナタリー・ウッドは恐らく夫であるロバート・ワグナーに殺害されている。 リアルに作ればかなりシリアスで救いようのない物語になるはずのものをミュージカル仕立てにすることにどういう意図があるのか、制作陣は多分、あまり深くは考えていないだろう。映画が描ききれなかった不運と悲惨の物語を、俳優たちはまるで、実人生で再現して見せてくれているようである。
2004年11月22日(月) 『ハウルの動く城』動く!/夏目義徳『クロザクロ』1巻 2002年11月22日(金) 最上の味と最低の映画/映画『恋に唄えば』/『ブラックジャックによろしく』3巻(佐藤秀峰) 2001年11月22日(木) 親の死にメよりアニメ/アニメ『ナジカ電撃作戦』MISSION 007/『MISTERジパング』7巻(椎名高志)ほか 2000年11月22日(水) 今日は眠かった……イツモのことだけど/『ルパン三世カルト2001』ほか
| 2006年11月21日(火) |
そしてまた映画の日々/映画『王の男』 |
仕事を引けてから、都久志会館で、映画『王の男 (왕의 남자.)』。 試写会ハガキが当たったのだが、最近はこの「試写会」にかなり家庭経済が助けられている。 今年は既に劇場まで足を運んだ封切り映画が100本を越えているが、これも試写会に助けられてのことだ。 「遊んでいられて、時間もあればご裕福でもいらっしゃるんですねえ」みたいな当てこすりを言われることも少なくはないのだが、こんな工夫をしなければ、そんなに映画が見られるわけもないのである。 でも先週はワークショップのために、二、三本、試写会を他の人に譲ってしまった。 試写会はスケジュールが決まっているので、そこで都合がつかないと涙を飲んで諦めなければならないのと、パンフレットが売られていないことがネックなんである。
試写会場に行ってみると、ロビーに宣伝チラシが置いてあって、「阿部寛来福!」とある。 新作映画の舞台挨拶なのだが、それが今月の25日。 その日は九州国立博物館の「海の神々」展を見に行くつもりだったのだが、そっちをキャンセルして、ナマアベを拝見しに行くか、ちょっと迷っている。 いや、結構好きなんすよ、あの濃さが(笑)。
映画は、韓国の時代もの。 実在の暴君と、その暴君に振り回される技芸人たちを描いているのだが、この王の暴君ぶりが今ひとつピンと来ない。 重臣たちから「身分の低い芸人を宮廷に入れるとは」となじられ続けるのだが、母を謀略で失っている悲しみを紛らすゆえであることがドラマを見ていれば伝わってくるし、殺される重臣たちも、私利私欲に走った悪人ばかりである。 愛の得られぬ生活に、だんだんと荒んでいくのは分かるのだが、「暴君」というイメージはドラマが進んでいってもなかなか見えてこない。だから、ラストで唐突にクーデターが起きても、「え、なんで?」と首をひねりたくなってしまうのだ。 これはつまり、「身分制度を壊す」ことが、儒教国家である韓国においては、我々日本人が想像する以上に悪徳であると考えられているせいなのだろう。やはり文化の違いによるそれぞれの国のドラマツルギーの差が、作品から普遍性を奪ってしまっているのである。
けれども、芸人たちの技や、王のはしゃぎぶりなど、笑いどころもなかなかに多く、退屈はしなかった。 韓国の人たちはやはり日本人によく似ているのだが、王ヨンサンが井上孝雄に、王の男(王様の愛した男、という意味なのね)コンギルが及川光博に見えて仕方なかった(笑)。
いや、このコンギルの女と見まごう美青年ぶりを見るだけでも、この映画、価値があるかも……って、私にそのケはないからねっ!
【映画データ】 監督: イ・ジュニク 出演: カム・ウソン(芸人チャンセン役)、 チョン・ジニョン(王ヨンサン役)、カン・ソンヨン(チャンノクス役)、 イ・ジュンギ(コンギル役) 封切り: 2005.12. 29
朝鮮初の宮廷人形劇。 妬みと熱望が呼んだ血の悲劇が始まる! 美しい欲望、華麗な悲劇。 朝鮮最初の宮廷芸人、 王に仕え遊ぶ
朝鮮時代燕山朝。男寺党の芸人チャンセン(カム・ウソン)は力のある両班にかこわれた生活を拒否し、 たった1人の友であると同時に最高の仲間であるコンギル(イ・ジュンギ)とより大きな場を求め漢陽にやって来る。 生まれつきの才とカリスマで娯楽集団のリーダーとなったチャンセンは、コンギルとともにヨンサン(チョン・ジニョン)と彼の妾ノクス(カン・ソンヨン)を皮肉る芸を見せ漢陽名物となる。 公演は大成功をおさめるが、 彼らは王を侮辱した罪で義禁府にしょっ引かれる。義禁府で審問に苦しめられていたチャンセンは、特有の度胸を発揮して王を笑わせてみせると広言するが、実際王の前で公演を始めると芸人全員が凍りついた。
チャンセンも極度の緊張の中で王を笑わせるため努力するが王はピクリともせず... ちょうどその時、大人しいコンギルが機転を利かせ特有のずるがしこい演技を披露すると王は我慢できないかのように大きく笑ってしまう。彼らの公演に満足した王は宮内に芸人達の居場所、喜楽園を用意してくれる。
宮に入った芸人達は調子に乗り貧官汚吏の非理を皮肉る公演を披露して王を楽しませる。しかし重臣達の雰囲気が冷ややかだと感知した王が重臣の中で1人笑わなかったから、と貧官汚吏の名目で刑罰を下だし宴会場には緊張感が漂う。
続く宴会で芸人達は女人達の暗闘で王が後宮に死薬を渡す京劇を演じ、 ヨンサンは同じ理由で王に死薬を渡された生みの母廃妃ユンシを思い出して激怒、その場で先王の女人達を刀で切りつけ死なせる。
公演する度に宮が血の海に変わるからと興を失ったチャンセンは宮を離れると言うがコンギルは何故か残ると言う。 その間に王に反発した重臣達は芸人を追い出すための陰謀を企み、王の関心を芸人に奪われたという嫉妬心に包まれたノクスも陰湿な計略を練る。
2004年11月21日(日) さようならドラえもん/『ハウルの動く城』 2002年11月21日(木) 爆走��/薨去と逝去/『名探偵コナン』39巻(青山剛昌)/『一番湯のカナタ』2巻(椎名高志) 2001年11月21日(水) 乗った人より馬が丸顔/アニメ『ヒカルの碁』第7局/『カスミン』1巻(あもい潤)ほか 2000年11月21日(火) 酒飲みには常識なのかも/『入院対策雑学ノート』(ソルボンヌK子)
| 2006年11月20日(月) |
まだ今一乗らない日々/舞台『EDDIE』 |
日記を再開して、たくさんの人から激励の言葉を頂いている。 やたら来訪者だけは多い日記だが、Google検索で来られる方ばかりなので、熱心な読者の方などはいないだろうと思っていたので、ありがたい限りである。 辛辣な批評を希望する方が多いのは、「お前らそんなに悪口が好きか」と思わないでもないが、批評が厳しくなるか甘くなるかは、以前も「その時次第」だった。 「ミクシィ癖」がまだ残っている現在は、「甘さ」の方がやや勝りぎみなのは、多少はお許しいただきたいところである。
ましてや今は、ワークショップの余韻で、時々アタマがホワイトアウトしてるし(笑)。
舞台『EDDIE』(劇団ing)。
エディ・タウンゼントを描くのなら、もっと若いころを舞台にすべきではないか、と思った。
晩年は既に功成り名を遂げた後の、誰もがエディを愛していた時代、本人にとってはドラマらしいドラマのない、あえて悪い言い方をするなら、エディの病気以外には盛り上がりようのないころの物語である。 若き日の、「混血」と馬鹿にされつつも無敗を続けていたボクサー時代、トレーナーに転身して力道山に見出され、日本に渡り、初の世界チャンピオンを育て上げるまでの方が、波瀾万丈なことは間違いない。 あえてドラマとして完成形を目指すことを避けて、最晩年のころに視点を絞ったのは、単純に取材が及ばなかっただけなのだろうか。 おそらくはそうではなく、実際にエディに育てられたボクサーたちが一様に感じていた、エディの優しさ――それをこそ舞台化してほしい、という思いに答えたためであろう。
したがって、演劇としては必ずしも賞賛しがたい、ある種の「甘さ」が散見していても――それを直接的に批判することは、いささか憚れてしまうのである。
ボクシングシーンは、役者がみな実際にジムに通い続けただけあって見応えがある。
【STAFF】 作・演出 …………………… 藤井 任 音 響 …………………… 山北舞台音響/今西工/中西梢 照 明 …………………… 梶ライティングデザイン/…アルテ・シェーナ
【CAST】 エディ・タウンゼント …… 藤井つとむ 井岡弘樹 …………………… 黒川進一 津田会長 …………………… 鈴木正勝 タウンゼント百合子 ……… 美奈瀬 杏 小林誠一 …………………… 大仁田 寛 小野一郎 …………………… 程野岳彦 松本 直 …………………… 熊坂欣太郎 津田麻美 …………………… 野口賀代 仲井たけし ………………… 羽田野啓輔 白石知佳 …………………… 錦織 舞
【STORY】 世界の頂点を極めた英雄の影には、彼がいた。 敗北し、肩を落とす勇者の影にも、彼がいた。 ボクシングにすべてを捧げた男、エディ・タウンゼント(藤井つとむ)。 6人の世界チャンピオンを育てた名トレーナー。 ボクシングにより喜び、挫折を知り、ボクシングにより愛を伝えた伝説の男である。 「ここは、サムライのジムじゃないですよ。ボクサー、本当に泣きたい時、本当につらい時、そばにいてくれる人がほしいんだよ」 日系人のエディには、日本人のボクシングジムにある暗黙のルールが理解できなかった。 そんな彼の存在は、少しずつ周りの人間に影響を与え、その人柄と的確なコーチングには人々を呼び寄せる無言の力があった。
エディがその才能を高く評価し、親愛の情を込め「BOY」と呼ぶ青年井岡弘樹(黒川進一)。 今、井岡の初のチャンピオン防衛戦に向け、エディはコーチに明け暮れていた、その最中にエディは病に倒れる。 限界まで走り続けてきた彼の身体は、癌に蝕まれ、入院を余儀なくされる。 一方、世界戦を目前に控え、心の支えでもあったエディを失い、不安を隠せない井岡。その落胆ぶりは誰の目にも明らかだった。 そんな中、エディが井岡の次のチャンピオンだと期待していた青年、松本直(熊坂欣太郎)がジムに戻ってくる。 松本は父の事故死によって家業を継がなければならず、帰省していたが、「ボクシングを忘れたくない。この体に染み込ませておきたい」と井岡とのスパーリングを懇願しにやってきたのだった。 この知らせに、周囲の反対を押し切りジムに駆けつけるエディ。 彼は車椅子に身を委ね、痛々しい姿であらわれるが、「BOYのガッツが見たいですよ」と嬉しそうに話すのであった。 そんな彼等の情熱に井岡は、己の甘えを戒めるかの様に松本と打ち合い、エディに防衛戦での勝利を固く誓う。 井岡のセコンドに就きたいと切望するエディ、しかし病魔は容赦なく襲い掛かり、そして遂にエディは意識を失う。 独りリングへと向かう井岡は、当初苦戦をしいられるがその時、エディのアドバイスが脳裏をかすめる。そして最終ラウンド、鮮やかなKO勝ちを収めた。 エディは自らのトレーナー生命の全てを懸けて育てた、最後のチャンピオンの勝利を確めるかのように、安らかに息をひきとるのであった……。
2004年11月20日(土) ワガママも見て見ぬふり/フィリップ・ジャンティ・カンパニー『バニッシング・ポイント』。 2002年11月20日(水) 爆走��/反戦映画ベスト5/『スパイラルアライブ』1巻(城平京・水野英多)/『新・ゴーマニズム宣言』12巻(小林よしのり)ほか 2001年11月20日(火) オタアミに行くぞオタアミに行くぞオタアミに……/『COMAGOMA』1巻(森下裕美)/『おさんぽ大王』1巻(須藤真澄)ほか 2000年11月20日(月) 通勤だけで力を使い果たしてる日々/『薔薇の木に薔薇の花咲く』(いしかわじゅん)ほか
| 2006年11月19日(日) |
復活ご挨拶(何度目だよ) |
ワークショップ日記を優先したために、復活の挨拶がまだであった。 ミクシィの方には「完全復活」と書きはしたが、果たしてそうなるかどうかは予断を許さない。 何と言っても、こうしてパソコンに向かってまとまった時間が取れるのは、平日は朝の30分から1時間程度しかないのだ。 休日にまとめて書こうとしたところで、用事が入れば余裕はなくなる。 以前も書いたが、日記に取られる時間が多くなると、本を読む時間、映画を見る時間がどんどん削られていくので、一日が24時間しかないことが恨めしくなってしまうのである。 私にとっては、読むことも書くことも車の両輪のようなものなので、どちらか一方に偏るのはひどくバランスを欠いているように感じられてしまうのだ。
博多ワークショップの間は、これに集中することだけを考えていたので、読書も映画も封印していた。日記もまた、本当は書く元気があったとは言えなかったのだが、自分で「書くぞ!」と思い切って、書けるだけ書いた。 日記に書いた通り、便秘と嘔吐に苛まれながらの日記だったのである。
じゃあ、なぜまた長い間放置していた日記を再開したのかと言えば、これはやはりしげ。の変心によるところが大きい。 以前、あれだけ「あんたの日記は読んでてむかつく」と散々にこき下ろしていたくせに、ミクシィとベイリーほかで「やさしめ」な日記を書き始めた途端、「つまんないから『無責任』再開してよ」と言い出したのだ。 SNSに利点があることを否定するつもりはないが、あれはやはりネットでありながら、距離が「近すぎる」。うかつなことは殆ど書けないし、うかつなことを書かなくても、ちょっとでも読み手に「想像力」を要求するような知的な文章を書けば、それだけで拒否反応を起こす人も現れる。 特にベイリーの方は、正直、「こいつら、中学生程度の読解力もないのか」と言いたくなるような異常な人間に絡まれたこともあり(もちろん少数の人間である)、地域性の強いSNSだけあって、恐怖に近いものも感じた。
ミクシィはまだ、まあ、ネット上の関係なんて、切ろうと思えば切れるさ、と鷹揚に構えられもしようが(一般論で、マイミクさんの何人かを切りたいという意味ではない)、ベイリーはどこで誰と会うか分からず、こいつ、鬱陶しいなあと思っても、関係が切りにくい、という事態も生じるのである。 地域SNSの弊害と言うか、たかがネットのことで、何で気を使わなきゃならないんだ、とこちらが憤慨したくなる事態に陥ってしまう。
この『無責任』は、完全に世界に開放されていて、具体的な読者を想定してはいないから、どんなに揶揄やあてこすりを行っても、「これは俺のことだろう」と文句をつけてくる人間に対しては、「あんたの被害妄想だよ」と一蹴することができる。 ところが、SNSでは、読者が限定されているから、一般論であろうと誰かの批判をすると、すぐに「これは自分のことだ」と思い込むやからが現れて、この誤解を解くことが非常に難しいのである。
今日もまた、あるコミュニティで会合を計画していたら、いきなりドタキャンされて、しかも「自分は悪くない」と相手に開き直られてしまったので参った。 相手の言い分はこうだ。 会合が実行されるのかどうか、メールを送って確認したが返事がないので、てっきり中止になったのだと思い込んで、連絡もしないとは、と怒ってコミュニティも退会した。 けれども、メールを送ったというのはその人の勘違いで、送信ボタンを押し忘れていたのである。待ちぼうけをくらわされたのは私の方なので、怒ったら逆ギレされて、退会しているのを確認していないのが悪い、とこう来た。 確かに、コミュは昨日あたりに退会していたようだが、会合への参加リストは削除されてなかったし、退会する旨のメールも送ってきてはいない。これでこちらに気がつけ、というのは無茶な話である。 そもそも、自分がメールを送り忘れて人に待ちぼうけを食らわせる結果になったことについては、まるで反省の色もないのである。 一応、メールに謝罪めいたことは書かれているが、それは「すみませんと謝ったでしょ!」という口調で、これで謝った気になっているというのは、私にはかなり異常な精神状態だとしか判断ができない。 つまりこれを称して、世間では「ヒステリー」と言うのですね(笑)。
こういうのがネット上にはウヨウヨしているので、あまり関わりたいとは思わないのだが、世の中には偶然とか運命とかというものも存在するので、油断がならないのである。
福岡市長選、誰がなろうがたいした変化はなかろうが、あの悪代官顔のオッサンが見事に落ちてくれたことだけは小気味よかった。 いじめ自殺についてもそのうちまとめて書くつもり。 何たって、この国は、文科大臣自ら、自殺を助長する発言を繰り返してるんだから(笑)。
ま、初めてこの日記を読まれる方に。 この程度の毒舌はこちらでは日常茶飯事ですので、気分を害される方は、読まれないことをお勧めします。
2004年11月19日(金) 好きに焼けるから「お好み焼き」って言うんだよ。 2002年11月19日(火) 爆走�─織凜.螢▲鵐函Ε魯譽襯筺�○(^-^)o♪/『スパイラル 推理の絆』4〜7巻(城平京・水野英多)ほか 2001年11月19日(月) 「“ブラック”ユーモア」って言葉も差別表現だってさ/LD『道場寺・火宅』/『Q.E.D. 証明終了』11巻(加藤元浩)ほか 2000年11月19日(日) 約束は果たしたよ、こうたろうくん/『キッド・ピストルズの慢心』(山口雅也)ほか
| 2006年11月18日(土) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」九日目/続・発表会本番! LOVE IS FOREVER(笑) |
1回目の芝居に何の自信も持てないまま、第2回目の時間が迫ってきた。
セイノさんと入れ替わり、子供役の本キャストのTさんもやってくる。だいたいの流れを説明するくらいしか、時間はない。 「ともかく、思い切り、駄々をこねてください」 それだけだ。
第2回目の出番。
Tさんのハジケぶりは凄かった。 何を買ってほしいのかは分からないが、「買うて買うて!」と、ヒキツケを起こしてるんじゃないかというほどにTさんは舞台の上でのた打ち回った。 そのものすごさは、とても言葉では表現しきれないが、セイノさんの演技が「買うて買うて!」程度だとすれば、Tさんのは「買うて買うて買うてえええええ! 買うてええええええ!」くらいに違う。 彼女の演技だけで客席に笑いが起きるが、それも当然だろう。 それなのに、その後ろで私とKさんの夫婦、おばちゃんのオカダさんはどこ吹く風と関係ない会話や喧嘩を繰り返している。 舞台にいても、この喧嘩が殺伐なものではなく、「この家族のいつもの日常的な風景」であることが分かる。
その時になって、気が付いた。
さっき、セイノさんがバタバタしていた時に、私は思わず立ち上がって夫婦喧嘩を始めた。 けれども、今度は立てない。それくらい、Tさんの駄々は、猛烈なのである。 後ろにいる私が興奮して立ち上がれば、この芝居を壊してしまう。 さっきは、セイノさんの駄々が弱かったので、それを助けるためには立たないことには仕方がなかった。 けれども、同じシチュエーションでありながら、今回は全く別の芝居になっている。主役は喧嘩をしている私たちではなく、完全に駄々をこねているTさんになっているのだ。 喧嘩はしていても、私たちは動いてはいけない。 そう気がついたのだ。
イッセーさんが絡んでくる。 「おたく、布団買った? あれ、事件の証拠品だって」 Kさんが「いいえ」と答える。 Tさんがアドリブで仕掛けた。 「ウソやん、買うたやん」 私が「言うな!」と叫ぶ。 オカダさんが「どうしよう、私、あの上でしかぶったばい」と“おろたえる”。 それで前回とは違った「落ち」がついた。 1回目より、2回目の方が、より面白くなった。 それがはっきりと分かった。
もし私が、自分のために舞台に立とうと考えていたとしたら、この機微はつかめなかったと思う。 イッセーさんが先日のNHKの取材に答えて、「みんな舞台の上では孤独なんだけれど、孤立してはいないんですよ」と仰っていたことが実感できた。 私は今、妻であるKさん、娘であるTさん、おばちゃんであるオカダさんのために、ここにいるのである。
他の出演者の方々のシーンに、全て触れる余裕はないが、いくつかだけ触れておこう。
8番、「都会から来た嫁」は、1回目では声が素に戻りかけていたあきこさんが、見事にキャラクターを取り戻していた。 「前のお年寄りにちょっかいかけてよ」という森田さんのダメ出しに従いはしたが、ここであきこさんはアドリブで「あんたたち誰ね!?」と言い放った。 つまり、誰だか知らないが、どこかのお婆さんたちが、勝手に家に上がりこんだ、という状況に変わってしまったのだ。 森田さんは、「この社宅には知り合いでない人間は誰もいないからね」と言っていたのだが、その前提を覆す発言である。
正直、私はハラハラした。 公演後の最後のダメ出しで(明日の公演がなくてもダメ出しはあるのだ)、森田さんに何を言われるか、あきこさんはもしかしたらこの場で泣きだすのではないかと思った。
公演終了後の「交流会」で、森田さんが口を開いた。
「うまく芝居ができたとかできなかったとか、そんなことは関係なく、ともかく自分が前に出るんだと。ここにいるのはみんな知り合いだという前提を崩してまで『あんた誰ね』と言い放っていると。貶してるように聞こえるかもしれないけれど、これまで引くことしかできなかったこの人が、前に出ようとした、このことがワークショップの成果だと思うのね」
森田さんは芝居の完成度なんて、やはり気にしてはいない。 演劇の意義とは、芝居の出来不出来、役者の演技の上手下手などとは別のところにある。 これはそういう言葉である。
演劇を見て、好きか嫌いかで判断してしまう人間は、実は芸術の本質を何も見てはいない。客が面白がろうがつまらながろうが、何かをそこで感じ、考えることができる演劇が演劇なのである。 劇場を一歩出れば、また日常に返り、舞台上のことなどはきれいサッパリ忘れてしまう演劇に、何か意義らしいものがあるのだとすれば、そういうことなのではないだろうか。
9番、「貧乏神」は、例の貧乏神さん(ひどい呼び方だが、しげ。は更にひねって「死神さん」と呼んでいた。確かに見た目が髪も長くて「貞子」なのである)の出番がある。 ところが彼女は結局、1回目には間に合わず、そのときは「貧乏神」はそこにいる(という設定の)犬の名前であった。
2回目、彼女がようやく到着し、犬の名前は「アントニオ」に変更された(もっとも犬の名前は家族が勝手に呼んでおり、祖母と孫は「ラッキー」と呼んでいるのである)。 そして、貧乏神さんは、「本物の貧乏神」として、妻にしか見えない存在として舞台に立つことになった。
貧乏神さんは、たわいのない世間話を延々と妻役の人に話し続ける。 夫役は、前回の北九州公演で、しげ。の夫役を演じた「草莽の志士」さんだ。 志士さんは、自分には見えない貧乏神に向かって、声をかける。壊れた妻をどうにかしたいと声をかける。しかし貧乏神は無意味な井戸端会議を続けるだけで、妻もまた殆ど無言である。 前では祖母と孫がアントニオと遊んでいる。
この家族は壊れている。 しかし、壊れてはいるが離れてはいない。 壊れているのに、彼らは一緒にいるのだ。そういう家族のあり方もあるのだ。 志士さんが語る。志士さんは、もう妻に声をかけることはできなくなっていいる。だから、見えない貧乏神に声をかけるしかなくなっているのだ。 「貧乏神さんよ、俺にはお前さんが見えないけどよ、心の声は届いてるよな」 気がつくと、私は、目頭が熱くなるのを感じていた。
イッセーさんがこの家族に「奥さんを社宅祭の女相撲に」と絡んでくる。 壊れた妻はあっさりとこれを引き受け、夫も行事をやると言い出す。やれることがあるなら何でもやる、といった雰囲気が流れる。もちろん、それは観客である私が勝手に感じていることで、舞台上の人々は即興で適当なことを会話しているに過ぎない。 けれども、「そう感じる」ことが大切なことだと、私にはもう分かっている。
イッセーさんが、ここで、「大失敗」した。 貧乏神に「そちらのおきれいな方」と声をかけたのだ。 イッセーさんは、1回目と設定が変わっていることに気付いていなかった。 志士さんが、すかさず「見えるんですか?」と畳み掛けた。 イッセーさんは慌てて「あ、見えない見えない!」と言って退場した。
会場が笑いに包まれる。 失敗ではあるが、逆にこれで落ちが付いた。 イッセーさんは自分のミスを見事に利用したのだ。 交流会でイッセーさんは、「あれ、幽霊だったんですねえ」と笑われていたが、何があっても、「とっさ力」で演劇は成立するのだということを証明したような瞬間だった。
貧乏神さんは、公演のあと、これ以上はない、という笑顔になり、今や弁天様に変貌していた。 森田さんに「貧乏神」呼ばわりされていた時の彼女は、確かにそのようにしか見えなかったのだが、今、改めて見ると、顔立ちの整った紛れもない“べっぴんさん”である。 北九州の時もそうだったが、女性の方はみなさん、ワークショップを終えたあと、泣いたり苦しんだりした人ほど、美しくなっている。 あきこさん、じり子さん、なつさん、眞夢さん、Lisaさん、yucaさん、今だから言えることだが、実はワークショップの最中は、私は殆どたいした印象を持っていなかったのだ。
それは私だけではない。 前回の北九州公演で、森田さんがLisaさんを見て、「こんなきれいな人が去年もいたかな?」と仰っていたが、Lisaさんもこの一年で、見違えるように美しくなっていらっしゃるのである。 これは比喩ではなく、実際、別人ではないかと思うほどなのだ。 女性のみなさんに朗報。イッセー尾形ワークショップは、美容に最も効果的です(笑)。
セイノさんは、最後のダメ出しで、森田さんに「Tさんとの違いは分かるよね」と言われていた。頷いた顔の唇の端に、悔しさがにじんでいた。 交流会のあと、時間の余裕のある人たちが集まって、居酒屋で2次会。 セイノさんはもしかして凹んでいるかと思い、私は「また来るよね」と声をかけた。 彼女は、元気よく「はい!」と答えた。
私と組んだKさんは、私の向かいに座って、一緒にモツ鍋をつついていた。 「今度のワークショップで、夫婦喧嘩は悪いものじゃないって思えました」とKさんは仰る。 「うちの親はよく夜通し喧嘩してましたよ」 「でも、喧嘩はしても、奥さんに手を上げる男だけは、許せませんね」 私は、自分が舞台で席を立った時のことについて、その時の心情を説明した。 「興奮すると、男は一応、手は挙げますけど、しまったと思って、降ろすんですよ。あるいは逃げ出す。あの時に立って座ったのは、ちょうどそんな感じでしたね」 続けて、私は「博多の男は」と一席ぶっていた。 「博多の男は本当は弱虫なんです。自分が本当は女には勝てないと知ってます。けれど痩せ我慢して、強く見せようとする。いつだって逃げ出したいのに、いざというときには自分が逃げ出せないことに気付くんです。逃げ出しても近所の居酒屋止まりですね。私も以前、女の子と一緒の時に、ヤクザに絡まれたことがあったんですけど、本音を言えば逃げ出したくて仕方がなかったです。けれども、逃げられない。かと言って喧嘩をするわけにもいかない。ただひたすらニコニコして、一発殴られてもニコニコしてたら、許して帰ってくれました。私は、森田さんが今度のワークショップで、そんな博多の男の心情を組んで芝居を組み立ててくれたことが一番嬉しかったんです」 まあ、これは私のちょっとした自慢話ではあるが、若いころのことなので、今はとてもこんな勇気が出るかどうかは自信がない。 そのこともちゃんと言ったのだが、Kさんは感動して涙ぐんでいらっしゃった。 「そういう相手を見つけたい」とも言ってくれた。 私のような小心者でも、少しは人の心を動かせたのなら、ありがたい話である。
森田さんに散々へたくそ呼ばわりされたある男性は、「わけが分からん」と憤慨していた。 彼を取り囲んで、みんなで寄ってたかって「森田さんの意図はね」と説明しようとする。 みんな、さっきまで森田さんにクソミソにやられていたのに、その男性に同意するどころか、森田さんを援護しようとしているのがおかしい。 森田マジックにすっかりやられているのだ。 見ようによっては、まるで宗教の折伏のようだが、実際、そういう面もあるのかもしれない。
みんな、何かを掴んでいる。 それは言葉にはできないものではあろうが、確実に存在しているものだ。私はそのことを着実に感じていた。
今回の舞台。 時代を現代に設定しなかったのは、森田さんのアイデアである。 「昔の夫婦喧嘩を再現したい」 森田さんは、そう仰った。
どうして現代人の離婚率が高くなり、家庭が崩壊するようになったか。喧嘩できる夫婦の方が本当は幸せで、一方が怒っても一方が黙り込むような、お互いに会話のない夫婦になってしまったら、あとは離婚するしかなくなる……。 描かれる家族の点景は、すべて四人から五人で構成されている。「大家族」が生き残っていた時代で、夫婦の、あるいは親子の喧嘩は日常茶飯事。そこにいる婆ちゃんや近所のおばさんは、喧嘩を仲裁しようともしない。 『ALWAYS 三丁目の夕日』のような、つまりはこれも一つのノスタルジーではあるのだが、あの映画のような物理的なアイテムに頼るのではなく、今回、森田さんが再現を試みたのは、ほぼ失われつつある「博多弁」の数々だった。
「しろしかばい」 「ちゃっちゃくちゃらやな」 「どんこんならん」 「ひっちゃんがっちゃんなってからくさ」 「ふうたんぬるか」 「どこさんでんそうつきなさんな」 「とっとうとね」 「ああもう、ぐらぐらこいた」 「いっちょんすかん」 「なんばしとらすとな」 「すうすうするやん、戸ばせかんね」 「しぇからしかったい」……。
「むかつく」「〜なくねー」「〜だし」文化に一掃されつつある、これら博多弁文化、我々の世代まではごく当たり前の日常語だったものを見つめ直すこと。これが今回のワークショップのテーマになっていた。
博多ネイティブである私も、博多弁を使えない若い人たちばかりの中では、言葉に思いを込められようもない。高校時代に気づいたことだったが、既に私の同世代の人間ですら、博多弁はろくろく使えなくなっていたのだ。 そのころから私は、自分の中から極端な博多弁を封印するようになった。
今に至るまで、私が一番熱心に会話した相手は母に如くものがないが、それは別に私がマザコンだからということではなく、博多弁を喋れる身近な人間が、他にいなかったからだ。 この九日間は、私にとってはそのことを再発見する旅であったと思う。
次は、おそらく五月。
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【ここから18日(土)の日記】
昨日の2次会のあとも、路上で長いことみなさんとお喋りをし、さらにはしげ。とHくんと、深夜の散歩(天神から家まで1時間半かけて歩いて帰っただけだが)までしてしまったので、今日はもう一日ぐったり。
朝方、父を車で迎えに行って、昨日の感想を聞いてみた。 「作品の批評はせん」と父は言った。 身内の出る芝居だから、誉めても貶してもよくない、と考えたのかもしれないが、夫婦喧嘩の話ばかりだから、多少、身につまされたのかもしれない。 「ばってん、イッセーさんに森田さんが、素人を集めて何をしたいのかがよう分からんやったな。別に跡継ぎを育てたいわけじゃなかごたるしなあ」 そのよくワケの分からない雰囲気が、私たちの足を何度もワークショップに向けさせている理由の大きなものなのだろうかと考える。
ほぼ徹夜であったので、それから夕方までは夫婦揃って爆睡。
夕方、出かける用事もあったのだが、どうやら向こうで勝手にキャンセルされたらしい。 メールを送ってもウンともスンとも返事がないのである。 礼儀の通し方を知らないなと思うが、腹が立つほどの元気もない。 しげは、12時間寝て、ちょっと起きて、また寝た。 さすがに今日だけは「起きてちゃんと家事をせんか」とは言えなかった。
夜になって、「ウエスト」でうどんを食う。 ようやく食事が喉に通るようになって来た。 イッセーさんのブログに、コメントを書いた。どうしても「上ずった」表現になってしまうのだが、どうにも興奮を抑えきれないのである。
ワークショップの間、日記を復活させたが、もちろん今後も続けるつもりである。 やっぱり、一番書き応えがあるのは、いくら時間はかかっても、こちらの日記の方なのである。
2004年11月18日(木) 更新遅らせたくないのであっという間に書いた日記(^_^;)。 2002年11月18日(月) 爆走�А人獣量瓦�も……(-_-;)/『エンジェル・ハート』5巻(北条司) 2001年11月18日(日) 休日満喫テレビ三昧/『パワーパフガールズ』第46回/『サイボーグ009』第6話ほか 2000年11月18日(土) 今年はコンサートで眠らなかったぞ/福岡シンフォニック合唱団コンサート
| 2006年11月17日(金) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」九日目/発表会本番! |
今回のワークショップ参加、もちろん職場には明かしていない。 興味があって来てくれる人がいるとも思えないし、何かのセミナーみたいなものにかぶれているのかと誤解されようものなら業腹だし、何より、遊ぶ余裕があっていいですねえとか、皮肉を言われるのがいやだったからだ。 そんなことを言いそうな陰険な同僚もいるのである。
仕事をサボっているわけではないが、発表会に出るためには今日は早退するしかなく、そのためにここ数日、勤務中は食事もろくに取らずに仕事に集中していた。 ワークショップでの神経疲労も重なってだろう、もう三日ほど私は便秘で、その上、胃液だけの嘔吐を繰り返している。
とりあえずの仕事を午前中で片付けて、JRに飛び乗ったのが1時56分。 ホームで「電車が10分遅れます」のアナウンスに、一瞬、血が上りそうになった。 冷静に考えれば、通し稽古は3時からだから、電車が10分程度遅れようと、まだ充分時間に余裕はあるのだが、逸る気持ちが、わずか10分の遅れを苛立たせてしまうのである。 こういう心理はよくない、と自分を落ち着かせようと胸をなでる。
博多駅で地下鉄に乗り変えて、天神へ。イムズホールに到着したのが2時25分。 ポスターが貼られていたのに気付いたが、私がかなり大きく写っていたので、思わず引いてしまった。昨年に比べて少しは痩せた気でいたが、そうでもない(笑)。 客観的に自分の姿を見る機会が少ないので、どうもこれが自分だという自覚がしにくい。私の演技が上達しないのも、自分のことがよく分かっていないせいだろう。
喉がいがらっぽくなっていることに気付くが、喉スプレーを持ってくるのを忘れた。無理してあと6時間を通すしかない。
午前10時からの練習は始まっている。
舞台は、ちょうどしげ。たちのシーンを演じているところだった。 しげ。は、前回北九州ワークショップの時に演じた「キャサリン」と同じ衣装を着ている。チャイハネで買った、アジアのどこの国とも知れないピンクでど派手なシルクっぽいブラウスである。 髪型は私の「森田さんと同じにしてみたら?」という意見で、チョンマゲ風。しげ。は森田さんほどに髪が長くはないので、きちんとしたマゲにはならずに、『げんしけん』のオギウエのようになっている。 着替えるのが面倒くさいしげ。は、この格好のままで電車に乗ってきているのだ。どう言えばいいものか、と思うが、あたまのおかしなやつには何を言ってもムダであることは先刻承知なので、特に何も言わない。
驚いたことに、舞台上でしげ。はまた「キャサリン」と呼ばれている。キャサリンはあくまで前回のキャラクターであって、今回は全く別のキャラだ。出演者たちが打ち合わせてそうしたのかもしれないが、これは明らかに違和感がある。 案の定、森田さんの「キャサリンはやめてね」の声が掛かり、「じゅんこ」に変更になる。 あとで聞いたら、これはしげ。も知らない、相手役のいきなりのアドリブだったそうだ。多分、しげ。が北九州参加者の誰かから「キャサリン、キャサリン」と呼ばれているのを聞いて、ふと思い付いたのだろう。 つまらない駄洒落を飛ばすオヤジのように、つい空気を読めない悪ふざけをしてしまうのも博多人の特徴のようなものだ。 「やりすぎたらちゃんと抑えるから、ともかく引いたりしないで前に出るようにやってみてね」とは森田さんの指示だが、現実にいくらでも前に出たがる博多人が多くて、森田さんは内心、「博多ってどんな土地だ」と驚いていたのではないだろうか。
3時を回る前に、区切れもなく、通し稽古が開始される。 昨日、ようやく上演の組み合わせが決まったばかりで、殆ど練習らしい練習もしていない。 それどころか、われわれのチームなどは、四人のうち、二人が公演時間には間に合わず、6時半からの一回目の公演には代役を立てなければならない事態になっている。 我々が与えられているのは、「家族」という設定、「夫婦喧嘩をすること」という指示くらいのもので、これは殆どぶっつけ本番に等しい。 これはどのグループも同じで、イッセー尾形&森田雄三という意地悪爺さんコンビは、本気で我々シロウトに、ナマの舞台で即興芝居を演じさせようとしているのだ。 これまでにもこのワークショップには二度参加してきているが、一番長い日程を組んでいながら、ここまで全くと言っていいほど直接的な練習をせずに本舞台を迎えるのは初めてである。
「稽古らしい稽古なんてしてないんだからね。お芝居はいりません。声だけがほしいんです。声を作って!」 各グループへのダメ出しは、殆どその点に集中する。 「今回は、二段構えで行きますから。まずは家族で喧嘩をしていると。これは必ず調子が落ちてきますから、そこでイッセーさんがやってきます」 けれども、イッセーさんがどの時点で入ってきて、何をするのかは一切知らされない。 時間はもう、わずか三時間しかなく、イッセーさんはやはり練習には参加せず、各グループの展開をただ眺めているだけである。 いったい何を企んでいるのか。
私たちのチームは全部で四人、親子三人に親戚のおばちゃん(祖母の妹)という構成である。 そのうち、妻役のKさんは、開演に間に合わないはずが、何とか休みを取って駆けつけてくれた。これで代役は一人ですむことになった。 そのTさんの代わりに、一回目の公演に子供役で参加してくれるのは、北九州公演でも一緒だったセイノさん。本気で舞台女優を目指していて、地元の劇団に所属している。 練習の合間にも、「自分が客観的にどう見えるか知りたい」と言って、「私はどんな風に見えますか?」と聞いてきて、メモを取っていた。 「一見、幼いけれども、芯に強そうなものは持っている感じかな。首を前に突き出す癖があるのが、何となく天然キャラっぽい」と、あまり誉めずに(笑)見たまんまの印象を伝える。 こういうときにへたなお世辞が何の意味もないことは私にも分かる。
全体の構成が発表されたが、ここで困った事態が起きた。 セイノさんがもともと出演するシーンだったおばあちゃん役のシーンと、私たちとのシーンと、発表順が連続することになったのだ。着替えの時間が取れない。 急遽、順番を入れ替えることになって、私たちの出番は三番目から四番目にずれることになった。 時間的な問題は解決したが、着替えをどこでするか、ということになって、セイノさんが森田さんに「脇で着替えていいですか?」と聞き、「ダメです。楽屋まで行きなさい」とピシャッと言われる。口調が厳しいので、セイノさん少し堪えてはいないかと心配になった。 声をかけると、「大丈夫です。この役はやりたいと思ってましたから」と元気に答える。
時間がなくて、これまでの日記ではあまり書いては来られなかったが、今回、森田さんにダメ出しをされ、どうしたらいいか分からなくなって、泣いたり逃亡を図ろうとした参加者の方は結構多い。 それを周囲の誰かが励まし、「一緒にやろう」と肩を抱いてきた。それまで殆ど会ったこともない人間同士が、わずか一週間でそういう間柄になってしまっている。
そうなのである。 うまくできなかった時、普通のワークショップや演劇の練習なら、「あいつ、いつまでヘマをやってるんだ」と、非難の目で見られることの方が普通だろう。 その視線の矢が突き刺さるために、失敗が続くと、自分がみなの足を引っ張っているという罪悪感が弥増すことになってしまう。 ところがこのワークショップには、その視線の矢が全くないのだ。セリフが出てこなくて進行が滞っても、溜息一つ漏れはしない。みんなが舞台を見て、心の中で「頑張れ、頑張れ」と応援しているのだ。
どうしてそんな状況が生まれるのだろう。 理由は多分こうだ。 みんながシロウトで、みんなが下手糞で、みんながダメ人間で、みんなが同じ立場だから、誰も誰かを傷つけようとはしないのだ。 すぐに喋りだせる人、時間のかかる人、多少の能力差はあるかもしれないが、それは人としての差では決してない。そのことに、みんなが気付いているのだ。
怒鳴られ貶され、散々罵倒されているのに、逆にそれが人と人との絆を深めていっている。 不思議な光景だが、これが森田さんの計算し意図していることなのだろうと思う。
舞台に森田さんの怒声が響く。 本番直前となって、去年のように椅子を叩きこそしないものの、森田さんのダメ出しは辛辣さを増していく。
「はい、そこで立つ!」 「喋るな! あんたのセリフはつまらないんだから、黙ってればいいの」 「動かない! ……もういい。椅子に座ってられないなら、もう、あんたは前に出てなさい」 「声を作って!」
これだけのことを言われながら、どうしてみな、腹を立て、逃げ出そうとはしないのだろう。
通し稽古を見ながら、私は昨日のある風景を思い出していた。 やはり参加者のある女性が、辛さのあまりだろう、「本番は来ません」と言いだした。 その女性はもう何度もこのワークショップに参加してきているのだが、声が小さく、なかなかキャラクターを作ることができない。一見、暗めな外見なので、練習中に森田さんに「貧乏神」とあだ名をつけられてしまった。 若い女性にしてみれば、とても耐えられないと感じてもおかしくない言われようだ。 昨日の練習にも遅れてきていたので、彼女はまだ組み合わせも決まっていなかった。 「もう出てもみなさんの足を引っ張るだけだから」とか細い声で言う。それを私や周囲のみんなで「何言ってんの!」と叱咤する。 やはり何度も泣いて、一日バックレたこともあるオチ婦長ことあきこさんが、「私はどうなるのよ!」とどやしつける。 私は私で、「今を逃したら来年はないかもよ! 森田の爺さん、死んでるかもしれないし、イッセーさん、撃たれてるかもしれないから」ととんでもないことを言う(とんでもないことを言われてるんだから、これくらい言い返してもよかろう。でも、聞かれてないことを祈る)。
彼女は結局、最後のシーンに出演することになった。 今日作られたばかりのチラシに、そのシーンのタイトルが書かれてあったが、それは『貧乏神』だった。
通し稽古の最後のころには、早いお客さんもやってきている。 その中に、父もいた。父が私が舞台に立っているのを見に来たのは、多分、小学生のころ、学校で落語をやった時以来のことだろう。 「何も食べとらん」と言うので、しげ。がおにぎりを無理やり持たせた。 練習中、おにぎりや弁当などの差し入れが結構あったのは、このワークショップが今年から、「芸術文化振興金助成事業」の一つに選ばれたからかもしれない。
本番第一回目の時間が近づき、稽古は終了、みんながメイクを始める。 私は特に森田さんから何も言われなかったので、スッピンだ。けれども、日曜日という設定なので、髪に寝癖くらいはつけようと髪を掻き上げたら、水木しげるの『悪魔くん』みたいになった。 これは舞台で相方のKさんから「キューピー頭」と呼ばれることになる。若い方であるから、当然、『悪魔くん』なんて知らないのだろう。 しげ。を稽古で「キャサリン」と呼んだ件の男性の方は、眉を〔クレヨンしんちゃん〕のように太くして、イッセーさんに「やりすぎ」とダメ出しをされた。 この時点でも、イッセーさんが我々にどう絡むのか、全く分からない。 入場の仕方の練習すらしていないのである。
そして、時間が来た。 客席はもともと少なめであったが、ちょっと覗いてみると集まっているのは五、六十人ほどだろうか。イッセーさんの一人芝居ほどに宣伝はしていないので、こんなものだろうと思う(あとで森田清子さんが「もっと人に見てもらいたかったのに申し訳ない」と謝られていたが、充分だと思う)。 スタッフの岡田さん作曲の、軽快だけれど少しばかり切なさの混じるテーマソングが流れ始め、何の段取りもなく、我々は舞台の前にズラリと並び、座った。
前説で、イッセーさんが、「『社宅祭り』の参加者を募集します」と挨拶する。 ここは、三池炭鉱・華やかなりしころの長屋式の社宅で(イメージが湧かない人は映画『フラガール』を思い浮かべてください)、今は高度経済成長真っ只中、「わが野間産業も社名がなんたらコーポレーションと変わりまして、これからはチャックのこともファスナーと言わねばなりません」と調子よく時代背景を説明する。
イッセーさんが退場し、舞台は暗転。 最初の「家族」が、「縁側」から「家の中」に上がって行く。 この時必ず、客席側、遠くを見るようにと指示を出していた。社宅の向こうではバーベキューパーティーを開いていて、その家を社宅のみんなは羨ましがっているという設定である。
プログラムをざっと紹介しよう。 今回の発表会は、以下の「家族九景」から成り立っている(●はイッセーさん出演。解説はみな森田さん執筆)。
1、インテリ母さん● 年寄りのわがままに付き合う子供達
2、馬耳東風● ほろ酔い加減のお父さんは奥さんの暴言もBGM 3、怒るが勝ち● お祭りだけが楽しみなお父さん 博多に買い物に出るのが楽しみな子供達
4、買うて買うて!● 子供のわがまま声だけが響いて山河あり
5、不登校兼暴力息子 わがままを通り越した仲の良さ
6、隣の奥さん ばあちゃんの泣き笑いが一家の平和
7、お祭り好きなお父さん● 女達の金遣いの荒さにお父さんは否応なく小市民となる
8、都会から来た嫁● 夫婦喧嘩に口出ししない年寄りの知恵
9、貧乏神● バラバラ万歳!
ワークショップ当初、「発表会まで出られる参加者は20人くらい」と言われていたのだが、テレビでの効果もあったのだろう。 最終的に舞台に立ったのは38人に上った。 練習に参加しただけの人も含めれば、50人は優に越えていたと思う。
私の出番は4番、しげ。は7番だ。 イッセーさんがこれだけたくさん芝居に絡んでくるのも珍しい。北九州では前説以外には一切絡まなかった。 そこにどういう違いがあるのかは私にはよく分からない。案外理由は「適当」だったりするのかもしれない。 けれども、北九州の時とはっきりした違いは、お客さんの反応の方にあった。 一つ一つのシーンが終わるたびに、かなり大きな拍手が起きるのだ。
それがシーンとシーンとの間がはっきり分かれているためであることは分かる。 北九州のときはそれが曖昧な部分が多く、暗転そのものが少なかったので、「拍手のしどころ」がなかった。 しかし、博多での拍手は、暗転による機会的な拍手だけではないように私には感じられた。暗転してもつまらなければ拍手する必要もないはずだからである。
即興芝居を行うに当たって、「『とっさ力』を発揮してよ、相撲を取ってよ」と森田さんは仰った。 しかし、本番の舞台になっても、それがうまく発揮できているとは言いがたい局面が多々現れる。
イッセーさんが乱入した途端に、「沈黙」が舞台に流れてしまう。舞台上のシロウト集団は、何の準備もしていないのだ。 それが「緊急事態」であることは、お客さんにも伝わったことだろう。 演劇を「完成度」で見るならば、これは既に演劇ではない。けれども、お客さんは確実に舞台の上で何が起きるのかと引き込まれている。上手いか下手かを越えた緊張感が漂う。 こんな緊張感は、どんなに名演技を披露しようとも、劇団四季には絶対に出せないものだ。自画自賛ではなく、客観的に他の仲間たちの舞台を見てそう思う。
そこにあるのは、仮構された芝居ではなく、本当に見知らぬ人間がいきなり闖入してきた時に我々が感じる「現実」なのだ。
「ここから先が大事なんだよ、困ったあと、沈黙するか、前に出るか、ただ引くか、いったん引いてもう一度、同じことを繰り返すか」 森田さんの声が脳裏を去来した。
1番の家族は沈黙した。 2番の家族は巻き返そうとしていじられた。 3番の家族は果敢に前に出た。 そして4番の家族である我々は……。
みんな、対応が違う。 それがよかったのか悪かったのか。
1回めの公演が終了して、わずか30分の合間にホールの隅で森田さんのダメ出しが始まる。 心臓がまだ早鐘のように鳴っていて、落ち着かない。 椅子に座る時、手もたれに思い切り尻をぶつけた。隣にいた高校生の女の子に笑われた。 正直、森田さんがどんなことを喋っていたのか、あまり耳には入っていない。 「セリフが重なりすぎていて、間が悪かった」とは言われた。もちろん、セリフを途中でやめるのがもっといけないのは散々言われてきているので、それだけはしなかった結果である。ベターではあったが、もう少しベストに近づけろ、ということだろう。 段取りの段階では立つつもりはなかったのに、思わず立ってしまったことについては、何も言われなかった。
よかったのか悪かったのか。
(翌日に続く)
2004年11月17日(水) Everybody "moe"Somebody 2002年11月17日(日) 爆走�Α秦管堯崗錙弩従櫃世辰�(^_^;)/『柳生十兵衛死す』4・5巻(山田風太郎・石川賢)/『巨人獣』1・2巻(石川球太)ほか 2001年11月17日(土) 多分愛してるんだろう/『料理少年Kタロー』第7話/『カスミン』第7話 2000年11月17日(金) 一日一ドジ女房/東野英心死す。
| 2006年11月16日(木) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」八日目/明日は本番! |
ワークショップ8日目、本番1日前。
当初の話では、今日は「稽古場公演」ということで、昨日の組み合わせで上演をする予定だったはずなのだが、実際にイムズスタジオに来てみると、昼間のうちに組み合わせが全て入れ替わっていた。 夜の部になって参加したメンバーが前に出されて、博多弁で喋らされる。 それを聞いて、イッセーさんがまたメンバーを組み替える。私も昨日のメンバーとは全く違う人たちと四人で家族を演じることになった。 どうも、森田さんもイッセーさんも、「昨日やったことは今日はもうやりたくない」嫌いがあるようだ。 「稽古らしい稽古なんてやってないんだから、名優に見せるためには考えないでやるしかないのよ」 つまりは「全てアドリブ」ということだ。 森田さんと言いイッセーさんと言い、この人たちは素人ばかりの集団に何と言う重い課題を科すことか。 「本番になればやれると思いますから」 とはシロウトをなんてこんなに簡単に信じられることなのか。
設定らしい設定も決めず、ともかく四人組に演技をさせる。 「ダメだよあんた! なんでそこで喋らないの!」 「え? 昼間はこんな感じでしたから、これでいいのかと……」 「昼間どうだったかなんて覚えてないよ! 今、喋んなきゃなんない時に喋ってないから、喋ろって言ってるの!」 怒鳴られて混乱した女性が、立ち往生する。 周りの何人かが、「あれ言いなよ」「練習の時のあれ……」と声をかけてあげて、ようやく女性は口を開けるようになる。 あとで、森田さんは「こんな稽古が何の役に立つのかってことなんだけど、見も知らない人間がたった八日間練習しただけで、あんなふうに声をかけてあげられるようになったってこと、これが大事なことなんじゃないかな」と仰る。 イッセーさんも同じことを仰って、「頑張らないように」と励まし。
疲労はそろそろピーク(苦笑)。 短いけれど、このへんで。
2004年11月16日(火) 麗しのナターシャ r(^^;) 2002年11月16日(土) バカとバカによるバカ論/舞台『WAHAHA本舗全体公演・大福祭』 2001年11月16日(金) 若葉マークはどこへ行く/歌劇『さまよえるオランダ人』(ドイツ・ザクセン=アンハルト歌劇場)ほか 2000年11月16日(木) 風邪がまだ治らんがな
| 2006年11月15日(水) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」七日目/小松政夫さん登場の巻! |
ワークショップ七日目。
いったん決まったかと思われた組み合わせが、どんどん変更される。
「芝居はするなって言ってるでしょ? あんたたちが芝居しても、お客さんはワークショップに参加した人がつまんない芝居をしようとしてるようにしか見えないんだから。芝居をすればセリフを作ろうとするから、どうしても上がっちゃって、詰まるのよ。 動くなって言ってるのも、動けば言葉に詰まってるってのがお客さんには分かっちゃうからなのね。 セリフは作らなくていいの。感情は作らなくていいの。声を変えるだけで、お客さんが感情は作ってくれるんだから」
森田さんのダメ出しもだんだんと語勢を強めてきていて、昨年の北九州に近づいてきた。 「俺のやり方は今来たばかりの新人によく効くんだよな。古手、頑張ってくれよ」 激励なんだかプレッシャーなんだかよく分からない。 「いつもは四日間で作ってるけど、その先をやるってのは俺も初めてなんだから。練習なんてしないからね。そのまま舞台に上げるから」 全く、普通の芝居感覚とは違う。
私も当然、「ここまで来てるんだから、もっと声を変えて! やり過ぎたら、抑えるから!」とダメ出しされる。 ともかく言われた通りにやってみるが、自分ではうまく行っているのかどうか分からない。 余裕なんてなく、無我夢中でやっているだけだ。気が付いたら、自分が演じようと思っていたわけでもない爺さんを演じてしまっている。北九州の時のような日程で、三日前の段階で舞台に立っていたとしたら、こういう役にはなっていなかっただろう。これが長丁場ということなのだろうか。
今日は、サプライズがあった。 博多座で吉幾三公演に出演中の小松政夫さんが、中日の休憩ということで、稽古場を覗きに来られたのだ。 ご存知の方も多いだろうが、小松さんは、これまでに何度かイッセーさんと二人芝居を演じていらっしゃる。先日、NHKで放送された屋台ドラマもそうだ。 「ちょっとみんなに参考のために演じてみせてよ。新作で」 森田さんも突然、小松さんにネタを振る。 「そんな、心の準備が」と驚く小松さんに「40年準備して来てるでしょう」と即座に返す森田さん。プロの方にも遠慮がない。いや、遠慮しているようではプロではないのだろうが。 イッセーさんと小松さんの全く打ち合わせなしの芝居が始まる。 長い沈黙の後に「10年前、いや、7年前。私はまだ許してませんよ」と振るイッセーさん。「あれは私じゃありませんよ」と返す小松さん。緊張感の漂う瞬間。 森田さんが「オッケー、一人女の子を入れよう。この子は北朝鮮からの難民ね。その子をどうしたらいいかってことで相談してるの」と指示。 途端に状況が複雑化し、二人の間に困惑のムードが漂う。女の子が「さくらさくら」を歌い出す。 歌詞を間違えたのを聞いて、「この子はこれまでにこの間違いのまま覚えてきたのか、これから歌うために歌ったばかりなのか、間違いを教えてあげるべきなのか」とどうでもいいことで悩み出し、小松さんはエセ中国語で話しかける。 「それ、中国語で韓国語じゃないでしょう」 「朝鮮人は中国渡ってこっちに来てるんだから中国語もできるんですよ」 「アジアにお詳しいことで」 これが全て即興なのだ!
そりゃ面白いんだけどさー、まさかこれを私たちシロウトに要求してるってんじゃないでしょうねえ、森田さんは(苦笑)。
小松さんの博多弁講座、ギャグ作りの秘訣、イッセーさん森田さんと初めて会った時のエピソードなど、語るべきことは多いけれども、時間が来たのでここまで。
2004年11月15日(月) 勘違いの悲喜劇 2002年11月15日(金) 爆走�ァ拭愼芦菎舂Α拌茖渦� 2001年11月15日(木) お客様は皆の衆です/『真・無責任艦長タイラー�の瑳�編』(吉岡平)ほか 2000年11月15日(水) みんな妄想の中に生きているのね/『リアル国家論』(教育資料出版会)
| 2006年11月14日(火) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」六日目/泣く鴉 |
ワークショップ6日目。
本番の組み合わせが決まっていく。 大枠が決まるだけで、細かい段取りや組み立てなどが決まっていくわけではない。 これまでのワークショップ以上に、即興が要求されている。 森田さんはそれを「とっさ力(りょく)」と呼ぶが、もともとそんなのが不得意な人間が集まってきているのだから、パニックに陥る人も、当然現れてくる。 自分で予め考えていたこと、不自然な小芝居、こういうものにどんどんダメ出しが出る。自信がないから、これを言おう、あれを言おうと考えるのだが、すぐに詰まる。 「内容を考えようとするから上がっちゃうの。キャラクターを作るだけなのよ。考えちゃだめよ。『相撲を取れ』って言ってるでしょ」 森田さんのダメ出しも、以前のように怒鳴ることことなけれ、容赦ない点では変わらない。私も作るキャラ作るキャラが「作り過ぎ」とダメ出しを食らう。
今回も泣き出して飛び出してしまった女性がいた。 既に何度も北九州でご一緒していたオチ婦長……あきこさんである。 「みんなが輝いているのに私だけがしかられて……。もしかして森田さんに変な野心があるって思われてるんじゃないかと思うと悔しくて……」 考えすぎるとロクなことにならない、とはこのことだが、おそらくこれはあきこさんだけの問題ではないだろう。 ともかく一晩、ゆっくり寝ることだ。 そうすれば、今泣いた鴉が、もう笑うのだ。
たった一週間とちょっとなのに、疲れがどんどん溜まってくる。 日記がどんどん短くなっていることで、それを感じていただけると幸いである……って、こんなことが書けているだけ、まだちょっとは余裕があるかな。
2004年11月14日(日) 美しさは罪……何のことなんでしょう(^o^) 2002年11月14日(木) 爆走�ぁ振絛船灰鵐機璽函拭愍个い鮑遒襦‐緤�芸能笑いの放送史』(澤田隆治) 2001年11月14日(水) 『千と千尋』新記録!/アニメ『ヒカルの碁」第6局/ドラマ『死者の木霊』 2000年11月14日(火) 年7回は風邪引いてるな、私/『まどろみ消去』(森博嗣)ほか
| 2006年11月13日(月) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」五日目/バトルロイヤル! |
ワークショップ五日目。
またまた職場を定時に飛び出してのイムズ通い。 今日は朝、携帯を家に忘れてきてしまったので、正確な時間が分からない(肌荒れしやすいので腕時計はしないのである)。 一分、電車に乗り遅れると、6時の開始時間には間に合わないので、かなり焦る。 焦りながら、「入れ込んでるよな、俺」と苦笑もする。自己嫌悪に陥ることだってあるというのに、ワークショップに何を求めて、ここまで熱心になってしまっているのかと自問自答もしてみるが明確な答えが浮かんでは来ない。 浮かんでは来ないことが答えなのだろうかとも思う。
ホールに到着した直後、しげ。が、「公演当日、始まりが10時だってよ?」と言う。 午後3時からだと聞いていたので、またまた焦る。年休を取って駆けつけるつもりでいたが、平日、まる一日の休みを取るのはまず不可能だ。 森田さんに恐る恐る「3時にしか来れないんですが」と伺いを立ててみると、「ああ、いいよそれで」と言われてホッとする。 「あんた、足手まといだから今回は諦めて」と言われて舞台に立てないのなら諦めもつくのだが、時間に間に合わなくて来られなくなるというのであれば、こんなに悔しいことはない。 でも実を言うと、3時に間に合うかどうかも当日の仕事次第なので、まだまだ油断は出来ないのである。 ドタキャンだけはしたくないなあ。
夜の部、参加人数が一気に増えて、30人とちょっと。 新人さんも何人か来られている。朝、KBCの『アサデス。』にイッセーさんが生出演、「絶対に面白いですから」とワークショップの宣伝をされていたので、その効果もあったのかもしれない。 清子さんの姿が見えないが、今回はイムズが殿様商売で殆ど宣伝をしていないとの話を聞いているので、もしかしたらチラシ配りに奔走されているのかもしれない。 イッセーさんご本人もちゃんと出演されるので、ぜひお客さんには来てほしいのだが。
森田さんが突然、「公演前日に仮公演をスタジオでやるからね。友達呼んでね」と仰る。 いつもは二日間公演を行って、一日目の公演に森田さんがダメ出しするのがパターンなのだが、今回はそれがないので、急遽「臨時公演」のような形でやるとのこと。 少しでもお客さんの前でやることが大切だ、という趣旨は分かるが、ホールとスタジオとでは雰囲気がまるで違う。実質的にはやはり本番一発、という感じになるだろう。心の中の焦燥感、緊張感はなかなかほぐれない。
昼間、「『癖』を取り入れてみよう」という試みをしてみたとか。 両親のちょっとした手癖などが、「何かありげな」雰囲気を出すのだと仰る。 夜の部もそこから始める。ちょっとした動きを取り入れてみるが、そのとき仕草としての「癖」と、言葉としての「セリフ」が、あまり一致しない方が面白くなる。ところがついつい、仕草に一致したセリフを言いたくなってしまうから、これもなかなか難しい。
「連想ゲームをやりましょう」 何か舞台で困った時、「これ」という「名詞」を思い出せれば、これが助けになるということ。 隣の人の挙げた名詞から、次の人が挙げる名詞、これが何となく繋がりのあるようなかけ離れているような、その雰囲気が、「名詞」が「文章」になり「セリフ」に変化していくに連れ、「家族の微妙な会話」へと変化して行く。 これが森田マジックだ。
「当日は何にも決めないでいきなり舞台に上げるからね。『相撲』を取るつもりでいてよ」 それは相撲と言うより、バトルロイヤルでしょう、と言いたくなる。
あとは、実際に舞台に見立てて、何人かの組み合わせで擬似家族を造って行く。 当日まで、都合で来られないと仰る方がいらっしゃったので、私と組んで夫婦を演じることに。 前回と違って、今回は早々と出演が決まった。 それは一つの安心であるが、森田さんから「あなたの演じているのはあなた自身だから。キャラクターをちゃんと作って」と言われる。 父をイメージしていたつもりだったが、まだ「自分」が残っていたのだろう。また一つ課題が増えた。 「いろいろ挑戦してってね」 森田さんの悪魔の声が、また会場に響き渡る。これに戦々恐々としつつも、集まったみんなは、やはり当日も逃げ出さずにやってくるのだ。
不思議な時間はもう少しだけ、続く。
2004年11月13日(土) 10万ヒット!( ゜ ▽ ゜ ;) 2002年11月13日(水) 爆走��/『若者の法則』(香山リカ)/DVD『刑事コロンボ さらば提督/ルーサン警部の犯罪』 2001年11月13日(火) また書く原稿が増えそう(^_^;)。/『時をきざむ潮』(藤本泉)ほか 2000年11月13日(月) 泣いてるようだが怒っているのです/『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』4巻
| 2006年11月12日(日) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」四日目/不幸なことが幸せ |
ワークショップ四日目。 従来のワークショップなら、明日は本番、というところだから、今日は無理やりにでも本番の組み立てをしていかなければならないところだ。 けれども今回は更にプラス四日間ある。森田さんにも余裕があるように見えるが、シロウトの集まりというのはその中にいてもやはり怖いと思う。今日明日でやっぱり全員が焦ってくるのではなかろうか。 空模様も昨日までの雨こそ上がれ、どんよりと暗い。
今日も1時間前に会場のイムズに到着。 今日になって、イムズ前に今回の公演&ワークショップの大きな垂れ幕がかかっていることに気が付いて、写真を撮る。 そのときに、「ワークショップ公演会場 イムズスタジオ」と書いているのを見て、「え? ホールじゃないの?」と焦る。 お客さんが来ないという判断なんだろうかと不安になる(あとで森田清子さんに伺ったところ、「ちゃんとホールでやります」ということであった。単に練習箇所がスタジオだということだったらしい)。
昨日はそれなりにうまくいった感じだが、今日はどうだか分からない。 と言うか、そろそろ疲れが溜まり始めているので、自分でも集中力に欠け始めているのが分かるのだ。昨日まではそれほど感じていなかった眠気が昼間から自分を襲い、時折、ぼーっとして、はっと前を見直すということを繰り返している。 これがただの中だるみで、再び盛り返して来るのならいいのだけれど。
昼の部は、時間通りに集まってくるのは10人くらい。 これがだんだんと増えていって、20人〜30人くらいになる。40人定員だから、これでも少ないくらいなのだが、毎日は来られない人もいらっしゃるので、一日に集まってくるのはこれくらいのものなのだろう。 四日目ともなると、人見知りの私であっても(笑)、初参加の人たちともだんだん仲良く口を利くようになってくる。 若い女の子が何人か参加していたが、そのうち二人が高校三年生であることが分かった。 「成績余裕ないんでー、本当はこんなことしてる場合じゃないんですけどー」などと明るく語っている。いやいや、世の中には受験より大切なことの方が圧倒的に多いのですよ。 先月の北九州公演の時にもやはり高校生の女の子が参加していたが、担任が「学校の分化祭を優先しろ」と命令されて、泣く泣く諦めたそうだ。誰か一人のわがままを許したらクラス経営ができなくなる、という判断だろうが、つまらん判断である。 今回の高校生は、二人とも参加できるということなので、ほっとする。 しかしイマドキの高校生は私服を着ると本当に分からないね。若いことは若いのだが、二人とも大学生くらいかと思ったくらいに外見は大人びている。喋ってみると全然幼いので、精神的成長も必要だぞー、と思ってしまうのだが。
今日は、円陣を組むこともあるが、昼、夜ともに「組み合わせ」が中心となる。
「夫婦喧嘩ってね、どうでもいいことで喧嘩するじゃない。どうでもいいことで喧嘩できるってことは、本当は幸せなことなの。大きな不幸については会話ができないと思って。亭主が浮気してるとか、サラ金に借金があるとか、そういうのは大きな不幸なの。そういうのも混ぜていくけど、まずは『小さな不幸』を探ってみようよ。どうでもいいことを喋っているとね、自然にユーモアが生まれてくるから」 森田さんの指示どおりに各自が「ちょっとした不幸」を語り、演じていく。その間にも当然、ダメ出しが入る。 「お母さんが痔」。これは「ちょっとした不幸」になる。 「お母さんは自分が痔だってことを全然言わないでしょ? だからなぜか家の中でイライラしてる。理由が分からないから、そこから話が広がるの。これがちょっとした不幸なのね」
いよいよ「組み合わせを決めていこう」と仰るが、森田さんが指示するのでなく、参加者に選ばせる。「ちゃんと話が続く組み合わせを選んでね」と言われるが、とっさのことで、誰と誰を前に出せばよいのか迷う人もいる。 話が弾む人もいれば、続かなくなる人もいる。 「一回、落ちちゃっていいのね。それからどう盛り返すか、その立ち直り方が分かれば、こちらから合図を出さなくても自分で何とかできるから。そうすれば鬼に金棒なのね」 その金棒が手に入らないんですよ、森田さん。
私も昨日の繰り返しで、新しい発見ができなかった。 表面上、どう見えたかは分からないが、かなり落ち込む。
今日一番受けていたのは、若い暗めの男性と、高校生のコンビだった。 男性が最初に喋ろうとするのを森田さんが制止して、一方的に高校生に喋らせる。高校生はショボンとしている男性に、駄々をこねたり携帯でほかの男性とわざとらしく電話して反応を引き出そうとするが、男性は沈んだままだ。 「ねえ、どうしてそんなに無表情なの?」 それでも無表情な彼に、みんな爆笑。 散々責められても無言な彼に、 「嫉妬もしないの?」 彼はようやくポツリと 「いや、嫉妬した」 してるのか、お前、といった間抜けな雰囲気が流れて、また大爆笑。
まだまだ組み合わせは決まらない。先はまだまだ見えない連休が終わり、あとは四日間。
2004年11月12日(金) アラファ〜ト私がぁ、夢のぉくぅにぃ〜♪ 2002年11月12日(火) 爆走�◆拭愼�本の古都はなぜ空襲を免れたか』(吉田守男) 2001年11月12日(月) だからアメリカは戦争好きなだけだってば/『ザリガニマン』(北野勇作) 2000年11月12日(日) せめて漢字くらいは……
| 2006年11月11日(土) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」三日目/懐かしい人々 |
ちょっと計算してみたのだが、日記を更新していない間も、この日記には一日に約200人のお客さんがいらっしゃっていたのである。 もちろん、殆どはGoogle検索によるイチゲンさんなのだが、アクセス解析を開いてみると、同人誌関係のキーワードで情報を求めている人がかなり多い。 「受け・攻め」書いとくだけで、客が増えるという寸法だ。中身を読んで頂ければ、検索者の方々は、多分、拍子抜けするか怒り心頭に発するかのどちらかになると思うが、そんなのは知ったこっちゃないのである。 改めて言うまでもないが、この日記のタイトルは『無責任賛歌』なんだからね(苦笑)。
朝、NHK総合「おはようサタデー九州沖縄」(午前7:35〜8:15)で、イッセー尾形さんのトークが放送される。一昨日、収録されたばかりの新鮮な映像。ワークショップでイッセーさんが「歩き方」を指導している様子もチラッと放送。 「みなさん、舞台に上がる時はもう無我夢中で、手なんかぶるぶる震えてますよ。私もそうですから」の言葉に、見ている私はほっと息をついて安心し、「苦労が増えたな」の言葉に頭を垂れる。 「舞台の上ではみんな孤独なんです。けれども孤立はしていないんですね。みんなが支えているんですから」との言葉には感謝もしつつ、複雑な思いも抱く。
今、ワークショップのみなさんと良好なコミュニケーションが取れているのは、「舞台」という共通のフィールドを持っているためのシンパシーが存在し、しかも個人的な利害関係が生じていないためだ。 PPPの活動を通じても実感したことだが、正直、「金銭」などの問題が生じれば、100%人間関係は破綻する。それ以外の問題についても、今の仲間たちと、妙な利害関係が生じなければいいと、切に思う。 何分、私もしげ。も、親しくなればなるほど、相手に対して「手加減」ができなくなってくるのだ。
休日なので、ワークショップには初めて昼の部から参加できる。 2時からの開始なのに、しげ。は11時には出発しようと言う。天神まではバスを乗り継いで、多少渋滞があったとしても、45分もあれば余裕で到着する。 何と昨日までは2時間早く現地に着いていたそうだから、しげ。の不安神経症は、相変わらずよくなっていないのである。
「ワークショップでお金がかかるから、今、病院で薬、もらっていないと」というしげ。は、夜も眠れず、今朝は父を店まで送る車を運転していて、舗道に乗り上げ、タイヤをパンクさせた。 全然、シャレになってないのである。
12時過ぎに家を出て、1時には会場のイムズに到着。 スタジオの前で、ぼんやりと待っていると、北九州ワークショップからの仲間のOさんとOさんがやってくる。 二人ともイニシャルはOさんだが、片方はワークショップのたびに痩せ、片方は太っている。ストレスの溜まり方も人それぞれだ(笑)。 ほかにもOさんはたくさんいらっしゃるので、あとは役名やハンドルネームで呼ばせていただく。 痩せたOさん(オチ婦長)は、今回、森田さんから一番ダメ出しをくらっているので、かなり気分はブルーらしいのだが、傍目には全然明るくてはきはきしていて、そんな風には見えない。だからまた森田さんにいじめられるのである。 人徳というものであろう(笑)。
てっきり、スタジオで練習するものだと思っていたら、ホールの方がまだ使えるということなので、階下に移動。 なんと、今回は参加しないと仰っていた、小倉ワークショッパーズ(デパートの名前のようだが、命名は森田さんである)の、じり子さんとなつさんが応援にいらっしゃっていた。 一週間北九州に通っていた私が言うのもヘンだが、よく福岡まで来てくださったと感激する。みんなフツーの人なのに、ワークショップを経験したあとはなぜかみなさん凛々しく見えるのが不思議だ。
なつさんは、転職して来月からは植木屋さんだ。昨年は森田さんに「『影が薄い』って、自分のことを覚えて貰えなかったし、ダメ出しももらえなかった」と歯噛みされた女性だが、リベンジを図ったように今年は舞台で生き生きとした演技を披露された。 この一年で見違えるほどに美しくなられている。森田さんにもちゃんと記憶して貰えて、声をかけられている。幸せそうな笑顔が一層美しく、これがワークショップ効果というものかと驚く。 もちろんそれが、なつさんの中にもともと眠っていた何かが、呼び覚まされた結果であることは言うまでもない。
毎日、新しい参加者があるが、どうやら公演当日、出演できる人員は20名ほどらしい。 「期間も長いから、きっちりしたものを作っていきましょう」と森田さんが仰る。プレッシャーを感じていると、森田さんからいきなり「新しい人にどんなことをやるか説明してあげて」と聞かれる。しどろもどろになって、うまく答えられない。 私が弁が立つとか、困った経験がないと勘違いしている人がよくいるが、私はおそらくはしげ。以上に対人恐怖症であるし、生活無能力者であると思う。 もっとも、そんなことを言えば森田さんには「抜け抜けと」と一笑に付されてしまうことが目に見えているが。
今回のキーワードはどうやら「夫婦喧嘩」ということになりそうで、新しく来られた人にも森田さんは、昨日まで聞いていたように「両親はどんな喧嘩をしてた?」と聞かれる。 言葉の応酬が激しい家庭、皮肉や愚痴に近い家庭、すぐに手が出る(夫からだったり妻だったり)家庭など、家庭ごとにケンカの仕方は当然違うが、みんなが喋っているうちに、何となくな「博多の共通点」みたいなものが見えてくる。
「博多の人の特徴はね、大げんかした後で男が外に逃げ出しちゃうことね。田舎じゃね、逃げ出しても外に何にもないから、行くとこないのよ。俺、金沢だからさ、出て行きたくても外は寒くて、部屋の中にいるしかないのよ。で、結局、お互いだんまりになっちゃう このだんまりがよくないのね。昔は大げんかしてたら、近所の人がやってきて仲裁とかしてたけど、今はほったらかしでしょ? 黙ってたら別れるしかないもの。だから、このだんまりの先にあるものを見つけようよって、そういうことを目指したいの。それが『演劇』の目的なのね」
「演劇」は「人生」に重なっているのである。 私もそうだが、「映画」や「演劇」に興味を持てない人を人として見られないのは、本当に「人」を感じないからなのだ。
森田さんの「演説」がひとしきりすんだので、再びスタジオに移動。 「何でもいいからデタラメを言ってみよう。デタラメを言うにはどうしたらいい?」と森田さんが問いかけると、なつさんが「ともかく『ハッタリをかます』というのはどうでしょう」と即座に答える。 本当に頭が切れる方だ、と感心する(惚れてるわけではないので、勝手に憶測をたくましくしないように)。
円陣を組んだ一同が、次々に適当なハッタリをカマしていくが、いかにも本当らしく聞こえる人、ウソっぽい人、個人差が激しい。 じり子さんの「2ちゃんねるで本名バラされちゃってえ、それはいいんだけどぉ、『じり子さんですね?』って声かけられるようになったのがウザくてぇ」などは、本当にそういう経験があるようにしか聞こえなかった。 これが別に演劇経験があるわけでも何でもないシロウトさんがされているのである。うまい、へたではなく、他人のイメージを借りると、これくらいのことは簡単にできるようになるということなのだ。
「じゃあ、そろそろ舞台の練習をしてみようか」の森田さんの掛け声で、椅子が四つ、いつもの舞台同様に並べられる。 昼の部は女性の方の参加者が多いので、「夫婦」を演じるとなると、どうしても同じ男性が何度も引っ張り出されることになる。 何人かの女性が、「草莽の志士さん」を相手に愚痴を言ったりするが、「喧嘩」にまでは昇華しない。 「ほら、それじゃ、もう男を許しちゃってるでしょ? それじゃ続かないのよ」 「そこは『ゴメン』じゃないなあ」 回りに鼻歌を歌わせたりして雰囲気を作ろうとするが、なかなか乗ってこない。去年に比べれば森田さんのダメ出しの口調は優しいが、「よくない」という意志は明確で、妥協はない。 「舞台で上がらないようにしようって、それだけなのよ。うまくいかないのは、借りてるイメージの人が違うだけだと思って。別の人を探してみてね」
私の番が回ってきて、先ごろ離婚したばかりという女性と組まされる。 「夫は、初めは黙っていてね」と言われるが、いずれ何かを応対しなければならない。もちろん、どうするかは考えてはいない。私が考えているのは、「父のイメージ」を借りることだけだ。 ところが、この女性が殆どマシンガントークのように、酒飲みだの外泊するだのと、私への非難を口にし始めた。その勢いがものすごかったので、森田さんの合図があった途端、自然に「せからしか!」と声が出る。 あとは、もう自然な「博多人」の口論。もちろん、夫の方がちょっと負けているのだ。
次もまた別の女性と組むが、森田さんから「また別の対応をしてね」との指示。それは相手次第なんですよー(涙)。 ところがこちらは別の攻め方で、一人勝手な愚痴ばかり。また自然に「何が言いたいとや?」とセリフが出てきて、「あんた臭い!」と言われた途端に「男は臭かと!」と反論している。 見ていたみなさんから、拍手が起きた。
森田さんが「ね、いかにシナリオライターがウソをついているか、分かるでしょ? これが文化なのね」と仰る。 ドラマのライターたちが、リアルなセリフが書けなくなっているのは、私も実感しているが、これはもうどうしようもないことかと諦観もしている。だから殆どの 映画や舞台を、私は「ツッコミ」することで楽しむしかなかったのだ。 けれども、「こういう方法もある」ということを、演劇人はもう少し考えてもいいのではないか。
私が「劇団四季」とか「ギンギラ太陽S」をどんな悲恋ものや感動ものでも笑ってしかみられないのはそういうことなのである。 四季出身のさー、カガタケシとか、イチムラマサチカとか、ヤマグチユウイチローとかさー、フツーの芝居の中に入ると浮いてるだけだってのがわかんないのかねー(笑)。
いかんなー。やっぱり「無責任」書き出すと長くなるわ。 時間がなくなったので、夜の部の内容が書けなくなったが、かいつまんで。
続けて「夫婦」の舞台を練習するが、またうまくいかなくなって、円陣に戻す。 「誰かの悪口を言う」練習。 痩せた人の悪口や太った人の悪口。 ただの悪口ではなく、「言葉を工夫し、文化度を高める」ことを要求される。 「シチュエーションは最後に作るから、まずは言葉を考えて」。 しげ。が「インド人野郎!」と言った途端に、全員の目が私に向いて、笑う。 私はどこかインド人っぽいらしい(笑)。
最後は歩き方を練習して終了。 明日もまた。昼からだ。
2004年11月11日(木) ホームページ消失!?(°°;)) 2002年11月11日(月) 爆走� 織▲縫瓠悖丕稗腺裡蓮拌莪賚叩拭愡�代劇マガジン』vol.1 2001年11月11日(日) 日記・日記・日記/アニメ『サイボーグ009』第5話/『八犬伝』13巻(碧也ぴんく)ほか 2000年11月11日(土) 今日はなんだかイタイ話ばかり/『ZERO』(冬目景)ほか
| 2006年11月10日(金) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」二日目/博多弁・ア・ゴーゴー! |
ワークショップ二日目。
仕事を定時に引き上げて、電車に飛び乗る。 地下鉄への乗り換えは、昨日もそうだったが、駆け込み乗車だ。 そうしないと、6時の開始時間に間に合わない。 要項には「遅刻OK」と書いてあるが、そう書かれてあると、「絶対に遅刻なんかしてやるもんか」という気になる。 天邪鬼なことだが、気分はまさに「生徒」になっているということだ。世の学校関係者も、「遅刻? 好きにすれば?」と生徒に言ってみたらいかがか。それで誰も来ない教室で先生が泣くことになっても私は知らんが。
勢い勇んでイムズ会議室に到着したが、森田さんはまだ来られていなかったので、拍子抜け。 それどころか、集まっている参加者もまだ五、六人である。 パイプ椅子にちょこなんと座っているしげ。に聞くと、昼間は演劇学校の生徒が大挙して来ていたとか。「若い子がいるとやりにくい」とか言ってるが、昼の部から来たかったなー、と真剣に思う(笑)。
昨日はイムズホールの方で、肩慣らし的に、「自分の両親を演じる」「夫婦喧嘩の気まずい雰囲気を出す」「自分と反対の人を演じる」「自分が無視したい人」「くつろいだ部屋の中に闖入してくる人」などを演じさせられた。 基本的に脚本のない即興芝居だから、「演じる」ことはシロウトには難しい。 そこで、「身近な他人のイメージ」を借りる。それはいいのだが、本番で客の中にその演じた知り合いがいないことを切に願ってしまう。どうしてもその人のエキセントリックなところを真似してしまうからね。
いや、厳密には「イメージを借りる」というのは「真似する」のとも違うだろう。 実際にその人が語ったことをそのまま口にするわけではない。森田さんは、「イメージが借りられれば、言葉は自然にどんどん出てくる」と仰る。実際にそのモデルの人が喋った言葉ではなく、「その人ならこう喋るだろう」という言葉が紡ぎ出されていくのだ。 私が「これが自分だ」と思っている「自分」もまた、仮構された一つのキャラクターに過ぎない。逆に言えば、「私って口ベタだから」とのたまう方は、「口ベタな自分」をイメージしているから喋れなくなっているのだとも言える。 喋れる人をイメージすれば、人は喋れるようになるのである。
イッセーさんは今日はイムズホールで本番の舞台があるので、今日は来られない。 五分遅れでやって来られた森田さん、また新しい人が参加しているので、心がまえのようなことを仰る。 「内容のあることを喋ろうとするでしょ? そうすると途端に言葉が出なくなるよね。でも好き勝手に喋ってる人の喋りってのは内容なんてないの。世の中、内容のあることのほうが大切だって風潮があるじゃない? そうじゃなくて、内容のないことの方がずっといいんだって芝居を作ろうかって思ってるの」
「内容のない芝居」というのは、「無意味な芝居」という意味ではないのだろう。 内容なんてないのに、何か面白い。シロウトばかりなのに、なぜか目が離せない。予測不可能の舞台。そういうものが目指せればいいのかもと思う。
最初は「夫婦喧嘩」。これがうまく乗っていかない。それで「学校の先生」を演じてみる。その口調のイメージを持ったままで、夫にすり変えていく。 「かなり高級なことをしてるからね」と仰る通り、「イメージのスライド」を即興でやるというのは「シロウト」をただの「シロウト」として捉えたのでは、とても要求できないことだろう。「シロウト」だけれども「人間なら」生きるために必要となるスベの一つ。 そんな気がする。 いつものことだが、練習が始まると頭が真っ白になってしまう。
「沖縄でワークショップやったんだけど、誰も沖縄民謡のこと知らないのね。本島の人はもう風習なんかが分からなくて、(別の)島の人が知ってたりするの」 何の話かと思ったら、「博多らしさを出していこう」ということらしい。 具体的には「方言」を取り込んでいく練習である。
小松政夫さんのエピソードを引いて、「あの人ね、人がもういやだと思ってることが分かんないのね。飲み屋で『もう帰るから』って言うと、『え? どこへ帰るとですか?』って言うのよ。絶対に人のことを悪く捉えようとしない。それが博多の人の特徴でしょ?」 そんなもんだろうか、と思うが、そのあと即座に「そういうことにしようよ」と仰ったので、一同大爆笑。これで雰囲気が出できた。順番に「博多の人」を演じ始めたのだが、みな自分の嫌いな人や鬱陶しい人を演じているのに、どこか「愛敬のある人」に見えてしまう。 私も、職場の苦手な同僚を何人か真似してみたが、森田さん、即座に「優しそうでしょ?」と仰る。
博多弁で、「夫婦喧嘩」をしてみる。 「方言のね。ニュアンスを捉えていこうと。言葉は何言ってるのかわかんないんだけどさ、ニュアンスは伝わるのよ。それは博多の人が演じて、博多の人が見るから通じる空気。そういう物を出していこうと」 会話の中で、「よかろうもん」や「すかーん」が飛び交う。ワークショップには他県の人たちも何人か混じっているが、やはりそういう人たちにはこの「ニュアンス」がうまく出せない。ただ怒鳴っているだけ、真似ているだけで、博多人の微妙な感情が伝わってこないのが如実に分かる。 なるほど、これが「血」ということかと感心していると、森田さんがまさしく「これが『血』なのね」と仰った。 「人を見る目がある人」というのは、こんなにも的確で凄いものなのか。
睡眠不足のはずなのに、眠気が吹っ飛んだ三時間が終わる。 外は雨。地下鉄を使わなければならなくなったしげ。が、露骨に「バス代の方が安いのに」という顔をするのが可笑しい。
明日は昼から、6時間。昼から参加できるのが嬉しい。
2004年11月10日(水) チャット再開?/映画『キャット・ウーマン』 2002年11月10日(日) 永遠という名の魔女/『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』40話/『ギャラリーフェイク』26巻(細野不二彦) 2001年11月10日(土) AIQ機動!……いや、とっくにしてるんだけども/『不死身探偵オルロック』(G=ヒコロウ)ほか 2000年11月10日(金) 今日は本読みすぎて感想書ききれない/『クトゥルー怪異録』(佐野史郎ほか)ほか
| 2006年11月09日(木) |
『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」初日/嫌いな人は? |
「演出家森田雄三withイッセー尾形の『イッセー尾形のつくり方2006in博多』ワークショップ」初日。
昨年9月、および先月の小倉ワークショップに続く、3度目のワークショップ参加である。 こんなに回数を重ねれば、随分馴れていることだろうと想像される向きもあるだろうが、自分ではそれがよく分からない。 今日も小倉の「同士」だったSさんから、「もうすらすらとセリフが出てくるでしょう」と言われてしまったが、そんな域に達しているなら、本業を辞めて俳優をやっているところだ。 自分に華がないことは充分承知しているので、分不相応なことは考えていない。
しかし、私はなぜこう何度もこのワークショップに参加しているのか。 他のワークショップに参加した経験もあるのだが、イッセー尾形&森田雄三両氏のそれほどに「心をかき乱される」経験をしたことはない。 昨年は、森田氏の罵倒がくだらない私のプライドをズタズタに切り裂き、それが心地よかった。 ある意味それは、被虐的な行為とすら言えようが、もちろんこれは浅薄なマゾヒズムとは別種のものだ。他者に対して「無理をしていた自分」に気付くきっかけを与えてくれたからである。
ただし、きっかけはきっかけであって、それから何歩も前に進んだ気がしない。 藤子・F・不二雄氏の言ではないが、「進歩をしないのが人間」なのである。 昨年とは打って変わって、今年の森田氏は「気持ちが悪いほどに優しい」が、それが、進歩しない参加者への諦観でなければよいと思う。 もっとも、進歩していないのは私だけのように見えて仕方がないのであるが(苦笑)。
しげ。はさて、どんな気持ちでこのワークショップに参加しているのだろう。 「なぜか応募フォームに書き込んでいた」 そういうしげ。を観察していたい、というのも参加理由の一つなのである。
仕事を定時に終えて、電車に飛び乗って、果たして会場のイムズホールに間に合うのだろうかと思っていたが、到着したのが5時55分で、まさにギリギリであった。 これは一本も電車を逃せない。
イムズに到着したところで、北九州ワークショップでご一緒していたオチ婦長(あきこさん)、妖精さん(Sさん)らとすれ違い、挨拶する。 みなさん、散々ワークショップで痛い目にもあってきたろうに、懲りないことである。
ホールに入った途端に、演出家の森田雄三さんから、「こないだ会ったばかりだね」と声をかけていただく。 顔を覚えてもらえたことはありがたい話だが、これは同時に恐怖でもある。 自分がうまくできたかどうか、全く自信はないが、こうして応募が撥ねられもしなかったということは、一応、それなりのものは要求されているということなのだろう。
しげ。から、森田さんが「夫婦で参加すると、どっちかがダメになるもんなんだけど、あんたのとこはどっちもいいからよかったよね」と仰っていた、ということも聞いているのである。
いつも通り、円になった椅子の中央に、森田さんが陣取る。 見渡すと、北九州でご一緒していた人や新宮ワークショップの人もいた。 完全な新人さんはあまり多くはないようだ。
初日なので、まだ実際に演技に入らないで、イメージトレーニングをするのは今までと同じ。
「自分と反対の人は誰か、言ってみて」 口々に友人や家族の名前を挙げるが、その人を肯定的に捉えている人と、否定的に捉えている人とに分かれる。
「親はどんな夫婦喧嘩をしてた?」 たいていの家族で、父親の方が外に出ていって終わる、というのを聞いて面白がる雄三さん。 具体的に喧嘩の言葉を言わせてみると、「よかろうもん」「男のくせにみたくもなかね」などの博多弁が飛び交う。 「これを言えば喧嘩が終わるってセリフがあるんだね」 と感心する森田さん。
ほかにも、「くつろいだ部屋の中に闖入してくる嫌な人」、「自分が無視する人」などを演じてみて、今日は終了。
まずは肩慣らし、肩慣らし、といった印象の初日だったが、これが地獄の日々に変貌することも現時点で既に分かっていることではあるのだ。
いきなりNHKの取材が入って、その収録もあった。 結構、注目されている企画なのだ。
2005年11月09日(水) ミクシィ狂想曲/『ユート』3巻(ほったゆみ・河野慶/3巻) 2004年11月09日(火) 『笑の大学』余燼/映画『80デイズ』 2002年11月09日(土) 探偵って卑下しなきゃならない商売なのかね/映画『トリック 劇場版』 2001年11月09日(金) いちまんななせんえんの幸福/『GUN BLAZE WEST』2・3巻(和月伸宏)ほか 2000年11月09日(木) だって猿なんだもん/『グーグーだって猫である』(大島弓子)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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